無差別の技師 〜MAP技師は身体を全て取り返す〜   作:羊毛ローブ

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おまけ


3章エピローグ 「愚者の叡智」

 

 

 ノエラの検証を終え、カーナは帰路についた。

 

 本来の任務そのものは、それより前にすでに終えていた。

 

 あとは帰還し、自分が見たものを師へ報告するだけ。

 

 ――そのはずだった。

 

 だが、その帰路で予定外の出来事が一つ増えた。

 

 それも含めて、持ち帰るべきものはすべて持ち帰った。

 

 本来の任務で見たもの。

 

 帰路で新たに見たもの。

 

 そして。

 

 任務とはまるで関係のないところで知った、一人の少女とMAPの話。

 

 長い帰路を終えた今。

 

 カーナは、一人の女の前にいた。

 

 見た目だけなら、二十代の終わりから三十歳ほど。

 

 細身の森人の女だった。

 

 深い青緑色の長い髪を、作業の邪魔にならないよう後ろで無造作に束ねている。

 

 瞳は、淡い金とも琥珀とも見える色。

 

 生成りのシャツに、黒に近い濃灰色の細身の作業着。その上から、膝近くまである技師用の上衣を羽織っていた。

 

 上衣には細かなポケットが幾つも並び、筆記具や測定具、小さな器具が収められている。袖は肘の近くまで捲られていた。

 

 華美な装飾はない。

 

 身につけているものは、どれも必要だからそこにある。

 

 一見すれば、どこにでもいる研究者か技師にも見えた。

 

 表情も静かだった。

 

 力が抜けていて、少し眠そうにさえ見える。

 

「頼んでいた件は?」

 

 女が尋ねた。

 

「ああ。人間族の《神の子》は、頼まれたとおり見てきたよ」

 

「そう」

 

「それと、帰りにもう一度鉢合わせた」

 

 眠たげだった瞳が、僅かに動いた。

 

「もう一度?」

 

「ああ。本来の仕事はもう終わってたんだけどね。偶然さ」

 

「何かあった?」

 

「まあねぇ」

 

 カーナは肩を竦めた。

 

「そっちは後で、ちゃんと最初から話すよ」

 

「後で?」

 

「ああ」

 

 カーナは一度言葉を切った。

 

「その前に、師匠に聞いてもらいたい話がある」

 

「任務より先に?」

 

「そうさね」

 

 迷いなく答える。

 

「こっちは仕事でもなけりゃ、《神の子》とも関係ない」

 

「なら、何?」

 

 カーナの口元が僅かに上がった。

 

「MAPの話さ」

 

 その一言で。

 

 女の目が変わった。

 

 眠たげだった淡い金色の瞳へ、明らかな光が宿る。

 

「ああ、やっぱりその顔すると思ったよ」

 

「どんな顔?」

 

「さっきまでとは全然違う顔さ」

 

「気のせいだ」

 

「その目で言われてもねぇ」

 

 カーナは小さく笑った。

 

「だからこれは、依頼主への報告より先に――MAP技師として、師匠に聞いてほしい」

 

 女の身体が、僅かに前へ傾く。

 

「聞かせて」

 

「アン坊たちが、面白いことをやってたよ」

 

「アンガードが?」

 

「ああ。エルヴィスも一緒さ」

 

「何をした?」

 

「生まれつき両脚のない女の子へ、MAPを造った」

 

「それだけなら珍しくはあるが、不可能ではない」

 

「そう。造るだけならね」

 

 カーナの笑みが少し深くなる。

 

「問題は、その先だったのさ」

 

 事故でも、病気でもない。

 

 生まれた時から、その身体には両脚が存在しなかった少女。

 

 だから当然。

 

 膝を曲げた経験も。

 

 足首を使った経験も。

 

 脚そのものを、自分の意思で動かした経験もなかった。

 

「脚部MAPそのものは造れた。でも、繋いだからって動くわけじゃなかった」

 

「当然だね」

 

「やっぱりそう思うかい?」

 

「使ったことのない動きを、身体が最初から知っている理由がない」

 

「アン坊たちも、そこで止まったよ」

 

 だから最初にしたのは、歩かせることではなかった。

 

 新しい脚から返ってくる感覚を受け取ること。

 

 その脚が、自分の身体のどこにあるのか。

 

 膝がどこにあり。

 

 足首がどこにあり。

 

 今、それぞれがどのような状態なのか。

 

 それをノエラ自身へ、一つずつ認識させた。

 

「アタイの幻想魔術で、身体認識の輪郭は支えた。でも、MAPを動かしたわけじゃない」

 

「本人に動作を与えたわけでもない?」

 

「ああ。ノエラが自分で受け取った感覚を、見失わないようにしただけさ。実際に信号を出したのは、最初から最後まであの子だよ」

 

 一度、膝が動く。

 

 すると、その動きによって生じた感覚が本人へ返る。

 

 曲がった膝がどこにあるのか分かれば、今度はそこから伸ばすことを試せる。

 

 一つ動かせば、一つ分かる。

 

 一つ分かれば、次を試せる。

 

「最初はアタイの補助がなきゃ、膝一つまともに動かせなかったよ」

 

「結果は?」

 

 カーナの口元が上がった。

 

「歩いたよ」

 

 女が黙った。

 

「自分で立って、自分で歩いた。最後には森までね」

 

「生まれつき存在しなかった脚を、自分の身体として動かした?」

 

「ああ」

 

 カーナはどこか誇らしげに笑う。

 

「アン坊とエルヴィスが脚を造った。アタイが身体認識を支えた。まあ、一番頑張ったのはノエラ本人だけどねぇ」

 

「どうやって歩行まで繋げた?」

 

「そこが一番面白かったところさ」

 

 ノエラには、もともと歩き方があった。

 

 簡素な義足を、腰と上半身、重心移動で運ぶ。

 

 何度も転びながら、何年も掛けて自分で身につけてきた歩き方。

 

 新しい脚を動かそうとしても、最初はその動きが先に出た。

 

「初めはね、新しい動きを覚える邪魔になってるようにも見えたんだよ」

 

「違った?」

 

「ああ。消す必要なんかなかった」

 

 カーナは、自分の脚を指先で軽く叩いた。

 

「元から持ってた歩き方へ、新しく覚えた膝や足首の動きを足した。一個ずつだった動きを、最後には全部まとめて『歩く』にしたのさ」

 

 女は何も言わなかった。

 

 ただ、先ほどまでとは明らかに違う目でカーナを見ている。

 

 知らないものを前にした子供のように、瞳だけが妙に生き生きとしていた。

 

「何だい?」

 

「面白い」

 

「だろ?」

 

「違う」

 

「何がさ」

 

「お前たちの答えが、私と逆だ」

 

 カーナの眉が僅かに上がった。

 

「逆?」

 

「私は、動かせないならMAP側から動かす方法を考えていた」

 

「……何だって?」

 

 女は立ち上がり、近くに積まれていた資料から一冊を抜き取った。

 

「本人が、その部位を動かすための信号を作れないなら、先にMAPを外から動かす。その動作によって生じた感覚を、アエゲルへ繰り返し返す」

 

 カーナが資料へ目を落とす。

 

「《逆信号》かい」

 

「そう呼んでいる」

 

「これは……要するに、MAP側からってことかい?」

 

「ああ」

 

「なら、そんなに変わらないんじゃないか?」

 

 女がカーナを見る。

 

「何が?」

 

「MAPを動かした時に、感覚が本人へ返るのはノエラでも確認してるよ」

 

 カーナは、自分の膝を軽く曲げてみせた。

 

「膝が曲がれば、曲がった感覚が返る。足首を動かせば、その位置も分かる。アタイもそれを使って、身体認識を支えた」

 

「そこは同じだ」

 

「じゃあ、何が逆なんだい?」

 

「学ぶ順番だ」

 

 女は資料を開いた。

 

 そこには、何本もの線と数字が細かく書き込まれていた。

 

「お前たちは、ノエラ自身が信号を出した」

 

「ああ」

 

「その信号を受けてMAPが動き、動いた結果として感覚が本人へ返った」

 

「そうさね」

 

「私の試験では、そこを逆から始める」

 

 女は資料の一箇所を指でなぞる。

 

「MAP側に、一定の動作をあらかじめ設定する」

 

「動作を固定する?」

 

「ああ。例えば膝なら、一定の角度まで曲げる動作を設定する。アエゲル自身が動かそうとしなくても、外部からMAPを駆動させ、その動作を行わせる」

 

 カーナの表情が変わった。

 

「……それで、動いた時の感覚を本人へ返すのかい?」

 

「そうだ」

 

 女は頷く。

 

「感覚がMAPから本人へ返ること自体は、お前たちの方法と同じだ」

 

「違うのは、その前か」

 

「ああ」

 

 本人が動かす。

 

 その結果を、身体が知る。

 

 それがお前たちの方法。

 

「私の方法では、まずMAPを動かす」

 

 女は言った。

 

「その動きによって生じた感覚を、先にアエゲルへ覚えさせる」

 

「本人からMAPへじゃなく」

 

「MAPの動きから、本人へ」

 

 カーナは資料へもう一度目を落とした。

 

「……なるほど」

 

 ようやく意味を理解したように目を細める。

 

「確かに、学び方は真逆だねぇ」

 

「そういうことだ」

 

 膝が曲がる。

 

 その時に、関節がどこへ移動するのか。

 

 身体のどこへ力が掛かるのか。

 

 その動作を行った時、どのような感覚が返ってくるのか。

 

 それらを、本人が自分で動かした結果として得るのではない。

 

 先に身体へ経験させる。

 

「同じ動作と感覚を繰り返し受け取らせる」

 

 女は言った。

 

「そうして、アエゲル側はMAPから返される感覚を通して、その身体の使い方を覚える」

 

「MAPが先生ってわけかい」

 

「随分と雑な言い方だが、間違ってはいない」

 

「分かりやすいだろ?」

 

「私は嫌いだ」

 

「はいはい」

 

 カーナは笑った。

 

「それで、もうできてるのか?」

 

「まだ実験段階だ。生まれつき部位を持たない動物でしか試していない」

 

「でも、それなら――」

 

 カーナは少し眉を寄せた。

 

「そっちの方法を使った方が良かったんじゃないかい?」

 

「いや」

 

 返事は早かった。

 

「そうではない」

 

「何でさ?」

 

「まず、時間が掛かる」

 

「どれくらい?」

 

「まだ断定できるほど試験数がない」

 

 女は資料へ視線を落とした。

 

「だが、お前たちの方法のように、本人が自分の感覚を頼りに動きを探すわけではない。こちらが一つずつ経験を与え、それを身体側へ定着させなければならない」

 

「なるほどねぇ」

 

「しかも、今の対象は動物だ。人間へ適用した時に同じように成立する保証もない」

 

「負担も分からない?」

 

「ああ。痛み。神経への影響。長時間、同じ信号を繰り返し受け取らせた場合の安全性」

 

 女は一度言葉を切った。

 

「それに、別の問題もある」

 

「まだあるのかい?」

 

「私の方法では、最初に動作を決めるのがこちら側だ」

 

 カーナから笑みが消えた。

 

「……ああ」

 

「膝をどこまで曲げるか。どの速度で動かすか。どういう順序で複数の関節を連動させるか」

 

 資料へ書かれた線を指先がなぞる。

 

「その基準を決めるのは、本人ではない」

 

「それが間違ってたら?」

 

「不自然な動きを、正しいものとして覚えさせる可能性がある」

 

 カーナの目が細くなった。

 

「癖そのものを固定しちまうかもしれない」

 

「そうだ」

 

 女はあっさりと認めた。

 

「対して、お前たちは本人自身に動きを探させた」

 

 今まで使ってきた歩き方。

 

 新しい脚から返ってきた感覚。

 

 本人が、自分で探り当てた運動信号。

 

 カーナの幻想魔術は、それを別のものへ置き換えたのではない。

 

 ノエラ自身が掴んだものを、掴み続けられるよう支えただけだった。

 

「私は、存在しない動きをどう教えるかと考えた」

 

 女は言った。

 

「お前たちは、本人がすでに持っているものをどう使うかと考えた」

 

「別に、そんな大層な話じゃないよ」

 

「大層かどうかを決めるのは、結果を見てからでいい」

 

「相変わらずだねぇ」

 

「お前たちの方法にも問題はある」

 

「ああ」

 

「カーナの技術が必要だった。身体認識の形成にどこまで個人差があるかも分からない。同じ方法が、誰にでも成立する保証もない」

 

「そうさね」

 

「だが、それでいい」

 

「いい?」

 

「一つの答えしかないより、ずっといい」

 

 女は資料を閉じた。

 

 自分が考えていた方法とは違う。

 

 弟子たちが、自分の知らない場所で、自分の知らない問題へぶつかり、自分とは違う答えへ辿り着いた。

 

 そして、その答えと比べたからこそ。

 

 自分の研究に潜んでいた問題まで見えてきた。

 

 しばらくして。

 

 女は閉じた資料へ、もう一度視線を落とした。

 

「ただし、カーナ」

 

「何だい?」

 

「今回の方法と、その先にある可能性は、あえて広めるべきではない」

 

 声の大きさは変わらなかった。

 

 それでもカーナは、すぐには軽口を返さなかった。

 

「……分かってるよ」

 

「記録を残すなという意味ではない。必要な者へ使うなという意味でもない」

 

 女はカーナを見る。

 

「その種族なら本来あるはずの腕や脚を、先天的に持たずに生まれた者へ腕や脚を与えることは構わない」

 

「許してくれるのかい?」

 

 少しだけ茶化すように言ったカーナへ、女は真顔のまま答えた。

 

「そのためのMAPだからな」

 

 失った身体を補う。

 

 病や怪我で失ったものを取り戻す。

 

 あるいはノエラのように、その種族なら本来持っているはずだった身体を、生まれつき持たなかった者へ与える。

 

 それは、MAPが生まれた理由から外れてはいない。

 

「だが、今回お前たちが示したことは、それだけじゃない」

 

「……そうだねぇ」

 

 カーナにも、その先が分かっていた。

 

「存在しなかった身体でも、自分の身体として認識できる可能性がある」

 

 女が言う。

 

「そして、存在しなかった運動を、後から覚えられる可能性も示した」

 

「ああ」

 

「なら、与えるものが『人間にもともとある脚』に限られると断言する根拠もなくなった」

 

 カーナの目が細くなる。

 

「理屈の上では、人間へ翼を付けても」

 

「自分の身体として認識できるかもしれない」

 

「腕を三本にすることも」

 

「四本でも構わない。脚を増やすことだって、可能性だけなら否定できない」

 

 カーナが乾いた笑いを漏らした。

 

「随分なところまで来ちまったねぇ」

 

「ああ」

 

 女は否定しなかった。

 

「技術としてはMAPの延長だ。だが、それはもう、私たちが造ってきた『失った身体を補うためのMAP』とは違う」

 

 治すためではない。

 

 補うためでもない。

 

 生まれ持った身体へ、新しい機能そのものを付け加える。

 

「身体拡張、か」

 

「そうなる」

 

「便利そうだけどねぇ」

 

「だから危険なんだ」

 

 即答だった。

 

「翼を得られると知れば、飛びたい者が現れる。腕を増やせると知れば、二本では足りないと言う者も出る。戦うため。働くため。他者より優れるため。理由はいくらでも作れる」

 

「そして技師が造れば、本当に身体として使えるかもしれない」

 

「今回、それを否定することが難しくなった」

 

 カーナは腕を組んだ。

 

「アン坊とエルヴィスも、そこまでは気づいてたと思うよ」

 

「だろうな」

 

「でも二人とも、ノエラでその先を試そうなんて一度も言わなかった」

 

「それが答えだ」

 

 女は淡々と言った。

 

「ノエラに必要だったのは、人間にない何かじゃない。彼女が生まれつき持てなかった脚だ」

 

「ああ」

 

「それを与えた時点で、あの検証は終わっている」

 

「その先まで試せば、ノエラを助けるためじゃなくなる」

 

「研究のために、あの子の身体を使うことになる」

 

 カーナが小さく息を吐いた。

 

「アン坊もエルヴィスも、自分からそこへ踏み込まなかった理由は、それだろうねぇ」

 

「技師なら気づく。だが、気づいたものを全て造る必要はない」

 

「作れることと、作っていいことは違う、か」

 

「そうだ」

 

 女はそこで、ほんの僅かに視線を逸らした。

 

「まぁ、それ以上のことをした馬鹿はいるが……」

 

「ん?」

 

 カーナが眉を上げる。

 

「誰のことだい?」

 

 一拍。

 

 女は何かを思い出すように目を細めた。

 

 先ほどまで未知へ向けられていたものとは、少し違う目だった。

 

 呆れと。

 

 僅かな懐かしさと。

 

 そして、それだけでは片づけられない何か。

 

 それが表へ出たのは、ほんの一瞬だった。

 

「いや、話が逸れる。やめておこう」

 

「何さ。気になるじゃないか」

 

「今は関係ない」

 

「師匠が自分から言ったんだろう?」

 

「忘れなさい」

 

「無茶言うねぇ」

 

 カーナは呆れたように笑ったが、女はそれ以上何も言わなかった。

 

 机の上の資料へ指先を置く。

 

「話を戻す」

 

「はいはい」

 

「だから記録は残す。研究も止めない」

 

「広めないのに?」

 

「知らないふりをする方が危険だ」

 

 カーナが女を見る。

 

「誰かが同じところへ辿り着いた時、何も考えていなかったでは済まない」

 

 何ができるのか。

 

 どこから危険なのか。

 

 何のためなら許されるのか。

 

 どこから先は、踏み込むべきではないのか。

 

「それを考えるためにも、知識そのものは必要だ」

 

「なるほどねぇ」

 

「ただし、誰でも真似できる技法として広める必要はない」

 

「……分かったよ」

 

 カーナは頷いた。

 

「アン坊とエルヴィスにも、アタイから話しておく」

 

「頼む」

 

 そこでようやく、張っていた空気が少し緩んだ。

 

「師匠」

 

「何?」

 

「それにしても、嬉しそうだねぇ」

 

「そう見える?」

 

「見えるよ。危ない可能性まで出てきたってのに」

 

「だからだ」

 

 女は当然のように答えた。

 

「危険だと分からなかったものが、危険だと分かった」

 

「…………」

 

「知らなかった問いが一つ増えた。それは前進だろう?」

 

 カーナが呆れたように笑う。

 

「昔から、そういうところは変わらないねぇ。知らないことを見つけると、すぐその顔するんだから」

 

「それなら仕方ない」

 

「はいはい」

 

「カーナ」

 

「何だい?」

 

「ノエラの記録を、できる限り残しておいて」

 

「もうアン坊とエルヴィスが山ほど書いてるよ」

 

「なら全部読みたい」

 

「全部?」

 

「全部」

 

「アン坊の記録、細かいよ?」

 

「知っている」

 

「エルヴィスも細かいよ?」

 

「それも知っている」

 

「アタイの分まであるけど」

 

「当然読む」

 

「……本当に変わらないねぇ」

 

 カーナは呆れたように笑った。

 

 女は閉じていた資料を、もう一度開く。

 

 まだそこには、カーナから聞いた話のほんの一部しか記されていない。

 

 足りない。

 

 知りたいことが、いくらでもある。

 

 ノエラが最初に受け取った感覚。

 

 初めて自分で出した信号。

 

 一つの関節を、自分だけで動かせるようになるまでの過程。

 

 それまでの義足歩行が、新しい脚の動きへどう繋がったのか。

 

 そして。

 

 自分の《逆信号》とは、どこが違ったのか。

 

「師匠」

 

「何?」

 

「今から書くつもりかい?」

 

「ああ」

 

「アタイ、帰ってきたばっかりなんだけどねぇ」

 

「なら、忘れる前に話せるな」

 

「少しくらい休ませる気はないのかい?」

 

「ない」

 

「……聞かせるんじゃなかったかねぇ」

 

 そう言いながらも。

 

 カーナは帰ろうとはしなかった。

 

 椅子へ深く座り直す。

 

 その向かいでは、先ほどまで眠そうにしていた女が、新しい紙へ筆を走らせている。

 

 本来の任務について、まだ話すべきことは残っている。

 

 帰路で起きた、予定になかった出来事についても。

 

 だが。

 

 少なくとも今、この瞬間だけは。

 

 依頼を出した者と、それを終えた者として向き合っているのではなかった。

 

 二人のMAP技師が、一つの新しい答えについて話していた。

 

 一人の少女が、自分の脚で歩いた。

 

 その事実だけで、語るべきことがいくらでもあった。

 

 女の名は、ソフィア。

 

 MAPという技術の始まりに立つ、《始まりの技師》。

 

 だが。

 

 彼女には、そう呼ばれるよりも前から知られていた、もう一つの二つ名がある。

 

 ――《愚者の叡智》。

 

 それは、全てを知る賢者へ与えられた名ではない。

 

 知らないことを、知らないと認める。

 

 答えを得ても、そこで満足しない。

 

 一つを知れば、その先にある未知を見つける。

 

 一つの答えへ辿り着けば、そこからまた新しい問いを生み出す。

 

 そして、自分が正しいと信じていた答えさえ。

 

 より良いものが現れれば、躊躇なく組み直す。

 

 だからこそ、彼女は《愚者》だった。

 

 そして、その果てなく積み重ねられてきた知識こそが、《叡智》だった。

 

 ソフィアはもう一度、カーナから聞いたノエラの話を思い返す。

 

 生まれつき存在しなかった脚。

 

 存在しなかった動き。

 

 それを自分の身体として認識し、自らの信号で動かし、最後には自分の脚で歩いた少女。

 

 一人の少女を歩かせるために生まれた答えは、その先にあった新しい可能性を示した。

 

 同時に。

 

 新しい危険も照らし出した。

 

 自分とは違う答え。

 

 自分では辿り着かなかった道。

 

 そして、その答えがあったからこそ見えた、次の問い。

 

「やはり、面白い」

 

 ソフィアが笑った。

 

 完成した答えなど、まだない。

 

 知らないことは、いくらでもある。

 

 ならば、知ればいい。

 

 答えを得たなら、そこからまた問えばいい。

 

 それを繰り返してきたからこそ、彼女は《愚者》であり続けてきた。

 

 弟子たちが、一人の少女へ存在しなかった脚を与えたその日。

 

 《始まりの技師》ソフィアは、新たな答えを一つ得た。

 

 そして――

 

 《愚者の叡智》は、また一つ問いを増やした。




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