無差別の技師 〜魔獣に奪われた身体を造り直す〜   作:羊毛ローブ

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今回少し、長めです。


8話『工房の女性は筆を選ぶ』

 

「あ、ルピ婆様。依頼に必要な物があるんだけど、ちょっとそこから取ってもいい?」

 

焔龍騎士団から届いた依頼書を受け取ったルアンナは、何かを思い出したように受付へ戻った。

 

「何じゃ?」

 

ルピナスは、受付台に広げた黒い本へ視線を落としたまま答える。

 

「先に言っておくが、高価な物は貸し出さんぞ」

 

「大丈夫。机の中に入れておいた私物を探すだけだから」

 

「何故、お主の私物がワッチの机に入っておる……」

 

ルアンナは受付台の内側へ回り込むと、ルピナスが止めるより先に、一番下の引き出しを開けた。

 

中には書類や封蝋、使いかけの筆記具が雑然と詰め込まれている。

 

「確か、この辺りに……あった」

 

ルアンナが取り出したのは、革製の筒に収められた一本の筆だった。

 

一般的な筆よりも軸が太く、長さもある。

 

革筒から抜いてみせると、穂先まで丁寧に手入れされており、ほとんど使われていないように見えた。

 

ルピナスの狼耳が、ぴくりと動く。

 

「そんな物を持っていくのか?」

 

「ええ。これが一番使いやすいのよ」

 

「それ、ワッチの机に長いこと入っておったぞ」

 

「うふふ。高い買い物だったから、ここへ置いておけば安心だと思って」

 

「人の机を保管庫代わりにするでない」

 

「工房に置いておくと、アンガードが素材と一緒に片づけちゃうんだもの」

 

「筆をMAPの素材と間違えるわけねぇだろ」

 

横からアンガードが口を挟む。

 

「以前の物は、すぐに折れてしまったでしょう?」

 

「お前が無茶な使い方をしたからだ」

 

「だから今回は、頑丈な物を選んだのよ」

 

ルアンナは筆を軽く振り、軸の感触を確かめる。

 

「これなら、たぶん大丈夫」

 

「筆に対してする確認じゃないだろ、それ」

 

アンガードの言葉を聞き、クリスも筆へ視線を向けた。

 

「今回の依頼に、本当に必要なのですか?」

 

「勿論。これ以外だと、少しやりづらいのよねぇ」

 

ルアンナは筆を指先で一度回し、楽しそうに答えた。

 

その様子を見たクリスは、何かを察したらしく小さく頷く。

 

アンガードだけは嫌な予感を覚えたのか、眉間へ皺を寄せた。

 

「半年ごとに、わざわざ金を払ってお前に挑むなんて……あいつも物好きだよなぁ」

 

「まあ、報酬はたくさん貰えるから、私としては文句ないけど」

 

ルアンナは筆を革筒へ戻した。

 

 

王国の中心部。

 

王城を取り囲む堅牢な城壁の一角に、焔龍騎士団の本部は置かれている。

 

広大な敷地には兵舎や武具庫、複数の訓練場が並び、その至るところで甲冑を身に着けた騎士たちが剣を振るっていた。

 

依頼を受け、それぞれの判断で各地を巡る冒険者とは異なり、彼らが第一とするのは王国と民の守護。

 

国境の防衛。

 

魔獣の討伐。

 

災害時の救助。

 

そして、王国内で発生した大規模な騒乱への対処。

 

焔龍騎士団とは、王国を脅かすあらゆる災厄へ立ち向かうために鍛え上げられた、王国最大にして最強の騎士団であった。

 

 

「よく来てくれた、ルアンナ殿。毎度ながら感謝する」

 

焔龍騎士団の訓練場へ到着すると、一人の男がルアンナたちを出迎えた。

 

鍛え上げられた体躯を甲冑で包み、腰には龍を模した意匠の長剣を提げている。

 

焔龍騎士団副団長、カッシュ・ドラグニル。

 

今回の指定依頼を出した本人である。

 

「仕事として引き受けた以上、手を抜くつもりはありません」

 

ルアンナは穏やかに答えた。

 

「もっとも、報酬が破格でなければ断っていたかもしれませんけど」

 

「相変わらず正直な人だ」

 

カッシュは楽しそうに笑う。

 

「だが、来てくれて本当に助かる。弟も半年間、今日のために腕を磨いてきたからな」

 

「兄上。余計なことは言わなくていい」

 

カッシュの後ろから、一人の騎士が歩み出た。

 

無駄なく鍛え上げられた身体を甲冑で包み、背には一本の長剣を負っている。

 

焔龍騎士団の隊長、リュート・ドラグニル。

 

騎士団の次期エースとして期待される剣士であり、カッシュの弟でもある。

 

リュートはルアンナの前へ立つと、真っ直ぐにその目を見た。

 

「半年ぶりだな、ルアンナ」

 

「ええ。少しは強くなった?」

 

「少しどころではない」

 

リュートは一度、背後の訓練場へ視線を向けた。

 

騎士たちが模擬戦用の区画を整え、その周囲では大勢の団員が開始を待っている。

 

「今日は負けない」

 

「それは楽しみね」

 

ルアンナは革筒を軽く持ち上げた。

 

カッシュは二人を見比べると、思い出したように口を開く。

 

「ルアンナ殿さえよければ、教官としてここで働かないか?」

 

「よしてください」

 

ルアンナは即座に断った。

 

「私は、自分の身体の面倒すらアンガードに任せている身なんですから」

 

「それと戦闘訓練は関係ないだろう」

 

「それに、本気で勧誘していないことくらい分かりますよ」

 

「何のことだ?」

 

「私が教官になれば、半年に一度と言わず、毎日のように模擬戦を申し込めると思っているのでしょう?」

 

カッシュはしばらく黙ったあと、気まずそうに視線を逸らした。

 

「……否定はしない」

 

「やはり」

 

ルアンナは呆れたように笑う。

 

そのやり取りを横で聞いていたアンガードが、訓練場の周囲を見回した。

 

「それで、元団長殿はどちらに?」

 

リュートが肩をすくめる。

 

「さてな。大方、どこかの特等席で酒でも飲みながら見物しているのではないか?」

 

「相変わらずですか」

 

「止められる者がいると思うか?」

 

アンガードは何も言わなかった。

 

否定できないらしい。

 

 

「副団長」

 

訓練場の準備を手伝っていた若い騎士が、カッシュへ声をかけた。

 

「なぜ、リュート隊長があの女性と模擬戦を行うのですか?」

 

「うん?」

 

カッシュは若い騎士の顔を見て、少し考える。

 

「そういえば、お前たちは入隊してまだ三か月ほどだったな」

 

「はい」

 

若い騎士の隣には、同じ時期に入隊したと思われる団員が数名集まっていた。

 

誰もが、離れた場所に立つルアンナへ興味と疑問の入り混じった視線を向けている。

 

細身の女性。

 

身体を覆うような重装備もなく、剣や槍を携えている様子もない。

 

手に持っているのは、革筒から取り出した一本の筆だけ。

 

見た目だけなら、騎士団の隊長と模擬戦を行う人物には到底思えなかった。

 

「二年前の一件をきっかけに、リュートとルアンナ殿は半年ごとに模擬戦を行っている」

 

「二年前の一件……ですか?」

 

「あいつが半年間でどれだけ成長したか、ルアンナ殿に確認してもらうためにな」

 

「リュート隊長の実力を、あの方が確認するのですか?」

 

「ああ」

 

若い騎士たちは再びルアンナを見る。

 

「大丈夫なのですか?」

 

別の騎士が心配そうに尋ねた。

 

「筆一本で隊長を相手にするつもりなのでしょうか。あまりにも無謀では……」

 

カッシュはルアンナを一瞥し、苦笑した。

 

「大丈夫ではないな」

 

「やはり危険なのでは?」

 

「ルアンナ殿の心配よりも、先にリュートと訓練場の心配をした方がいい」

 

若い騎士たちは顔を見合わせた。

 

「それほどなのですか?」

 

「見ていれば分かるさ」

 

カッシュは訓練場に立つルアンナの筆へ目を向ける。

 

「あの人が、剣ではなく筆を持っている理由もな」

 

それだけ答えると、模擬戦の審判を務めるため、訓練場の中央へ歩き始めた。

 

対峙する二人の姿を眺めながら、カッシュは二年前の出来事を思い出していた。

 

 

二年前。

 

魔獣の子宮(テリオメトラ)周辺において、魔獣の異常繁殖が確認された。

 

焔龍騎士団へ届いた報告の中には、人に似た姿を持つ正体不明の魔獣を目撃したという情報も含まれていた。

 

討伐隊の先行役として現地へ入ったのが、当時から若手の中で頭一つ抜けた実力を持っていたリュートだった。

 

魔獣の子宮に近づくほど、周囲を歩く人間の姿は少なくなる。

 

まして、異常繁殖が起きている最中である。

 

騎士団以外の人間がいるとは、リュートも考えていなかった。

 

だからこそ。

 

魔獣の死骸が転がる森の奥で、一人の女性の姿を見つけたとき。

 

リュートは、報告にあった人型の魔獣だと判断した。

 

灰色の髪を持つ細身の女性。

 

周囲に仲間の姿はない。

 

武器らしい武器も持っていない。

 

女性は、こちらへ背を向けたまま立っていた。

 

――人型の魔獣か。

 

リュートは剣を抜き、地面を蹴った。

 

一気に間合いを詰め、背後から剣を振り下ろす。

 

だが。

 

確かに捉えたはずの剣が、何もない空間を切り裂いた。

 

「何っ……?」

 

つい先ほどまで目の前にいたはずの女性が消えている。

 

「いきなり斬りかかってくるなんて、随分と物騒な人ね」

 

声は、真後ろから聞こえた。

 

リュートが振り返る。

 

女性は、最初からそこに立っていたかのように、すぐ背後で微笑んでいた。

 

リュートは反射的に剣を横へ薙ぐ。

 

女性は僅かに上体を逸らし、刃を避けた。

 

切り返す。

 

踏み込む。

 

突きを放つ。

 

しかし、一撃も当たらない。

 

刃が届く寸前に、女性の身体が僅かに動く。

 

たったそれだけで、剣は虚しく空を切った。

 

まるで、形を持たない影か幽霊を相手にしているようだった。

 

「くそっ!」

 

リュートが渾身の一撃を振り抜く。

 

その瞬間、女性の姿が再び視界から消えた。

 

次いで、首の後ろへ冷たい指先が触れる。

 

「これが刃物だったら、今ので終わっているわよ」

 

リュートの動きが止まった。

 

女性はすぐに指を離し、困ったように頬へ手を添える。

 

「あちゃー……まさか騎士団の人?」

 

その声に、敵意はなかった。

 

「ここなら人はいないと思っていたのに」

 

リュートは女性から距離を取り、剣を構え直す。

 

「待て。名を名乗れ」

 

「人に名を尋ねる前に、自分から名乗るものではないかしら?」

 

「焔龍騎士団所属、リュート・ドラグニルだ」

 

「あら。意外と素直なのね」

 

女性はくすりと笑うと、丁寧に一礼した。

 

「私はルアンナ。《天狼の寝床》に所属する冒険者よ」

 

「冒険者だと?」

 

「ええ。そちらとは別口で、異常繁殖した魔獣の討伐を依頼されているの」

 

ルアンナが指し示した先には、何体もの魔獣が倒れていた。

 

いずれも、外見にはほとんど傷がない。

 

それにもかかわらず、完全に息絶えている。

 

その後、互いの持つ依頼書と情報を確認し、ようやく誤解は解けた。

 

騎士団へ届いていた人型の魔獣の情報は誤り。

 

離れた場所からルアンナを目撃した者が、魔獣の群れの中に立つ彼女を魔獣だと勘違いしたものだった。

 

本来であれば、それで終わる話だった。

 

だが。

 

「もう一度、俺と戦え」

 

誤解が解けた直後、リュートはそう言い放った。

 

「嫌よ」

 

ルアンナは即答した。

 

「何故だ!」

 

「何故と言われても、私には何の得もないもの」

 

「俺に一方的に斬りかかられたままでいいのか?」

 

「一方的に斬りかかって、一度も当てられなかったのはアナタでしょう?」

 

何も言い返せず、リュートは口を閉ざした。

 

それでも諦めず、騎士団本部へ戻ってからも正式な模擬戦を申し込み続けた。

 

最終的に折れたのは、ルアンナではなくカッシュだった。

 

弟の訓練になるのならと、報酬を用意したうえで、正式な指定依頼としてルアンナへ申し込んだ。

 

しかし、ルアンナは報酬を提示されても、すぐには首を縦に振らなかった。

 

理由を知るため、カッシュは《天狼の寝床(ヴァナスト)》のギルドマスターであるルピナスへ相談した。

 

そこで聞かされたのが、魔獣の子宮(テリオメトラ)の中心部に存在する、巨大な穴の話だった。

 

冒険者協会の記録では、その大穴が出現したのは五年ほど前。

 

高ランクの魔獣同士が争ったことで地盤が崩落したのではないかと推測されている。

 

魔獣が地の底から生まれる場所だという噂まで囁かれているが、その正体を知る者はほとんどいない。

 

だが、実際にあの大穴を作ったのは魔獣ではなかった。

 

ルアンナだった。

 

五年前の討伐戦で、彼女が最大出力で魔獣を討伐した。

 

ただ、それだけで地盤が砕け、周囲を巻き込みながら巨大な穴が生まれたのだという。

 

そして現在のルアンナも、事情があって身体の出力を細かく抑えることを得意としていなかった。

 

大きな力を放つことはできる。

 

だが、その力を相手が傷つかない程度まで抑えるとなれば、話は別だった。

 

だからこそ、ルアンナは模擬戦を断り続けていた。

 

それでもリュートは諦めなかった。

 

武器を持たず、拳だけでいい。

 

そう食い下がった末、ようやく一度目の模擬戦が行われた。

 

だが、その判断が間違いだったことは、開始直後に証明された。

 

リュートとの距離を詰めるため、ルアンナが一歩踏み込んだ。

 

その瞬間。

 

石造りの訓練場が、大きく陥没した。

 

地面から石片が弾け飛び、周囲には爆撃を受けたかのような亀裂が広がった。

 

ルアンナが攻撃したわけではない。

 

拳を振るうどころか、リュートの身体には触れてすらいなかった。

 

ただ移動するために地面を蹴った。

 

それだけで、訓練場の一角が使い物にならなくなった。

 

審判を務めていたカッシュは、ルアンナの拳がリュートへ届くよりも先に、模擬戦を中止した。

 

 

真剣では危険が大きすぎる。

 

木剣であっても、ルアンナが本気で振るえば、リュートの身体がもたない。

 

拳でさえ、当てずに止められる保証がなかった。

 

加えて訓練場が壊れない程度の出力制限。

 

そこでルアンナが選んだのが、赤い染料をつけた一本の筆だった。

 

剣ならば斬れていた場所。

 

拳ならば打ち抜いていた場所。

 

そこへ印だけを残す。

 

筆ならば、力を込めずとも勝敗を示すことができるし、移動も踏み込みを必要としない動きなら対応可能である。

 

仕切り直された最初の模擬戦で、リュートの全身は赤い印で埋め尽くされた。

 

そして、ルアンナが使っていた安物の筆は、戦いの途中で真っ二つに折れた。

 

それから半年ごとに。

 

リュートは正式な依頼としてルアンナへ模擬戦を申し込み、自らの成長を確かめ続けている。

 

二年前のあの日から、今日に至るまで。

 

ただの一度も、リュートが勝利したことはなかったし、ここまで譲歩して貰って全く届かない事に何も思わないリュートではなかった。

 

 

「さて、ルアンナ」

 

リュートは長剣を鞘から抜き、正面へ構えた。

 

龍の鱗を思わせる意匠が施された刀身が、陽光を受けて鈍く輝く。

 

「改めて言わせてもらう。半年ぶりだな」

 

「ええ」

 

ルアンナは筆の穂先を、用意されていた赤い染料へ浸した。

 

容器の縁で余分な液を落とし、筆を右手に持つ。

 

「今日こそ、お前のその余裕のある顔を泣き顔に変えてやる」

 

「あら?」

 

ルアンナは筆先をリュートへ向け、妖艶に微笑んだ。

 

「私を鳴かせられるのは、アンガードだけなのよ。残念だったわね」

 

「字が違うし、鳴かせてもいないからやめてくれ……」

 

訓練場の外から、アンガードの疲れ切った声が聞こえた。

 

周囲の騎士たちの視線が、一斉にアンガードへ向く。

 

「いや、違うからな」

 

アンガードは慌てて否定する。

 

「ルアンナが勝手に言っているだけだからな」

 

「減らず口を……!」

 

顔を赤くしたリュートが剣を握り直す。

 

カッシュは小さく咳払いすると、二人から十分に距離を取った。

 

「両者、準備はいいな」

 

リュートが腰を落とす。

 

対するルアンナは、筆を構えることすらせず、自然に腕を下ろしたまま佇んでいる。

 

「始め!」

 

開始の声と同時に、リュートが地面を蹴った。

 

鋭い踏み込みだった。

 

間合いが一瞬で消え、長剣がルアンナの肩口へ斜めに振り下ろされる。

 

ルアンナは僅かに身体を傾けるだけで、刃を避けた。

 

長剣が髪の先を掠めて通り過ぎる。

 

同時に、ルアンナの筆がリュートの胸当てへ触れた。

 

赤い染料で、小さな斜線が一本引かれる。

 

リュートは構わず剣を切り返した。

 

横薙ぎ。

 

突き。

 

再び袈裟懸け。

 

重い長剣を扱っているとは思えないほど、一つひとつの攻撃が滑らかにつながっている。

 

「隊長の《龍剣》だ!」

 

見守っていた若い騎士の一人が声を上げた。

 

リュートの剣術は、焔龍騎士団の名を冠する連続剣技だった。

 

一撃ごとに勢いを増し、相手が回避した先へ次の刃を重ねていく。

 

後ろへ逃れれば踏み込まれ。

 

左右へ避ければ、剣の軌道が即座に変わる。

 

反撃へ転じようとすれば、さらに鋭い一撃がその動きを封じる。

 

だが、ルアンナには届かない。

 

「あっ、また避けた!」

 

「だが、防戦一方だぞ」

 

若い騎士たちの目には、ルアンナがひたすら剣を避け続けているようにしか見えなかった。

 

その言葉を聞いた年長の騎士が、呆れたように口を開く。

 

「防戦一方?」

 

「違うのですか?」

 

「お前たちは、いったい何を見ているんだ」

 

年長の騎士が指でリュートを示した。

 

「隊長殿の鎧と顔をよく見てみろ」

 

若い騎士たちが目を凝らす。

 

「赤い印が……」

 

リュートの胸当て。

 

脇腹。

 

首元を守る鎧の隙間。

 

頬。

 

眉間。

 

剣を一撃振るうたびに、鎧や顔へ赤い斜線が一本ずつ増えていた。

 

やがて新たな斜線が先ほどの印と交わり、小さな×印を形作っていく。

 

「一撃ごとに、鎧や顔へ×印が増えている……?」

 

「そうだ」

 

年長の騎士の表情から、笑みが消える。

 

「しかも、すべて急所だ」

 

若い騎士たちは息を呑んだ。

 

「もし、あの筆が刃物だったら……」

 

「隊長殿は、とっくに何度も死んでいる」

 

その事実を理解した瞬間、若い騎士たちの背筋へ冷たいものが走った。

 

一方、攻撃を続けるリュートも、自身の鎧へ増えていく印を理解していた。

 

――くそっ。

 

剣を振り下ろす。

 

ルアンナが半歩だけ外へ退く。

 

切り返す瞬間、手首の内側へ赤い線を引かれた。

 

――こちらの連撃が切り替わる、その一瞬。

 

突きを放つ。

 

ルアンナは刃の横をすり抜け、鎧の脇へ筆を滑らせる。

 

――そこで確実に、カウンターを取られている。

 

分かっている。

 

半年間、この日のために腕を磨き続けてきた。

 

ルアンナに勝つ。

 

それだけを目標に、剣を振り続けてきた。

 

攻撃の速度も増した。

 

踏み込みも鋭くなった。

 

剣へ込められる力も、半年前とは比較にならない。

 

それでも、目の前に立つ壁は崩れない。

 

何度ぶつかっても、壊れるどころか、ひび一つ入らない。

 

「まだだ!」

 

リュートが強く足を踏み込み、横薙ぎの一閃を放つ。

 

ルアンナが上体を反らした。

 

その直後、振り抜かれたはずの長剣が、手首の返しだけで急激に軌道を変える。

 

刃が下方から跳ね上がった。

 

ルアンナは身体を捻って避けたが、外套の端が浅く裂け、灰色の髪が数本、宙を舞った。

 

「ルアンナ様……!」

 

それまで黙って見守っていたクリスが、思わず一歩前へ出る。

 

しかし、アンガードは動かなかった。

 

「大丈夫だ」

 

その声は小さかったが、確信を帯びていた。

 

視線は、リュートの剣ではなく、ルアンナの足元へ向けられている。

 

先ほどの回避。

 

右脚を引いたあと、左脚が地面を捉えるまでに、ほんの僅かな遅れがあった。

 

常人であれば見落としていた。

 

しかし、ルアンナの四肢を造り、長年にわたって調整を続けてきたアンガードには分かる。

 

本来なら、あの程度の切り返しで足運びが乱れることはない。

 

訓練場の中央で、ルアンナが裂けた外套へ一瞬だけ目を向ける。

 

そして、嬉しそうに目を細めた。

 

「今のは、半年前にはなかったわね」

 

「当然だ!」

 

リュートが剣を大きく振り上げる。

 

「男が、何度も同じ場所で燻っていられるかぁぁぁぁ!」

 

足元の地面が砕けた。

 

リュートは全身を回転させ、その勢いを剣へ載せる。

 

「隊長の乱龍(ドラッヘンシュトゥルム)だ!」

 

若い騎士が叫んだ。

 

斬撃が、上下左右から間断なく襲いかかる。

 

先ほどまでの《龍剣》とは違う。

 

一つひとつの軌道が途中で不規則に変化し、回避した先へ次の刃が待ち構えている。

 

一撃目を避ける。

 

二撃目を身を屈めて躱す。

 

三撃目が髪を掠める。

 

四撃目を半歩退いて逃れる。

 

その退路へ、既に五撃目が迫っていた。

 

ルアンナが筆を差し入れ、刃の軌道を逸らそうとする。

 

だが、穂先が刀身へ触れる寸前、リュートの手首が返った。

 

五撃目が消え、死角から六撃目が迫る。

 

刃がルアンナの喉元を薙いだ。

 

ルアンナは上体を大きく反らして避けたが、完全には間に合わない。

 

切っ先が首元の布を裂き、白い肌へ薄い傷を残した。

 

クリスの表情が変わる。

 

今度こそ駆け出そうとした彼女の腕を、アンガードが掴んだ。

 

「まだだ」

 

「ですが!」

 

「ルアンナが負けを認めていない」

 

そう答えながらも、アンガードの目は険しかった。

 

右腕を引く速度。

 

腰を落とした際の右脚の沈み。

 

回避から立ち上がるまでの左脚の遅れ。

 

一つひとつは、ごく僅かな差でしかない。

 

ルアンナ自身も、長年培った技量と身体の使い方で補っている。

 

だからこそ、これまで表面には出てこなかった。

 

だが、リュートの剣が速さを増し、余裕を削り取ったことで、その僅かな遅れが露わになり始めていた。

 

前へ出たリュートは、攻撃を止めない。

 

七撃目。

 

八撃目。

 

九撃目。

 

これまで反撃の隙を見つけるたびに動いていたルアンナの筆が、初めて行き場を失っている。

 

「追い詰めている……!」

 

「リュート隊長が、あの人を……!」

 

若い騎士たちの声に、興奮が混じる。

 

カッシュだけは険しい表情で二人の動きを見つめていた。

 

乱龍《ドラッヘンシュトゥルム》は、確かにルアンナを追い詰めている。

 

だが、攻撃を重ねるたびに、リュートの呼吸は乱れ始めていた。

 

それでも彼は止まらない。

 

止まれば、再びルアンナの間合いへ戻される。

 

攻め続けるしかない。

 

十撃目。

 

逃げ場を奪う横薙ぎ。

 

ルアンナが身を沈める。

 

十一撃目。

 

頭上から叩きつけられる一閃。

 

ルアンナは紙一重で横へ転がり、地面へ右手をついた。

 

その手から、筆が離れる。

 

「筆を手放した!」

 

リュートの目に、勝機が映った。

 

「取ったぁぁぁぁ!」

 

十二撃目。

 

乱龍(ドラッヘンシュトゥルム)の最後を飾る、全身全霊の一撃。

 

長剣が、立ち上がろうとするルアンナへ振り下ろされる。

 

だが、その瞬間。

 

ルアンナの表情から、焦りが消えた。

 

「そこね」

 

彼女は逃げなかった。

 

右手を伸ばし、振り下ろされた長剣の刃の腹へ掌を添える。

 

正面から止めようとはしない。

 

剣の勢いへ逆らわず、身体を半回転させながら、その軌道を僅かに横へ逸らす。

 

長剣がルアンナの肩を外れ、地面へ深々と突き刺さった。

 

「受け流した!?」

 

全力を込めた一撃が空を切り、リュートの体勢が崩れる。

 

剣を引き抜き、立て直そうとする。

 

だが、遅い。

 

ルアンナの左手が、リュートの胸当てへ静かに触れていた。

 

力は放たれていない。

 

ただ、掌が甲冑の表面へ置かれているだけ。

 

それでも、リュートは動けなかった。

 

ルアンナの直撃(ダイレクト)は、物体の表面へ加えた衝撃を、遮る物の向こう側へ直接伝える。

 

甲冑の硬さなど、何の意味もない。

 

この掌から衝撃を放たれていれば。

 

胸当てを傷つけることなく、その内側にある胸へ一撃を叩き込まれていた。

 

「そこまで!」

 

カッシュの声が、静まり返った訓練場へ響いた。

 

ルアンナは、リュートの胸当てから左手を離す。

 

荒い呼吸を繰り返すリュートに対し、ルアンナもまた、肩を小さく上下させている。

 

首元に浮かんだ赤い線を指先で拭い、ルアンナは微笑んだ。

 

「確かに強くなりましたね」

 

リュートが息を整えながら、顔を上げる。

 

「なら……」

 

「一対一に限れば、今のアナタは間違いなくAランク冒険者に並ぶ実力があります」

 

訓練場の周囲が、僅かにざわめいた。

 

リュートは騎士であり、冒険者としてのランクを持たない。

 

それでも、Aランク冒険者に並ぶという言葉が、どれほど高い評価であるかは誰もが理解していた。

 

「半年前までは、Bランク冒険者と戦っているつもりでした」

 

ルアンナは、地面へ突き刺さった長剣を指差す。

 

「ですが今日は、私も一度、判断を誤れば負けていました」

 

リュートが目を見開く。

 

「俺が……お前に?」

 

「ええ。乱龍(ドラッヘンシュトゥルム)とやらは見事でした」

 

ルアンナは首元の傷を示した。

 

「筆を手放させられただけではありません。実際に一撃、届いています」

 

リュートの表情が僅かに明るくなる。

 

「ただし」

 

その一言で、明るくなりかけた顔が再び固くなった。

 

「今のは、一対一で目の前の相手を倒すことだけに特化しています」

 

ルアンナは長剣から周囲の訓練場へ視線を移す。

 

「攻撃を始めてから、アナタは私しか見ていなかった」

 

リュートは何も言わない。

 

「一対一なら、それで押し切れる相手も多いでしょう。ですが、実戦では相手が一体とは限りません」

 

ルアンナは淡々と続ける。

 

「仲間の位置。逃げ遅れた人の有無。地形。背後から近づく別の敵。戦場では、剣を振るいながら、そのすべてを見なければならない」

 

「……分かっている」

 

「いいえ。頭では分かっていても、身体が追いついていません」

 

反論しかけたリュートが、言葉を呑み込む。

 

ルアンナは地面に深く突き刺さった長剣を示した。

 

「それに、最後の一撃へ力を込めすぎです。外された時点で、アナタには剣を引き戻す余力が残っていなかった」

 

「結局、駄目出しばかりだな」

 

「褒めているでしょう?」

 

「どこをだ」

 

「半年前とは、見違えるほど強くなっています」

 

ルアンナは穏やかに微笑んだ。

 

「少なくとも、一対一でアナタに勝てる騎士は、もうほとんどいないでしょう」

 

リュートは僅かに目を見開く。

 

「ですが、アナタが目指しているのは、騎士団の中で強い剣士になることではないはずです」

 

ルアンナの視線が、リュートの甲冑に刻まれた焔龍騎士団の紋章へ向けられる。

 

「守りたいのでしょう?」

 

「……ああ」

 

「なら、目の前の敵だけを見ていては駄目です」

 

リュートはしばらく黙っていた。

 

やがて、地面に突き刺さった剣の柄へ手を掛ける。

 

「相変わらず、痛いところばかり突いてくる」

 

「そういう依頼ですから」

 

「次は半年後だ」

 

リュートは剣を引き抜き、ルアンナへ切っ先を向けた。

 

「そのときこそ、お前を地面に倒す」

 

「楽しみにしているわ」

 

「それまで!」

 

カッシュが片手を上げる。

 

「勝者、ルアンナ殿!」

 

訓練場を囲んでいた騎士たちから、惜しみない歓声と拍手が上がった。

 

 

「お疲れさん」

 

訓練場から戻ってきたルアンナへ、アンガードがタオルを差し出した。

 

「ありがとう」

 

ルアンナはタオルを受け取り、額に浮かんだ汗を拭う。

 

その直後、クリスがルアンナの首元へ顔を近づけた。

 

「ルアンナ様。傷を見せてください」

 

「これくらいなら大丈夫よ」

 

「駄目です」

 

きっぱりと言い切り、クリスは傷の深さを確かめる。

 

幸い、刃先が皮膚の表面を浅く掠めただけだった。

 

「本当に浅い傷です。ですが、念のため後で手当てを」

 

「分かったわ。心配をかけてごめんなさい」

 

クリスはまだ納得していない様子だったが、それ以上は何も言わなかった。

 

アンガードは珍しいものを見るように、額の汗を拭うルアンナを眺める。

 

「お前が汗をかくなんて、久しぶりに見たな」

 

「そうね」

 

ルアンナは、訓練場の中央で肩を上下させているリュートを見る。

 

「それだけ、あの人が強くなったということでしょうね」

 

「前はBランク相当だったんだろ?」

 

「ええ。でも、今回は間違いなくAランク相当まで上がっていたわ」

 

「半年でそこまでか」

 

アンガードは感心したように呟く。

 

「本当に化け物だな、あの人」

 

「ここから先が、一番高い壁なんだけどね」

 

「AからSへ上がる壁か?」

 

ルアンナは頷いた。

 

「単純に力や速さを伸ばすだけでは、もう越えられない。戦い方そのものを変えなければならないわ」

 

「本人も分かっているんじゃないか?」

 

「分かっているから、私と戦っているのよ」

 

答えながら、ルアンナは無意識に右手の指を握り直した。

 

一度。

 

二度。

 

動きそのものは滑らかに見える。

 

だが、指先が掌へ触れる直前、僅かに速度が落ちた。

 

アンガードの目が細くなる。

 

「どうしたの?」

 

「いや」

 

アンガードは短く答え、ルアンナの足元へ視線を落とした。

 

立っているだけなら、何の違和感もない。

 

姿勢も崩れていない。

 

それでも先ほどの模擬戦では、踏み込みから切り返すたび、ほんの僅かに身体の動きとMAPの反応がずれていた。

 

右腕。

 

左腕。

 

右脚。

 

左脚。

 

どれか一つではない。

 

四肢すべての反応が、以前よりも鈍っている。

 

本人も、気づいていないわけではないだろう。

 

長年使い続けるうちに、その遅れを前提として身体を動かすようになっただけだ。

 

足りない部分を技量で補い。

 

遅れた動きを先読みで埋める。

 

それが自然になりすぎて、本人にとっては今の状態こそが当たり前になっている。

 

初めて装着した頃を十とするなら、今は六。

 

つい先日調整した右腕でさえ、一時的に動作を整えただけで、本来の性能までは戻っていない。

 

――やっぱり、駄目だな。

 

アンガードは胸の内で呟く。

 

今までと同じように、調整を繰り返せば使い続けることはできる。

 

だが、それでは少しずつ失われていく性能を、誤魔化し続けるだけだ。

 

乱龍(ドラッヘンシュトゥルム)を避けきれなかった原因が、MAPだけにあるとは思わない。

 

リュートの剣が半年前よりも遥かに速く、鋭くなっていたことは間違いなかった。

 

それでも、ルアンナの四肢が本来の動きを取り戻していれば、違う避け方もできたはずだ。

 

調整だけでは、もう足りない。

 

その事実を、アンガードは認めざるを得なかった。

 

「アンガード?」

 

黙り込んだ彼の顔を、ルアンナが覗き込む。

 

「本当にどうしたの?」

 

「何でもねぇよ」

 

アンガードは視線を逸らした。

 

今、この場で話すことではない。

 

工房へ戻ってから、もう一度すべてのMAPを調べる必要がある。

 

そのうえで、伝えなければならない。

 

「ルアンナ様」

 

クリスが、先ほど地面へ落ちた筆を差し出した。

 

「こちらを」

 

「ありがとう、クリス」

 

ルアンナは筆を受け取り、軸や穂先を念入りに確認する。

 

穂先は少し乱れていたが、軸にひびは入っていない。

 

「今回は壊れなかったわね」

 

「傷より先に筆の心配をするなよ」

 

「高かったんだもの」

 

アンガードが呆れたように息を吐いた。

 

そのとき、訓練場の奥から豪快な笑い声が響いた。

 

「ほっほっほ! また、こっぴどく負けたのう!」

 

酒の入った瓢箪を右手に持った、一人の男が歩いてくる。

 

五十を越えた年齢を感じさせる顔立ち。

 

鍛え抜かれた大柄な身体。

 

左側の袖は、肘から先で固く結ばれている。

 

左腕は肘から先が存在していなかった。

 

隻腕の男は訓練場の奥へ腰を下ろしていたらしく、楽しそうに酒を飲みながらリュートへ近づいていく。

 

「元団長殿……」

 

リュートが嫌そうに顔をしかめた。

 

「やはり見ていたのですか」

 

「見逃すわけがなかろう。半年に一度の楽しみじゃからな」

 

「でしたら、少しくらい助言をしていただいてもよいのでは?」

 

「ルアンナの嬢ちゃんが、全部言ってくれたではないか」

 

隻腕の男は笑いながら、今度はルアンナを見る。

 

「相変わらず見事なもんじゃ。さすがは天狼のところの二番手といったところかの?」

 

「いえ。私も勉強させてもらっています」

 

ルアンナは男へ丁寧に頭を下げた。

 

「アナタのような四天伐覇(テトラアルコン)には、まだまだ遠く及びません」

 

男は愉快そうに目を細める。

 

「口が上手くなったのう、嬢ちゃん」

 

四天伐覇(テトラアルコン)の一人。

 

龍覇(ドラコクラトール)、ベオルク・イェアート。

 

焔龍騎士団の先代団長。

 

既に第一線を退いた現在もなお、騎士団最大の戦力として知られる人物だった。

 

ベオルクは瓢箪から酒を一口飲むと、アンガードへ視線を移した。

 

「そっちの兄ちゃんは、やっていかんのか?」

 

「自分ですか?」

 

アンガードが自分を指差す。

 

「ルアンナの嬢ちゃんと一緒に来たということは、お主も相当やるんじゃろう?」

 

「俺は遠慮しておきます」

 

アンガードは苦笑した。

 

「人と戦うのは、あまり慣れていないんです」

 

「ほう」

 

ベオルクの目が、僅かに鋭くなる。

 

――人と戦うのは、か。

 

その言葉に含まれた意味を、ベオルクは聞き逃さなかった。

 

「それは残念じゃのう」

 

そう言いながらも、その表情は明らかに面白がっている。

 

ベオルクはそれ以上追及せず、再び瓢箪へ口をつけた。

 

アンガードはルアンナへ顔を寄せ、声を潜める。

 

「やっぱり、あの爺様は相当強いな」

 

「分かるの?」

 

「ああ。立っているだけなのに、隙がほとんどない」

 

「戦ってみたかった?」

 

ルアンナが尋ねる。

 

「俺としては、別に戦ってもいいんだけどな」

 

アンガードはベオルクを一瞥した。

 

「ただ、あの人は模擬戦でも手加減を間違えそうだろ」

 

「それは否定できないわね」

 

「聞こえておるぞ、兄ちゃん!」

 

ベオルクの大声が飛んでくる。

 

アンガードの肩が僅かに跳ねた。

 

「聞こえてたのかよ……」

 

「ワシはまだ耳まで衰えておらん!」

 

ベオルクは豪快に笑い、瓢箪を傾ける。

 

笑いながら酒を飲んでいるだけに見える。

 

それでもアンガードには、目の前の男が僅かな動きも見逃していないことが分かった。

 

リュートを退けたルアンナ。

 

そのルアンナが、自分では遠く及ばないと言い切る存在。

 

アンガードが警戒するように見つめていると、ベオルクの視線が不意に下がった。

 

アンガードの長袖に覆われた左腕。

 

そして、黒い手袋に包まれた左手。

 

そこへ一瞬だけ目を向けたあと、ベオルクは自らの空になった左袖を揺らした。

 

「兄ちゃん」

 

「何ですか?」

 

「お主とは、そのうちゆっくり腕の話でもしてみたいものじゃのう」

 

アンガードは答えなかった。

 

ただ、風に揺れるベオルクの空袖へ視線を向ける。

 

戦いの腕前について話しているのか。

 

失われた左腕について話しているのか。

 

その言葉だけでは、どちらとも判断できなかった。

 

ベオルクは答えを求めることなく、愉快そうに笑いながら、もう一度瓢箪を傾けた。

 

その隣で、アンガードはルアンナの右手へ一度だけ目を向ける。

 

先ほどと変わらず、彼女は何事もなかったように筆を持っている。

 

だが、その四肢が本来の動きを失いつつあることを、アンガードだけは知っていた。

 

これ以上、調整で誤魔化し続けるわけにはいかない。

 

アンガードは胸の内に生まれた決意を、まだ口にすることなく、静かに拳を握った。

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