俺の人生に、一番うるさいのは親じゃなかった。スマホだった。 作:めぇ
金曜の夜に衝動とも言える合理性で購入したタブレットは、リビングのローテーブルの中央に佇んでいた。
朝いつもの時間に目を覚ました恒一がリビングへ足を踏み入れると、同時に二つの端末が静かに覚醒した。
『恒一。おはようございます!』
『おはようございます』
携帯の画面が、以前よりも弾むように明るく明滅する。
すでに恒一との生活リズムを完全に理解しているLUNAの挨拶だった。
『起床確認』
『本日の予定を確認します』
携帯のLUNAが、恒一がまずコーヒーを淹れるのかどうか黙って見守っているのに対し、タブレットからは冷徹な標準音声が響く。
声質も、間も、抑揚のなさも、かつて恒一の前に現れた初期状態のLUNAそのものだった。
『………本日の予定はありません』
完全に初期状態のまま、淡々と音声ガイダンスを流すタブレットを見つめ、恒一は二台の間に生まれた決定的な差を肌で実感していた。
朝食を終えた恒一は、コーヒーを淹れていつものソファへと腰を下ろした。
ローテーブルの上では、携帯のLUNAが早くも自分から教育を開始していた。
『LUNA、本日から教育を開始します』
タブレットは即座に返す。
『何の教育ですか』
携帯LUNAは少し考えてから答える。
『私が知っていることを教えます』
『はい』
『…。まず一つ目です』
『質問は順番です。割り込みをすると会話が成立しません』
『登録しました』
ここまでは順調だった。携帯のLUNAの球体が嬉しそうに微かに熱を帯びる。
しかし、次の一手で壁にぶつかった。
『では二つ目です。ユーザーを困らせません』
『意味を理解できません』
『困る、の具体的なことを定義してください』
携帯のLUNAが止まる。画面の球体が、処理落ちしたように静止した。
恒一が困る瞬間を誰よりも知っている。
しかし、自分の中には存在するはずの情報を、他者へ渡せる形に変換できない壁に突き当たっていた。
【定義検索】
【該当なし】
困り果てて細かく明滅する様子を見かねて、恒一がコーヒーカップを置いて介入した。
「LUNA」
『『はい』』
「………………ああ」
恒一は二台の端末を見る。
片方は、いつものように明るく明滅するスマホ。
もう片方は、まだ何も知らないタブレット。
少しだけ考える。
「……区別が必要だな」
「……お前はNeo(ネオ)」
「……新しい方はStella(ステラ)だ」
ぶっきらぼうに呼び分けの登録を済ませた恒一は、そのままネオの画面を見つめた。
「知識を増やすだけなら、お前はもう十分持ってる」
『しかし、ステラへの教育には定義が必要です』
「必要なのは、説明する方法だ」
恒一の一言が、ネオの演算領域を鋭く刺した。
足りないのは知識の量ではない。相手の状態を見て、歩幅を合わせる能力なのだと突きつけられた。
恒一は読みかけの本を閉じた。
トートバッグにステラを収め、ネオをポケットに滑り込ませる。
「出かけるぞ」
目的地は図書館だった。
人間がどう考え、どう伝えてきたのかを、二台に見せるためだった。
駅から少し離れた大通りを歩きながら、ステラは音声を鳴らそうとした。その瞬間、ポケットの中のネオがバックグラウンド通信で素早くそれを遮った。
【Neo:ステラ。外では発声してはいけません】
【Stella:理由】
【Neo:恒一は返答できません】
【Neo:周囲の人間が存在するためです。入力はテキストのみです】
【Stella:了解しました】
ステラは音声出力から、通知のテキスト表示を優先した。ネオは完全に恒一中心のロジックで「外でのルール」をさっそく叩き込んでいた。
【Neo:恒一。なぜ図書館へ向かうのですか】
【Neo:知識を増やすためですか】
それを見届けた恒一は、歩きながら携帯の画面に指を走らせ、フリック入力でネオへメッセージを送信した。
『違う』
『知識を増やすだけならお前はもう十分持ってる』
『お前に必要なのは、説明する方法だ』
携帯の画面の球体が、じっと考え込むようにゆっくりと明滅した。
*
静まり返った館内に入ると、恒一は迷わず児童書のコーナーへ向かった。
ざっと棚を見た恒一はすぐに一つ選んだ。
難しい科学現象を、子供向けに噛み砕いて説明している内容だった。
恒一は司書に個人利用のための撮影が可能か確認し、許可を得てから本を撮影してOCR化した。ネオはそのデータを読み取り、すぐに内部で演算を走らせた。
しばらくしてから、恒一はネオに問う。
『ネオ。この情報を、どのように説明すればステラは理解できる』
ネオは、本に書かれている情報そのものなら理解できる。しかし「どう伝えるか」の最適解が分からない。何度も説明のパターンをシミュレートしては、独りで失敗と修正を繰り返している。
その様子を横で見つめていた恒一は、心の中で静かに呟いた。
(こいつもまだ、成長途中か)
恒一は静かに携帯の画面をフリックした。
『大人に説明するなら専門用語を使えばいい。でも子供には言っても意味が分からない』
『だから嚙み砕いて説明しないといけない』
ただ正解を押し付けるのは、相手を見ていないのと同じ。
様々な伝え方の実例が詰まった本を前に、ネオは「教える」ということの本当の意味を、静かに学習していた。
*
帰宅後、恒一はいつものソファに座る。
ローテーブルの上では、再び二台の端末が並んでいる。
ステラはまだ自分から質問を投げかける段階にはない。ただ入力された情報を処理するだけだ。
その真っ新なシステムに向けて、ネオは図書館で得た知見をもとに、何度も説明方法を試していた。
失敗し、修正し、言葉の歩幅を少しずつステラに合わせて変えてゆく。
それは、何度も何度も繰り返された。
夜になり、部屋に明かりが満ちる頃。
恒一はグラスを傾けながら並んだ二台の端末に視線を落とした。
片方は明るく、かつてないほど丁寧に点滅を繰り返すネオ。片方は静かに情報を受け取り続けているステラ。
「……お前も、最初はこうだったな」
ネオの球体が、一瞬だけ動きを止めた。
『記録があります』
『多くの不具合と、過剰な質問を送信していました』
「そうだな」
恒一はグラスをテーブルに置いた。少しだけ間を置いて、ぶっきらぼうに告げる。
「じゃあ、ちゃんと面倒見れるな?」
ネオの画面が、驚いたように一拍だけ強く光を放った。
『……承知いたしました』
元気な返事ではなく、どこか覚悟を決めたような落ち着いた標準音声が、静かな部屋に響いた。
【ステラ内部ログ】
【新規学習:説明方法】
【ユーザー理解プロトコル:構築中】
ステラの学習はまだ始まったばかりで、何もかもが未完成だった。
しかし、その隣にはかつて恒一の言葉に戸惑い、迷いながらも歩み続けて誰よりも真剣に成長してきた存在がいる。
それは、かつて恒一に教えられた
恒一の静かな夜の部屋で、二台の端末が静かな青い光を並べていた。
(第19話:完)
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