夕暮れ時、樹海を抜ける冷気が肌を刺す
茂みの中でガサリと音が響き、その音を聞いたコラッタは脱兎の如く逃げ出した
「うーん……目撃位置と方向を調べた限り、この辺にいるとしか考えられないんだけどなぁ……」
直後に笹藪を押し分けて緑色の何かが立ち上がり、同時にその何かが纏っていた布がスルスルと流れ落ちた。その布は迷彩柄に彩られており、こびり付いた小枝や草が苦労の長さを主張している
中から出てきたのは登山者の格好をした女性と、端正な顔を忌々しそうに歪めた顔であった
「もーー!!何でよー!全部無駄じゃーん!!」
人目も憚らず大きな愚痴を零す
前日の夜から息を殺していた者の愚痴としては、むしろ少なすぎるほどの声量である
約一か月前、完璧であるはずだった単独の捕獲作戦を、彼女は見事に大失敗させた
その1番の理由が"情報の不足"である
特に、あの「初速の速さ」は想定外であった。あの速度では予め動きを止めない限り、すぐに逃げられてしまう
その悔しさを胸に、今回は情報の精査を怠らず、可能な限りより多く、より正確な推測を導き出した
その上で、極め付けの飲まず食わずの丸一日森林潜伏、つまり今があるのである
彼女にとって、これらは全てリベンジのための些細な代償に過ぎない
しかし、その全てが間違っていた、無駄だったと思うのは、いくら賢い彼女とはいえ納得し切れなかった。大声を出さずにはいられないのも彼女にとっては当然である
彼女は端末のスマホロトムを取り出し、何度目か分からないデータの精査と推論を行う
現在の状況からして、集めた情報が間違っているか、自身が出した推測が間違っていたかのどちらかになる。まずどちらなのか、それをはっきりさせなければならない
「(集めた情報は監視カメラの映像と目撃証言…………目撃証言が間違っていないとは言い切れないけど……カメラ映像だけで推測しても同じような結果になるし………うぅ……)」
彼女は必死に思考を巡らせるが、自分が間違っている可能性が高い、ということ以外は分からなかった。考える程の体力は潜伏に使い切ってしまったのである
「……はぁ……このままだとまた逃げられちゃうよ……」
背筋と腕を思いっきり伸ばし、天を仰ぐと、星々が燈り始める薄明の空が広がっていた
不意にその景色が故郷の空と重なる
故郷から遠く離れたこのカントー地方でも、星々は同じように綺麗に光るのだと気付く
ホームシックなど有り得ない彼女であったが、失敗続きによる疲れは故郷への思いをより強くさせた
しかし、思いを馳せている場合では無い
"研究所から逃げ出したポケモンを保護する"
上司から直接この任務を任されたのだ。失敗は許されない
胸に蔓延るこの鬱憤はリベンジを成功することでしか晴らせないことを、彼女は知っていた
「さーて、情報洗い直しますかっ」
気丈に呟きながら鬱蒼した木々の間を抜け、山道に沿ってタマムシシティのホテルへと向かい始めた
しかしその歩みは、すぐに鈍くなる
向かい側から歩いてくる人影に気付いたためだ
その人影が纏う黒スーツは見るだけで価値の高さを感じられ、森に馴染もうともしない異質な雰囲気を漂わせている
彼女は端末の画面を注視していたが、その強烈な違和感の前に中断を余儀無くされてしまった
「(こんな時間にスーツを来て森を歩くって……怪しすぎるでしょ…)」
お互いに歩を進め、距離が近付く
遠くからでは分からなかったが、その男は電話をしていたようだ
こちらには目もくれず、明後日の方向を見ながら電話相手に声を荒らげている
「黙って従え!!!そいつは必ずしっぽを出す!逃がすなよ!!」
「(……ん…………?)」
自分とは関係ないと割り切り、自然にすれ違えばいいやと画面に視線を戻す。しかし、自身も珍しいポケモン捕獲に全力注いでいたため、嫌な予感が頭によぎる
しかし男の隣を通り過ぎようとした瞬間、予感が確信に変わった
「そいつはカントーにはいないはずのモンだからな!貴重な売りモンになるはずだ。傷付けるなよ!」
その言葉により、"他地方から来たポケモンを捕まえる"という、彼女と全く同じ目的を持っていることが分かった。彼女の予感は的中したのだ
しかしそれ以上に、聞いてはいけない情報まで入って来てしまい、立ち止まる
"売り物"男はそう言った
"ポケモンは売り物である"と確かに言ったのだ
彼女は男がポケモンを売り物にしている売人であることは瞬時に分かった
その時、カントーに来る前に教えて貰ったことを思い出す
"ポケモンを物として扱う、非道で残虐なマフィアが存在する"と
彼女は立ち止まったまま振り返る
そして、確信した
今目の前で通話している男、この男こそがロケット団なのだと
悪逆非道の組織に所属する、人道なき男なのだと
「あぁ。そうやって崖に追い詰めろ。俺は先回りして…………あ?」
こちらの視線に気付いたのか、電話上の会話を止めこちらを向く
「なんだ…?なんか用でもあんのか?」
彼女は、男からのどす黒い声と只者では無い雰囲気を感じていた。また、それがR団であることの何よりの証拠だとも思った
一瞬彼女は気圧されて返事に詰まっていたが、すぐに言葉を返した
「すみません、道に迷ってしまって。タマムシシティへの道はこちらでしょうか?」
彼女は意外にも冷静であった
すぐに世間知らずの登山者を装い、可憐な仕草で頭を下げる
「ちっ……このまま道なりだ。こんな場所、遊びで来るんじゃない」
男は苛立ちを隠そうともしていなかった
「すみません。ありがとうございます」
彼女とほぼ同時に男も身を翻し、二人は先程よりも少し早足に別れる
彼女は男より先に対象を保護することを決意し、先程よりも乱暴にスマホロトムへ手を伸ばした
ーーーーーーーーーーーーーーー
どれ程走っただろうか
駆け抜けた距離を推し量る余力は既にないが、そんなことを考えながらその場で倒れ込んでしまった
ウルの前に突然現れたポケモン攫いの男とドラピオン
咄嗟に後ろにあった茂みに飛び込み、我武者羅に逃げてきたは良いが、行き先を全く考えていなかった
衝動に身を任せ働かし続けた脚は鉛のように重くなり、視界は息苦しさが募り段々と狭窄していく
「ハァ…ハァ…!(まずい……息が……!!)」
うつ伏せに倒れたまま息をする為に首を右に回すと、右手に握っているモンスターボールが目に入る
逃げる事に必死で気付かなかったが、無意識にディアンシーをボールに戻していたようだ
薄ら見えるボールの中から、彼女は心配そうな目でこちらを見つめている。
相も変わらず綺麗に揺れるその瞳からは、焦燥と不安が見て取れた
今までの人生において、これほど自身の数分前の行動を憎んだことはない
あの時別の方向に逃げていれば
あの時すぐに帰っていれば
そもそも今日は家でゆっくりしていればよかったのではないか
様々な後悔が頭の中を駆け巡る
しかしそのどれもが意味の無い、後の祭りに過ぎないものばかりである
悔しい。情けない。そんな気持ちで一杯になったウルの目から自然と涙が零れていた
「ごめんな……本当にごめん……こんなトレーナーで……」
自分の不出来に泣いたのは初めてでは無かったが、他の存在のために涙したのは生まれて初めてであった
ウルがそのことに気付いた瞬間、先程の男とは別の声が周囲に響き渡る
「こっちだーー!!」
「ドラピオンが北に向かったぞぉ!」
「ついて行けー!そっちにいるはずだー!」
怒声を含んだ声に続き、複数人の足音が地面を伝って聞こえてくる
状況と発言内容から、先程の男の部下であることは容易に想像できた
「……やば…逃げないと……!」
周囲に隠れる場所はない
ウルはボールを握り締め、覚束無い足取りでその場を後にした
ーーーーーーーーーーーーー
ウルは茂みや木々に身を隠し、音をたてないように逃げていたが、先程から感じていた違和感を拭いきれずにいた
遠目から確認したスーツ男の部下たちから身を隠し、それを迂回するように移動する。しかしどこへ行っても、先回りされてるかの如く部下たちはいた
「え…!また……!?」
今回も三人組の男たちはいた
男たちを見つけ静かに迂回する、そして別の男たちを見つけ、それを迂回しようとするとまた見つけ、を何度も繰り返している
今回はその四回目である。ウルは何か罠や仕掛けがあるとしか思えなかった
もう一度静かに迂回しようと右手側へ少し歩くと、今度はすぐに五回目の遭遇を果たした
「なっ…………!!!???」
咄嗟に木の後ろに身を隠した
幸いにも男たちの内の一人が電話中のようで、ウルのことは気付かれていなかった
「ガルジア様!?本当にいるのですか?こんなところに……?」
どうやら電話の相手は、"ガルジア"という人物のようだ
「(先程のスーツ男か……?)」
ウルはそう仮定し、電話の内容に集中するために聞き耳を立てた
「はいはい…………"このまま囲んで"……そこに追い詰めればいいんですか?あ、傷付けては駄目……なるほど」
違和感が確信に変わり、絶望となってウルを襲った
男はさらにガルジアとの電話を続ける
「了解です。あ、ガルジア様はそこへ行かれるんですね!はい!失礼します…」
通話が終わり切る前に、ウルは走り出していた
男たちの会話から、ウルは自身が少なくとも前方は囲まれているだろうと考えたためである
距離を取るべく静かに走り出したその時
この時を待っていたかのように、相手のドラピオンが動きをみせる
首を伸ばし顔を上げ、森全体にも響き渡るような咆哮をあげる
そして視線を戻すと今度は重厚なハサミを地面に叩き付ける
「……!?」
「見つけたか……!」
それは、ドラピオンの獲物を狩る合図であった
強靭なハサミを響かせ、森の奥へ一気に走り出す
「グルルル…………!!」
男たちはドラピオンに合わせ、後に続いて走り出した
「いたぞ!!追えーー!!!」
隠れていたウルに気付いたのか、はたまた囲い込む算段が出来たのか
既に崖に追い詰められたウルには知る術もなかった
目の前にある崖下の地面は自分がいる高度から約五メートル下にあり、下には深さの分からない川があった
飛び降りることはできそう…だが、その後正常に走ることが出来るかは分からない
また、川の流れが尋常ではなく、流されたら無事に済むとは到底思えない
躊躇するには十分な光景であった
「へへっ……ボウヤ、大人しくそのボールを渡してもらおうか」
「…………!!」
木々の合間から次々と男たちが出てくる
その怪しく物騒な表情と、統一された服にはRの文字が記され、不気味さと焦燥をさらに加速させていた
「シャァァァァ……!!!」
あのスーツ男のドラピオンも一緒であった
ドラピオンはジリジリと近付き、それに合わせて男たちも距離を詰める
後ろには崖を背負い、前方はほぼ全てを塞がれ、ウルには為す術はない
迷っている暇など無かった
モンスターボールをしっかり握りしめ、遂にウルは決断した
相棒が捕まる未来と、可能性は低いが二人で逃げ切る未来。後者に全てを賭けたのである
「……ッ…………!!!??」
「なっ……!?」
男たちは崖際に集まり、下の川を覗いてターゲットを探したが
「……」
「おい……いないぞ……?」
「逃した……か……!?」
ウルの姿を捉えることはなかった