あの子だけ先生との距離感がおかしい!! 作:炊き込みご飯くん
シャーレのオフィスへ続く廊下は、休日の校舎と似た静けさに包まれていた。
遠くから聞こえる銃声については、キヴォトスでは蝉の声と大差ない。窓の外で何かが爆発したような気もするが、こちらへ飛んでこないのなら問題はないだろう。
僕は廊下の窓に映った自分の姿を横目で確認し、毛先を指先で整えた。
淡い色のブラウスに、膝上まで伸びたプリーツスカート。腰のリボンは大きすぎず、かといって地味にもならないよう、何度も調整したものだ。ゆるく巻いた髪との相性も悪くない。
正直に言えば、かなり可愛い。
いつも可愛いとは思っているが、今日はその中でも上位に入るだろう。昨夜、鏡の前で二時間ほど研究した甲斐があった。
問題があるとすれば、先生がこの可愛さを正しく理解できる状態にあるかどうかだった。
扉の前に立ち、二度ノックする。
返事はなかった。
もう一度叩いてみたものの、やはり中から声は聞こえてこない。留守なのかと思ったが、扉の隙間からは照明の光が漏れていた。
「先生、失礼します」
静かに扉を開けると、机へ突っ伏した先生の姿が見えた。
書類の山に埋もれ、片手にはペンを握ったまま動かない。眠っているのか、それとも力尽きているのか、一見しただけでは判断が難しかった。
近づいて横顔を覗き込む。
「先生」
「...うん」
反応はあった。
「生きていますか」
「たぶん」
「曖昧ですね」
先生はゆっくりと顔を上げ、目元を擦った。机の上には飲み終えたコーヒーの容器がいくつも並んでいる。その数から考えると、少なくとも一晩はまともに眠っていない。
それでも僕の姿に気づいた瞬間、半分閉じていた目がわずかに開いた。
「おお...」
先生は椅子の背もたれから体を起こし、僕を上から下まで眺めた。
「来たね」
「はい。来ました」
「今日も可愛い」
「ありがとうございます。僕もそう思います」
率直に答えると、先生は一度だけ瞬きをした。
「相変わらず自己評価が安定してるね」
「事実を控えめに申し上げただけです」
「控えめだったんだ」
本当は、今日はかなり可愛いと言いたかった。先生も疲れているようなので、多少は遠慮したつもりである。
僕は机の前で一度回り、スカートの裾を軽く広げた。布がふわりと浮き、遅れて元の形へ戻る。
先生の視線が裾から腰のリボンへ移った。
「前よりスカート短くした?」
「二センチだけです。全体のバランスを考えると、こちらの方が脚が綺麗に見えると思いまして」
「なるほど。確かに前より軽い印象になってる」
「やはり先生もそう思いますか」
「うん。腰のリボンも変えたよね」
「少し細くしました。以前のものは可愛かったのですが、上半身よりもリボンが目立ってしまいましたので」
「そこまで考えてるのか...」
先生は感心したように頷き、椅子を少し後ろへ引いた。僕の全身を見るためだろう。
この人は、衣装を見せたときだけ妙に真剣になる。
可愛いかどうかだけでなく、布の重なり方や色の組み合わせまで見てくれるので、僕としても感想を聞く価値があった。
僕が男だと知った後も、先生は一度も女装をやめた方がいいとは言わなかった。
驚きはしたらしい。
けれど、その後に出てきた言葉は「似合っているならいいんじゃない」だった。
それ以来、新しい衣装が完成するたびに、僕はこうして先生へ見せに来ている。
「後ろも見せてもらっていい?」
「もちろんです」
先生へ背中を向け、髪を片側へ寄せる。ブラウスの襟元と背中の装飾が見えるようにしたところ、先生は小さく唸った。
「後ろ姿も普通に女の子だなぁ」
「普通以上ではないでしょうか」
「そこは譲らないんだね」
「せっかく努力していますから」
謙遜したところで、服がより可愛くなるわけではない。自分の努力を最も正確に評価できるのは自分なのだから、可愛いものは可愛いと認めるべきだと思う。
先生は机へ肘をつき、僕の姿を見ながら笑った。
「しかし、本当に女装上手くなったよね。最初の頃から凄いクオリティだったけど、今はもっとずっと自然に見えるよ」
「先生にアドバイスをいただけているおかげです。しかし、まだ改善の余地はありますね」
「これ以上?」
「歩き方と座り方については、もう少し研究した方がよいかと」
「十分自然に見えるけどなぁ」
「先生は僕が男だと知っていますから、評価に先入観が入っている可能性があります」
「私の評価、信用されてなかった」
「いえ、先生の審美眼は信用しています。ただし、正体を知っている人間の意見だけでは、客観性に欠けるという意味です」
「すごく真面目な顔で女装の客観性について話してる...」
先生はなぜか遠い目をしていた。
まだ疲れが残っているのだろう。
僕は先生の机へ近づき、少し腰を屈めて顔色を確かめた。目の下には薄い隈がある。
「昨日は眠りましたか」
「少し」
「何時間ですか」
「目を閉じた時間も含めていい?」
「駄目です」
先生は視線を逸らした。
「では、眠っていないということですね」
「三日くらい」
「三日」
思わず聞き返したが、先生は悪びれる様子もなく頷いた。
「仕事が溜まっててね」
「寝た方がよろしいのでは」
「これが終わったら寝るよ」
先生が指した書類の山は、昨年から存在していたと言われても信じられる高さだった。
今日中に終わるとは思えない。
「それでは、あまり長居しない方がよさそうですね」
「えっ」
先生の顔から、分かりやすく笑みが消えた。
「もう帰るの?」
「先生がお疲れのようですので」
「いやいやいや、衣装は別だよ。衣装を見る時間は仕事じゃないから」
「睡眠でもありませんよ」
「心の休息になる」
真剣な声だった。
そこまで言われてしまうと、断る方がよくない気もする。
僕は少し考え、先生から一歩離れた。
「実は、今日は見せ方についても研究してきました」
「見せ方?」
「はい。ただ立っているだけでは、衣装の魅力を十分に伝えられないと思いまして」
「ほう」
先生の姿勢がよくなった。
三日眠っていない人間とは思えない反応である。
「先生にも楽しんでいただけるよう、いくつかポーズを考えてきました」
「私へのサービスってこと?」
「その認識で問題ありません」
僕は両手を腰の後ろで組み、片足をわずかに曲げた。肩越しに先生へ顔を向け、事前に研究しておいた角度で小さく微笑む。
雑誌で見つけたポーズを参考にしたものだ。スカートの形が崩れず、髪も顔へかからないよう練習してある。
先生の口が開いたまま止まった。
「いかがでしょう」
「可愛い」
「ありがとうございます」
「可愛いよ!!」
急に声が大きくなった。
「先生、ここは屋内です」
「いや、だって可愛いじゃん! 何そのポーズ!」
「雑誌を参考にしました。少し幼く見せながらも、品を損なわない点が優れていると思います」
「分析が冷静すぎる」
「先生も気に入ってくださったようで安心しました」
先生は椅子から半分立ち上がり、僕の周囲を確かめるように顔を動かした。
「正面も見たい」
「分かりました」
体の向きを変え、今度は片手を頬へ添える。
先生が息を呑んだ。
「うっひょぉ!! 最高!!」
「先ほどより反応が大きいですね」
「この角度すごいよ! 男だって分かってても、一瞬分からなくなる!」
「先生、褒め方が少し複雑です」
「褒めてる! ものすごく褒めてる!」
そう言うのであれば、成功なのだろう。
しかし、まだ本命が残っている。
「では、最後にもう一つ」
「まだあるの?」
「はい。少しだけ大胆ですが、先生にはこちらの方が喜んでいただけるかと思いました」
「私が?」
僕はスカートの端を指先でわずかにつまみ、足を交差させた。あくまで布の形を綺麗に見せるためのポーズであり、露出が増えるほど持ち上げているわけではない。
ただ、普段よりは少しだけ大人びて見える。
「こんな、少し際どいポーズはいかがですか」
先生は数秒間、何も言わなかった。
まずかっただろうか。
雑誌ではよく見かける構図だったが、実際に試すと不自然だったのかもしれない。
僕が姿勢を戻そうとした瞬間、先生は両手で机を叩いた。
「際どすぎるッ!!」
書類が揺れた。
「そうでしょうか」
「男の夢だ!!」
「そこまでですか」
「エッチすぎるッ!!!」
勢いよく立ち上がった先生の膝が机へぶつかり、積まれていた書類が大きく傾いた。
僕は慌ててそれを両手で支える。
「先生、落ち着いてください」
「これが落ち着いていられるか!」
「落ち着いてください。書類が落ちます」
「書類より大事なものが今ここにある!」
どうやら、かなり気に入ってくれたらしい。
三日間の徹夜によって多少言葉遣いがおかしくなっているが、感想そのものは肯定的だと受け取ってよさそうだった。
「そこまで喜んでいただけるなら、練習した甲斐がありました」
「練習したの!?」
「鏡の前で一時間ほど」
「努力の方向性が素晴らしい!」
「ありがとうございます」
そのとき、背後で扉の軋む音がした。
振り返ると、わずかに開いた隙間から、青みがかった髪と眼鏡が見えた。
先生も気づいたらしく、片手を上げる。
「あ、ユウカ。お疲れさま」
ユウカさんは扉を開けたまま動かなかった。
視線が先生から僕へ移り、それから僕の指先につままれたスカートの裾へ落ちる。最後にもう一度先生を見たものの、表情はほとんど変わらない。
「...何をしているんですか」
静かな声だった。
「ファッションショー」
先生は迷いなく答えた。
「ファッションショー」
「うん。すごく可愛いでしょ?」
ユウカさんの視線が再び僕へ向いた。
僕はスカートから手を離し、軽く頭を下げる。
「こんにちは」
「こんにちは...」
返事はあったが、彼女の目は笑っていない。
僕の衣装に何か問題があったのだろうか。
「先生」
「なに?」
「先ほど、何とおっしゃっていましたか」
「どれのこと?」
「際どすぎる、とか」
「ああ」
先生は僕を指しながら、悪びれる様子もなく笑った。
「だって本当に際どかったから」
「男の夢、とも聞こえましたが」
「言ったね」
「エッチすぎる、とも」
「それも言った」
ユウカさんは眼鏡の位置を直した。
伊達だろうか。非常に似合っている。お洒落眼鏡については絶賛研究なので、凄く参考になる。
「なるほど」
ユウカさんは、声だけは穏やかだった。
ただし、その手には力が入っている。ワナワナなどという擬音が聞こえてきそうだ。
「ユウカさんも見ますか」
僕が尋ねると、彼女は目を見開いた。
「え?」
「先生には好評でした。女性から見た意見もいただけると、より客観的な評価になると思います」
「いえ、私は...」
「この子、本当にすごいよ。さっきのポーズもう一回やってあげて」
「先生がそこまでおっしゃるなら」
僕が先ほどと同じようにスカートの端へ手を伸ばすと、ユウカさんは片手を突き出した。
「結構です!」
珍しく大きな声だった。
「そうですか」
「はい。十分です」
何が十分なのかは分からないが、彼女の中では評価が済んだらしい。
ユウカさんは持っていた書類を先生の机へ置くと、僕たちを交互に見た。
「先生」
「うん」
「お仕事は?」
「してるよ」
「私には、可愛い女子生徒に際どいポーズを取らせて喜んでいるようにしか見えませんが」
先生は首を傾げた。
「女子生徒?」
ユウカさんの眉がわずかに動いた。
僕は先生の横顔を見る。
先生も僕を見る。
互いに数秒ほど黙ったあと、先生が何かに気づいたように口を開いた。
「ああ、いや」
その先を言いかけたところで、机の上から端末の着信音が鳴った。
先生が画面を確認する。
「ごめん、ちょっとこれ出ないと」
「先生?」
「すぐ戻るから!」
先生は端末を手にしたまま、慌ただしく隣の部屋へ入っていった。
室内に、僕とユウカさんだけが残される。
彼女は閉じた扉を見つめ、それからゆっくりと僕へ顔を向けた。
「...いつも、こんなことを?」
「はい」
「いつも!?」
「新作が完成したときは」
僕が答えると、ユウカさんは深く息を吸った。
「冷静になれ、冷静になれ...感情は因数分解するのよ、ユウカ」なんていう独り言が聞こえた。かなり頓珍漢な方だ。
「ふぅ、そうですか」
「先生は細かい部分まで見てくださるので、とても参考になります」
「こ、細かい部分まで?」
「今日はスカートの丈についても評価していただきました」
「丈まで...ッ」
なぜか、返事をするたびに声が低くなっていく。
やはり、何か不快にさせてしまったのだろうか。
「申し訳ありません。お仕事の邪魔でしたか」
「...いえ、あなたが謝ることではありません」
ユウカさんは妙に力強く答えた。
「悪いのは全部、あの人ですから」
「あの人?」
「先生です!」
「先生は褒めてくださっただけですが」
「そこが問題なんですよ!」
「褒めることがですか」
「褒め方がです!」
僕には違いがよく分からなかった。
先生は普段から、似合っている服は似合っていると言う。今日の反応は少し大きかったものの、三日間眠っていないことを考えれば、多少おかしくなっていても仕方がないだろう。
「先生はお疲れのようですから、あまり強く叱らないであげてください」
「...庇うんですか」
「三日ほど寝ていないそうです」
「またですか!?」
ユウカさんの表情が、嫉妬とも困惑ともつかないものから、純粋な怒りへ切り替わった。
どうやら、先生が眠っていないことの方が大きな問題だったらしい。
「分かりました。今日はもう仕事をさせません」
「それがよいと思います」
「あなたも帰ってください」
「え?まだ先生に、座ったときの見え方を確認していただいていませんが」
「帰ってください」
「はい」
これ以上残ると迷惑になりそうなので、素直に従うことにした。
机の横へ置いていた鞄を持ち、扉へ向かう。退出する前に振り返ると、ユウカさんは先生の机に積まれた書類を整えながら、小さな声で何かを呟いていた。
「私たちにはあんな顔しないくせに...」
よく聞き取れなかった。
「何かおっしゃいましたか」
「何も言っていません」
「そうですか」
僕は一礼し、オフィスを出た。
廊下の窓に映った自分の姿を、もう一度確認する。
先生の反応を見る限り、今日の衣装は成功と考えてよいだろう。少し大きすぎたリアクションについては、睡眠不足の影響として差し引く必要があるが、それでも全体的な評価は高かった。
次は座った姿も綺麗に見える衣装を考えたい。
そのためには、生地をもう少し柔らかいものへ変えた方がよいかもしれない。
僕が次の構想を練りながら歩いていると、背後から先生の声が聞こえた。
「ちょっと待って! まだ写真撮ってない!」
振り返る。
扉から顔を出した先生の後ろで、ユウカさんが無言のまま拳を握っていた。
「先生」
「なに」
「覚悟はできていますか?」
「何の!?」
僕は二人の様子を眺め、少し考えた。
写真については、また今度でよさそうだった。
「先生、それでは次回にしましょう」
「ええっ!?」
「今日はゆっくりお休みください」
「待って! 本当に可愛かったから! 記録に残したい!」
「せ、ん、せ、い?」
「いや違うよユウカ! そういう意味じゃなくて!」
扉が静かに閉じる。
直後、向こう側から先生の声が響いた。
「だから男友達みたいなものなんだって!」
「意味が分かりません!!」
僕は閉じられた扉をしばらく見つめたあと、窓に映った自分へ視線を戻した。
今日もやはり可愛い。
次は、写真に残してもらおう。