「まさか、本当に成し遂げるとは」
バベルの塔45階に位置するヘラ・ファミリアの拠点。
その部屋で、最高神の一柱たるヘラは、信じられないものを見るような声を発した。
彼女の視線の先には、ヘラ・ファミリアの最高幹部である【静寂】のアルフィアと、その双子の妹であるメーテリアの姿がある。
つい先ほど、指定された『1年』という期日のギリギリに、デメテル・ファミリアのあの少年から届けられた2つの小さなガラス瓶。
透き通るような黄金の輝きを放ち、神聖な香りを漂わせるその液体を、2人が飲み干してからの数分間。
「っ、あ......ぁ......!」
アルフィアとメーテリアの口から、苦悶の声が漏れる。
液体が喉を通った瞬間、猛毒を煽ったかのような凄まじい激痛が全身の神経を襲っていた。
彼女たちの細胞の隅々にまで根を張り、生まれ落ちたその瞬間から身体を蝕み続けてきた『不治の病』という呪い。
2人が苦悶の表情を浮かべている間に、ヘラはステイタスを更新していた。
呼吸をするたびに、肺の奥底から澄み渡るような空気が全身へと巡っていく。
心臓が、かつてないほど力強く、そして穏やかに脈打っている。
「これが......病に蝕まれていない身体......?」
震える手で自らの胸に触れるアルフィアの瞳から、意図せずボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「お姉ちゃん......!」
不意に、隣から弾んだような声が響いた。
アルフィアが弾かれたように顔を上げると、そこには、いつものようにベッドに横たわっているのではなく、自らの足でしっかりと床に立ち、満面の笑みを浮かべる妹の姿があった。
メーテリアの青白かった頬には、健康的な赤みが差している。
少し動くだけで激しく咳き込み、常に死の影に怯えていた虚弱な少女の姿は、もはやそこにはない。
「メーテリア......っ、身体は、苦しくないのか......?」
「うん!ぜんぜん苦しくないの!息をいっぱい吸っても胸が痛くないし、身体がすっごく軽いの!」
メーテリアはアルフィアの前に駆け寄ると、その細い腕で姉の身体を力強く抱きしめた。
「──病気、治ったんだね!本当に治ったんだね!」
「ああ......ああ、そうだ。治った......お前のも、私のもだ......」
アルフィアもまた、妹の背中に腕を回し、声を出して泣き崩れた。
オラリオ最強の魔導士として恐れられ、常に冷徹に振る舞ってきた彼女の顔には、ただ一人の姉としての、純粋な喜びと安堵だけが溢れていた。
その光景を玉座から見下ろしていたヘラもまた、口元を手で覆い、静かに瞳を潤ませていた。
「......本当にやり遂げてみせおったか。Lv3の分際で......流石は、あのデメテルが初めて選んだ眷属だ」
悪態をつきながらも、ヘラの表情はどこまでも柔らかく、愛する眷属たちが死の運命から救い出されたことへの深い慈愛に満ちていた。
たった1年。
あのボロボロになってバベルに連行されてきた、Lv3の少年に突きつけた条件。
『1年以内に、この不治の病を治す万能薬を完成させろ』
それは、ヘラ自身にとっても、到底不可能だと分かっている上での残酷な要求だった。
彼を殺さなかったのは、ほんの僅かな気まぐれと、彼の瞳の奥に宿る『絶対に諦めない』という執念。
そして、神秘と調合のアビリティを持っていること──なにより、妹であるデメテルが初めて選んだ眷属に対する淡い期待に過ぎなかった。
だが、少年は成し遂げた。
オラリオの医療派閥が束になっても治すことが出来なかったというのに、たった1年でこの万能薬を創り上げたのだ。
アルフィアとメーテリアの魂に刻み込まれていた病が消え去り、代わりに『異常無効』という新たなスキルが芽生えた。見事と言う他ない。
「素晴らしいわ......本当に、夢みたい」
しばらく抱き合って泣いていた姉妹だったが、やがてメーテリアがふわりと微笑みながら身体を離した。
彼女は嬉しそうに部屋の中を見渡し、やがて何かを探すように小首を傾げた。
「ねえ、ヘラ様、お姉ちゃん」
「なんだ、メーテリア」
「どうしたの?」
涙を拭いながら尋ねるヘラとアルフィアに対し、メーテリアはあまりにも純粋な、一点の曇りもない笑顔で問いかけた。
「この魔法みたいなお薬を作ってくれたのは、どなたなの?」
「......ッ」
その瞬間。
部屋を満たしていた温かな空気が、ピタリと凍りついた。
「私ね、ずっと思ってたの。この1年間、毎日毎日、とっても新鮮で美味しいお野菜が届くようになったでしょう?あんなに生命力に溢れたお野菜、食べたことがなかったわ」
メーテリアは両手を胸の前で組み、うっとりとした表情で言葉を紡ぐ。
「それに、週に1回届くあの冷たくて甘いケーキ!口の中でとろけて、果物の甘さがフワァって広がって......食欲がない時でも、あれだけは不思議といくらでも食べられちゃった」
アルフィアの額に、タラリと冷たい汗が伝った。
ヘラもまた、玉座の上で明らかな動揺を見せ、視線を泳がせている。
「きっと、そのお野菜やお菓子を作ってくれていた方が、このお薬も作ってくれたのよね?」
メーテリアの直感は、恐ろしいほどに正確だった。
彼女は一切の疑いを持たず、ただ純粋な感謝の念に満ちた瞳で、姉と主神を見つめている。
「私、その方に直接お会いして、きちんとお礼が言いたいわ!私の命を救ってくれて、毎日美味しいご飯で元気づけてくれて......本当に、ありがとうって......!」
「あー......その、なんだ」
オラリオにその名を轟かせる最凶の女神ヘラが、かつてないほどにしどろもどろになっていた。
「そ、その者はな、とても忙しいのだ!ほら、毎日野菜を育てたり、薬の調合をしたりで、人に会う時間などないくらいにな!」
「そうだ......!メーテリア、その者は非常にシャイで、表に出ることを好まない」
アルフィアも必死に話を合わせるが、その声はどうにも上ずっている。
言えるはずがない。
メーテリアが想像している『その心優しき恩人』を、魔法で壁に叩きつけ、血を吐かせ、骨を折り、『1年以内に薬を作れ、失敗すれば永遠に魂を拷問する』と脅迫したことなど。
さらには『毎日最高級の野菜を運べ、週に一度は絶品のスイーツも作って献上しろ』という、鬼畜の所業としか言えないブラック労働を強要したことなど。
そんな真実を、この純粋無垢なメーテリアに知られればどうなるか。
間違いなく、彼女はショックのあまり寝込むか、あるいは姉と主神に対して口も利いてくれなくなるだろう。
「ええ〜......でも、一目だけでもお会いしたいわ。どんなお顔をして、どんな声でお話しするのかしら。きっと、太陽みたいに温かい人なのね。あ、病気が治ったこと......あの人にも伝えなきゃ」
「とにかく、今はまだ会う時ではないのだ!」
「ヘラの言う通りだ、メーテリア。お前はまだ病み上がりなのだから、今日は大人しく休んでいろ」
必死に話を逸らそうとする2人の様子に、メーテリアは少しだけ不満げに頬を膨らませた。
その時だった。
──ドンッ。
ヘラ・ファミリアの拠点の巨大な扉が、外側から乱暴に叩き開けられた。
「......今は誰も入るなと言っておいたはずだ」
ヘラが玉座から立ち上がり、アルフィアが瞬時に臨戦態勢をとってメーテリアの前に立つ。
向こう側から、ゆっくりと姿を現した2つの影。
一人は、天界においても最高神として君臨し、現在このオラリオの頂点に立つファミリアの主神、ゼウス。
そのゼウスの顔には、いつもの余裕は微塵もなく、滝のような冷や汗を流しながら、隣を歩く『もう一人の存在』を恐る恐る窺っている。
「......すまん、ヘラ。儂なりに必死に止めたんだが......駄目じゃった。今のこやつを止めるのは、無理だ」
ゼウスが情けない声で言い訳をする中。
進み出てきたのは、豊かな金糸の髪と、大地の恵みを象徴するかのような豊満な肢体を持つ、美しい女神だった。
豊穣の女神、デメテル。
普段は誰に対しても温かく微笑み、慈愛に満ちた雰囲気で周囲を和ませる彼女の姿を、オラリオの住人であれば誰もが知っている。
しかし、今この部屋に立っている彼女は、その『いつものデメテル』とは完全に別物だった。
彼女の瞳から、光が一切消え失せている。
口元には微かな笑みが浮かんでいるものの、そこには一切の温度が存在しない。
彼女が一歩足を踏み出すたびに、部屋中の観葉植物が一瞬にして枯れ果て、黒い灰となって崩れ落ちていく。
「......デメテル」
ヘラの声が、微かに緊張を帯びる。オラリオに来てからここまで緊張したのは初めてのことだろう。
「あら、ごきげんよう、ヘラ」
デメテルの声は、恐ろしいほどに穏やかで、静かだった。
「随分と楽しそうね。眷属の病が治って、さぞかし幸せな気分でしょう?」
「......何用だ。貴様がゼウスを伴ってまで、妾の前に姿を現すとはな。事前に連絡してくれれば、迎えを出したというのに」
ヘラが努めて尊大な態度を崩さずに問い返すと、デメテルはゆっくりと首を傾げた。
「何用、と聞いたの?」
ふふっ......
デメテルは短く笑った。その笑みを見たアルフィアは、後ろにいるメーテリアを抱えて反射的に下がった。あの、アルフィアがだ。
「............ッ!?」
ゼウスは巻き込まれては堪らないとばかりに、壁際に逃げ込む。
デメテルは、完全に光を失った、深淵のような瞳でヘラを真っ直ぐに見据えた。
「私の、私の一番大切な子供を......ボロボロになるまで痛めつけて、魂を永遠に拷問すると脅迫しておいて」
ギリッ......
デメテルが奥歯を噛み締める音が響く。
「『何用だ』なんて......よくもまあ、そんなふざけた口が叩けたわね、ヘラ」
「デ、デメテル......それは、その......」
先ほどまでの威勢はどこへやら、今までに見たことのない怒るデメテルを前にして、流石のヘラも言葉に詰まってしまった。
「たった一人で絶望と戦い続けた私の子供の苦しみに比べれば......ここにあるバベルの塔ごと、あなたたちを大地の底に沈めてもまだ足りないくらいよ」
デメテルは一歩、また一歩とヘラに近づいていく。
「ま、待てデメテル!話せばわかる!妾も、決してその......悪気があってやったわけでは......!それに、妾のファミリアの名を語ったのだから多少の罰は仕方なかろう」
「悪気がないなら、余計にタチが悪いわね。今回みたいなケースであれば、ギルドからの厳重注意か、最悪でも多少の罰金で許されるはずよ。あなたが罰というのなら──それは過剰すぎるわ」
デメテルの全身から、神威とも呼ばれる圧倒的な力が立ち上り、部屋の空気が重力に押し潰されるように軋み始める。
「さあ、ヘラ。覚悟はいいかしら?」
「──待て、デメテル。ここは下界だ。その力を収めよ。強制送還させられたくなければな」
いつの間にか、デメテルとヘラの間に立ちはだかるゼウスによって、デメテルは不満気ながらに力を収めた。下界から追い出されるのは彼女としても本意ではないからだ。
「......そうね、ゼウス。ヘラ、本題に入りましょうか」
背中に冷や汗を流しているゼウスと、あわや自らも神威を解放しようとしていたヘラは胸を撫で下ろす。
「私たちデメテル・ファミリアは、ヘラ・ファミリアに対して──戦争遊戯を申し込むわ」
「......正気になれ、デメテル。妾とて、本当に悪気があったわけではない。それに、約束を果たしたのだから、ある程度の報酬も考えておる」
その申し出は、ヘラからすれば予想外のものでしかなかった。デメテル・ファミリアが抱えている最大戦力は、Lv3のライとリヴェリアの2人だけ。
ヘラ・ファミリアの足元にも及ばない。
実際にはLv5にランクアップしてはいるが、公表していないためヘラは知らない。
仮に知っていたとしても、足元にも及ばない事実は変わらないため、誤差でしかない。
「そうね、私の子どもたちは、あなたに勝てるほどの力はないわ──でも、ゼウス・ファミリアならどうかしら?」
デメテルがゼウスに視線を流し、ヘラはゼウスを睨みつける。そして、ゼウスが口を開いた。
「......仕方なかろう。ペルセポネの誘拐を、ハデスに勝手に許可した時の事を持ち出されたのだから。」
「もし、お主がこの戦争遊戯を受ければ──儂はデメテル・ファミリアと同盟を結び、同盟ファミリアとして戦争遊戯に儂のファミリアが改宗等の方法で介入することになる。だから──断るんだ、ヘラ」
神同士の口論が繰り広げられている部屋の中で、メーテリアは、一人ぽつんと取り残されたような顔で、首を傾げていた。
「......もしかして、私のお薬を作ってくれたのは、デメテル様の眷属......だったのかしら?」
何があったかまでは分からなくとも、今の状況からいいことではないことだけは、メーテリアも感じ取っていた。
唯一近くでその誰にも届かぬ問いかけが聞こえてしまったアルフィアは、ゆっくりと顔を伏せた。
時を同じくして、イシュタル・ファミリアは未曾有の襲撃を受けていた。
オラリオでも有数の規模と財力を誇る彼女たちの本拠地は、ほんの数日前、ようやく大掛かりな修繕工事を終えたばかりだった。
今からちょうど1年前のことだ。
彼女たちは突如として、理不尽極まりない厄災に見舞われた。
オラリオの頂点に君臨する絶対者、ヘラ・ファミリアの幹部たちによる急襲。
理由は一切告げられず、ただ『二度とあの妖精狐の少年に近づくな』という一方的で冷酷な警告と共に、アマゾネスたちは一方的に蹂躙され、娼館を始めとする施設の数々が徹底的に破壊し尽くされたのだ。
それはイシュタルにとって屈辱であり、同時に莫大な経済的損失をもたらす致命的な打撃だった。
一時はファミリアの存続すら危ぶまれるほどの借金を抱えることもあったが、なんとか資金をかき集め、ようやくかつての活気と豪華な建物を再建させたのだ。
今日という日は、その苦難の1年を乗り越え、彼女たちが再びオラリオの夜の支配者として返り咲くための、記念すべき再出発の日になるはずだった。
──ズガァァァァァァァンッ!
だが、そのささやかな希望は、いとも容易く粉砕された。
再建されたばかりの豪華な娼館の正面ゲートが、爆発でも起きたかのように内側へと吹き飛んだのだ。
舞い散る瓦礫と粉塵の中、イシュタル・ファミリアの戦闘員たちが悲鳴を上げながら武器を手に取り、次々と外へと飛び出していく。
『全員で迎え撃て!これ以上建物を壊させるなっ!』
指揮を執るアマゾネスが、血走った目で絶叫した。
1年前のヘラ・ファミリアによる襲撃のトラウマが、彼女たちの脳裏にフラッシュバックする。
またしてもすべてを失うのかという恐怖が、彼女たちの顔を歪ませていた。
しかし、吹き飛んだゲートの土煙の向こうから悠然と姿を現したのは、最凶の女神の眷属たちではなかった。
そこに立っていたのは、たった二つの影。
大鎌を肩に担いだ銀髪の少年と、翡翠の髪を夜風に揺らすハイエルフの魔導士。
かつて彼女たちが『弱小ファミリアの農民』『逃げ回る女々しい男』と見下し、イシュタルの命令で誘拐を何度も試みた相手だ。
「──ハッ、喧嘩を売る相手を間違ったことを後悔するといい。8年もの長期間、僕を襲ってきた罪を償え」
ライ・フェンネルの瞳には、かつて路地裏で多勢に無勢で追い詰められていた時の焦燥も、逃げ惑う弱者の色もない。
そこにあるのは、圧倒的な強者の余裕と、長年降り積もってきた怒りだけだった。
「ヘラ・ファミリアが背後についてると嘘をついたのは僕だけど──そうなる要因を作ったのは君たちだ。僕が罰を受けたように、君たちにも罰を受けさせよう」
【
ライの唇から詠唱が紡がれると、彼の身体周辺に美しい雪の結晶が舞い散り始めた。
周囲の気温が急激に低下し、床がピキピキと音を立てて凍てついていく。
彼が手にしている大鎌には、触れるものすべてを絶対零度に封じ込める氷の力が宿っている。
ダンジョンで何度も死闘を繰り返したライにとって、もはやイシュタル・ファミリアに後れを取る要素は一つもなかった。
ヘラとの『1年』という契約期間は終わりを告げた。もう、ヘラの要求に時間を費やす必要はないのだ。
「──ライ、力加減を間違えるな。私たちの目的は、殺傷ではないのだから」
背後から、リヴェリアの凛とした声が響く。
彼女の瞳もまた、ライと同じように静かな怒りを湛えていた。
ライが8年前から襲われていることを1年前に知った時の、頼られなかったことの悲しさ。
誰よりも側で見て、誰よりも寄り添ってきた彼女だからこそ、その怒りは推し測れない。
「分かってるよ、リヴェリア」
ライは氷気を纏った大鎌を横に構え、薄く笑った。
殺しはしない。彼らを殺害してしまえば、ギルドからの重罰は免れず、真っ当な冒険者としての道が閉ざされてしまう。
彼らの目的は復讐であり、それは命を奪うことではなく、徹底的な『経済的損失』を与えること。
彼女たちが1年の歳月をかけ、ようやく再建したこの豪奢な拠点を、再び瓦礫の山と化すことだ。
根こそぎ粉砕し、2度とデメテル・ファミリアに手を出そうなどというふざけた考えを起こさせない。
ライが地を蹴った瞬間、その姿がブレて消失したかのように見えた。
次の瞬間、再建されたばかりの娼館を支える巨大な大理石の柱が、氷の斬撃によって斜めに両断されていた。
斬り口から瞬時に氷結が広がり、脆く砕け散るガラスのように変質させていく。
「なっ......!?止めろォォォォッ!」
アマゾネスたちが悲鳴を上げながら殺到するが、ライは踊るように大鎌を振るい、彼女たちの武器を次々と叩き割り、手足の関節を的確に打撲させて無力化していく。
命を奪う致命傷は一つもない。
だが、確実に戦闘不能に追い込みながら、その余波で周囲の高級な装飾や壁、柱を容赦なく破壊していく。
そんな中、リヴェリアも短文詠唱を始める。
【母なる大地よ、命の鼓動よ。芽吹きの槍となりて敵を穿て──我が名はアールヴ】
【ソーン・ピアス】
リヴェリアの杖が地面を突くと同時に、石畳を突き破って無数の太い茨が出現した。
茨は殺到する敵の四肢に絡みついて動きを封じるだけでなく、建物の外壁や窓枠に巻きつき、ミシミシと音を立てて建物を壊していく。
「ああっ......私たちの、私たちのお城が......!」
「......もう借金は嫌だ......っ!」
崩れ落ちていくシャンデリアや、氷漬けにされて砕け散る高級酒の瓶を見つめながら、戦闘員たちは絶望の涙を流して崩れ落ちた。
1年前のヘラの理不尽な襲撃は、災害のようなものだった。
だが、今日のこの破壊は違う。
彼女たち自身が8年間にわたって蒔き続けてきた悪意の種が、最悪の形で芽吹き、自分たちに返ってきたという明確な報いだった。
デメテル・ファミリアの2人による、容赦のない拠点解体作業が確実に進行していく。
イシュタル・ファミリアには、再び莫大な修繕費という名の絶望の雨が降り注いでいた。
「さて、帰ろうか。イシュタル・ファミリアがどれだけ喚こうと、先に仕掛けてきたのは向こうだ。ギルドが僕たちに修繕費支払いを命じることはないはずだよ」
「もし、ギルドが向こう側にたったらどうする?」
「そうなったら、ギルドからの罰金返済のために他国に野菜を売るかな。そして、オラリオの住民を先導してギルドに圧をかける」
「食糧不足の再来に住民たちはギルドを批判し、冒険者との溝が深まることになる。果たしてギルドがそれを容認できるか。まあ.....デメテル様は渋い顔をするだろうから、そこは抑えてもらう」
バベルの塔最上階、オラリオの全景を見下ろす妾の住まい。
「デメテル。可能な限り、そちら側の希望を受け入れると約束する。戦争遊戯をする必要はない」
妾は努めて冷静な声を出し、対面に座る妹へと言葉を投げかけた。
オラリオの二大派閥であるヘラ・ファミリアとゼウス・ファミリア。仮にデメテルがゼウスを味方につけ、妾のファミリアと戦争遊戯を行ったとしよう。
互いに得られるものは何もないのだ。
ゼウスと妾のファミリアが不毛な身内争いで激しく疲弊するだけで、デメテルのファミリアにも何一つ実質的な利益はない。
周囲の神々が面白がり、下界のバランスが大きく崩れるだけだ。
なにより、あの子たちを救ってくれた恩がある少年を、これ以上痛めつけたいなどとは微塵も思っていない。
「なら、オラリオから出ていって」
こやつ......
氷のように冷たく、一切の感情を排したデメテルの言葉に、妾は思わず眉間を揉み解した。
「それも無理だ。三大クエストの達成にはオラリオにいる必要がある上に、妾はゼウスがいるここから離れるつもりは毛頭ない」
黒竜をはじめとする、古代から続く世界の脅威。それを討伐するという悲願を放り出すわけにはいかない。
そして何より、妾はゼウスの傍を離れる気など一切なかった。
どれだけ浮気性で呆れる男であろうと、長き神代から共に歩んできた伴侶なのだ。
「であれば、交渉の余地はないわ。戦争遊戯当日に会いましょう」
デメテルは冷たく言い放ち、席を立とうとする。
その瞳には、一握りの妥協も、慈悲も存在しない。
ただ純粋に、自らの大切な眷属を死の淵へと追いやり、永遠の拷問を仄めかして使い潰そうとした妾に対する、怒りだけが煮えたぎっている。
「待て、デメテル。そもそも、これはお主のところの妖精狐が望んでいることなのか?」
妾はたまらず、強い口調で彼女を引き止めた。
怒りを先行させるデメテルを、妾は本当に初めて見る。
長き天界の歴史の中で、かのハデスがデメテルの愛娘であるペルセポネを攫い、冥界へと連れ去ったあの事件のときでさえ。
この妹は、激しい怒りよりも、深い悲しみと絶望に暮れ、大地を枯らしてしまうような、心優しき女神だったというのに。
それが今はどうだ。
まるで愛する我が子を傷つけられた母熊のように、周囲のすべてを引き裂かんばかりの雰囲気だ。
このままデメテルのペースに飲まれてしまえば、本当に誰も得をしない結末にしかならぬ。
くぅー、この話の通じなさに、妾の妹であることを嫌というほど実感させられたくなかったぞ。
「......ライが、望んでいるか、ですって?」
デメテルは動きを止め、振り返って妾を睨みつけた。
「あの子は優しいわ。だからこそ、自分の命を懸けてまでファミリアを守ろうとした。そのあの子が、あなたのファミリアを相手に戦争遊戯を望むとでも?」
「であれば、なぜお主は頑なに拳を振り上げる。当の本人が望んでいない争いを起こすことこそ、あの少年の気持ちを踏みにじる行為ではないのか」
妾の指摘に、デメテルの瞳が僅かに揺らいだ。
図星だったのだろう。今の怒りは、ただ純粋に『大切な子どもを酷い目に遭わせた者への親としての怒り』に過ぎない。
「......いいでしょう。なら、あの子を呼びましょう。直接聞いてみるわ」
ライ・フェンネルが妾の眷属に連れられやってきた。
顔には深い疲労が刻まれていたが、それでもどこか憑き物が落ちたような、清々しい表情をしている。
『デメテル様、どうかしましたか?こんな所に呼び出すなんて....』
こちらを見た少年は、嫌そうな顔をして顔を引きつらせた。
無理もない。やつにとって妾は、理不尽な要求で命を削らせた最悪の暴君でしかないのだから。
「ライ。ヘラがね、あなたの希望を可能な限り受け入れるって言っているの。でも、オラリオからは出ていかないって。どうする?やっぱり、戦争遊戯よね?」
デメテルが甘く、しかし物騒なトーンで問いかけると、少年は深く、心底呆れたようなため息を吐いた。
「......デメテル様、戦争遊戯なんてやめてください。僕たちに勝ち目はありません」
「それなら大丈夫、戦うのはゼウス・フェミリアにやってもらうから」
「どちらにせよ、僕はそこまでヘラ・ファミリアを恨んでいないので、やめましょうよ」
少年の口から出た言葉に、妾は思わず目を丸くした。
恨んでいない、だと?
あれだけの仕打ちをしたのだぞ。
壁に叩きつけ、骨を折り、1年という無謀な期限を設け、失敗すれば魂を永遠に砕き続けると脅したのだ。
おまけに毎日最高級の野菜を運ばせ、週に一度は絶品の菓子を作らせるという、冒険者に対する扱いとは思えない事柄まで押し付けたというのに。
『そもそも、発端は僕がイシュタル・ファミリアから逃れるために、勝手にヘラ・ファミリアの名前を後ろ盾として騙ったことです。殺されても文句は言えなかった。それを、無茶な条件とはいえ見逃してくれたんですから』
少年は淡々と語る。
「それに......結果として、死に物狂いでダンジョンに潜り続けたおかげで、実力も想像以上に上がりました」
「実力が上がったと言っても、たかが知れているだろう。無理をすれば成長はするが、それでも......」
思わず妾が横槍を入れると、少年は少しだけ悪戯っぽく笑い、信じられない言葉を口にした。
『たかが知れている、ですか?......まあ、たった1年でLv3からLv5になったのは、自分では少し異常だとは思いますけどね』
「は......?」
妾の口から、間抜けな声が漏れた。
隣で聞いていたゼウスも、目をひん剥いて固まっている。
1年で、Lv3からLv5だと?
第一級冒険者への壁は、並大抵の才能と努力で越えられるものではない。
オラリオの長い歴史を見渡しても、そんな異常な速度で高みへと登り詰めた子どもは、誰一人として記憶にない。当然だ、いるはずがないのだから。
この少年は、毎日の農作業と、未知の万能薬の調合という膨大な作業をこなしながら、空いた時間だけで迷宮の死線を潜り抜け、第一級の領域へと足を踏み入れたというのか。
「......とまあ、そういうわけなので。メーテリアさんとアルフィアさんの病気も治って、僕とリヴェリアも強くなれた。結果オーライじゃないですか」
「ライ......あなたは本当に、それでいいの?」
デメテルが不満げに口を尖らせる。
彼女からすれば、愛する眷属を死の淵まで追い詰めた妾が、何のお咎めもなしに許されることなど、到底受け入れられないのだろう。
「.....あー、なるほど」
少しだけ視線を逸らし、首の後ろを掻いた。全てを察したのか、何かを考えている。
「......互いにこの件を完全に終わらせるための条件として、一つだけ要求します」
少年の瞳が、妾を真っ直ぐに射抜いた。
その目には、僅かばかりの恨みがましい光が宿っていた。
無理もない。結果オーライで済ませるには、彼がこの1年で味わった苦痛とプレッシャーはあまりにも過酷すぎたのだ。
「......言ってみろ。オラリオからの退去とファミリアの解散以外であれば、大抵のことは飲んでやろう」
莫大な賠償金か。
ゼウスと妾の権力を使って、彼らの農地のさらなる拡大や商売の保護を約束させられるのも安いものだ。
アルフィアとメーテリアの命を、文字通り救ってくれた恩人なのだから。
しかし、少年から飛び出した要求は、妾の想像を遥かに超える、斜め上のものだった。
「──向こう1年間、毎朝。ヘラ様とアルフィアさんの2人で、デメテル・ファミリアの農場に来て、農作業を手伝ってください」
「............は?」
妾の思考が、完全に停止した。
ゼウスが吹き出しそうになり、必死に口を両手で押さえて震え始めた。
デメテルは目を丸くした後、ふふっ、と堪えきれないように笑みをこぼす。
「ま、待て。今、なんと言った?このオラリオの頂点に立つ神である妾と、最強の魔導士であるアルフィアに......毎朝、畑を耕せと言ったのか!?」
「はい。毎日毎日、僕が手塩にかけて育てた極上の野菜を、当たり前のようにただで要求してきたんですから。食べ物を育てる苦労というものを、その身をもって学んでいただきます──まあ、僕は数分で野菜を作れますけど」
少年の声は、どこまでも真剣だった。
冗談でも何でもなく、本気で妾たちにクワを持たせ、土を掘り返させる気なのだ。
デメテルは満足げに深く頷き、先ほどまでの氷のような殺気をすっかりと霧散させていた。
「いいわね、それ。すごくいいわ」
「ふざけるな!妾に土いじりをしろだと!?そんな真似、神の威厳が......!」
「話がこれだけなら、僕は帰りますね。デメテル様も、神交を深めるのはいいですけど、遅くならないよう気をつけてくださいね」
残されたのは、腹を抱えて笑い転げるゼウスと、完全にいつもの明るい笑顔を取り戻したデメテル。
そして、要求を突きつけられて呆然とする妾だけであった。
「......決まりね、ヘラ。明日から1年間、毎朝日の出と共にうちの農場に来ること。遅刻は許さないわよ?ああ、アルフィアちゃんにも伝えておいてね」
デメテルは上機嫌に言い放つと、スカートの裾を翻して優雅に部屋を出て行った。
「......おい、ゼウス。妾は、どうすればいい」
「くくっ、がははははっ!いやあ、見事な采配じゃのう!デメテルの溜飲を下げおった!あの少年、ただの天才じゃないぞ!ひぃー、腹が痛い!」
笑い転げる伴侶を睨みつけ、妾は深く、深くため息を吐いた。
屈辱だ。間違いなく、神代から続く妾の歴史の中でも、トップクラスの屈辱である。
高貴な女神が、下界の泥に塗れ、肥やしの匂いの中で汗を流すなど、あってはならないことだ。
だが。
それでも、戦争遊戯でオラリオを無意味な戦火に巻き込むよりは、遥かにマシな落とし所であった。
それに......あそこまで過酷な要求を突きつけておいて、たった1年で自らの力で運命を切り開き、あの子たちの不治の病を完璧に治してのけたのだ。
その偉業に対する対価と考えれば、よかろう。
「......アルフィアに、なんと言って聞かせればよいのだ」
明日から1年間、毎朝泥まみれになって畑を耕せと伝える己の姿を想像し、妾は再び頭を抱えた。
しかし、メーテリアの命を救われたアルフィアであれば、文句を言いながらも決して断りはしないだろう。
むしろ、あの少年に顔向けできない負い目がある分、黙々と土を掘り続ける姿が目に浮かぶ。
「......ふん。まあ、良い。下界の土の匂いというのも、たまには悪くないかもしれん」
強がりを口にしながら、妾は窓の外に広がるオラリオの空を見つめた。