それでは本編どうぞ
詩音がクリスと夜の街を歩いていた頃、静まり返った部屋の中で、テーブルの上に置かれたマグカップから立ち上る湯気が、小さく揺れて消えていた。
「詩音さんを……守れなかった」
小日向未来は、指先を小さく震わせながら、窓辺に佇む立花響の背中を見つめていた。二課での応急処置を終えたばかりだというのに、響は自分自身の痛みに顔を歪めることすらしていない。ただじっと、雨上がりの暗い夜空を見つめ、どこか遠い世界へ意識を飛ばしているようだった。
「響……お茶、淹れたよ。冷めないうちに飲んで?」
努めて柔らかい声を向けたはずだった。だが、振り向いた響の瞳を捉えた瞬間、未来の胸の奥で冷たい不吉な楔が深く突き刺さる。
「未来……ありがとう」
そこにいたのは、未来のよく知るお日様のような響ではなかった。
かつて真っ直ぐに未来を見つめ、温かく手を握り返してくれたはずの少女の瞳には、昏く、逃げ場のない熱量が揺らめいている。
「未来……私、もっと強くならなきゃいけない。このままじゃあ詩音さんを守れない」
響の呟きは掠れていて、けれど恐ろしいほどの強迫観念に満ちていた。握りしめた己の拳に力が入るたび、爪が皮膚に食い込んで朱い跡を作っていく。
「私がクリスちゃんの弾幕を押し返せていたら……詩音さんにあんなに血を流す必要なんてなかったんだ。アヴァロンの痛みに耐えて……詩音さんが骨を砕かれる音を聞くたび、私、頭がおかしくなりそうになるの」
響の頭の中は、いまや1人の男の存在で完全に埋め尽くされていた。二課の任務でも、世界を守る正義でもない。ただひたすらに「詩音の痛みを肩代わりすること」「あの人を傷つける全てを粉砕すること」という、救済の形をした狂信だった。
「私が詩音さんを守るの。詩音さんが死ねないなら、私が全部の攻撃を受け止めれば良い……。私が詩音さんの盾になるから……」
(違う……違うよ、響……)
未来は激しく波打つ吐き気を押し殺し、言葉にならない悲鳴を胸の底で飲み込んだ。
(前提から何から無茶苦茶だよ響……)
響が詩音に向ける眼差しは、純粋な善意などではない。自分の命も、未来も、生きている日常すら投げ打って「死ねない男の肉壁」になろうとする、依存に似た狂気だった。だが何より未来を苛んでいたのは、言い得ぬ強烈な焦燥感だった。
(響が……変わっちゃう。私の識らない響に……)
どれほど未来が隣に立ち、手を伸ばしても、響の視線は未来を通り越し、血を流し続ける詩音の背中だけを追っている。二人がこれまで重なり合ってきた大切な時間が、あの不気味で不快な男——天倉詩音という存在の影に塗りつぶされ、どんどん響が遠い場所へ連れ去られていく。
「ねえ、響……もうやめよう? そんな風に戦うなんて、絶対におかしいよ……」
絞り出すように口にした未来の悲痛な訴えは、雨上がりの夜風の音にかき消され、響の耳へ届くことはなかった。
◆◆◆
それから数日が経過して訪れた休日を知らせる澄み渡った秋晴れの空。駅前の時計台の下で、小日向未来は何度も私服のスカートの皺を伸ばしながら、待ち合わせの時間を待っていた。
「響……もう来てるかな……?」
胸の奥が高鳴っていた。ここ最近の響は、二課の訓練や「何か」に追われ、浮かない顔をすることが増えていた。だからこそ、今日という日は特別だった。二人で街に出て、美味しいクレープを食べて、くだらない雑貨を見て笑い合う。かつて当たり前だった日常を取り戻すための、大切な約束のはずだった。
「未来ー! ごめん、待たせちゃった!?」
遠くから自分を呼ぶ響の声に、未来の顔がパッと華やぐ。けれど、駆け寄ってくる響のすぐ後ろに続く人影を目にした瞬間、未来の笑みは凍りついて砕け散った。
「響……?」
響の隣には、黒いタートルネックの首元に痛々しい白い包帯を巻いた男——詩音が、気まずそうな顔で立っていた。さらにその両脇には、私服姿の風鳴翼と天羽奏まで同行していた。
「ごめんね、未来! 詩音さんもまだお体が本調子じゃないし、二課の保護観察中だから一人にできなくて……。翼さんと奏さんも、せっかくだから一緒に行こうって!」
「……騒がしくしてごめんなさい小日向さん。私と奏は護衛の体を装った付き添いのようなもの。気を使わないで欲しいわ」
「つ〜ば〜さ〜? お前も病み上がりだろ? せっかく旦那が気を利かせてくれたんだ! 楽しまなくてどうするんだよ!」
翼が生真面目に頭を下げ、奏が軽やかに肩をすくめて見せる。
「まあまあ、大勢の方が賑やかで楽しいだろ? 小日向ちゃん、響を連れ出してくれてありがとな」
奏の言葉に悪気がないことは分かっていた。だが、未来の視線は響の手元へと釘付けになっていた。
響の手は、未来の手を握ろうとするどころか、すぐ隣を歩く詩音の袖口を、まるで逃がさないと言わんばかりの力で固く掴んでいたのだ。
◆◆◆
休日のショッピングモールは、家族連れやカップルで溢れ返っていた。華やかなBGMと賑やかな人集りの中、五人の歩く空気だけが異様に浮いている。
「ねえ、詩音さん、寒くないですか? 首の傷、痛んだりしてない? どこか座る?」
歩き始めてからというもの、響の口から出るのは詩音のことばかりだった。
未来が隣に並んで歩いていても、響の視線は未来を通り越し、常に詩音の顔色や歩調を気に病んでいる。
「……問題ないよ。あまり騒ぎ立てないでね響ちゃん?」
「だめです! 詩音さんは自分の体に無頓着すぎるんだから! 私がちゃんと見ててあげなきゃ……あ、あの服、襟が高くて首元が隠れそう! 詩音さん着てみませんか!」
「ちょっ、引っ張らないで……ッ」
響は詩音の手を引っ張り、メンズショップの店頭へと強引に連れて行く。その背中を追う響の瞳には、かつて未来に向けられていたような柔らかい光はない。あるのは「自分がこの人を守らなければならない」という、病的なまでの強迫観念だけだった。
「詩音の服選びか……面白そうだな!」
詩音は響の過剰な世話焼きを気まずそうに払い除けようとするが、響が「だめです! また血が出たらどうするんですか!?」と悲壮感漂う声で叫ぶと、諦めたように息を吐いて従ってしまう。
死ねない呪いを抱える男と、「その男の肉壁になろうとする」少女。二人の間に漂う、奇妙で不気味な依存関係。
(違う……こんなの、全然楽しくないよ……)
未来は自分の服の裾をぎゅっと強く握りしめた。
響の隣にいるのは自分のはずなのに。響の笑顔の理由になりたかったのは自分のはずなのに。響の世界は今や、天倉詩音という不気味な男の影によって侵食されつくしていた。
◆◆◆
メンズショップでの買い物から時間は経過し、ゲームセンターでのプリクラ、クレーンゲーム、リズムゲーム等を満喫する響や奏。最初は困惑していた翼も気付けばその雰囲気に流され始めていた。肩の力を抜き笑みを浮かべ翼も楽しみ始めていた。そして今小休止として5人はカフェに立ち寄っている
「はい、小日向ちゃん。イチゴたくさんのパフェ。甘いもんでも食って持ち直しなって! せっかくだから楽しもうぜ!」
オープンテラスのカフェで、奏が未来の前に絢爛なパフェを置いた。奏は気さくな笑みを浮かべていたが、その瞳の奥には、現在の歪んだ状況に対する深い懸念が宿っていた。
「ありがとうございます、奏さん……」
「翼も、そんな難しい顔してないで食えって。今日は非番なんだからさ」
「……でも、私は……その……」
「はは〜ん? カロリーか? 気にすんなよ! ギア纏って動けば簡単に消化すんぞ!」
翼は苦笑いを浮かべつつも、向かいの席に座る響と詩音の様子を注視していた。
響は自分の注文したドリンクには一切手をつけず、詩音のために頼んだ温かいポタージュスープの器を大切そうに抱えている。
「はい、詩音さん。熱いから気をつけてね。ふーふーしてあげますから……」
「……響ちゃん。俺は子供じゃないから自分で飲めるよ……」
「だめです! お兄さん、手が痺れてるでしょ? さっきアヴァロンが動いた時の反動、私知ってるんですから!」
「響ちゃんも何か食べなよ……せっかくのカフェだよ?」
響はスプーンを詩音の口元へと運ぶ。詩音は困惑の視線を向けるが、響の瞳に宿る暗い熱量に押し切られるように、小さく溜息をついてスープを口に含んだ。
その光景を見つめていた未来の胸の奥で、カチリ、と冷たい亀裂が走る。
「……響」
「ん? なあに、未来?」
未来の声に振り向いた響の顔は、あまりにも無邪気で、そしてあまりにも遠かった。
「今日……私と2人で買い物する約束だったよね……? どうして、そんなに……あの人のことばかり……」
絞り出すような未来の問いかけに、カフェのテーブルが一瞬で静まり返る。翼と奏が息を飲み、詩音は無表情のまま視線を伏せた。
響はきとんとした顔で未来を見つめ、それから申し訳なさそうに、けれど迷いのない声で言った。
「ごめんね未来。でもね、私が詩音さんを見ててあげなきゃいけないの。……詩音さん、放っておくとすぐに自分の体を壊そうとするから。私が詩音さんの痛みを全部受け止めてあげなきゃ本当に壊れちゃうから……」
その言葉には、純粋な善意の形をした狂気が満ちていた。
未来が……そして詩音が求めていた「ただの女の子としての立花響」は、もうどこにもいなかった。
◆◆◆
カフェを出る頃には、空は赤黒い夕焼けに染まり始めていた。前を歩く奏と翼が、努めて明るい話題でその場の空気を繋ごうとしている。だが、その後ろを歩く3人の間には、もはや重苦しい沈黙しか流れていなかった。
「いや〜訓練や収録以外で歌ったのっていつ以来だ? 大分気楽に歌えたなぁ!」
「」
詩音は肩にかけた上着の襟を深めに合わせ、だんまりと歩いている。響はその半歩後ろを、一時も目を離さずに追っている。
未来は、さらにその二歩後ろを歩いていた。
伸せば届く距離。けれど、その距離は世界で一番遠く思えた。
(響……私を見てよ。私、ここにいるよ……)
未来は意を決して、そっと右手を伸ばした。響の私服の袖口を掴み、その温もりを引き寄せるために。かつてのように「一緒に帰ろう」と微笑みかけるために。
未来の指先が、響の服の布地に触れかけた——その瞬間。
「詩音さんッ!!」
響の叫び声が夕空に響いた。響は未来の手を激しく振り払う形となり、弾むように詩音へと飛びついた。
「大丈夫ですか!? 詩音さん、大丈夫!? どこが痛みませんか!?」
「……大げさだ、立花。ただ足が痺れただけだよ……大丈夫だから」
「放さない! 絶対に放しません……!」
響は地面に倒れかけた詩音の身体を、その細い両腕で力任せに抱きしめた。
自分の体重をすべて預けるように、詩音の胸に顔を埋め、しがみつく。それは救助などではない。逃げようとする存在を力で縛り付ける、狂信の鎖そのものだった。
「行かないでよ……響……」
未来の手は、空を斬った。伸ばした指先に残ったのは、冷たい夕風の感覚だけだった。
「響……」
夕闇が二人を包み込んでいく。響の背中は、詩音を抱きしめる腕は、もう未来の方を振り返ることはない。自分がどれほど響を想い、どれほど手を伸ばしても、響の心はあのアヴァロンの光を放つ不気味な男に奪われ、遠い破滅の場所へと連れ去られていく。
「あの人と会ってから……」
激しい吐き気と、胸をかき乱す不快な感情。
嫉妬、怒り、そして——言い得ぬ巨大な焦燥感。
(私から……響を奪わないで……)
赤く焦げ付く夕焼けの中、小日向未来の瞳から光が失われていく。響を取り戻すためなら、自分はどうなってしまっても構わない。未来の胸の底で芽生えた暗い決意の芽が、夕闇の影とともに、静かに、けれど確実に膨らみ始めていた。
デート回をひびみく和解前に持って来た事で未来が詩音に対して険悪な感情を抱いています……が、響との仲は険悪では無いので本作では問題ありません。
よろしければ執筆モチベーションに繋がるので感想・評価・お気に入り登録お待ちしています。