オラリオに到着してからというもの、僕は毎日、『
精神力を枯渇させるという行為は、決して気分がいいものじゃない。脱力感と疲労が酷い。
全ては──目の前に広がる、この広大な農場のせいで。
荒れ果てていた土壌に両手をつき、僕はぜぇぜぇと荒い息を吐き出した。全身から滝のように汗が噴き出し、土で汚れた指先が微かに痙攣するように震えている。
しかし、その代償として、僕の目の前にはふかふかで栄養に満ちた、最高の土壌が広がっていた。
「......これでようやく、次のステップに進めるね」
長年放置され、固くひび割れていた大地は、僕の魔法によって完全に改良された。今やどんな種を蒔いても力強く芽吹く、豊穣の畑へと生まれ変わっている。
オラリオに到着した時、僕たちは実はそれなりの資産を持っていた。
というのも、2年間の寄り道......もとい過酷な旅路の中で、僕たちは数え切れないほどの魔物と戦い、名もなき村を救い、時には行商人たちを護衛してきたからだ。
ギルドに換金できる魔石やドロップアイテムはもちろんのこと、商人たちから感謝の印として受け取った謝礼金なども積み重なり、僕たちの革袋は出会った当初では考えられないほどの重量になっていたのだ。
だからこそ、オラリオに着いたらまず、それなりに大きくて綺麗な屋敷を買う──もしくは、立派な邸宅を長期で借りるつもりでいた。
ふかふかの清潔なベッド。隙間風の入らない頑丈な石造りの壁。温かいお湯がいつでも出る、手足を伸ばせる立派な浴室。
2年間の過酷なテント生活の日々を思えば、それくらいの贅沢は十分に許されるはずだと、僕は思っていた。
しかし......主神たるデメテル様の考えは、僕の浅はかな欲望とは全く次元の違うところにあった。
オラリオの巨大な門をくぐり、都市の内部へと足を踏み入れたあの日。
『──食糧が足りていないのね。可哀想な子どもたち.....』
そう言って静かに悲しむデメテル様の瞳を、その横顔を見た瞬間、僕は綺麗な屋敷を買うという夢を綺麗さっぱり諦めるしかなかった。
結果として、僕たちがオラリオで手に入れたファミリアの『拠点』は、お世辞にも綺麗とは言えない、市壁近くの少しボロめの小さな平屋となった。
そして、僕たちが持っていた莫大な資金の大半は、その平屋の周囲に広がる、長年誰の手も入らずに放置されて痩せ細っていた広大な『土地』を丸ごと買い取るために消えていったのだ。
僕の魔法である『
味も栄養価も市場に出回っているものとは比較にならない特級品を、あっという間に生み出せる。
それを高値で売り捌けば、あっという間に莫大な富を築き、豪邸を建てることだって夢じゃないだろう。
できるけど......それだと『飢える子がいない世界にしたい』というデメテル様の切なる願いに背くことになってしまう。
だから、今は質よりも『成長を早めて量を確保すること』を最優先に行動しなければならない。
オラリオが抱えている慢性的な食糧不足。
まずはそれを解決する。市場に安価で野菜を大量に流通させ、オラリオの住民のお腹を満たす。
それが終わって都市全体の食糧事情が完全に安定してから、改めて野菜に等級をつけて嗜好品として高値で売り出していくんだ。
そうすれば、最終的には僕たちはあっという間にお金持ちになれるはずだ!
デメテル様の願いを叶えつつ、僕の願いも叶う。リヴェリアも大きなお風呂に入れるようになる。我ながら完璧な計画である。
ただ、致命的な問題があるとすれば──その計画が軌道に乗るまでの間、僕たちは馬車馬のように働き続けなければならないということだ。
そして、いつまで経っても『ダンジョン探索』に行けないということ。
さらに言えば、この広大な農場を維持し、農作物の成長を促進させるために、僕が毎日毎日、マインドダウン寸前まで魔法を行使せざるをえないことくらいだろうか。
「よくやった、ライ。植え付けからは私も手伝えるな」
疲れてへたり込んでいる僕の頭上から、凛とした涼やかな声が降り注いだ。
見上げると、作業着の袖をまくり上げたリヴェリアが立っていた。彼女の手には、ジャガイモや麦、様々な野菜の種が入った麻袋が握られている。
かつては王族として大切に育てられ、泥仕事とは無縁の優雅な生活を送っていたであろうハイエルフの彼女が、今や僕と同じように泥だらけの服に身を包み、本気で農作業を手伝おうとしている。
その事実が、なんだか少しだけおかしくて、僕は少し笑ってしまった。
「頼むよ、リヴェリア。それが終わったらもうひと作業あるからさ、僕は少し休ませてもらうよ」
そう、魔法で成長を早めるという地獄の作業がまだ残っているのだ。
しばらくはリヴェリアが広大な畑にひたすら種を植え付け、僕が精神力を回復させてから『
「ああ、少し休んでいるといい。さて、何を植えるべきか。種は色々あるが......」
リヴェリアは真剣な表情で手元の麻袋を見つめ、広大な農地へお足を踏み出していった。
オラリオでの冒険者生活。それは華やかな迷宮探索ではなく、文字通り泥にまみれた『農業』からのスタートとなった。
でも不思議と、悪い気はしていなかった。
少し休んだら、また限界まで精神力を絞り出そう。
人々が、お腹いっぱいのご飯を食べて、心から笑えるようになるその日まで。
大きく息を吸い込むと、土の匂いと、オラリオの風の匂いが混ざり合って、僕の肺をいっぱいに満たした。
オラリオに来てから、早いもので8年の月日が流れた。
慢性的な食糧不足に悩まされていたオラリオの状況を改善するのに8年もかかったよ。
今は、僕の魔法で育てたものとそれ以外の野菜に明確な等級をつけて売り出し、商売としても予想を遥かに超える成功を収めた。
最低等級でも品質が高いと瞬く間に評判を呼び、デメテル・ファミリアの資金繰りは盤石なものになった。
さらには、慈愛に満ちたデメテル様が路地裏から拾ってくる孤児たちや、自らファミリアに志願する者も後を絶たない。
気づけば、人数だけを見れば第一級ファミリアと肩を並べるほどの大所帯にまで成長していた。冒険者は僕とリヴェリアの2人だけど。
当然、僕たちはただ畑を耕して満足しているわけではない。
「農業は完全に安定したし、これからは本格的にダンジョンに通うことができそうだね』
最近、僕とリヴェリアはそんな話をよくしている。僕が野菜を育てるのは1日あればできるし。
そもそも、僕たちがオラリオに来た目的は、農家になることではなく冒険者になることだ。
それに、弱者は強者に無惨に踏みにじられ、大切なものを奪われてしまう。強くなければ、何も守れない。周囲も、そして自分自身も。
悪意から身を守るには力が必要だ。
所詮、この世の中の根底にあるルールは弱肉強食なんだ。だからこそ僕たちは、強さを求めなければならない。
と、まあ、ここまでがデメテル・ファミリアの輝かしいサクセスストーリーだ。
ここからは、ひどく理不尽で悪い話になる。
僕が一人で街中を歩けば、どこからともなく湧いてきたエルフ達に『リヴェリア様に敬意をもて。敬語を使え』『リヴェリア様を団長にしろっ』と、小煩く絡まれる。
リヴェリアが王族である以上、バカでアホでクズでゴミで性格の悪いエルフからの嫌がらせは覚悟してたから大したことはない。
本当に、全然根に持ってないから。エルフは僕が作っているA等級以上の野菜を購入禁止とかしてないから。
それに、本当に厄介なのはエルフじゃない。いや、エルフたちも面倒ではあるんだけど。
エルフたちの面倒な視線を避けるために近道として少し薄暗い路地裏を歩けば、正体不明の黒装束の冒険者集団に襲われるのだ。
なんだ、このクソみたいな街は。
元々は食糧不足以外、特に大きな問題などなさそうだったのに、どうして僕に対してだけ治安が悪いんだ。
そう、僕は今もまさに、路地裏でその黒装束の集団にぐるりと包囲され、襲われている真っ最中だった。
「誰かの恨みを買った覚えはないんだけど──どこのファミリアだ。毎回毎回正体がバレないように襲ってきて、自分たちのことを姑息だと思わないわけ?」
冷や汗が頬を伝う。今日は非常にまずい。
昼間に畑で限界まで『
今の僕は全くの非戦闘状態であり、本調子には程遠い。
普段の万全な状態であれば、使い慣れた大鎌を振り回して包囲網の一角を崩し、屋根を伝って逃げに徹することくらいはできる。数人であれば倒すこともできたはずだ。
しかし今日は、逃げることもままならないい。どうにか相手を誘導し、自発的に引かせるしかないんだけど、会話が通じる相手じゃないことは、これまでの襲撃で嫌というほど理解している。
「──今日は逃げないのだな。大人しくしていれば、なるべく痛くないように気絶させてやる」
「場所を言ってくれれば、後で僕の方から向かうよ。こんな薄暗い場所で野蛮な真似をするのはやめてさ、温かいお茶でも飲みながら話し合わないか?」
相手の素性に見当がつかない。小煩いエルフたちの嫌がらせにしては、手が込みすぎている。
かといって、その他に僕が誰かにこれほどの執着とも呼べる嫌がらせをされるような事をした覚えはない。
「黙れ。前もこのように話している最中に不意を突いて逃げた。お前は信用出来ない」
「あれのどこが会話だったのか、甚だ疑問だね。会話の途中でいきなり殴りかかってきたのはそっちじゃないか」
ぐるりと僕を取り囲む気配を探る。人数は15......いや、影に潜んでいる者を含めれば20はいる。
やっぱり、この状態から強行突破で逃げるのは不可能に近いか。
「うるさい、黙れ。これ以上、お前の見え透いた時間稼ぎには付き合わない」
まずいなぁ。これは、本格的にまずい。
黒装束たちが一斉に重心を落とし、完全な戦闘態勢に入った。
死に物狂いで頑張れば、1人くらいは道連れに倒せるか?いや、無理だ。
万全の状態でもこの人数と正面からやり合うのは骨が折れるのに、今の状態では尚更無理だ。
仕方ない。他に打つ手がないから──ハッタリをかますしかないか。
「ふっ、いいよ。やるならやりなよ。ただ、その場合──君たちの主神は血の涙を流して後悔することになるだろうね。僕のバックにいる女神の正体を知らずに、こんな愚かなマネをしでかしたことを」
「......なんだと。お前の背後に強力な神はいないはずだ。お前はオラリオにきてから毎日農作業に励んでいて、有力なファミリアと交友関係を広げている様子は一切なかった。時折リヴェリア・リヨス・アールヴとダンジョンに潜っている程度だろう」
思わず舌打ちをしたくなる。僕がオラリオに来てからの行動を、ずっと監視していたのか。
長期間これだけの人員を張り付かせ、これだけの高レベル冒険者を自由に動かせる組織。
巨大ファミリア......いや、必ずしもファミリアとは限らないか。
自分で言うのもなんだけど、僕は妖精狐という非常に珍しい血を引いている。
どこかの物好きの商会が、仕事の依頼を出して僕の身柄を狙っているという線も考えられなくはない。
「ハハッ、そりゃあそうだよ。僕の背後にいる女神の存在が公に明らかになったら、僕たち善良なデメテル・ファミリアまで怖がられてしまう。周囲の目を誤魔化すために、コソコソと秘密裏に交友を深めてるに決まってるじゃないか」
純度100%の大嘘だ。そんな都合のいい後ろ盾なんて、僕にはない。さあ、騙されてくれ。お願いだから。
「......ふむ」
リーダー格っぽいやつが、訝しげに目を細めて考え始めた。
いける。このまま嘘を貫き通し、少しでも相手の心に疑心暗鬼の種を植え付けることができれば、少なくとも今回だけは無事に逃げ切れる。
次からは絶対に、魔法を限界まで使った日は一人で出歩かない。万全の状態でありさえすれば、逃げることは簡単にできるんだから。
「大変だったよ。かの偉大で凶悪な女神相手に交渉をするのは。それこそ、彼女の靴を舌でピカピカになるまで舐めさせられるような屈辱的な扱いも味わったけど──それでも、僕たちの後ろ盾になってもらえるなら安い対価だった」
ここで僕が話した内容が、彼女たちから外部に漏れることはない。だから、話の中で自分のプライドを保つ必要なんて一切ない。
どうせ全ては嘘っぱちなんだから。
当然、神だろうと女神だろうと、実際にそんな屈辱的なことをしろと命じられたら、間髪入れずに殴り飛ばすか全力で逃走する。
どんなに大胆で破天荒な嘘でもいい。これから僕が名前を出す女神に対して、彼女達が直接真偽を確認するようなマネなどできるはずがないのだから。
まあ、確認せずとも、どうせ嘘はそのうちバレるだろうけど。
今は──それが紛れもない事実であると彼らに信じ込ませて、包囲網にわずかな隙を作ることができればそれでいい。
「さあ、君たちにそれだけの覚悟があるなら僕を攫えばいい──あのヘラ・ファミリアを真っ向から敵に回す度胸があるのなら、ね」
オラリオにいる数多の冒険者どころか、天界から降りてきた神々でさえ敵に回すことを恐れ、関わることすら全力で避ける最凶の地雷。
「ヘ、ヘラ......ファミリア......だと」
黒装束たちの間に、明らかな動揺が走ってザワつく。
よかった。このハッタリで効果がなかったら、流石にもう打つ手はなかった。
そして今、彼女達の意識が僕から逸れたこの瞬間──包囲網を突破して逃げ出せるだけの、確かな隙ができた。
黒装束たちが顔を見合わせ、武器の切っ先がわずかに下がったその隙を突いて、僕は全力で逃走するために力強く足を踏みだ──
『
凄まじい衝撃波が路地裏を駆け抜け、屈強な黒装束たちが数人、ボロ雑巾のように宙を舞って壁に叩きつけられた......なんで?
「ヘラからそのようなくだらない話を聞いた覚えはないが──もし本当なら、攫われてから助けに行くのがひどく面倒だ」
......なんで。なんでこんな薄暗い路地裏に、ヘラ・ファミリアの幹部がいるんだ。
「もし、お前の言葉が嘘なら──その時はヘラに言いつければいい。私たちのファミリアの名前を脅しに使っている、身の程知らずがいると」
ヘラ・ファミリアのLv7。
第一級の冒険者であり、才能の権化とも呼ばれる最強の魔導士──【静寂】アルフィア。
冷たい眼差しで見下ろしてくる彼女の姿を前に、僕は絶望で天を仰いだ。
こんな最悪の事態になるくらいなら、大人しくあいつらに攫われた方がよっぽどマシだった。
「──こいつらは、イシュタル・ファミリアか。さて、お前はついてこい。ヘラの元に連れていく」
ああ、連れてこられてしまった。ヘラ・ファミリアの本拠地、バベルの塔45階に。部屋には神ヘラとアルフィアの2人だけだ。
「──それで、妾がいつ、お前たちのファミリアの後ろ盾になった」
「名を勝手に使ったことは謝罪申し──」
「黙れ。弁明しろとは言っていない」
どうする。勝手に後ろ盾扱いした時点で、非は僕にある。今僕が考えないといけないことは、ファミリアに迷惑をかけない事だ。
「恐れ多くも、妾の名を偽り使った罰だ──貴様のファミリアを滅ぼしてくれよう」
判断が早い。早すぎる。ファミリアに迷惑をかけれない。
僕が、自分が助かるためについた嘘で──他者を巻き込むなんて、そんなの絶対にダメだ。
何かないか、提案できる内容は。この神を止める方法は。
「手始めに貴様から殺してくれよう。アルフィア──殺れ」
ある。
一つだけ、一つだけ思いついた。だが、それはあまりにも無謀で──この場にいる2人の神経を逆撫でする。
「よろしいのですか、神ヘラ。あなたがデメテル・ファミリアを滅ぼすのであれば、それはつまり──あなたの眷属が患っている病を治す術を自ら潰すということになる」
『
身体が壁に叩きつけられる。手加減されたのか、激しく身体が痛むものの気絶はしていない。
「──アルフィア、待て。貴様、今なんといった」
有名な話だ。ヘラ・ファミリアの幹部アルフィアと、その妹メーテリアは不治の病を患っており、医療に優れたファミリアでさえ治すことは出来なかった。
「...っ、僕は、神秘と調合の発展アビリティを.....持っています。今はまだ、Lv3ですが....これからは、ダンジョンに本格的に潜れるので、すぐにレベルをあげます」
神秘のアビリティは非常に珍しい。そして、神秘と調合を併せ持つ冒険者はいない。
少なくとも、有名どころでは僕は聞いたこともない。
デメテル様に品種改良のためには、知識をつけるように言われたのが役立った。それのお陰で、調合を手に入れたんだから。多分。
「3年いただければ──必ず、2人の不治の病を治す薬を作ってご覧に入れます」
静寂が、広大なバベルの塔45階の部屋を完全に支配した。
それは、ほんの数秒のことだったかもしれない。しかし、全身の骨が軋み、立っていることすらままならない僕にとっては、永遠にも等しい時間だった。
アルフィアの瞳が、絶対零度の冷気を帯びて僕を射抜く。
「......たかがLv3の冒険者が、私と妹の病を治すと?」
声には一切の熱が含まれていなかった。ただ純粋な、底知れぬ殺意だけがそこにある。
「私たちの病をダシにして命乞いをするとは.....」
アルフィアが静かに指先を上げる。
あ、死ぬ。直感でそう悟った。
彼女が次に詠唱すれば、僕の身体は跡形もなく吹き飛ばされ、ただの血だまりへと変わるだろう。
Lv7という絶対的な暴力の前では、今の僕では太刀打ちできない。
「──待て、アルフィア」
しかし、その死の宣告を、椅子に深く腰を下ろした神ヘラが制した。
ヘラは退屈そうに頬杖をつきながら、鋭い瞳で僕を見下ろしている。その視線に射抜かれるだけで、肌が粟立ち、内臓を冷たい手で直接撫でられているかのような悪寒が走った。
「......神秘と調合、か。確かに、その2つを併せ持つ者に出会ったことはない。それに、貴様は妖精狐という希少な血を引いているな......フン、なるほど。全くの絵空事というわけでもなさそうだ」
ヘラの口角が、ほんのわずかに吊り上がった。
それは希望の光などではなく、獲物を前にした捕食者の凶悪な笑みだった。
「いいだろう。その提案、乗ってやらなくもない。だが、3年などという悠長な時間を待ってやるつもりはない。期限は『1年』だ」
「1年......!?」
思わず叫びそうになった声を、必死に喉の奥に押し込める。
不治の病を治す薬を作るんだ。膨大な薬学の知識と、失敗を前提とした度重なる調合実験が必要になる。
ただでさえ3年でもカツカツのスケジュールを想定していたのに、それを1年に短縮されるなんて、正気の沙汰ではない。
だが、ヘラの要求はそれだけでは終わらなかった。
「さらに、だ。貴様の魔法で作る野菜が、市場で極上品として持て囃されているという噂は妾の耳にも届いている。毎日、妾のためにS等級の最高品質の野菜をこのバベルまで運んでこい」
「そして週に一度は、妾の舌を満足させる甘味を作って持ってくること。これも条件に加える。貴様の料理が美味であると、前にデメテルが言っておった」
「......ッ、お待ちください!無茶です!」
僕はたまらず声を荒げた。
「ダンジョンに潜る時間がなくなってしまいます!」
ただでさえ期限を1年に短縮されたのだ。これ以上の時間を削られれば、薬の完成など不可能になる。元々不可能に近いことだというのに。
「黙れ」
しかし、ヘラから放たれた一言が、僕の反論を押し潰した。
空気が重くなったのがわかる。
「妾の決定は絶対だ。それとも何か?今すぐ、豊穣の女神の首を、そなたのファミリアを潰した方がよいか?」
「......ッ」
デメテル様の名前を出され、僕は奥歯が砕けそうなほど強く噛み締めた。
立場が弱すぎる。相手の機嫌を少しでも損ねれば、僕だけでなくファミリア全員の命が消える。
逆らうことなど、最初から許されていない。本当になんで僕は、よりによってこのファミリアの名前を使ってしまったんだ。
「そして、もし1年後に薬が完成していなければ......貴様は死後も、永遠に魂をすり潰す罰を与え続けてやる。死ねば全てが終わるなどと、甘い考えは捨てることだな」
死後も続く永遠の責め苦。神だからこそ下せる絶対の呪い。
「......分かりました」
まっすぐにヘラの瞳を見据え返した。
「その条件、全て飲みます......ですが、僕からも条件があります」
「ほう?」
ヘラの眉がピクリと動いた。傍らに立つアルフィアからは、さらに濃密な殺意が溢れ出す。
「この期に及んで、妾に条件を突きつけると?......いい度胸だ。言ってみろ」
「僕が出す条件は4つ」
僕は乾いた唇を舐め、はっきりと宣言した。
「1つ、1年後にどのような結果になろうと、報いを受けるのは僕の命と魂だけで終わらせること。絶対に、デメテル・ファミリアには手を出さないと約束してください」
「2つ、この契約のことは、僕のファミリアの誰にも.......伝えないでください。ヘラ・ファミリアの名前を勝手に使ったのは、あくまで僕個人です」
「3つ、薬の材料確保を手伝うこと」
「4つ......僕を狙って執拗に襲撃してくる、イシュタル・ファミリアに警告し、二度と僕に近づけないようにすること」
言い切った。
これ以上ないほど強欲な条件提示だ。
だが、これを通さなければ、僕が1年で薬を完成させることなんて不可能だし、僕が失敗した時にファミリアの安全が守られない。
ヘラは顎に手を当て、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「1つ目と2つ目はいい。貴様の命と魂で手を打ってやろう......だが、3つ目と4つ目、なぜ妾がそこまでしてやらねばならん」
「妾が娼婦に警告することなど造作もない。素材とやらを拾ってくるのも容易い。だが、貴様をそこまで守り、世話をしてやる義理がどこにある?」
「義理ではなく、これは必要条件です。襲われ続ければ薬を作る時間はさらに減りますし、僕の実力では採取できる素材に限りがあります」
「それがどうした?這い蹲ってでも自力で達成するがいい」
取り付く島もない。
ヘラは今回の話に対して、そこまで期待してないだろう。
イシュタル・ファミリアを追い払うのも、素材を集めるのも、彼女の眷属を使えば簡単なことなのに、渋っているのがその証拠だ。
戯言として聞き流すには勿体ないが、所詮は戯言ということだ。それでも、僕をこの場で殺さないのは──僅かでは自らの眷属が治る可能性があるのなら試してみたいからだろう。
さて。
どうする。どうすれば、この女神を動かせる?
思考を限界まで加速させる。
......やるしかない。失敗すれば、今度こそ確実に殺される。
だが、この壁を越えなければ、条件の達成は絶望的だ。
僕は深く息を吸い込み、わざとらしく、嘲笑を含んだようなため息を吐いてみせた。
「......なるほど。分かりました」
「何が分かったというのだ」
「女神ヘラでも......美の女神であるイシュタルには気を遣うのですね、と」
ピキリ、と。
部屋の空気が、音を立てて凍りついたような錯覚に陥った。
「......あ?」
ヘラから発せられたその一音だけで、心臓が握り潰されそうになる。
だが、ここで引くわけにはいかない。僕は恐怖で引き攣りそうになる顔の筋肉を無理やり笑顔の形に固定し、言葉を続けた。
「最凶のファミリアだと周囲からは持ち上げられていても、結局は少し大きめのファミリアとの小競り合いを恐れて遠慮するんですね。それに......薬の材料すら集める手伝いをしないなんて」
「もしかして、眷属の命なんてどうでもいいんですか?それとも、そこまでの実力はないとか?......それなら、仕方ありません。僕一人でなんとかしますよ」
「──アルフィア」
ヘラの低く、地を這うような声が響いた。
「やれ」
『
先ほど受けたものとは比較にならない、圧倒的な破壊の衝撃波。
「がはっ......!?」
避けることなど不可能。僕の身体は宙を舞い、バベルの壁に凄まじい勢いで激突した。
骨が数本折れる嫌な音が響き、肺の中の空気が全て絞り出される。口から大量の血を吐き出し、僕は無惨に床へと転がり落ちた。
「......ごほっ、がはっ......!」
痛い。息ができない。視界が真っ赤に染まり、意識が急速に遠のいていく。おい待て、追撃なんてされたら──流石に死ぬ。
「待て、アルフィア。殺すな」
しかし、またしてもヘラの声が僕の命を繋ぎ止めた。
僕は血の混じった咳を吐き出しながら、霞む視界で玉座のヘラを見上げた。
ヘラは、激怒のあまりその美しい顔を歪ませていた。
「......妾を安い挑発に乗せようなどと、小賢しい真似を」
彼女には、僕の意図など全てお見通しだったのだろう。
けれど、それでもなお、彼女のプライドは、僕の放った言葉を許容できなかったのだ。
「だが......いいだろう。そこまで言うのなら、貴様の条件を全て飲んでやる」
ヘラは立ち上がり、見下ろすように僕を睨みつけた。
「妾のファミリアの絶対的な力を見せつけてやろう。イシュタル如き、娼婦共が二度と貴様の視界に入らないよう、徹底的に潰してやる。必要な素材も、アルフィアたちに取ってこさせよう」
「......へ、ら............」
「その代わりだ、ライ・フェンネル」
ヘラの瞳が、僕を射抜く。
「1年後、必ずその薬を完成させろ。もし失敗すれば....貴様の魂は終わることのない苦痛を味わうことになる」
「......はい。必ず......完成、させます」
掠れた声で、僕はそう答えることしかできなかった。
バベルの塔から放り出され、僕は夜のオラリオの街を一人で歩いていた。
傷は治してもらえた。デメテル・ファミリアの拠点へと向かう。
「......ははっ」
乾いた笑いが漏れた。
最悪の事態は免れた。デメテル様やリヴェリアたちファミリアを巻き込むことだけは、なんとか阻止できた。
イシュタル・ファミリアの襲撃に怯えることもなくなり、素材も手に入る算段がついた。
客観的に見れば、素晴らしい交渉結果だ。
けれど。
明日から僕を待っているのは、『ダンジョンに潜って自分のレベルを上げながら未知の薬の調合実験を繰り返し、毎日S等級の野菜を作って運び、週に一度は神を唸らせる極上の甘味を作る』という、過労死確定の超絶ブラック労働だ。
しかも、1年以内に薬を完成させられなければ、死後も永遠に拷問を受ける。野菜と甘味を運ばせるのは、団員の誰かにやってもらおう。作る作業は流石に僕がやらないとバレる。
はぁ、それにしても──
「......本当に、最悪の街だな、オラリオは」
誰にも聞こえないように小さく悪態をつきながら、僕は歩みを進めた。
【──もし、本当に子どもたいの病を治せたのなら、その時は今回の振る舞いを詫び、欲しいものをくれてやる】
【......期待しているぞ、ライ・フェンネル。豊穣の女神の権能を扱う妖精狐よ】
【む、なんだ、アルフィア。殺さなかったのが意外か?そんなことより、メーテリアに明日から最高に美味しい野菜と、週一回甘味が届くと伝えてやれ。あの子は野菜と甘味が好物だ。喜ぶだろう】