無差別の技師 〜MAP技師は身体を全て取り返す〜   作:羊毛ローブ

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5話『義肢の技師の切望』

 

 

ドゥーガが左腕のMAPを装着してから、一週間が経過した。

 

装着した直後は、指を一本動かすだけでも肩に余計な力が入っていた。

 

長い間存在しなかった左腕を、身体がまだ自分の一部として理解できていなかったのだ。

 

初日

 

違和感しかなかった。

まだ左腕があった頃に自分の腕を枕にミラが寝て、一晩過ごした時の様な自分の腕があるのにないようなあの感覚に少し似ていた。

 

二日目

 

少し痺れが取れてある程度は思い通りに動くようになったが、まだ痺れいるようなそんな感覚だった。

 

三日目

 

起きて自分の顔を無意識に左手で触っていた。

ミラにその事を指摘されなけば自分では気付かなった位に自然に動いていた。

 

 

四日目

 

飯を食べようとしたら左手を使っていた。

頭が意識する事なく、身体が勝手に左手があった時の行動をしていた。

 

そして七日目

 

恐る恐る槌を持ってみると驚く程馴染んでいた。

自分の腕がまだあった頃と同じ感覚で、槌の重さも感じるし、皮膚が炉の熱気を伝える。

左腕がなかった事がまるで夢だったかのように当たり前の感覚がそこにあった。

 

「MAPが義肢の最高峰の意味がよく分かった」

 

「なら問題ないな」

 

アンガードは短く答えた。

 

一週間を通して行った検査でも、接合口に炎症や拒絶反応は確認されていない。MAP側の神経系、血管系、流体系にも異常はなかった。

 

もうほぼ完全にドゥーガの左腕として機能している。

 

「もう、経過観察は充分か?」

 

「三日目のおやっさんの反応見てたらもう大丈夫だとは思っていたが、初期接続だけは一週間は経過観察しないとこっちも安心出来ないんだよ」

 

アンガードが素っ気なく答える。

 

その横で、ルアンナが小さく笑ってドゥーガに小さな紙を渡した。

 

「何か異常があればココに来てくれば良いわ」

 

「ああ」

 

「もう完全に自分の腕として使えると思うけど、一応ね」

 

「……二週間なんて嘘吐きやがって」

 

「嘘じゃない。最大で二週間って意味で言ったんだ」

 

「本当にスゲェなこのMAPってのは……」

 

するとミラが、彼の左腕へ抱きついた。

 

ドゥーガは一瞬だけ目を見開き、それから、戻ったばかりの左腕を少女の背へ回した

 

前と同じ感覚で大切な娘を抱き締められるそんな幸せをドゥーガは感じていた。

 

「……じゃあ、また合金の素材と配分表を持ってくるからその時はよろしくな」

 

「さっさと持って来い。最優先でやってやる」

 

「ミラちゃんもまたね」

 

「本当にありがとう!何時でも歓迎するからね!」

 

その2人の幸せそうな親子を見ながらアンガードとルアンナはこの場を去った。

 

 

◯

 

久しぶりに開いた工房の中には、金属と油、それから乾燥させた薬草の匂いが残っていた。

 

出発前に片づけた道具は、ほとんどそのままの位置に並んでいる。

 

削りかけの素材。

 

途中まで分解された検査器具。

 

部品ごとに分類された木箱。

 

アンガードにとっては、見慣れた光景だった。

 

「ただいま」

 

ルアンナが工房へ声を掛ける。

 

「誰に言ってるんだ」

 

荷物を床へ置きながら、アンガードが尋ねた。

 

「工房に?」

 

「工房は返事しないぞ?」

 

「家に帰ったら普通はするのよ」

 

「そういうもんか?」

 

アンガードは外套を脱ぐと、休む間もなく道具箱を開いた。

 

中身を確かめ、工房の奥にある整備台を指差す。

 

「よし、そこに座れ」

 

「帰って早々?」

 

「帰ってきたからだ」

 

ルアンナはわずかに首を傾げる。

 

アンガードは先日の出来事を思い出しながら、道具を整備台の横へ並べた。

 

「右腕を強制的に外しただろ。制御系にも無理やりエラーを吐かせた。メンテナンスだよ」

 

「普通に動いているわよ?」

 

「動いているから異常がないとは限らない」

 

「少しくらい休んでからでも――」

 

「座れ」

 

「はいはい」

 

ルアンナは諦めたように整備台へ腰掛けた。

 

アンガードは彼女の右肘へ手を添え、接続状態を確認する。

 

右腕のMAPは、肘から先を補う形で作られていた。

 

白い肌。

 

細く整った指。

 

薄く透ける血管。

 

爪や指紋、関節部分にできる僅かな皺まで、生身の腕と見分けがつかない。

 

アンガードが解除器具を接続すると、小さな作動音が鳴った。

 

神経系。

 

血管系。

 

流体系。

 

それぞれの接続が順番に切り離されていく。

 

最後に固定が解除され、右前腕が肘から静かに外された。

 

身体側に残るのは、皮膚へ馴染むように定着した接合口。

 

外した右腕の根元には、その接合口へ差し込まれていた接合芯が覗いていた。

 

アンガードは検査器具へ右腕を繋ぎ、記録を確認する。

 

「強制的に外した右腕に、目立ったエラーはないな」

 

「ほら」

 

「だが、全部一度外すか」

 

「どうしてそうなるのよ」

 

アンガードは返事をせず、今度はルアンナの左肩へ手を伸ばした。

 

衣服を整備の邪魔にならない位置までずらし、肩の付け根へ解除器具を当てる。

 

右腕よりも長い解除工程を経て、左腕が肩から外された。

 

ルアンナの左腕は、肩から指先までのすべてがMAPだった。

 

身体から外された後も、その外見は人間の腕そのものにしか見えない。

 

柔らかな肩の丸み。

 

肘の骨ばった輪郭。

 

手首の細さ。

 

指先に至るまで、無機質な部品を思わせるものは何ひとつ表面へ露出していなかった。

 

しかし、肩口に隠されていた接合芯と、整備のために開かれる外皮の下には、人工筋繊維と細かな伝達線が、複雑かつ規則正しく収められている。

 

二本の腕を整備台の横へ並べた後、アンガードはルアンナを仰向けに寝かせた。

 

次に右脚へ取り掛かる。

 

右脚は、股関節から下のすべてがMAPだった。

 

太腿も、膝も、足首も。

 

指先の形や足裏の皮膚まで、外から見ただけでは作り物だと気づくことはできない。

 

股関節付近の接続を慎重に解除し、重量を支えながら右脚を外す。

 

最後に左脚。

 

こちらは膝より下がMAPになっていた。

 

左膝の接合を解除し、脛から足先までを取り外す。

 

四本のMAPは、それぞれ失われた位置が違う。

 

左腕は肩から。

 

右腕は肘から。

 

右脚は股関節から。

 

左脚は膝から下。

 

接合位置が異なれば、求められる構造も変わる。

 

支えなければならない重量。

 

動かすために必要な出力。

 

身体との釣り合い。

 

神経信号を受け取る速度。

 

四本は同じように見えても、内部まで同じ物は一つとして存在しなかった。

 

やがて整備台の横に、二本の腕と二本の脚が並んだ。

 

それはすべて、アンガードが作ったものだった。

 

普段のルアンナを見ただけでは、誰も彼女の四肢がMAPであるとは気づかないだろう。

 

歩く姿も。

 

物を持つ指先も。

 

椅子へ腰掛ける仕草も。

 

すべてが、ごく普通の人間と変わらない。

 

だが今、整備台の上に残されているルアンナの身体には、左肩、右肘、右の股関節、左膝の下に、それぞれ接合口が存在していた。

 

四肢を失った身体と。

 

その失われたものを補うために作られた、四つのMAP。

 

読者にとっては初めて明かされる事実であっても、アンガードとルアンナにとっては、長年繰り返してきた日常の一つに過ぎなかった。

 

「前から思っていたのだけれど」

 

ルアンナが天井を見ながら口を開く。

 

「何だ」

 

「どうして両手足を全部外すの?」

 

「別に片方ずつでもいいんだけどな」

 

アンガードは右脚の外皮を、整備用の器具で開いた。

 

外からは見えなかった人工筋繊維と関節部品が露出する。

 

「最終的には、四肢全体の出力と重心のバランスを見る。全部外して並べた方が手っ取り早いんだよ」

 

「1つだけ直すのでは駄目なの?」

 

「1つの出力だけ上がったら、逆側との釣り合いが崩れる」

 

「そういうものなの?」

 

「そうだな……例えば右脚の動きが変われば腰の位置も変わる。腰がずれれば、今度は腕の振り方にも影響が出る」

 

「随分と面倒なのね」

 

「人間の身体も同じだ。片方の脚を庇って歩けば、反対側の膝や腰まで悪くなるだろ」

 

「なるほど」

 

アンガードは右膝の関節部分を覗き込み、表情を曇らせた。

 

小さな部品を一つ外す。

 

表面には、想定以上の削れが生じていた。

 

続いて左脚も確認する。

 

こちらも同様だった。

 

「両脚の関節部品が、予想以上に摩耗してるな……」

 

「歩きすぎたかしら?」

 

「歩くだけでここまで削れるか」

 

アンガードは摩耗した部品を作業台へ置いた。

 

「俺の知らない時に戦闘で無茶しただろ」

 

「多少は」

 

「多少で済む減り方じゃない」

 

「結果として動いているのだから問題ないでしょう?」

 

「そういう考え方で右腕を強制的に外したんだろうが」

 

ルアンナは視線を逸らした。

 

アンガードは溜息を吐き、人工筋繊維の張力と、関節部品の噛み合わせを確認していく。

 

「全力戦闘を想定したら、今は何割くらいで動ける?」

 

ルアンナは少し考えた。

 

自分の身体に残る感覚を思い出すように目を閉じる。

 

「そうね……」

 

しばらくして、静かに答えた。

 

「このMAPを初めて装着した頃の六割程度、というところかしら」

 

「……六割か」

 

日常生活を送るだけなら、十分に動けている。

 

しかし、本来の性能を引き出して戦うとなれば話は違う。

 

踏み込み。

 

急停止。

 

旋回。

 

跳躍。

 

着地。

 

通常の歩行とは比較にならない負荷が、関節と接続部分へ掛かる。

 

「先は長いか……」

 

アンガードが呟く。

 

「ねえ、アンガード」

 

「何だ」

 

「私は別に、これで十分動けているわ」

 

ルアンナの声は穏やかだった。

 

「普段の生活には困っていないし、戦うことだってできる。いざとなれば、アレもあるでしょう?」

 

アンガードの手が僅かに止まった。

 

二人が言うアレが何を指しているのか、それ以上の説明はなかった。

 

「だから、別にこのままでもいいと思っているの」

 

「そうなのか?」

 

「ええ」

 

アンガードはルアンナの顔を見た。

 

諦めた様子も、強がっている様子もない。

 

彼女は本心から、今の状態でも十分だと考えているらしい。

 

アンガードは再び部品へ目を落とした。

 

「だとしても嫌だよ、俺は」

 

「アンガード?」

 

「俺が好きでやってるんだ」

 

摩耗した部品を磨きながら、ぶっきらぼうに続ける。

 

「ルアンナが嫌だと言っても、勝手に直す」

 

「私の身体なのだけれど」

 

「俺の作ったMAPだ」

 

「所有権を主張するつもり?」

 

「保守責任だ」

 

「勝手ね」

 

「今さらだろ」

 

ルアンナは僅かに目を見開いた。

 

やがて、堪えきれなくなったように笑い始める。

 

「ふふふ。意地っ張りね」

 

「黙れ」

 

「でも、少し安心したわ」

 

「何が」

 

「あなたが満足してくれないこと」

 

アンガードは答えなかった。

 

それでも手は止めず、一本ずつ部品を確認していく。

 

右脚の出力を調整し、左脚との釣り合いを測る。

 

両腕の反応速度も比較する。

 

四本すべてを、ルアンナの身体へ繋がった一つの仕組みとして調整していた。

 

「そういえば、あなたは別にいいの?」

 

ルアンナが尋ねる。

 

「何が」

 

「自分のMAPよ。私のばかり触っているでしょう?」

 

アンガードは呆れたように鼻を鳴らした。

 

「それこそ愚問だっての。これでも技師だぜ?」

 

「自分で全部確認できるの?」

 

「見えない所は検査器具を使う」

 

「左脚の裏側は?」

 

「鏡を使う」

 

「左目の調子とかはどうするの?」

 

「何のことやら……」

 

「自分のことになると、急に楽観的になるのね」

 

「お前にだけは言われたくない」

 

ルアンナが楽しそうに笑いながらそのまま暫く、作業を続けるアンガードを眺めていると、少し真剣な表情に変わった。

 

「アンガード」

 

「今度は何だ」

 

「急に催してきたのだけれど」

 

アンガードの手が止まった。

 

ゆっくりと顔を上げる。

 

「……何?」

 

「分かっているでしょう?」

 

「分かりたくない」

 

現在、ルアンナの四肢はすべて整備台の横へ置かれている。

 

当然、自力で立つことも、移動することもできない。

 

アンガードは開いたままの脚部と、整備台の上のルアンナを見比べた。

 

「今から脚を繋ぐ。少し待て」

 

「あまり余裕はないわよ」

 

「右脚ならすぐだ」

 

「片脚でどうやって歩くの?片脚立ちでこれは流石の私も耐えられないわ」

 

「両方繋ぐ」

 

「急いで繋いだら、接続の衝撃で漏らすかもしれないわね」

 

「お前の膀胱はどれだけ柔なんだよ」

 

「残念ね。私の膀胱は、そこまで我慢強くないのよ」

 

「威張るな」

 

「そもそも幼馴染みの前で漏らすなんて耐えられないわ」

 

「なら黙って我慢しろ」

 

「我慢できないから今言っているのよ」

 

ルアンナは少しだけ身体を動かした。

 

「今の私の言いたこと分かるかしら?」

 

「何が」

 

「あなたがトイレまで連れていってくれればいいの」

 

「断る」

 

「あら、即答」

 

「当たり前だ」

 

「でも今の私には、自分で行く手段がないわよ」

 

「知らん」

 

「冷たいわね」

 

「そもそも、整備前に行っておけ」

 

「そのときは行きたくなかったもの」

 

「子供かよ」

 

ルアンナは悪びれる様子もなく続ける。

 

「大体、私の裸なんて何度も見ているあなたに頼んでいるのよ?」

 

「全部、治療か整備のためだろうが」

 

「だから頼んでいるの」

 

「意味が分からない」

 

「緊急時なら仕方がないでしょう? 漏らすのと見られるのなら、私は見られる方を選ぶというだけの話よ」

 

「はぁ……お前は本当に……」

 

アンガードは長い沈黙の後、作業台の引き出しを開いた。

 

大きな布を取り出し、まずルアンナの身体を包む。

 

続いて別の布を、自分の目へ巻いた。

 

さらに、薬品を扱う際に使う鼻栓まで取り出す。

 

ルアンナが目を瞬かせた。

 

「ふふふ。目隠しに鼻栓なんて、徹底的ね」

 

「お前、本当に黙れ……」

 

「前が見えないのに大丈夫?」

 

「工房の中は頭の中に完璧に入ってるからな」

 

「落とさないでね」

 

「喋るな」

 

「鼻栓まで必要だったのかしら?」

 

「ルアンナ」

 

「何?」

 

「黙れ」

 

アンガードは目隠しをしたまま、布で包んだルアンナを抱き上げた。

 

◯

 

暫くして。

 

疲れ切った顔で整備台へ戻ってきたアンガードは、外していた目隠しを作業台へ叩きつけた。

 

「……クリスさん、本当に早く帰ってきてほしい」

 

「そういえば、クリスは一か月の休暇中だったわね」

 

「あの人なら、お前の世話を喜んでやるだろ」

 

「私の世話というより、あなたから奪い取るでしょうね」

 

「喜んで譲る」

 

アンガードは乱れた道具を整え、作業を再開する。

 

ルアンナは再び整備台へ横になりながら、天井を見上げた。

 

「今頃、何をしているのかしら?」

 

 

 

□

 

 

蝉が、鼓膜を破らんばかりの勢いで鳴いていた。

 

深い森の中まで強い日差しは届かない。

 

それでも空気は湿り、じっとしているだけで肌へ汗が滲むほど暑い。

 

そんな気候の森の中、一人の森人の女性の周囲だけは、真冬のように冷え切っていた。

 

女性は白い息を吐きながら、目の前に積み上がった魔獣の屍を見上げている。

 

十や二十という数ではない。

 

百を越えた辺りで数える意味を失い、今では千体近い屍が、木々の間を埋め尽くしていた。

 

大小さまざまな身体。

 

角。

 

牙。

 

外殻。

 

翼。

 

流れ出した血液さえ、冷気によって凍りついている。

 

『何だよ。その残念そうな顔は』

 

一羽の青い小鳥が、女性の肩へ止まっていた。

 

その羽は普通の羽毛ではない。

 

青い炎のように揺らめきながら、周囲へ冷気を放っている。

 

『これだけありゃ、素材には困らねえだろ』

 

「重要なのは量ではなく、品質です」

 

女性は魔獣の屍を冷静に見渡した。

 

「使えそうなのは、よく見積もっても一割程度です。そこから使える物を厳選すればもっと少なくなるでしょうね」

 

『相変わらず要求が高えな』

 

「ルアンナ様がお使いになる可能性がある素材です。妥協する理由がありません」

 

『まだ使うって決まったわけじゃねえだろ』

 

「使わなければ保管しておけばよいだけです」

 

『こんな量、どうやって持って帰るんだよ』

 

「品質の低い物は捨てます」

 

『千体近く倒しといて、大半捨てるのか』

 

「使えない物を持ち帰る方が無駄でしょう?」

 

青い小鳥――ルーフェは、呆れたように翼を揺らした。

 

この森の外縁部には、EからDランクの魔獣が生息している。

 

森へ入るには、最低でもCランク以上の戦闘資格を持つ冒険者が四人必要とされていた。

 

だが、それは外縁部の話に過ぎない。

 

奥へ進むほど生息する魔獣の格は跳ね上がり、深部では最低でもBランクに相当する個体が群れを成している。

 

異常な繁殖速度。

 

高密度で生息する魔獣。

 

討伐しても、次々と奥から現れる新たな個体。

 

その性質から、この森には別の呼び名が存在した。

 

――《魔獣の子宮》。

 

一流の冒険者であっても、好んで足を踏み入れる者はいない。

 

その森の深部で、女性は一人と一羽だけで素材の選別を続けていた。

 

不意に、女性が顔を上げる。

 

遠く離れた方角を見つめた。

 

「……ん?」

 

『どうした?』

 

「ルアンナ様が、私を呼んでいる気がします」

 

ルーフェは周囲を見回した。

 

聞こえるのは、蝉の声と風に揺れる葉音だけだった。

 

『ここから工房まで、どれだけ離れてると思ってんだよ』

 

「距離など関係ありません」

 

『地獄耳って次元じゃねえぞ』

 

「付き人の勘です」

 

『便利な言葉だな、それ』

 

女性は名残惜しそうに魔獣の山を見つめた。

 

「素材集めには持ってこいの場所なのですが……致し方ありませんね」

 

『帰るのか? 休暇はまだ一週間くらい残ってるだろ』

 

「ルアンナ様がお呼びならば、残りの休暇など不要です」

 

『呼んでる気がするだけだろ』

 

「同じことです」

 

そのとき。

 

森の奥から、低い唸り声が響いた。

 

地面が僅かに震える。

 

木々を押し退けながら、巨大な魔獣が姿を現した。

 

四足で歩いていながら、その背丈は女性の数倍に達している。

 

全身を覆う黒い外殻。

 

大木すら容易に噛み砕きそうな顎。

 

獲物を見つけた魔獣は、積み上がった同胞の屍を目にしても足を止めなかった。

 

「あら。また出たのですか?」

 

女性は驚く様子もなく、微笑んだ。

 

「本当に、実力の差が分からないお馬鹿さんばかりで助かります」

 

『こいつは使えそうじゃねえか?』

 

「外殻の状態は悪くありませんね」

 

女性は一度だけ魔獣を観察した。

 

傷は少ない。

 

大きさも十分。

 

素材として見れば、先ほどまでの魔獣より品質は高い。

 

だが、すぐに興味を失ったように視線を外した。

 

「ですが、ルアンナ様がお呼びです。素材に加工している時間すら惜しい」

 

魔獣が口を大きく開き、咆哮を上げた。

 

周囲の木々から、鳥たちが一斉に飛び立つ。

 

「逃げるのなら、不問にして差し上げますよ?」

 

魔獣が地面を蹴った。

 

巨体が、木々を薙ぎ倒しながら迫る。

 

「あらあら」

 

女性は小さく溜息を吐く。

 

「大きな身体に見合うだけの知能は、入っていないようですね」

 

女性の肩で、ルーフェの羽が大きく揺らめいた。

 

青い炎が溢れ、彼女の周囲へ広がっていく。

 

女性が片手を上げる。

 

それだけだった。

 

音が消えた。

 

蝉の声も。

 

木々のざわめきも。

 

魔獣の咆哮さえも。

 

次の瞬間、森一帯が白く凍りついた。

 

地面を覆う霜。

 

氷に包まれた木々。

 

風に舞っていたまま固まる木の葉。

 

女性へ飛びかかっていた魔獣も、青白い氷像へと変わっていた。

 

「素材にする時間はありませんので」

 

女性が指を僅かに曲げる。

 

魔獣の氷像へ亀裂が走った。

 

直後、巨大な身体は砕け散り、細かな氷の粒となって風に消えていく。

 

そこには、回収できる死骸さえ残らなかった。

 

残されたのは、白い息を吐く女性と。

 

青い炎を纏った小鳥。

 

そして、氷漬けになった森だけだった。

 

『素材にするんじゃなかったのかよ』

 

「時間が惜しいと言ったでしょう?」

 

『極端なんだよ、お前は』

 

女性は肩に乗るルーフェへ手を差し出した。

 

ルーフェが、その腕へ飛び移る。

 

「では帰りましょう、ルーフェ」

 

『はいよ』

 

女性は凍りついた森へ背を向けた。

 

「我が主、ルアンナ様の元へ」

 

彼女の名は、クリス・ニューゼル。

 

《紅氷》の異名を持ち、ルアンナ・インディスクレータへ絶対の忠誠を誓う森人の女性。

 

一か月の休暇を与えられながら、その大半を主のための素材集めに費やしていた付き人である。

 

彼女が工房へ帰還するまで、あと僅か。

 

その帰還を誰よりも待ち望んでいるのが、忠誠を捧げられているルアンナ本人ではなく、彼女の幼馴染みであることを、クリスはまだ知らなかった。




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