アメリカ合衆国にある地下研究所の冷たいコンクリートと冷気が支配する暗がりの中で、マリア・カデンツァヴナ・イヴは黒く鈍い光沢を放つ聖遺物——『黒いガングニール』の装甲を見つめていた。
「準備はいいかしら、みんな?」
静かな問いかけに、3人の少女たちが歩み寄る。マリアのすぐ隣に立つのは、かつての惨劇を生き延び、共に戦場へ立つ妹のセレナ・カデンツァヴナ・イヴ。その手には白銀の聖遺物『アガートラーム』が握られている。そしてその背後には、月読調と、暁切歌の姿があった。
「ええ、マリア姉さん。アガートラームの同調率も問題ないよ。……やっと行けるんだね。あの人のいる場所へ」
セレナの澄んだ瞳に、揺るぎない切なさと決意が宿る。F.I.Sという大人たちの理不尽な実験場において、彼女たちにとっての唯一の光であり、優しく甘えられる「お兄ちゃん」だった男——天倉詩音。
「そう……やっと会えるの」
かつてこのアメリカの研究所にいた頃の詩音には、いま日本で噂されるような神秘的な力など何一つなかった。聖遺物『アガートラーム』や『ガングニール』の適合者として実験台にされる自分たちを庇い、ただの生身の人間でありながら、大人たちの暴虐や実験の激痛をすべて自分の肉体一つで引き受けようとしてくれていた男。
「やっと会えるんだね」
「お兄ちゃんに会いたいデス」
血を吐き、骨を折られ、ズタズタになりながらも、彼は幼かった調や切歌を「調ちゃん」「切歌ちゃん」と頭を撫でて抱き締め、マリアやセレナを頼もしい家族として「マリア」「セレナ」と呼んで笑顔を見せていた。
「詩音お兄ちゃん……日本に渡ってからも、ずっと戦わされていたデスね……」
切歌が胸の前に両手をギュッと握りしめる。
「……うん。きっと二課の道具にされて、向こうの装者たちの代わりにずっと傷ついてた筈。二課の連中はきっとお兄ちゃんの優しさに付け込んだ筈」
調が小さく唇を噛みしめた。二人の頭には、かつて自分たちのために血を流し、激痛に耐えながら温かい手を差し伸べてくれた詩音の記憶が、鮮明に残っていた。自分たちが生き残れたのは、詩音が自分たちの「肉壁」になってくれたからだ。だからこそ今度は自分たちが彼を救い出さなければならない。大人たちの戦いから引き剥がし、安全な場所へ連れ戻して保護すること——それこそが、F.I.Sの四人が日本へ向かう最大の動機だった。
「貴女達が詩音との再会を望む事は知っていますし私も支援したいとは考えています。しかし目的を忘れてはなりません」
ナスターシャの言葉が少女達に届く。
「少し前にフィーネが顕現し向こうの装者と交戦・撃破された情報があります。映像を確認しましょう」
だが極東の島国から届いた最新の情報は、詩音のあまりにも痛ましく異様な変質を伝えていた。
「……日本へ渡り、カ・ディンギル崩壊の決戦を経て、詩音は聖遺物『アヴァロン』を獲得したというわ」
ナスターシャが静かに語りかける。
「その『アヴァロン』の同化によって、彼の再生能力を得て神の領域へ至った……。血を流し骨が折れようと、一切の苦痛を引き受ける『絶対の不壊の神威』……。彼は日本で、あの少女たちを守るために、ついに人間としての身体と痛みすら捨て去ってしまった」
「そんなの……悲しすぎるよマリア姉さん……っ!」
セレナの目から一筋の涙が零れ落ちる。
「痛くても大丈夫なんて……傷ついても大丈夫なんて、そんなのは救いじゃない! 研究所にいた頃のお兄さんは、ボロボロになりながら私たちを抱きしめてくれた……っ! アヴァロンなんてものに頼らなきゃいけないくらい追い詰められて、自分を壊してしまったのよ……! 私たちが連れ戻して、もう一度抱きしめてあげなきゃ……っ!」
「ええ……行きましょう、日本へ」
マリアは『黒いガングニール』を強く握りしめた。
「あの日本の装者達から、詩音を取り戻す。もう誰の盾にもさせない……今度は、私たちが彼を守るのよ!」
◆◆◆
ところ変わって、日本のリディアン音楽院地下——特異災害対策機動部二課のトレーニングルーム。
——ズドォォォォォォンッ!!
重厚な衝撃音が響き渡り、強化コンクリートの壁が激しく粉塵を巻き上げた。ガングニールのアームドギアを極限まで旋回させ、全身汗だくになって尚も拳を打ち込み続けている立花響の姿があった。その手首は赤く腫れ上がり、皮が裂けて朱色の血が飛散している。
「立花そこまでよ! 自傷に近い訓練なんて二課の防人として許可できないわ!」
風鳴翼が制止の声を上げるが、響の突き出される拳は止まらない。その瞳は朱色に濁り、狂気じみた焦燥感に支配されていた。
「だめ……だめなんですよ翼さん……ッ! 私が……私が強くならなきゃ……ッ!」
響の手が激しく震える。カ・ディンギルでの最終決戦から数ヶ月。世界は平和を取り戻したはずだった。しかし、響たちの心は、あの日を境に深い暗闇の泥沼へと沈み込んでいた。
(私達の為にお兄さんはあんな姿になるまで戦ったんだ!私達が弱かったから!)
脳裏に焼きついて離れないのは、自分たちの身代わりに全身の骨を粉砕され、血の泡を吐いて泥の中に倒れていた詩音の過去の姿が脳裏に焼き付いている。そして、あの決戦の果てに伝説の聖遺物『アヴァロン』を獲得・融合し、「傷ひとつ負わず、一滴の血も流さずに完璧な輝きで佇んでいた」神のごとき現在の詩音の姿だった。
(お兄さんは……詩音さんは、もう傷ついてくれない……。私たちが弱かったから、アヴァロンなんてものと同化して、一人で神様の領域にいっちゃったんだ……ッ!)
自分が痛みを肩代わりして守りたかった。なのに自分は置き去りにされ、詩音は「人ならぬ不壊の神」へと成り果ててしまった。痛みを共有する歪んだ安心感を奪われた響は、自分自身を痛めつけることでしか、詩音の隣に立つ資格を繋ぎ止められないと思い詰めていた。
「おいバカ……やめろって言ってるだろ……ッ!」
部屋の隅、詩音から譲り受けた大きすぎる上着を羽織った雪音クリスが、乱暴に響の腕を掴んで引き剥がした。クリスの目元にも、深い隈が落ちている。
「あたしだって……悔しいよ! あの自爆野郎が『クリスちゃん』なんて甘っちょろい顔で……あたしたちを子供扱いして、たった1人でどこか遠くへ行っちまいそうで……怖くてたまんねぇんだよッ!!」
「クリスちゃん……」
「でもなッ! あいつが命がけで作った時間を無駄にしたら、それこそ、あたしたちはあいつの『盾』になれねぇだろッ!!」
クリスは詩音の上着の袖に顔を埋め、彼の残香にすがるように強く目をつむった。「ちゃん付け」で呼ばれ子供として守られる枠組み。それに反発しながらも、その温かな包容に逃げ場のないほど依存しているクリスの葛藤。
「詩音……私は貴方と……結ばれても良いのよね?」
そして翼もまた、握りしめた拳から血を流していた。風鳴の家が強いる影の政略——詩音との秘密の婚約を打診もとい命令をされた。戦友として対等に「翼」と呼び捨てにされながらも、自分を置いて神の域へ昇華してしまった男に対する、押し殺した情念と狂おしい所有欲が胸の内側で燻る。
3人装者たちにとって、詩音は世界を救った英雄などではない。自分たちの心を狂わせ、泥沼の共依存へと引きずり込んだ、逃げられない「絶対の毒」であり、唯一の「心の支え」だった。
「——何をしているんだ、3人とも!」
不意に、トレーニングルームの重厚なドアが開き、静かな声が響き詩音が現れた。
「なんだよ詩音……もう来たのかよ」
破れた制服の上から見え隠れする首元には、かつてのような生々しい傷跡や生血は一切ない。日本での激戦の末に獲得した聖遺物『アヴァロン』が皮膚の代謝と完全に融合したことで、彼の肉体は透きとおるほどに滑らかな肌と、神聖なまでに静かな佇まいを手に入れていた。
「打ち込み過ぎだよ!無理をしたら元も子もない!」
シェム・ハの寵愛とアヴァロンの恩寵を受け、完全なる「神の不壊」を手に入れた男がそこに立っていた。
「詩音さん……ッ!」
響が弾かれたように駆け寄り、詩音の無機質な衣服の裾を強く握りしめた。まるで、手を離せばそのまま天へ消えて行ってしまうのではないかという恐怖に怯える幼子のように。
「響ちゃん……っ!手が血塗れだ。……無茶な訓練は感心しないぞ!」
詩音は淡々と口にし、ポケットから白いハンカチを取り出すと、響の傷ついた指先を滑らかに包み込んだ。そこには苦痛の色も自虐の笑みすらない。かつてアメリカの研究所で、そして日本に来てからも生身の激痛を吐き出しながら少女たちを抱き締めていた不器用な男は、いまや一命の揺らぎすら見せない静寂の庇護者となっていた。
「……痛くないの……? 詩音さん……本当に、どこも痛くないんですか……?あの日から詩音さんが変わってしまって……」
響が涙をポロポロと零しながら見上げる。
「痛くはない。エクスドライブの光に照らされたあの日アヴァロンが、完全に同化したから」
詩音は無機質に答え、クリスと翼へと視線を向けた。
「クリスちゃん、その上着はそろそろ洗ったらどうだ?翼、二課からの次の作戦指示が来ているらしい」
「〜〜〜〜ッ! 余計なお世話だ自爆野郎! あたしの勝手だろッ!!」
クリスが顔を真っ赤にして背を向けるが、その手は詩音の上着を離さない。翼は静かに頷き、武人としての仮面を貼り直しながらも、詩音の透き通るような側顔を焦がれるような目で見つめ続けていた。
(マリアやセレナたちがこちらへ向かって来る。……僕はお前たちの前を塞ぐ事になるのだろうか?)
詩音の心中にあるのは、変わらぬ庇護欲。アヴァロンを得て、己が傷つくことすら許されぬ神の盾となろうとも、幼き少女たちを「〜ちゃん」と呼び、対等な戦友を「呼び捨て」にして守り抜くという無自覚の強迫観念。しかし、その詩音の「完璧な不壊」こそが、響たちの胸の傷を永遠に癒えさせず、彼女たちをさらなる狂愛と自傷の泥沼へと追い詰めていく。
「詩音さん……私、絶対に……お兄さんの隣に立つから。もう……1人でどこにも行かせないから……ッ」
響の擦り切れた呟きが、静かな部屋に溶けていく。
「詩音お兄ちゃんを……私たちが連れ戻すの」
そして同時刻……もう1人の少女も詩音を想い呟いていた。
◆◆◆
太平洋を渡る輸送機の中、マリア、セレナ、調、切歌の四人は、アメリカの研究所で自分たちを血塗れになりながら庇い続けてくれた、大切な「兄」の面影を胸に抱き、日本への着陸体制に入っていた。
「マリア……貴女の今回の役割は忘れないでください」
「わかっているわマム。件のライブでネフェリムを起動し、あの聖遺物の力を引き出しフロンティアを浮上させるわ。私達が……
アヴァロンを得る前の、あの温かく傷つきやすかった「お兄ちゃん」を取り戻し、保護したいと願うF.I.Sの少女たち。アヴァロンを得てしまった詩音を誰にも渡さず、その足元で痛みを共有したいと狂う二課の少女たち。
「
そして、傷つくことすら奪われたまま、両者を守る盾として立ち続ける神威の男。交錯する狂執と救済の願いが、いま激しくぶつかり合おうとしていた。
何故少女達が変わってしまったのか……その理由はいずれ……
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