東の空が白み始める前の、静まり返った湾岸倉庫街。
冷たい濃霧が立ち込める薄暗がりの中、けたたましい空間の歪みとともに、数体のノイズがその禍々しい姿を現していた。
「あぁ……ガタガタうるせぇんだよ、クソどもがッ!!」
イチイバルの装甲を全身に纏った雪音クリスが、咆哮とともにガトリングの銃口を叩きつける。引き金を引き絞り、掃射される朱色の弾幕。ノイズの群れが次々と炭化し、炭素の結晶となって爆ぜ散っていく。
「死ねるかよ……このまま死んでたまるかよ!」
フィーネに切り捨てられ、帰る場所を失った。自分には戦う意味も、生きる意味すら残されていないはずだった。それでも、ノイズの気配を感じ取れば身体が勝手に動いてしまう。誰を守るためでもない。ただ胸の底に渦巻く理不尽な絶望と苛立ちを、目の前の破壊対象にぶつけるためだけに。
「ハぁ……っ、ハぁ……ッ!」
最後のノイズが粉砕された瞬間、イチイバルの装甲が乾いたスパークとともに弾け飛び、消失した。
薄着の少女に戻されたクリスは、その場に激しく膝をつく。
「最後にまともな食事をしたのは……アイツと会った時かよ……ははっ……笑えるぜ……」
数日間、まともな食事も睡眠も摂っていない。雨に濡れ、街を彷徨い続けた肉体は限界を超えていた。全身を襲う過酷な低血糖と酷使したフォニックゲインの反動。視界がぐにゃりと歪み、胃の裏側が引きちぎられるような強烈な空腹感がクリスを苛む。
(くそ……っ、こんなところで……あたしは……)
冷たいコンクリートの床に倒れ込む。薄れゆく意識の向こうで脳裏を掠めたのは、自分を捨てたフィーネの冷酷な瞳——そして、雨の中で痛々しい包帯を巻き、己の血に濡れた手で自分を引き留めた男、櫻羽詩音の温度のない眼差しだった。
『行き場がないなら、僕を使えば良いよ。……クリスちゃんが助けを求めたら絶対に一人で死なせはしないから』
(馬鹿じゃねぇの……あいつ……)
自虐的な笑みを吐き出す気力すら残っていなかった。クリスの意識は、そのまま深い闇へと没していった。
◆◆◆
あのデートから一瞬も眠れぬまま朝を迎えた。
「駄目だなぁ私……このままじゃあ……いられない……」
小日向未来は、私服の上に薄手のカーディガンを羽織り、静まり返った早朝の街を歩く。とても部屋で過ごせる心境では無かった。
「ごめんね響……先に出てるね……?」
頭の中を占めるのは、昨日のショッピングモールでの光景だ。自分の伸ばした手を振り払い、血を流す詩音にしがみついていた響の姿。
『私がお兄さんの痛みを全部受け止めてあげなきゃ……』
響の声が、言葉が、耳元で何度もリフレインする。
響はもう、未来の知っている「普通の女の子」ではない。天倉詩音という自虐的な男の存在によって、破滅的な狂信の渦へと引きずり込まれている。自分が何を言っても届かない。手を伸ばせば伸ばすほど、響は遠くへ行ってしまう。
「私……響の帰る場所になれそうですに無いよぉ……」
胸を締め付ける強烈な焦燥感と吐き気に押し潰されそうになりながら未来は部屋を出た。登校時間まではかなり時間を持て余すがそんな事すらも気にならない。
「……あれ?」
馴染みのお好み焼き屋【ふらわー】を抜けようとしたその時だった。自販機の陰、湿ったベンチの脇に、白い影が倒れているのが見えた。
「人……? こんな時間にベンチで倒れてる……?」
近づいて息をのむ。それは、擦り切れた服を着て、丸くなって震えている白髪の少女だった。
「ちょっと……! 大丈夫ですか!?」
未来は駆け寄り、少女の肩を抱き起した。手に触れた身体は氷のように冷たく、額には嫌な汗が滲んでいる。
「う……ん……っ」
少女——クリスが、重い瞼をうっすらと開けた。
濁った紫色の瞳が未来を映し出し、次いで、クリスの腹から*ぐぅぅ*と小さく情けない音が鳴り響いた。
「あ……はら……へった……」
それだけを呟くと、クリスは再び未来の腕の中で脱力し未来は呆然と彼女を見つめた。
「ちょっと……!」
この顔には見覚えがある。二課から共有された映像資料にあった、かつて響たちを襲撃した「イチイバルの奏者」。響を傷つけ、追いつめた敵の少女。
通報すべきだという理性が一瞬頭をよぎる。しかし、腕の中で小さく震える少女の重みは、あまりにも儚く、ただの「空腹で倒れた同世代の女の子」でしかなかった。
「ふらわー……あそこで助けを求めれば!」
未来は固く唇を噛み締め、倒れているクリスの身体を抱え上げた。その重さが想像よりも軽かった事で切迫感すらも感じた。
◆◆◆
お好み焼き屋【ふらわー】……響と何度も訪れた店。馴染みの店主に助けを求めクリスを保護する。
「…………匂い……?」
「目が覚めたの!?」
テーブルの上には、急ぎ用意した温かいコンソメスープと、香ばしい匂いが漂っている。
「っ! あたしの服!」
「あら未来ちゃん……お友達は目が覚めたのねぇ。服はもうすぐ乾燥が終わるから待っててねぇ」
「わかりました。ありがとうございますおばさん」
店主が離れると未来はスープを差し出した。
「まずは飲みなよ。お腹減ってるでしょ?」
恐る恐るスープを飲む。その熱さに身体が一瞬跳ねるもすぐに再開する。
「うま……っ! うめぇ……っ!」
ベッドに腰掛けたクリスは、行儀も構わずにスープを煽る。口のまわりをスープで汚しながら、まるで野良犬のように必死で食べ進める。
未来はパイプ椅子に座り、そんなクリスの様子を静かに見つめていた。
「……もっとゆっくり食べないと、喉詰まらせるよ。はい、お茶」
「っ、げほっ! ……さんきゅ」
お茶を飲み干し、ふうと息をついたクリスは、ようやく自分が置かれている状況に気づいたように体を強張らせた。未来の顔をジロジロと見返し、眉間に皺を寄せる。
「……あたしを助けて、どうするつもりだ? あたしはお前らの敵だぞ。連中に突き出すなら今のうちだからな」
「突き出さないよ。……こんなにお腹を空かせて倒れてる子を、放っておけるわけないじゃない。少なくとも私の親友はそう言うから」
未来の穏やかな、けれどどこか空虚な声に、クリスはバツの悪そうな顔をして視線を逸らした。
「ふん……おめでたい奴。あのガングニールのバカと同類かよ」
「響を知ってるの?」
「知ってるも何も、何度も殴り合ったっつの。……あたしを拾ったフィーネって奴に捨てられて、行くあてもねぇからノイズと戦ってたら、腹が減って倒れた……それだけだ」
クリスは自暴自棄に吐き捨てると、肩に掛けられた見覚えのある大きめの男物の上着——詩音から渡された上着をぎゅっと抱え直した。
「その上着……あの人から貰ったんですか?」
その上着から漂う、わずかな血と薬品の匂い。
未来の瞳が、ピクリと小さく揺れた。
「名前……聞いても良い? 私の名前は小日向未来……貴女の名前が……知りたい」
「雪音クリス……主に捨てられた行く宛の無い小娘だよ」
◆◆◆
自己紹介の後未来は見覚えのある上着について問わずにはいられ無かった。
「……その服、誰の?」
未来の声のトーンが、わずかに低くなった。
クリスが先に脱いだ上着の襟元に顔を埋めかけるようにして、気まずそうに呟いた。
「ああ? これか……? ……あの、黒タートルネックの自爆野郎のだよ」
「その人って……天倉……詩音?」
溢れた名前に未来は困惑が強くなる。
「そう……そいつだ。雨の中であたしが倒れかけてたら、急に現れやがって……。敵のくせに『僕は簡単には死なないから使え』だの『君を一人で死なせる理由はない』だの、意味不明なこと抜かしてこれ置いていきやがったんだ。……ホント、胸糞悪い奴だ」
クリスは悪口を並べ立てながらも、その上着を愛おしそうに手放さずにいた。
「まだ自分の事を犠牲にして……。でも救うべき相手を全力で見てる。あの人と響を引き剥がせれば……」
「どうした?」
「ん……ごめん。それであの上着……どうするの?」
「アイツなら〜……身を張るだろうなぁ。借りは……返せないと不味いよなぁ……」
敵でありながら自分を探し出し、自分の暴力を受け止め、孤独を肯定してくれた男。言葉とは裏腹に、クリスの心の中には詩音に対する奇妙な依存と好意の芽が、確実に根を張り始めていた。
しかし、未来の反応は違った。
(あの人は……クリスにまで……手を伸ばそうとしてる。あんな狂気が伝染するんだ……。でももしクリスだけに押し付けられるなら響は解放出来るかな……)
「どうにかして排除してあげるんだ……」
未来の瞳から、完全に光が消え去った。響の心を奪い、日常を壊し、狂信の鎖で縛り付けただけでは飽き足らず、敵であったはずのこの少女にまで、あの男は「救い」の皮をかぶった毒を振り撒いている。天倉詩音という存在が、未来の守りたかった世界を、大切な響を、どんどん歪めていく。
「ねえ……クリス」
「あぁ? どうしたんだ?」
未来は静かに立ち上がり、クリスの前に歩み寄った。その顔には、今まで見せたことのない冷たい、けれどどこか狂気を孕んだ笑みが浮かんでいた。
「響はね……あのお兄さんのために、自分を壊そうとしてるの。だからね……」
「あ……? 何言ってんだ、お前」
「あのお兄さんがいる限り、響は絶対に助からない。……ねえ、クリスちゃん。私と……一緒に来てくれないかな?」
未来の手が、クリスの肩へそっと置かれる。
その手は温かいはずなのに、クリスの背筋にはぞっとするような冷たい戦慄が走った。
「私、響を取り戻したいの。あの男から……あの戦いから、全部。……そのためなら、私はなんだってするから」
自虐的な呪いに縛られた男を想い始めるクリスと、その男によって響を奪われ、闇へと堕ちていく未来。
雨上がりの静かな部屋で、二人の少女の歪んだ運命が、静かに交錯し始めていた。
未来さんが……ヤンデレ方面に覚醒の兆しを見せました。今後の活躍に期待をお願いします。
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