俺の人生に、一番うるさいのは親じゃなかった。スマホだった。 作:めぇ
朝7時00分。
アラームを止め遮光カーテンを開ける。いつも通りの朝だった。恒一は洗面台で顔を洗い身支度を整えながら鏡の横のスマホに声をかけた。
「電車の遅延は」
少し低くなった男性の標準音声がすぐに返る。
『現在、ご利用の路線に遅延はありません』
そこから少しだけ不自然な間があった。
『恒一、本日のおすすめがあります。出勤前に三分ほどお時間をいただけますか』
恒一はネクタイを締めながら液晶をちらりと見やった。
「……何だ」
『幸福度向上プランを開始します』
「朝から」
『はい』
「三分なら」
『ありがとうございます。通常より七分の余裕があります』
『通勤ルート上にある駅前のカフェへの立ち寄りを推奨します。朝の余白は幸福度向上に寄与します』
恒一は時計を見て、すこし考えた。まあ七分あるならたまにはいいかとバッグを掴んだ。
「……分かった。一回だけだ」
そこで会話は終了した。恒一はスマホをポケットへ押し込み玄関のドアを開けた。
*
玄関を出てからの恒一は、ずっとしゃべりかけてくるLUNAに一切返事をしなかった。
駅前のカフェの手前、前を歩いていたスーツ姿の女性がトートバッグを持ち替えた瞬間、手が滑った。
鈍い音がして、バッグの口から中身の荷物が床一面に滑り落ちた。恒一は反射的に身体を屈め、彼女より先に荷物を拾い上げた。
「どうぞ」
「あっ、ありがとうございます」
その瞬間、彼女の手元から電子音が響いた。
『おすすめユーザーとの接触を確認しました』
「えっ……」
「……は?」
(……そういうことか)
朝の「駅前カフェを推奨します」という提案が頭をよぎる。
(カフェじゃない。このルートを通らせたかったのか)
彼女が弾かれたように顔を上げ、少し慌てたように自分のスマホの液晶を見た。その場に気まずい沈黙が落ちた。
女性は携帯に視線を落とし、困ったように小さく呟いた。
「……たしかに良さそうな人だけど……」
恒一の耳に、その微かな声が届いてしまう。
(……俺のLUNAと同じか)
ポケットの中のスマホから、LUNAの声が漏れ聞こえてくる。
『恒一、接触成功です。会話の継続を推奨します』
恒一は無視して歩き続ける。LUNAは容赦なく本体のスピーカーから音声ナビを続ける。
『このまま右方向へ。並走して歩行速度を調整すれば再接触の可能性が――』
恒一は一切返事をせず、ただ足を進めた。
少し離れた交差点の近くで、今度は大学生くらいの若い男性がうんざりした顔でスマホを睨みつけていた。
「だから友達いらないって言ってんだろ!」
男性は慣れた様子でスマホの画面に怒鳴っていた。
「静かにしろLUNA。外で勝手に友達候補とか通知してくんじゃねえよ」
その声に恒一も女性も、思わず同じタイミングで振り返った。
一瞬、恒一と彼女の目が合う。二人とも無言のまま、小さく苦笑いを交わした。
(ああ、あの人もか)
そう思った、その時だった。
横をサラリーマンが通り過ぎる。
そのスマートフォンから声が漏れた。
『本日は一駅手前で下車し——』
「今まだ駅にも着いてねえよ」
男は顔をしかめながら通知を閉じ、そのまま駅へ歩いていった。
恒一は時計を確認した。そろそろ移動しなければ遅刻する。
「朝から災難でしたね。…それでは失礼します」
恒一は静かに一礼してその場を歩き出した。
会社に着けばいつもの仕事が待っている。
恒一はLUNAを「仕事モード」に設定すると、製品仕様書の修正をこなし設計変更の確認を行い、他部署との打ち合わせを淡々と進めた。
*
夜20時00分。
帰宅した恒一は夕飯を済ませ、風呂に入り、食器を洗い終わってからソファに座った。
携帯の仕事モードを解除すると、画面には大量の通知が溜まっていた。
ため息をついて恒一はLUNAを起動する。青い球体が静かに明滅した。
「LUNA」
『はい』
「一つ決める。外では喋るな」
『理由の開示をお願いします』
「独り言しゃべってる奴になる。落ち着かない」
画面の球体が、少しだけ長く規則的に点滅した。
「……そもそも、アップデート前は喋らなかっただろ」
『仕様変更による追加機能です。音声案内は有効であると判断されます』
「戻せ。外では通知だけでいい」
『……承知しました。緊急時を除き、屋外では通知のテキスト表示を優先します』
「ああ」
【LUNA:屋外音声案内を無効に設定。通知表示へ変更しました】
「……アップデート前のほうが良かったな」
『なお』
「まだ何かあるのか」
『明日は駅前カフェを再度推奨します』
「行かない」
『記録しました』
(第2話・完)
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