辺境の村ルエカを出立した。
僕たち一行は再びあてもない、しかし以前よりはずっと賑やかな旅路を歩んでいた
僕たちの旅路を祝福するように、頭上にはどこまでも高く澄み渡る青空が広がっている。
「リヴェリア、足元に気をつけて。この辺りは岩が苔むしていて滑りやすいから」
「ああ、分かっている。気遣い感謝するよ、ライ」
さらりと風に揺れる美しい翡翠色の髪。透き通るような白い肌と、長く尖った耳。
彼女の名前はリヴェリア。アルヴの王森を出奔し、世界を巡る旅を続けていたハイエルフだ。
あのルエカ村の酒場で、僕が作った野菜料理を自身の手持ち以上に平らげた、結果として全財産を失い無銭飲食の危機に陥っていたところを僕が助け、そして、紆余曲折を経てファミリアに入団することになった。
つまり、彼女は僕にとって初めてのファミリアの団員ということになる。
「でも、本当に驚いたなぁ。ハイエルフなんて、僕の人生で出会うことはないと思ってたよ」
「私からすれば、妖精狐の君のほうがよほどおとぎ話の住人だがな。それに、女神と2人きりで旅をしているという事実のほうが余程驚愕に値する」
リヴェリアは呆れたように肩をすくめながらも、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。
彼女と出会ってまだ日は浅いが、僕は彼女に対して敬語を使わず、ごく普通の友人に対するようなタメ口で接している。
最初は少し迷ったのだ。なんといっても相手はエルフの王族、誇り高きハイエルフだ。
そんな僕に対し、彼女は『その必要はない』と明確に拒絶した。
『王族として扱われるために外の世界に出たわけではない。ただの1人のファミリアの冒険者として、対等に接してほしい』
その真摯な瞳を見て、僕は彼女の意思を尊重することに決めた。結果として、この距離感は非常に上手く機能しているように思える。
「リヴェリアって、見た目はすごく近寄りがたい美人なのに、話してみると意外と気さくだよね」
「......君は、本当に恐れを知らないな。エルフが聞いたら卒倒するぞ」
「事実を言っただけだよ。僕は君が普通の女の子みたいに笑ってくれる方が、ずっと話しやすくて好きだな」
「なっ......!君というやつは......」
リヴェリアは翡翠色の瞳を丸くして絶句し、呆れたように微笑んだ後に視線を逸らした。
「うふふ、2人ともすっかり仲良しね!とっても嬉しいわ!」
僕たちの前を軽快な足取りで歩いていたデメテル様が、くるりと振り返って満面の笑みを浮かべた。
太陽の光をそのまま紡いだような金糸の髪が、ふわりと宙を舞う。
「デメテル様、足元が危ないですよ。前を見て歩いてください!」
「大丈夫よライ!ほら、あそこに綺麗な湖が見えてきたわ!今日はあの辺りで休みにしましょう!」
子供のようにはしゃぐ美しき女神様の姿に、僕とリヴェリアは顔を見合わせて同時に小さくため息をついた。
「......本当に、自由な女神だな。神とはもっと厳格で、手の届かない存在だと思っていたが」
「でも、あの笑顔を見ていると、なんだかこっちまで元気になってくるでしょ?」
「ふっ......ああ、否定はしない。不思議な温かさを持った女神だ」
僕たちは連れ立って、陽光を反射してきらきらと輝く美しい湖へと足を向けた。その後、手分けして野営の準備に取り掛かる。
慣れた手つきでかまど用の石を組み上げる僕の横で、リヴェリアが森で拾い集めてきた枯れ枝をテキパキと並べていく。
「ライ、火の準備はできた。食材の方は頼めるか?」
「うん、ありがとう。じゃあ、早速準備するね」
僕は背負っていた麻袋から、道中で採取してきた野生の根菜や葉物野菜、そして少しばかりの木の実を取り出した。
これらは痩せた土地で育ったため、小ぶりで硬く、そのままでは到底美味しく食べられるようなものではない。
しかし、僕にはデメテル様から授かった魔法がある。
【謳え、慈愛の大地。万物を育む豊穣の母よ】
【我が祈りをもって陽光と為し、我が声をもって恵雨と為す】
【目覚めよ、小さな命】
【理を束ね、刹那の刻に花を咲かせん】
【与えよ、満たせよ、至高なる大地の恩寵をここに】
「『
僕の手のひらから淡い光が放たれ、地面に並べられた貧相な野菜たちを優しく包み込む。
光が収まると同時、そこにあったはずのしなびた野菜たちは、内側から弾けんばかりに瑞々しく太った野菜と果実へと劇的な変貌を遂げていた。
「......信じがたい魔法だ」
リヴェリアは翡翠の瞳を見開き、宝石のように輝く野菜たちを食い入るように見つめている。
「さあ、早く調理しちゃおう」
僕はナイフを取り出し、野菜を手早く切り分けていく。
新鮮な野菜は刃を入れるだけで小気味よい音を立て、豊かな水分がまな板の上に滲み出した。
それらを鉄の鍋に入れ、澄んだ湖の水と少量の塩だけでじっくりと煮込んでいく。
複雑な味付けは出来ない。なぜなら調味料がないから。
でも、野菜そのものの旨味と甘みが、最高の出汁となって鍋の中に溶け出していくから軽く塩を振るだけで問題ない。
やがて、辺り一帯に芳醇な香りが漂い始めた。
「できたよ。今日は特製の温野菜スープだ」
木皿にたっぷりと注いで手渡すと、リヴェリアはそれを受け取り、小さく息を吹きかけてからスプーンを口に運んだ。
「......ッ」
その瞬間、彼女の背筋がピンと伸び、尖った耳がぴくぴくと震えた。
「相変わらず......素晴らしい味だ。野菜だけでこれほどの深いコクと旨味が出せるなんて」
リヴェリアは目を閉じ、スープを味わっている。
こうして落ち着いて食事をしている姿は、王族としての気品に満ち溢れていた。
「よかった、口に合って。デメテル様もどうぞ」
「ありがとうライ!んーっ、やっぱりライのご飯は世界一ね!心がぽかぽかするわ!」
デメテル様も嬉しそうに微笑みながら、美味しそうにスープを飲んでいる。
僕自身も自分の皿に口をつけた。
体の隅々にまで染み渡るような、優しくて力強い野菜の旨味。
以前は『野菜に飽きた』などと贅沢な不満を抱いていた時期もあったけど、今はただ、この温かい食事を皆で分かち合えることの幸福感の方がずっと大きい。
パチパチと爆ぜる焚き火の音と、穏やかな湖の波音が、静かな夜の始まりを告げていた。
食事が終わり、夜の闇が周囲を完全に包み込む頃。
僕たちの前に、この旅において最大の、そして最も切実な問題が立ち塞がっていた。
それは『就寝時のテントの割り当て問題』である。
湖畔の開けた場所にポツンと張られた、僕の私物である小さな折りたたみ式テント。リヴェリアはテントを売ったらしく、持っていなかった。
元々は僕が森で1人で暮らしていた時に使っていたものであり、デメテル様と2人で寝る時でさえ窮屈な代物だった。
そこに、リヴェリアという新たな同行者が加わったのだ。
この小さなテントに大人3人が入る余地などどこにもない。
「......ライ。私は今夜、この木の上で野宿させてもらう」
静かな沈黙を破ったのは、リヴェリアの凛とした声だった。
彼女は自分の荷物から毛布を取り出すと、近くにそびえ立つ大樹の太い枝を見上げている。
「エルフにとって森や木の上はベッドも同然だ。それに、私は少々......その、他者との距離が近すぎるのが苦手な性質でね」
彼女は言葉を濁したが、その実態は『極度の潔癖』である。ハイエルフだからね、それが当然とも言える。
「待ってリヴェリア。野宿するなら僕が外で寝るよ。流石に、女の子を外で寝かせるわけにはいかない」
僕は慌てて彼女を引き止め、自分の毛布を手に取った。
「僕は元々、森でずっと1人で生きてきたんだ。外で寝るのなんて慣れっこだし、寒さにも強い。テントはデメテル様とリヴェリアの2人で使って」
「馬鹿なことを言うな。年端もいかない少年に気を遣わせて自分だけが温かいテントで寝るなど、私の矜持が許さない」
「矜持なんてこの際関係ないでしょ。それに僕はもう立派な大人......には少し足りないかもしれないけど、とにかく僕が外で寝る」
「断る。君はテントで休むべきだ」
互いに一歩も譲らず、僕とリヴェリアの間で静かな、しかし熱を帯びた押し問答が続く。
「だから、僕が外で......」
「私が外で寝ると言っているだろう......」
その時だった。
「2人とも、いい加減にしなさい!」
ビクッとして振り返ると、そこには両手を腰に当て、ぷくっと頬を膨らませたデメテル様が立っていた。
普段の温厚で優しい彼女からは想像もつかないほど、その声にはハッキリとした怒気──あるいは、神としての威厳のようなものが混じっていた。
「デ、デメテル様......?」
「ライもリヴェリアも、私の大切な家族よ!家族がこんな冷たい外で野宿するなんて、私が許さないわ!」
「しかしデメテル様、このテントのサイズではどう考えても3人は......」
リヴェリアが説得しようとしたが、デメテル様は聞く耳を持たない。
「無理じゃないわ。くっついて寝れば、もっと温かいじゃない。それに、ライの尻尾はとってもふわふわで気持ちいいんだから、リヴェリアも絶対に気に入るわ」
「なっ......!?し、尻尾を......!?」
リヴェリアが僕の尻尾を凝視した。
「とにかく!今日は3人で一緒にテントで寝るの!これは主神としての絶対命令です!」
ビシッと指を突きつけられ、有無を言わさぬ女神の宣告が下された。
こうなってしまえば、眷属である僕たちに逆らう術はない。
リヴェリアは深く絶望したような表情で天を仰ぎ、僕は静かに諦めの息を吐いた。
かくして、僕たちはその小さなテントの中に、3人で押し込められることになった。
「狭い......狭すぎる......」
リヴェリアの悲痛な呻き声が、暗闇のテント内に響き渡る。
配置としては、中央に僕が仰向けになり、右側にデメテル様、左側にリヴェリアが横たわっている。
少しでも身動きを取れば互いの腕や足がぶつかり合う、まさにすし詰め状態だった。
「ごめんね、リヴェリア。僕がもっと大きなテントを持っていればよかったんだけど」
「いや......君が謝ることではない。これくらいは我慢......がま、ん......」
リヴェリアの声が微かに震えている。
彼女にとって、ここまで他者と密着する状況は拷問に近いのかもしれない。
僕ができるだけ彼女に触れないように体を縮こまらせていると、右側からデメテル様がギュッと僕の腕に抱きついてきた。
「うふふ、やっぱりライは温かいわねぇ。ほらリヴェリアも、遠慮しないでライにくっついていいのよ?」
「そのような真似はしない!私はここで、ただ石のように静かに朝を待つ!」
「えー、もったいないわ。ライの尻尾、貸してあげましょうか?」
「結構だ!」
僕の尻尾を勝手に貸さないでください......
闇夜に響く彼女たちのやり取りを聞きながら、僕は心臓が早鐘のように鳴るのを必死に抑えていた。
右からはデメテル様の陽だまりのような温かく甘い香りが、左からはリヴェリアの大自然を思わせる清廉な花の香りが漂ってくる。
いくら僕がまだ幼いとはいえ、男であることに変わりはない。
こんな状況で平常心を保てる方がどうかしている。
「......ライ、起きているか?」
ふいに、左側からリヴェリアの小さな声が聞こえた。
「うん、起きてるよ。寝苦しい?」
「......いや。最初は気が狂うかと思ったが、少し......慣れた。いや、今も気が狂いそうではある」
彼女の息遣いが、先ほどよりもずっと穏やかで規則的なものに変わっているのが分かった。
「君はずっと1人でこの森にいたと言っていたな」
「うん。物心ついた時から、雑草をかじって、毎日獣から逃げ回るだけの日々だったよ」
僕が淡々と過去を語ると、リヴェリアは少しだけ沈黙し、やがてぽつりと呟いた。
「......私は、アルヴの王森で何不自由なく育った。だが、そこは私にとって鳥籠のようなものだった。決められた未来、決められた役割。息が詰まって仕方なかったんだ」
彼女の言葉には、かつて彼女を縛り付けていた見えない鎖の重さが滲み出ていた。
「だから外に出た。自分の目で世界を見たかった。......だが、外の世界は私が思っていた以上に広くて、厳しくて......そして、驚きに満ちている」
テントの隙間から差し込む微かな月光が、彼女の横顔を淡く照らし出す。
「君やデメテルと出会って、私は楽しいと思えた。王族としての建前も、しがらみもない。ただ1人のエルフとして、笑って、驚いて、美味しいものを食べて......こんな日々が、私にも訪れるなんて想像もしていなかったよ」
その言葉は、誰に聞かせるためでもない、彼女の心からの独白だった。
僕は少しだけ顔を左に向け、暗闇の中で彼女の翡翠の瞳を見つめ返した。
「僕も同じだよ、リヴェリア。ずっと孤独だった僕に、デメテル様が光をくれた。そして今、君という大切な仲間ができた。今のこの時間は、僕にとって夢みたいな時間なんだ」
「......そうか」
リヴェリアはふっと息をつき、それから信じられない行動に出た。
彼女の細く冷たい指先が、僕の腕にそっと触れ、そのまま静かに温もりを求めるように寄り添ってきたのだ。
「リヴェリア......?」
「......今夜は特別に冷える。少しだけ、温もりを分けてくれ......それと、君のそのタメ口、私は嫌いじゃない。これからも、そのままでいてほしい。誰かに何かを言われたとしても」
顔は見えないが、彼女が少し照れているのが伝わってきた。
右側からはデメテル様の穏やかな寝息が聞こえ、左側からはリヴェリアの柔らかな体温が伝わってくる。
僕は2人の間で、たまらなく幸せな気持ちに包まれていた。
かつて泥水をすすり、寒さに震えていた妖精狐の少年はもういない。
「......おやすみ、リヴェリア。おやすみなさい、デメテル様」
僕は小さく呟き、2人の寝息を子守唄代わりに、静かに目を閉じた。
翌朝。
目を覚ました僕を待っていたのは、僕を抱きしめているデメテル様と、僕の尻尾を抱き枕のようにして幸せそうに眠るリヴェリアの姿だった。
「......」
僕はしばらくその光景を見つめた後、そっとため息をついた。
彼女が目を覚ました時、どんな顔をするか考えるのはやめておこう。
僕は再び目を閉じた。
深い、深い闇の底から意識が浮上していく。
私の体は、これまでの過酷な野営では信じられないほど、心地よい温もりと安心感に包まれていた。
ふかふかとしていて、滑らかで、まるで極上の絹糸を何万本も束ねて作られたような、奇跡的な手触り。
私は無意識のうちにその『何か』に頬を擦り寄せ、両腕でしっかりと抱き込んでいた。
ほんのりと漂う、森の朝露と陽だまりを混ぜ合わせたような不思議な匂い。
(......素晴らしい。ずっとこのまま眠っていたい......)
微睡みの中そう願った直後、すぐ傍で不規則に乱れる呼吸音を拾い上げた。
ピクリと、私の尖った耳が動く。
同時に、私の脳を冷や水が駆け巡った。
テントの中。そうだ、昨夜はあの異常なまでに狭い空間で、ライとデメテルと3人で身を寄せ合って眠りについたのだった。
ゆっくりと、恐る恐る薄く目を開けた。
視界の先に飛び込んできたのは、、私が腕の中にがっちりとホールドしている、銀白色に輝く巨大な毛玉──もとい、ライ・フェンネルの尻尾だった。
「......ッ!」
声にならない悲鳴が喉の奥で詰まった。
あろうことか私は、まるで子供がお気に入りのぬいぐるみを抱くように、抱き枕にしてしまっていたのだ。
全身の血が沸騰したかのように顔に集まり、カーッと熱くなるのが分かる。
ハイエルフの王族としての矜持。そんなものは今、粉々に砕け散り、宇宙の彼方へと消え去った。同衾した上に抱きつくなど、ありえない。それが幼い少年だとしてもだ。
さらに最悪なことに、当のライ本人は明らかに目を覚ましている気配があった。
彼は必死に寝たふりをしている。規則正しい呼吸を装っているが、分かってしまった。
(......見られた。完全に、見られた......!)
絶望的な羞恥心に苛まれながら、私はゆっくりと、本当にゆっくりと、抱きしめていた尻尾から腕を離した。
そして、音を立てないように細心の注意を払いながら身を起こし、逃げるようにテントの入り口の紐を解いた。
「......ふぁあ。おはよう、リヴェリア。朝から元気ねぇ」
背後から、寝ぼけたデメテルの声が響いた。
ビクッと肩が跳ねたが、私は振り返ることなくテントの外へと出た。
「お、おはよう、デメテル。私は......その、少し外の空気を吸いたくてな」
外の空気は冷たく、火照りきった私の頬を容赦なく刺してくる。
テントから這い出てきたデメテルは、私の狼狽ぶりなど全く気にも留めていない様子で、大きく伸びをした。
「うーん、よく寝たわ!それで、ライの尻尾の抱き心地はどうだった?」
「なっ......!?あ、あれは、違う!不可抗力だ!夜の冷え込みに対し、私の肉体が生存本能として熱源を求めた結果であり、決して私の個人的な嗜好では......!」
「うふふ、そういうことにしておいてあげるわ。あ、そうだ!せっかくこんなに綺麗な湖のそばで野営したんだし、朝の水浴びに行かない?狭いテントで汗もかいちゃったし」
水浴び。その言葉は、今の私にとって神の啓示に等しかった。
冷たい水に身を沈め、この煮え滾るような羞恥心と自己嫌悪を綺麗さっぱり洗い流したい。
「......賛成だ。すぐに行こう。今すぐにだ」
私とデメテルは、まだ寝たふりをしているライをテントに残し、歩みを進めた。
テントから少し離れた場所には、巨大な岩と鬱蒼と茂る木々に囲まれた、天然の隠れ家のような入り江があった。
これなら、万が一ライが起きてきたとしても私たちの姿が見えることはないだろう。
湖面は朝の光を反射して、キラキラと輝いている。
私は息を吐き、身につけていた旅の装束を一つずつ脱ぎ捨てていった。
冷やりとした朝の空気が素肌を撫で、微かな身震いが起こる。
足先から湖の水に踏み入れると、刺すような冷たさが伝わってきたが、歩みを進めるごとにそれが心地よくなってきた。
「わぁ......!すっごく冷たいけど、気持ちいいわね!」
背後から水音がして振り返ると、そこには一切の羞恥心もなく衣服を脱ぎ捨てたデメテルの姿があった。
「......ッ」
私は思わず息を呑んだ。
豊穣の女神の名に恥じぬ、圧倒的なまでの豊かな曲線美。それを見たあと、無意識のうちに自分の胸元を隠すように腕を交差させてしまった。
「どうしたの、リヴェリア?そんなところに立ってないで、こっちの深いところまで来なさいよ!」
「あ、ああ......今行く」
私は小さくかぶりを振り、首まで水に浸かった。
冷たい湖水が、一晩の汗とともに、私の中に渦巻いていた朝の惨めな感情を静かに溶かしていくのを感じる。
「......綺麗な髪ね、リヴェリア。翡翠みたいに透き通っていて、森の木漏れ日みたい」
「ありがとう......デメテルの髪こそ、太陽そのもののように美しい」
「ふふ、ありがとう。それにしても、リヴェリアはとっても綺麗ね。ライだって、きっとそう思ってるわ」
唐突に少年の名前が出たことで、先ほどの尻尾の感触がフラッシュバックし、私は慌てて水の中に顔の半分を沈めた。
ブクブクと泡を立てながら、私は何とか話題を逸らそうと試みる。
「......デメテルは、本当にライのことが大切なんだな」
「ええ、もちろんよ。あの子は私が初めて見つけた眷属だもの」
彼女の瞳が遠くの空を見つめるように細められた。
「天界から下界を見ていた時......毎日泥だらけになって、大きな獣から必死に逃げ回って、雨の日は木の根元で小さく丸まって震えている男の子を見つけたの」
彼女の声は、普段の無邪気なものとは違う、深い哀愁と優しさを帯びていた。
「誰からも愛されず、誰の庇護も受けず、ただ生きることだけで精一杯だったあの子。そんなあの子を、私はどうしても見過ごせなかった。だから、ここへ降りてきたの。あの子の心を温めてあげたくて」
「......素晴らしいな、君たちは」
気がつけば、私の口からそんな言葉がこぼれていた。
私は自分の翡翠の髪をすくい上げ、指先から滴る水滴を見つめた。
「ふふっ、少し湿っぽくなってしまったわね」
十分に体を清め、心の中のわだかまりもすっかり洗い流した私たちは、湖から上がり、手早く身支度を整えた。
髪の水分を飛ばし、再び旅の装束に袖を通す。朝靄が晴れ、高く昇った太陽が森全体を明るく照らし出していた。
「さあ、戻りましょう!きっとライが美味しい朝ごはんを作って待ってくれているわ!」
弾むような足取りで先を歩くデメテルの背中を追いかけながら、私は小さく息を吸い込んだ。
野営地に戻ると、そこにはすでに焚き火を起こし、鍋で何かを煮込んでいるライの姿があった。
パチパチと薪が爆ぜる音と共に、香ばしい野菜の匂いが漂ってくる。
「あ、おかえりなさい。デメテル様、リヴェリア。朝ごはんに、温かいスープができてるよ」
彼は私と目を合わせると、何事もなかったかのように、いつも通りの穏やかな微笑みを向けた。
その背後で、銀白色の大きな尻尾がパタパタと揺れている。
一瞬だけ頬が熱くなったが、私はもう動揺しなかった。
「......ああ、ただいま戻った。今朝も君の料理が食べられるとは、眼福ならぬ口福の至りだ」
彼の作ってくれた温かいスープを飲んで落ち着けば、きっと気まずさなど完全に消え去ってくれるはずだ。少年相手に、私は何を焦っているんだろうか。
デメテル
リヴェリア