鷹咲紫亜——いえ、魔族、アリスは、艶やかに微笑い、その口の中から影が吹き出た。吹き出た影は、アリスを中心に広がるとまるで蕾のようなって、アリスを包み込み、瞬時に、花開いた。そこに立っていたのは、鷹咲紫亜ではなかった。
闇夜のような黒髪。死体のような青ざめた肌。大きく出た華奢な肩より下、柔らかな曲線が出始めたばかりの幼い少女のような身体を包むのは、豪奢なドレスのようにしつらえられた質量のある黒。
そして、整いすぎた顔立ちに、黒塗りの瞳がぽっかりと空いて、唇もまた黒塗りの下弦の月を描いている。
これこそがアリスの真の姿なのだと私は、すぐに察した。
「やっぱり、出迎えるんだからちゃんとおめかししないとね」
自分の姿にどこかおかしいところがないかとアリスは、ドレスがおかしくなっていないか視線を配り、
くるりと回ったりと確認をしている。
リッパーオウルに感じたものとは、比べ物にならない死の気配が肌が泡立たせ、今、ここに生きて立っていられることが奇跡という実感でなんとか立っている私とは、正反対だ。
多分、鷹咲紫亜は、この狂った様相の怪物に乗っ取られていたか、依り代にされていた。
どういう条件で選んでいるかは知らないけど、多分、そう。
「ね、常夜原さん。私、おかしくないよね?」
心臓がばくんと跳ねた。何を言われたか一瞬、理解し損ねたがこの魔族、私を鏡代わりにしている。どうすべきか一瞬、悩んで。
「……大丈夫、だと思う」
「そう? 良かった」
私は、アリスを見てから無難な言葉を作った。するとアリスは、ホッとしたように微笑んだ。緊張感に欠けるわね。
「じゃあ、もういいね」
直後、アリスの足元から剥き出しの殺意が私と夕日の間を埋めるように漆黒の帯びのような鋭く重い影が修復されたばかりのテラスを砕きながら押し寄せた。
逃げる、逃げられないという次元じゃない。気づけばほんの数ミリ先に、死があった。反射的に、目を伏せる間もなく殺される。
「無事か! 常夜原さん!!」
こうして、聖瑛が私の前に、無理矢理身体をねじ込まなければ死んでいた。
だけど、そんなことをしたら。
「あ、あんた、何やって……!!」
赤い飛沫が聖瑛から目を離せない私の頬を打った。剣が折れて、そのまま砕け散る。残った盾の残骸が聖瑛の腕にぶら下がっている。びちゃびちゃと生々しく重々しく聖瑛の身体から命が零れ落ちていく。
「良かった、無事、で」
安心したような表情を浮かべた聖瑛は、どう見ても致命傷だった。
「なん、で……」
「君は、俺の主……いやまだ仮採用だった。うん、俺の未来の主だ。守らないと」
血反吐を吐きながらそんなことを当然と言う顔で聖瑛に、私は、何も言えない。目を見開いて、呆然と聖瑛を見つめるしかできない。
「やっと会えた。私の、騎士」
「えっと、君は、誰だ……?」
「もう!」
ぷんすかと可愛らしく頬を膨らませたアリスは、聖瑛の方に身体を傾けながら腰に片手を当て、残った手を平たい胸に広げた。
「私、私よ。アリスよ。忘れちゃったの? 私の騎士」
「……アリス? 君が? いや、だとしてもアリスは……死んだ、はずだ。あの日、暴走した君は、研究所ごと同化した魔族ごと、向こう側に消えた……」
「消滅? 死んだ? ああ、あなたにはそう見えたのね。ごめんなさい。そうじゃないの。あの日、私は、魔族と同化して、向こう側にあなたを一人にして」
「……そうだな。悲しかった。君に教えてもらった、君を守る騎士になれなかった。だから代わりに俺は、いつかまた君に会った時に胸を張れるよう騎士を志した」
話の内容は、私には、よく分からない。けれど聖瑛が騎士を志した理由は、理解した。彼女が彼の騎士という在り方の始まりだ。
そして今、その始まりが彼の前に最悪の形で蘇ったのは、一目瞭然だった。
「ええ。ええ。分かっているわ。あなたが頑張っていたのは、こうしてまた出会えた。今度こそ、私を守ってくれる騎士になって」
「……ダメだ」
感極まって目を潤ませながら手を差し出したアリスに、聖瑛は、断固とした否定を込めて、首を横に振った。
「……どうして?」
「君はもう、あの時の君じゃないだろう。君はもう俺が守りたいと思った君じゃない。あの頃の君は、人を殺すことなんて考えもしなかった。今の俺を見て、そんなことを平然と言える人ではなかった」
文字通り血を吐きながら聖瑛は、言葉を作る。足元に広がる血溜りは、既に致死量に到達しているのは明らかだった。
なのに、立っている。聖瑛は、それでも言葉を発し、身体にふらつきさえあれど両足を地につけている。
「悲しいことを言うのね……」
「事実だ」
「酷いことを言うのね……」
「事実だ」
可愛らしく小首を傾げて、アリスは、聖瑛に訊く。
「むぅ……。駄目なの?」
「駄目だ」
沈黙。ピリピリと張り詰める沈黙が急に、その場に満ちた。ぴちゃぴちゃと血の滴りだけがその場に響いていた。
「……そう、分かったわ」
溜息混じりにそう言ったアリスは、聖瑛越しに私を見た。冷めきった視線と視線がぶつかった——同時に、聖瑛を乗り越えた影が私に襲いかかってきた。回避できない。常人の反応速度を超えている。
「やめ、ろ!!」
またしても聖瑛が割り込んだ。私を抱えて、致命傷を広げながら聖瑛は、跳ねた。私の居た場所に、影が幾重にも突き刺さる。
「それがいるからよね、それがいるから貴方は、そんななのよね。解放してあげる!」
答えを見つけたとばかりに破顔したアリスは、私をただ斬り刻むため、床に影を這わし、空に影を放つ。
「常夜原さん。聞いて欲しいことがあるんだ」
聖瑛は、私を抱えたまま跳ね回って、影を躱す。テラスの席や机を盾のように扱い、影の魔の手を防御する。それでもアリスの影は、執拗に追尾し、防御も紙切れ同然と食い破り執拗に追いかけてくる。
腹の傷口は開きっぱなし。押さえてどうにかなる次元を超えている。今もなお血が溢れ続けている。どうして生きているのか分からない。このテラスの逃げ場も限界がある。そんなどう見てもピンチな時に、聖瑛は、そんなことを言い出した。
「い、今?!」
「ああ、今じゃないと話せない。次は、もしかしたらないかもしれない。だから俺の魔法のことを聞いて欲しい。いいか?」
「え、ええ……。わ、分かった。話して」
「俺の魔法の代価は、俺自身だ。正確に言えば俺の肉体、精神、魂の3要素が代価となっている」
私が聞いたこともない、想定してもいなかった魔法の詳細が聖瑛によって、紡がれた。
「それらにそれぞれ6つのリミッターが掛かっているんだ。これのうち、肉体に掛けられているリミッターを1つ、戦闘機動の際、解除している。解除することで魔法は起動し、魔力が解放され、解除された場所の性能を向上させる」
「待って。今まであなた、常に、ローギアで動いてたって事?」
躊躇いない首肯。愕然とした。受け入れがたい事実だった。最低限レベルの出力で、あの性能? クラスBの魔族を圧倒したというの? ありえなさすぎる。でもこのタイミングで大嘘なんて吐く意味がない。
「俺は、これから肉体に掛けられているリミッターを全て外す。すると多分、他のリミッターも自然と外れてしまうことになる。頑張ってはみるけどそうなったら俺はもう、俺でいられないと思う」
着地。聖瑛は、彼の血でずぶ濡れの私を腕から下ろすとアリスに向き直し、私の背後を指差した。そこには、昇降口。聖瑛は、ただ逃げ回っていたわけではなかった。
「アリスは、俺が抑え込む。アリスも俺で手一杯になると思う。だからその隙に、そこから逃げてくれ」
一緒に戦う、なんて言えるわけがなかった。ただただ邪魔になるだけなのは一目瞭然。
「——
キーワードによる宣言、それ自体は魔法使いのありふれた魔法の起動方法。ただその直後起きた事象は、異常。
黒の火花を放つ罅割れが聖瑛の背中の中心、背骨へ沿うように生じていた——魔蝕だ。間違いない。見間違えるわけがない。魔蝕は、凄まじい勢いで拡大し、聖瑛の背中を覆い尽くしていく。
「常夜原さん。俺のわがままに今まで付き合ってくれてありがとう」
背中越しに見えた聖瑛の横顔は、申し訳なさそうに笑っていた。その顔も魔蝕に呑まれた。
聖瑛の立っていた場所にいたのは、魔族。見たことがない誰も見たことのない魔族。J-M.A.S.には、やはりNoDateと表示された。
一言で、言い現わすなら騎士。
この世のものではない鈍い黒の光沢を放つ流線型をした装甲で形作られた全身甲冑には、生物の鼓動を感じさせる。同じ色をした縦長い雫のような盾と片手で持つにはあまりにも分厚く長大な大剣。
「君を俺の都合に巻き込んですまないと、心の底から思っている」
歪な声を作る聖瑛の整った横顔を覆い隠す鉄兜のスリットには、鬼火のように揺らめく瞳が赤く光っていた。
私から視線を逸らした直後、聖瑛の身体が前に跳ねた。今度こそテラスの床が耐えられなかった。床を損壊させながら聖瑛は、アリスへと一瞬で接近。遅れて影が反応。振り下ろされた大剣を迎え撃った。
「素敵! 素敵よ!! やっぱり貴方は、私の騎士!!」
「————」
喜声を上げ、白い肌を紅潮させたアリスと無言の殺意を発する聖瑛がぶつかる。鉄塊のような剣と材質もわからない影がかち合った結果は、校舎を破砕しかねない衝撃となり空間を伝播する。事実。背後の昇降口のガラスや階下で教室の窓などが砕ける音を私は聞いた。
「っ……何よ、これ!!」
あまりの余波に立っていられない。屈み込んで、なんとか身体を安定させる。
衝撃波とテラスが砕けていくのだけが私には、見えた。もうそれ以外何も分からない。空中で激しく何度もぶつかり合い、強烈な激突を響かせながら1か月前に修復されたばかりのテラスの床をぶち抜き、下の階とを繋げ、そこに2人は、落ちていった。
落ちていく最中も戦ってるんだろう。激しい戦闘音が聞こえてくる。校舎が軋み、崩落していく。これは今週どころかしばらく授業は無理ね。下らないことが脳裏をよぎる。
こんなものに巻き込まれたら現実逃避の一つでもしたくなる。
化け物同士の戦い。言われた通り、逃げた方がいい。居ることがあの男のデバフにもなりかねない。巻き込んでとかそういうことをきっと考える。
「って、逃げろと言われたけどこんなの逃げても無駄じゃない……!!」
校舎が2人の戦いで大きく揺れた。テラスを一瞬で粉砕した2人は、そのまま1階まで落下したよう
だ。地面に激突した余波が校舎を大きくぐらつかせる。倒壊するまでの時間は長くない。屋上を出た私は、階段を下る度、見るも無惨になった校内を見ることとなった。教室は、原型を止めていない。こうして階段で1階まで下れたのが奇跡だ。
道中、教師や生徒の姿は見えなかった。死体も怪我人両方だ。どうやら最初のサイレンで皆避難したみたいだ。いつものことだけど教育が行き届いている。他人の心配は不要らしい。
「……居た」
校舎1階を更にぶち抜いて、床の下にクレーターを作った聖瑛とアリスが向かい合い、睨み合っている。
瓦礫に身を隠して、私は、その様子を伺うこととした。
アリスは、無傷。影は、切り裂かれた傍から闇の中から生成される。武器は尽きない。アリスは、サディスティックな笑みを浮かべて、刃のような触手めいた影を周囲に侍らせている。
対する聖瑛は、甲冑にいくつも傷が刻まれている。盾は、縦横斜めに削り取られたような痕。剣にも刃こぼれが。肩を揺らしている。消耗しているらしい。
あの2人、対等ではないみたいだ。手助けをするべきだろうか。けれど、逆に邪魔になる気もしている。
「……
迷う私の前で、ノイズ塗れの声を上げた聖瑛は、新たなキーワードを宣言をした。
マインド、と聞こえた。聖瑛の説明を思い出すに、あれは、精神に触れるリミッターの解除だと思う。肉体は、兎も角、精神のリミッターを解き放つとどうなるの……?
そんな私の疑問は、一瞬で払拭された。あまりにも恐ろしい答えを提示することで。
「
絶叫する聖瑛の重圧が増した。身体中の傷口に、魔蝕が発生。見る見る内に傷口が修復していく。それどころか彼の身体から更に魔蝕が溢れ出る。空間を蝕み、染めていく。瓦礫も土塊も魔蝕が呑み込んでいく。
彼の出力する魔蝕に、世界が犯されていた。
自分を襲う何かに身悶えしながらも聖瑛は、雄叫びを上げ、黒い火花と空間を割る亀裂を引きずりながら助走無く一瞬でトップスピードに至った。
それが分かったのは、私の視界から消失したから。
次の瞬間には、アリスの前に居たから。
「あはっ♡」
まるで指揮者のようにアリスが腕を振ると影もまた奔しる。まるで来ることが分かっていたかのように、大気を割る剣先と空でかち合い——剣戟、迎撃。
ただし先ほど屋上で見たのとは違う。聖瑛が身に纏う魔蝕が影おも蝕む。剣を始点にして、影に移り虫食いにして、最後には食らい尽くした。
「凄い! 凄いわ!! 私を守るんだから強くなくちゃ! 貴方、言ってたものね! 私を守れるくらい強くなるって! すごく嬉しい!!」
矢継ぎ早に影を繰り出し、魔蝕に食われながらも速度を上げてアリスは、応戦する。
「でももっと素直になった方がいいよ。あの頃みたいに、もっと無邪気になって。私の物語を聞いていた時みたいに、ね」
愛しげに囁くアリスの影の量が爆増した。津波、濁流。そういう言葉が脳裏に浮かぶ、聖瑛を飲み込んで——内側から切り刻まれた。パッと飛び散る影が空中で、魔蝕が影を掻き毟って、消し飛ばす。
いや、消し飛ばそうとしたが影が物量で上回る。剣による弾きもかざした盾も生まれる魔蝕も物ともしない影が聖瑛を叩き、斬り裂き、遂に踏ん張りを上回り、そこから弾き飛ばした。
聖瑛が空中で、2転、3転し、空中から落ちた後も勢いは消えない。地面を深く削りながら暫く滑走。校庭の隅の方まで転がって、ようやく止まったのが見えた。
聖瑛が何度も立ち上がろうとして、生まれたての小鹿のように足に力を入れられず倒れるのが遠巻きでも見えた。
駆け寄って助け起こそうと考えた。けれどアリスがいる。私は、あの女の前では紙切れ同然だ。恐れが私の足を縫い留める。
「もう……。お姫様より弱い騎士なんて話にならないよ?」
アリスは、残念そうに嘆息するとゆっくり聖瑛の方へ歩き出そうとして。
「やっぱ先に貴方ね」
アリスは、何の前触れもなく、私を見た。