無差別の技師 〜MAP技師は身体を全て取り返す〜 作:羊毛ローブ
森を自分の脚で歩いた日から、数日が経った。
「ノエラ、もう一往復」
「はーい」
酒屋の奥から返事が聞こえ、しばらくしてノエラが姿を現した。
以前なら腰と上半身を大きく動かし、簡素な義足を左右へ運びながら進んでいた場所を、今は二本の脚で歩いてくる。
まだ完全に自然とは言えない。歩幅には左右で僅かな差があり、床の継ぎ目へ足を取られそうになれば、一瞬だけ動きが固くなることもある。
それでも、止まらない。
右脚を出せば左脚が続き、身体が僅かに傾けば足首と腰がそれを戻す。数日前まで一つずつ考えなければできなかった動作が、少しずつ「歩く」という一つの動きへ馴染み始めていた。
「着いた!」
「じゃあ戻れ」
「また!?」
「一往復って言っただろ」
「今ので一回じゃないの?」
「片道だ」
「ずるい!」
「何がだよ」
文句を言いながらも、ノエラは笑っている。
踵を返す時だけはまだ慎重だった。右足へ重心を寄せ、左脚を小さく動かして身体の向きを変える。途中で一度足元を見かけたものの、すぐに顔を上げた。
その様子を、エルヴィスが記録を取りながら眺めている。
「方向転換時の動作も、昨日より安定しているのである」
「でしょ?」
「ただし、まだ急ぐと崩れるのである」
「急いでないよ」
「先ほど走ろうとしたのである」
「あれはちょっと速く歩こうとしただけ!」
「両足が同時に地面から離れかけてたぞ」
アンガードが呆れたように言う。
「それを走るって言うんだよ」
「惜しかったのに」
「惜しいとかじゃねぇ」
隣で見ていたミラが楽しそうに笑った。
「ノエラ、走れるようになったら競争しようよ」
「する!」
「約束!」
「お前ら今ここで約束すんな!」
二人の少女が笑い合う。
アンガードが頭を抱える横で、カーナまで肩を揺らしていた。
「いいじゃないか。目標が増えるのは悪いことじゃないさ」
「姉貴が焚きつけるなよ」
「走らせろとは言ってないだろ? そのうちさ、そのうち」
「そのうちは俺も否定してねぇよ」
「じゃあ決まりだね」
「カーナさんも競争する?」
「アタイが?」
「うん」
カーナは少し考える素振りを見せたあと、にやりと笑った。
「いいよ。ただし、お嬢ちゃんが負けても泣かないって約束するならねぇ」
「泣かないもん!」
「お。言ったね?」
「姉貴、大人気なさすぎるだろ」
「勝負は勝負さ」
「まだ走れるようにもなってねぇよ!」
いつの間にか未来の競争の話になっている。
そのやり取りを聞きながら、ノエラの母親が店の奥で笑っていた。
父親も同じだった。
二人とも、最初の頃のようにノエラが歩くたび息を止めることはなくなった。
初めて一人で立った日は、倒れないかと身体を強張らせていた。初めて支えなしで歩いたと聞いた時には、母親は娘を抱き締めたまま泣き、父親は何度も同じ話を聞き返していた。
けれど今は、娘が店内を歩く姿を見ながら普通に仕事ができている。
それもまた、大きな変化だった。
「よし。そこまで」
アンガードに言われ、ノエラが立ち止まる。
「もう終わり?」
「歩く方はな。次は脚を見る」
「はーい」
ノエラは慣れた様子で椅子へ座った。
アンガードが《受容基部》の状態を確認し、エルヴィスが《結合芯》と各部の反応を見る。カーナも皮膚表面を指で押しながら、膝や足首を曲げた時の伸び方を確かめていった。
「赤みなし。擦れもなし。痛みは?」
「ないよ」
「熱いとか痒いとかは?」
「ない」
「膝の裏」
「そこも平気」
「足の裏は?」
「いっぱい歩いた日はちょっと変な感じする」
「どんな?」
「じんじんする感じ」
カーナが足裏を確認する。
「今のところ傷にはなってないね。単純に今まで使ってなかった感覚を長く受けて、疲れてる可能性が高そうさね」
「休んだら治る?」
「今のところはね。続くようなら配合を少し弄るよ」
「また手の内?」
「よく覚えてるじゃないか」
「教えてくれなかったもん」
「教えたら手の内じゃなくなるだろ?」
「けち」
「何とでも言いな」
カーナが笑い、最後に脛の皮膚を軽く叩いた。
「こっちは問題なし」
「身体側も問題ねぇ」
アンガードも立ち上がる。
「兄さん」
「結合芯、神経反応、運動信号、感覚信号のいずれにも現時点で異常は認められないのである」
「なら」
アンガードはそこで一度、ノエラを見た。
「今回の検証は、成功でいいだろ」
ノエラが瞬きをする。
「成功?」
「ああ」
「じゃあ、完成?」
「そこは違う」
「えー!」
「最後まで聞け」
アンガードは苦笑しながら、ノエラの脚を指した。
「まだ試作品だ。成長すりゃ寸法も変わるし、今後もっと長く歩けば新しい問題が出るかもしれない。走る、跳ぶ、段差を上るってなったら、また別の調整も必要になる」
「じゃあ完成じゃない?」
「今のお前が歩くための脚としては、ちゃんと使える。けど、これで一生何もしなくていい完成品って意味じゃねぇ」
「……難しい」
「身体だって成長したり調子悪くなったりするだろ。それと一緒だよ」
カーナが助け舟を出した。
「今のノエラに合わせた脚はできた。でもノエラ自身がこれから変わるんだから、脚の方も合わせ続けなきゃならないってことさ」
「ああ、そっか」
ノエラは納得すると、自分の膝を撫でた。
「じゃあ、今は私の脚?」
「その質問、前にもしただろ」
アンガードが笑う。
「今さら違うって言ったら怒るぞ」
「怒る」
「なら聞くなよ」
「確認したかったの!」
「お前の脚だよ」
ノエラは満足そうに笑った。
その横で、父親が深く頭を下げる。
「本当に……ありがとうございました」
母親も続いた。
「この子が歩いているところを見られる日が来るなんて、私たちは……」
「それ以上はいいって」
アンガードが困ったように頭を掻く。
「俺たちも、最初からできるって分かってたわけじゃない。ノエラが付き合ってくれたから、ここまで来られたんだ」
「でも――」
「今回は検証だ。それは最初に話しただろ」
父親が何か言おうとするのを、アンガードが先に止めた。
「ノエラは依頼人ってだけじゃなく、検証に協力してくれた側でもある。こっちだって、今まで知らなかったことを山ほど教えてもらった」
「報酬の話も忘れるなよ」
カーナが言う。
ノエラが自分を指差した。
「私がもらうやつ?」
「ああ」
「歩けるようになって、お金ももらえるの?」
「そう言うと随分得したみたいに聞こえるねぇ」
「得してる!」
「お前は何回転びかけたと思ってんだ」
「でも歩けたからいいの」
ノエラは即答した。
父親と母親が顔を見合わせ、やがて二人とも笑った。
「アンガードさん」
「ん?」
「また、来てくれる?」
「確認に来るよ」
「違うよ。何もなくても」
アンガードが少し黙った。
「……酒買いに来いってことか?」
「それでもいいよ」
「なら親父さんに安くしてもらうか」
「それは別です」
「そこは駄目なのかよ!」
父親の即答に笑いが起こった。
その声に反応したのか、店の外にいたルーフェが入口から顔を覗かせる。
「レーちゃん!」
ノエラは椅子から立ち上がった。
「走るなよ」
「分かってる!」
「本当に分かってんだろうな!」
ノエラは歩いてルーフェのところまで行く。
まだ少し慎重で、時折歩幅も乱れる。
けれど、その足を運んでいるのはノエラ自身だった。
「今日も森行く?」
ルーフェが首を傾げる。
「今日は駄目だって言われるかな」
「駄目だ」
「ほら!」
「今日はもう歩きすぎだ」
「じゃあ明日」
「明日は状態見てから」
「アンガードさん細かい」
「それが仕事だ!」
ルーフェの頭を撫でながら、ノエラが笑う。
カーナはその姿をしばらく眺めていた。
やがて、大きく伸びをする。
「さーて」
声が変わった。
「終わったねぇ」
「何が?」
ノエラが振り返る。
「アタイの仕事さ」
カーナはそこで、店の棚へ視線を向けた。
何日も並んでいるのを見ながら、一度も手を伸ばさなかった酒瓶へ。
「というわけで店主」
「はい?」
「酒」
「姉貴!」
「仕事は終わっただろ!」
カーナは堂々と言い切った。
「今日まで一滴も飲んでないんだよ。これ以上我慢させたらアタイの方が治療される側になるさね」
「ならねぇよ!」
「約束は守ったんだからいいじゃないか」
「それはそうだけどよ……」
父親が笑いながら一本を取り出す。
「これは私から出します」
「お、話が分かるねぇ!」
「待て。それ依頼料代わりとか言わねぇだろうな」
「違いますよ。これはただのお礼です」
「なら……まあ」
「アン坊も飲むかい?」
「飲まねぇよ」
「エルヴィス」
「私は遠慮するのである」
「相変わらず付き合い悪いねぇ」
「カーナ様。飲み過ぎないように」
「ガルディナまで!」
久しぶりに酒杯を手にしたカーナが、本気で嬉しそうな顔をした。
その周りで笑い声が重なる。
ノエラはその輪から少しだけ離れ、もう一度自分の脚を見た。初めて繋いだ日は、そこに脚があるだけで頭の中がいっぱいになり、初めて膝が動いた時は、自分が動かしたのか何度も確かめた。
一人で立った時は、たった十一秒が嬉しかった。
そして今は。
行きたいと思った場所へ、自分で歩いていける。
「レーちゃん」
ノエラが呼ぶと、ルーフェが隣へ寄った。
「明日はどこ行こうか」
返事はない。
それでもノエラは、もう気にしなかった。明日になれば、また自分の脚で歩けばいい、行ける場所は、これから増えていくのだから。