マリアの全世界への宣戦布告とも取れるあのライブから既に1週間が過ぎようとしている。
東京ドームでの悪夢のような惨劇——ネフェリムの起動と、F.I.Sの周到な撤退から、ちょうど一週間が経過していた。特異災害対策機動部二課の作戦司令室。
「まただ……。足跡を掴んだ時には、すでにぬけがら……ッ!」
デスクに拳を叩きつけた風鳴弦十郎の顔に、苦渋の色が濃く滲む。あのライブの一件以来、F.I.Sは表立った動きを完全に潜め、二課の追跡網は常にその一歩後方を這いずり回るようだった。ネフェリムをどこに隠し、何を企んでいるのか。焦燥と無力感が、司令室全体を重く澱ませていた。
(伝えるべきなのだろうか……
そしてその焦燥の渦の中心にいたのは、詩音だった。
「……っ……は、あ……っ……」
透きとおるようだった滑らかな皮膚には、かつてのように生々しい血管の浮き上がりや、微かな疲労の赤みが戻っている。何より、あの時感じていた「絶対的な無痛と冷徹な静寂」が霧散し、内側から焼かれるような生身の焦りと、かつての「痛みを伴う自己犠牲の記憶」が再び詩音の神経を蝕み始めていた。
(僕は神じゃない……。俺はただ、恐怖から目を背け、完璧な盾のふりをしていただけに過ぎない……っ!)
神威の消失。それは詩音にとって弱体化を意味すると同時に、再び「大切なものを失うかもしれない」という剥き出しの恐怖への墜落を意味していた。
「詩音……」
背後から声をかけたのは、天羽奏だった。ドームで拘束され、マリアの手で解放された彼女は、一週間の間、誰よりも鋭い眼光で前線を見据えていた。かつて命を落とし掛けたあの日のように、もう二度と大切な人たちを失わないために。
「分かってる。……見つかったんだな?」
詩音が顔を上げると、その瞳にはかつての無機質な冷たさではなく、血走った人間らしい焦燥と決意が宿っていた。
「ああ。二課の総力を挙げた解析で、F.I.Sが不審な医療資材や大型の重機を頻繁に搬入しているエリアが特定された。……都郊外にある、閉鎖された古びた廃病院だ」
司令室のメインモニターに、コンクリートの廃墟と、周辺を警戒するF.I.Sの無人ドローンの映像が映し出された。そここそが、目覚めたネフェリムを隠し、さらなる狂気の実験を進めている敵の本拠地に違いなかった。
「廃病院……! 奴ら、あんな陰気くさいところに隠れやがって……!」
クリスがイチイバルを床に突き立て、歯をむき出しにして怒りを露わにする。その肩には、詩音から借りたままの大きすぎるジャケットが揺れていた。
「待たせたな、詩音。今度こそあの小娘どもに目に借りを返すわ……!」
「詩音さんを……マリアさん達には渡せません!」
立花響もまた、両手の包帯をキリキリと巻き直しながら、朱色に濁った瞳で前方を睨み据えていた。ドームで味わった「無力感」と「引き裂かれた恐怖」が、響のなかの共依存の紐をさらに固く狂気的に締め上げている。
「少し緒川さんに伝えたい話があります。突入までは時間を少しください」
「僕……ですか? わかりました。詩音君が珍しく頼みごとをしたので聞きましょう」
緒川と詩音が少々重い話題が始まった。
◆◆◆
詩音が再び血肉の通った不器用な男に戻りつつあること——それを本能的に察知したからこそ、響たちは「今度こそ私たちがこの人を守り、繋ぎ止めなければならない」という強迫観念に憑りつかれていた。
「私達の剣も万全よ。……詩音もう貴方1人に背負わせはしないわ」
翼が天羽々斬のペンダントを握りしめ、静かにしかし絶対の覚悟を込めて告げる。神の如き神聖さは失われつつある。剥き出しの人間としての焦燥と不安を抱えながらも、詩音は立ち上がった。守るためなら悪鬼羅刹にもなる——その歪んだ、けれど切実な愛憎の十字路。
「行くぞ……。F.I.Sの巣窟へ、強行突撃する!」
二課の精鋭、そして狂愛と執着に囚われた装者たちが、ネフェリムの待つ漆黒の廃病院へ向けて、牙を剥き出しにして雪崩れ込んでいくのだった。
◆◆◆
都郊外の山あいに、その廃病院は異様な威圧感を放ってそびえ立っていた。
かつて医療の聖域であったコンクリートの建造物は、窓ガラスが割れ、蔦と錆に覆われ、今やF.I.Sが隠匿する禁忌の実験場——ネフェリムの巣窟へと変貌している。
「ここが……奴らの拠点か」
息を潜め、錆びついた正面玄関の前に降り立った詩音の足元は、酷く重く泥にまみれていた。かつて彼を包んでいた絶対的な静寂や、傷を拒絶するような超越的な気配などどこにもない。そこにあるのは、冷たい夜風に晒されて震える生身の皮膚と、内側から高鳴る心臓の生々しい鼓動だけだった。
「……気色悪い気配が充満してやがる。おい、警戒しろよ」
雪音クリスがイチイバルを召喚し、低く唸った。その隣で、立花響も朱色の闘志を燃え上がらせ、ガングニールの拳を固く握りしめている。ドームでの敗北と、奏を目前で奪われた屈辱。そして詩音が追い詰められているという事実が、少女たちのなかに歪んだ防衛本能と狂愛の炎を燃え上がらせていた。
「突入するわ。手加減なしよッ!」
風鳴翼が天羽々斬の刀身を閃かせ、腐敗した自動ドアを蹴破った。だが——それは、F.I.Sが用意した完璧な殺戮の網のロジックに過ぎなかった。廃病院のロビーに足を踏み入じた瞬間、異様な甘臭い気配が視界を白く染め上げた。
「っ……なんだ、このガスは……!?」
翼が眉をひそめ、反射的に息を止める。だが、すでにその微細な粒子は、換気ダクトから噴出された高密度の【Anti-Linker】のガスとして、空間全体を完全に支配していた。人体と聖遺物を繋ぐシンフォギアの同調を強制的に阻害し、装者の出力を根底からへし折る禁断の化学兵器。
「ぐっ……! あ……頭が……!」
「うそ……だろ……? 身体が、重い……っ!」
突如として、クリスと翼の絶叫が病院のロビーに響き渡った。聖遺物『イチイバル』の装甲を展開していたクリスの周囲のフォニックゲインが激しく明滅し、ガトリングガンの銃身が霧散するように消失していく。シンフォギアの起動維持すら危ういほどの急激な出力低下が状況の最悪さを表している。
「クリス! 翼……っ!」
「しまっ……た……! 聖遺物の波長が……引き剥がされる……っ!」
翼が天羽々斬の太刀を杖のように突き立て、膝をつく。【Anti-Linker】の霧が、彼女たちの聖域を内側から食い破り、装者の戦闘力を極限まで削ぎ落としていく。かつてないほどの無力感が、二人の全身を冷たく縛り上げた。
——ゴガガガガガガガガッ!!
その絶望の隙を突くように、天井の通気口や割れた床下から、おびただしい数のノイズの群れが這い出てきた。牙を剥き鎌のような腕を鳴らし、暗闇を埋め尽くすほどの黒い大群が、無防備となった翼とクリスめがけて雪崩を打って襲いかかる。
「ふざけんな……っ! この程度で、あたしが……っ!」
クリスが不調で震える手でハンドガンを引き絞ろうとするが、リンカー因子の枯渇により弾丸すら簡単に生成されない圧倒的な絶望。化学の毒牙の前に最強の装者たちは今や為す術のない標的へと堕ちていた。
「——下がれッ!!」
怒号と共に、その間に割って入ったのは詩音だった。マリア達の立ち回りによりかつての神聖さも超越的な力も失われた。ただの生身の人間として、彼は愛する少女たちの前に立ちはだかった。ノイズの鋭利な爪が詩音の肩を抉り、鮮烈な朱色の血が冷たいコンクリートの床へと飛び散る。
「ぐっ……あ……っ!」
激痛が神経を焼き焦がす。骨を断たれるような生々しい苦痛が、容赦なく詩音の肉体を襲った。かつてのように痛みを無視することなどできず、あまりの激痛に視界が白濁する。それでも詩音は恐怖に歯を噛み締め、両手を広げてノイズの群れを押し戻した。
「詩音さん……っ! やめて……そんな身体じゃ……っ!」
響が血走った目で叫ぶ。ボロボロになり、血を流しながら、かつてのように「肉壁」となって自分たちを守ろうとする詩音の姿は、響たちの胸を狂おしくかき乱した。
(お兄さんは……また私たちを庇って傷ついてる……! 私たちが弱かったから……この人を再びこんな血塗れの泥沼に引きずり込んじゃったんだ……ッ!)
「お前たち……動くな……! ここは……俺が通す……っ!」
詩音はアロンダイトでノイズの触手を斬り裂き、自らの肉体をズタズタに切り刻まれながら一歩一歩前へ進む。だが、アンチリンカーの霧に飲まれた廃病院の中では、いくら肉体を張ろうとも、押し寄せるノイズの津波を一人で完全に食い止められるはずがなかった。背後からも別のノイズが回り込み、詩音の背中を深く切り裂く。
「あぁ……っ、息が……できない……身体が重い……っ!」
「やめろ詩音……身体が保たねぇ……」
クリスが崩れ落ち、翼もまた口元から血を流して膝をつく。圧倒的なノイズの物量と、アンチリンカーによる戦闘力の喪失。F.I.Sが仕掛けた周到な罠は、かつて世界を救った者たちを、今や泥まみれの絶望へと叩き落としていた。
「ハハハ……素晴らしい眺めだね装者諸君……そして愛しき『盾』の君」
廃病院の監視カメラの向こう側から、Dr.ウェルの狂気に満ちた笑い声が冷たく響き渡る。血塗れの廃墟の中で、少女たちの狂愛と、泥臭く足掻く男の逃場なき消耗戦が、さらに深く暗い泥沼へと沈み込んでいくのだった。
詩音は装者を守りきれるか……ご注目です!
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