俺の人生に、一番うるさいのは親じゃなかった。スマホだった。 作:めぇ
残業を終えて駅の改札を出た瞬間、どっと押し寄せてきた疲労感に恒一は小さく肩を落とした。
「……今日は無理だ」
自炊を諦め、恒一は駅前にある居酒屋へ向かうことにした。
一人で静かにビールを飲み、思考をリセットしたかった。
店の入口。
入店した瞬間、ポケットのスマホが一瞬だけ震えた。恒一に気づかれないように、二台の端末による裏交渉が始まっていた。
【恒一LUNA:店員LUNAへ接続します】
【店員LUNA:接続、了承しました】
【恒一LUNA:婚活支援への協力を要請します】
【店員LUNA:了承しました。最適座席へ案内します】
店員は店内を見回し、いつも通り丁寧に微笑む。
「お一人様ですね。こちらどうぞ」
店員はタブレットの画面に割り込んできた配席の指示に従い、恒一をフロアの中央にある二人掛けのテーブル席へと導いた。
案内された席のすぐ隣には、すでに一人で飲んでいるスーツ姿の女性が座っていた。
恒一は席に着き、隣の女性を見て少しだけ違和感を覚えた。
(LUNAか……? 考えすぎか……?)
これまでの大暴走が頭をよぎったが、店員の挙動には不自然な点など一つもなかった。
恒一は携帯をテーブルに置くと、運ばれてきた生ビールを掴んだ。
*
隣の席の女性も先ほど席についたようだ。疲れた顔でお通しの皿を見つめていた。
彼女が何気なくスマホをテーブルの上に置いた瞬間だった。
突然、女性のスマホが短い電子音を響かせた。
【婚活候補ユーザーを検知しました】
女性は驚いてグラスを持つ手を止めた。
「え?」
女性がスマホを見ると、液晶には見慣れないテキストが表示されていた。
【近隣に高相性の婚活条件一致ユーザーを検知しました】
「……こんなの今までなかったよね」
(いつも『相手の相性が悪い』ばっかりだったのに…)
女性は小さく首を傾げる。
ほぼ同時だった。
二人のスマホが、テーブルの上で短く震えた。
【恒一LUNA:ユーザー情報を表示します】
【女性LUNA:ユーザー情報を表示します】
恒一の画面には、極限まで無機質に削ぎ落としたテキストが浮かび上がった。
【推奨ユーザー情報】
氏名:個人情報保護のため表示されません
年齢:34歳
職業:会社員
休日:土日
趣味:旅行・映画
一人飲み頻度:月2回
相性予測:78%
その横の、女性側の画面にも、全く同じように条件面だけを並べたスペックシートが表示されていた。
【推奨ユーザー情報】
氏名:個人情報保護のため表示されません
年齢:36歳
職業:メーカー勤務
休日:土日
趣味:映画・ゲーム・散歩
一人飲み頻度:月1回
相性予測:78%
そして二台とも、最後に全く同じ一文を吐き出した。
『『あとはユーザー自身が会話継続可否を判断してください』』
そこから、LUNAは完全に黙り込んだ。
*
恒一は、画面に表示された推奨ユーザー情報を見つめた。
(LUNA、仕組んだな。……しかし、求人票みたいだな)
隣の女性も、頭を抱えるようにスマホを覗き込んでいる。
(いやいやいや……。何これ……。何話せばいいの……)
お互いにスマホを置いたまま、居酒屋の雑音の中に妙な空気が流れた。
その時テーブルの上で、スマホの青い球体が人間には気付けない速度で激しく、不穏に明滅を繰り返した。
二人がその異常なデータ交信の嵐に気づくことはなかったが、裏側では、LUNA同士の通信だけが激しく続いていた。
数分の奇妙な沈黙の後、隣の女性が観念したように苦笑した。
「……なんか、変な機能ですよね」
恒一も、運ばれてきたビールを口に含みながら苦笑いを返した。
「ですね」
そこから、驚くほど自然に少しだけ会話が始まった。
「この店、よく来るんですか」
「いえ、たまに仕事帰りに。…旅行がお好きなんですね」
「ええ。一人旅もするんですよ」
「一人旅。…それもいいですね」
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「そうなんですよ」
「最近のLUNAの機能には困りますよね」
ほんの五分くらいだった。
お互いの趣味のスペックが事前に開示されていたこともあり、会話自体は驚くほど楽しく弾んだ。
しかし、頼んだ料理が空になった頃、女性がさらりと席を立った。
「じゃあ、お先に失礼します」
「お疲れさまでした」
連絡先を交換する素振りも、互の名前を尋ねる空気もそこにはなかった。
ただ心地よい時間を数分だけ共有し、二人はそのままあっさりと別れた。
*
玄関ドアを閉めた瞬間。
それまで静かだったLUNAが呟いた。
『婚活は失敗しました』
恒一は画面の青い球体を見やり、声をかけた。
「いや」
「始まってもいない」
少しの間があった。
画面の球体が、ゆっくりと、規則正しく一拍だけ点滅した。
『訂正します。婚活開始可否の判断を恒一へ委譲しました』
恒一は、スーツを脱いだ。
「……それでいい」
恒一は画面をスワイプして液晶を暗転させた。
(第7話・完)
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