「があ……っ……!」
重く濁ったアンチリンカーの白煙が立ち込める廃病院のロビーに、生々しい肉の引き裂かれる音と、骨が軋む乾いた破裂音が響いた。いまやただの生身の人間として、無数のノイズの群れの中に立ち尽くしていた。
「詩音さん……っ! やめて、もうこれ以上──っ!」
床に崩れ落ちたまま、響ちゃんが血走った目を剥き出して絶叫する。適合係数を強制的に低下させるアンチリンカーのガスは、ガングニールの起動を完全に封殺し、響ちゃん達の全身の自由を奪っていた。這いずることしかできない無力な肉体のまま、彼女の目の前で詩音の肩から鮮烈な朱色の血が噴き上がっている。
「詩音もう下がれよ!」
ノイズの鋭利な鎌状の腕が詩音の脇腹を深く抉り、コンクリートの床に耐えがたいほどの血溜まりを作り出した。もうかつてのように痛みを感じないわけではない。骨が断たれる激痛、内臓が焼けるような熱量、呼吸のたびに喉の奥から込み上げる鉄錆の味が、容赦なく詩音の意識を白濁させていく。
「はぁ……はぁ……、動くな……っ。ここは、僕が通さない……!」
それでも僕は、倒れるわけにいかなかった。背後には、【Anti-Linker】の毒牙に侵されて身動きの取れなくなった風鳴翼と雪音クリスがいる。残されたのは、泥にまみれ傷だらけになりながら這い回る醜くも必死な肉体だけだった。
「ふざけんな……っ! なんで、アンタばっかり……っ!」
クリスちゃんは震える両手で床を引っ掻いていた。イチイバルのガトリングガンも、ハンドガンの弾丸さえも、体内に残留する成分によって霧散し消え去っている。武器を失った戦場において、少女に残されたのは銃弾ではなく、咽せ返るような悔恨と、詩音を失うかもしれない恐怖だけだった。
「あたし達は……あたし達は、アンタに守られるだけのガキじゃないって……何度も言っただろ、この自爆野郎……っ!」
クリスちゃんは涙と鼻水を泥まみれの顔に塗りたくながら、這いつくばった姿勢のまま近くにあった鉄パイプを両手で掴み取った。
「例えイチイバルが使えなくてもいい。装者の出力が出なくても何とかしたいのに!」
目の前で詩音が再びズタズタに引き裂かれていく光景が、クリスちゃん達の中で理性のリミッターを完全に焼き切っていた。
——ガキィィィンッ!!
クリスは全体重を乗せ、不格好に振り回した鉄パイプで、詩音に襲いかかるノイズの側頭部を渾身の力で叩き潰した。金属がひしゃげる不快な音と共に、ノイズの頭部が砕け散る。しかし、その反動でクリスの肩の古傷が痛み、彼女自身もバランスを崩して冷たい床に倒れ込んだ。
「クリスちゃん……!」
「……動くな、詩音! お前が前に出るな……!」
今の状態でフォニックゲインを無理矢理纏わせた1撃は身体への負荷は尋常じゃない筈だ……
「だからって……止まれねぇよ……」
少し離れた場所で翼が血を流しながらも天羽々斬の刀身を杖の代わりに突き立て、上半身を無理やり起こしていた。防人として鍛え抜かれた精神力をもってしても、肺腑に染み込んだアンチリンカーの毒は容赦なく体力を奪っていく。呼吸をするたびに肺が焼け付くように痛み、視界が幾重にも揺らいだ。
「例えギアが重くても……」
それでも、翼の瞳に宿る光は消えていなかった。美しき防人の誇りを泥にまみれさせながら、彼女は愛する男が目の前で肉片を削られていくのを、ただ指をくわえて見ていることなど出来なかった。
「私たちが……戦えなかろうと……命を燃やす術がこれしかなければ……私は、私のすべてを……!」
翼が震える手で刀の柄を握りしめる。聖遺物の光は纏えずとも、鍛え上げた肉体と、詩音への狂おしい執着が彼女を突き動かす。
「無茶はやめるんだ……」
だが、押し寄せるノイズの物量は、ボロボロになった三人の防衛線を嘲笑うかのように容赦なく膨れ上がっていた。
壁を這い、天井から降り注ぐ無数の黒い影が、一斉に詩音の背後へと牙を向ける。
「あ……っ……!」
僕の足元が崩れ、鮮血の海に膝をついた。もはや身体の半分以上が満足に動かない。意識が暗い底へ沈み込んでいく。冷たい恐怖が背筋を駆け抜け、「もう守れないかもしれない」という絶望が脳裏をかすめた。
その瞬間だった。
「──触るなあああああああああっ!!」
世界を引き裂くような、狂乱の絶叫が廃病院のロビーを揺るがせた。
「響ちゃん……?」
床に倒れていたはずの立花響が、【Anti-Linker】のガスによる全身の倦怠感を自らの歯で下唇を噛み切り、その痛覚を強制的なスイッチにして無理やり立ち上がっていた。
「身体の負荷が限界を超える前にさがるんだ!」
その瞳は、理性を完全に喪失した濁った朱色。ガングニールのシンフォギアは不完全にしか起動せず、装甲はところどころ剥がれ落ちているが、彼女の拳からは異常なまでのフォニックゲインの残滓が噴き上がっていた。
「お兄さんは……詩音さんは……私が守るんだ……っ!!」
響ちゃんの頭の中には、一週間前の悪夢が焼きついて離れていなかった。ドームで詩音を奪われ再び血塗れの生身で自分たちの盾になろうとしていること。
(違う……! 違うの、お兄さん! あなたが傷つかないなら、私が代わりに痛みを引き受ける! あなたがボロボロになるなら、私はあなたの肉を縫い合わせる狂気になってもいい……ッ!)
歪んだ共依存の愛憎が、響の肉体に禁断の出力を強制させた。【Anti-Linker】の毒を自らの熱量で焼き払うかのように、響は音速を超える踏み込みで空間を蹴破った。
——ドガァァァァァンッ!!
一撃……その拳に聖遺物の完全な装甲はなくとも、限界を超えた少女の絶叫と執着が乗った拳は、襲いかかった数体のノイズの中心を直撃し、文字通り粉々に粉砕して四散させた。
「はぁっ……はぁっ……! 来るな……! 詩音さんに指一本でも触れてみろ……皆殺しにしてやる……っ!」
響ちゃんは血の涙を流しながら、血塗れの僕を庇うようにその前に立ち塞がった。その背中は小さく、激しく震えていたが、そこから発せられる闘気は、近づくものすべてを焼き尽くす野獣のそれだった。
「──おや、おや、おや?」
廃病院の天井に設置されたスピーカーから、突如として不気味な拍手の音と共に、Dr.ウェルの軽妙で狂気に満ちた声が響き渡った。
「素晴らしい! いやはや、実に感動的な人間ドラマだねぇ! 化学の毒牙に侵され、聖遺物の加護を剥ぎ取られたというのに、その泥臭い愛憎のスパークはどうだ! 見ているこっちの脳髄が痺れそうだうかがえるよ、装者君たち!」
「ウェル博士……っ、貴様……!」
翼が血を吐きながら天井のスピーカーを睨みつける。
「怒らないでくれたまえ、風鳴翼。君たちがどれだけあがこうとも、その男がどれだけ血を流そうとも、歴史の歯車はすでに僕たちの手の中で回っているのだからね」
スピーカーの向こうで、ウェルは愉悦に満ちた笑みを深めていた。
「【Anti-Linker】のガスは、あくまで君たちの足を引っ張るための『前菜』に過ぎないのさ。本当のメインディッシュは……もう間もなく、この病院の地下深部から産声を上げる。──ドームで君たちが注ぎ込んでくれた極上の絶唱エネルギーをたっぷりとお召し上がりになった、我が愛しの子宮の怪物……『ネフェリム』がね!」
——ドクン……ッ!! ドクンッ!!
ウェルの言葉に合わせるように、足元のコンクリートの底から、地鳴りのような重低音が響き渡った。ドームの時とは比較にならないほど強烈な「生命の鼓動」。あらゆる聖遺物のエネルギーを貪り喰らい、すべてを無効化して咀嚼する原初の怪獣が、完全覚醒に向けてその巨大な牙を研ぎ澄ませているという事だ。
「ネフェリムが……目を覚ます……?」
僕は血にまみれた手で床を掴み、ふらふらと立ち上がろうとした。アレが目覚めなら僕の身体はすでに限界を超えており、膝から再び崩れ落ちそうになっても戦わないといけない。
「お兄さん、無理しないで……っ!」
響が素早く回り込み、その細腕で詩音の身体を強く抱き留めた。自分の血と、詩音の血が混ざり合い、お互いの衣服を朱色に染め上げていく。その冷たくない、生々しい「温もり」と「痛み」こそが、響にとっては詩音が自分のもとに戻ってきたという歪んだ絶対の証だった。
「響ちゃん……クリスちゃん……翼……。逃げろ……ここは、罠だ……っ……」
僕はは掠れた声で呟く。
「それでも……嫌です」
しかし、少女たちの瞳に「逃避」の二文字など存在しなかった。【Anti-Linker】の霧が立ち込める薄暗い廃病院のロビー。血塗れの泥沼の中で、神の如き神聖さを失った男と、彼を狂おしく貪り愛する少女たちの、逃げ場のない消耗戦と破滅のカウントダウンが、静かに、けれど確実に進行していくのだった。
次回は29日になります(27日は学園シンフォギアの方を更新します)
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