TCG能力《創世札典》を手に入れた俺、一日一マナから現代社会を攻略する~治療、未来予知、若返り。マナが足りないので山を買います~ 作:パラレル・ゲーマー
土曜日の朝。遮光カーテンの隙間から差し込む細い光の帯が、フローリングの床に白い線を引いている。
門倉啓介は、けたたましいアラームの音に急かされることなく、自然と浅くなる眠りの果てにゆっくりと瞼を開けた。
枕元のスマートフォンに目をやると、時刻は午前九時を少し回ったところだった。
「……九時か」
擦れた声が、静かな部屋に落ちる。
平日は毎朝、六時四十五分には容赦なく鳴り響くアラームを止めて、這いずるようにベッドから抜け出している。それに比べれば、休日の朝に自分の意思で起きられるというだけで、ささやかだが確かな幸福感があった。
しかし、たっぷり八時間以上は眠ったはずなのに、肉体はそれに見合うだけの回復を見せてはいなかった。
ベッドの上に身を起こそうとすると、まず腰の奥に鉛のような鈍い重さを感じる。右肩の付け根から首筋にかけては、筋繊維が硬く縮こまったような嫌な凝りが張り付いている。
昨晩、金曜の夜だというのに遅くまで残業し、顧客向けのシステム導入スケジュールの修正でノートパソコンの画面を睨み続けていたせいだ。眼球の奥にはまだジンジンとした熱がこもっており、寝過ぎたせいか頭も少し重い。
さらには、左手の人差し指。
昨日の夕方、分厚い仕様書の束を封筒に押し込もうとした際、紙の端でスッと切ってしまった小さな傷。絆創膏を貼るほどではないが、水に濡れたり指を曲げたりするたびに、地味な痛みを主張してくる。
「三十代も半ばを過ぎると、寝るだけじゃ疲れも取れないな……」
誰に言うともなく愚痴をこぼしながら、啓介はベッドから降りた。
ここは都内にある、築年数はそこそこだが管理の行き届いた1LDKの賃貸マンション。
都内で生まれ育ち、そのまま都内の中堅システム関連企業に就職して十数年。現在三十六歳。役職は主任。
社内での立ち位置は、後輩や部下の進捗を管理しつつ、自分でも現場の火消しに走る、いわゆるプレイングマネージャーのようなものだ。
給料が飛び抜けて高いわけではない。だが、独身であることに加え、若い頃のように派手な趣味にお金をつぎ込むこともなくなったため、給料日には自動で一定額を貯蓄用口座へ移すという堅実な生活を続けていれば、それなりの額の貯金は自然と貯まっていた。
クローゼットには、平日に着回すための無地のワイシャツが、クリーニングのタグを付けたまま行儀よく並んでいる。部屋の隅には、会社のノートパソコンが入ったままのビジネスバッグが無造作に置かれている。休日は仕事用のスマートフォンの電源を完全に切るのが、啓介のささやかな抵抗だった。
自分の人生に、強い不満があるわけではない。
結婚していないことを夜な夜な嘆くような年齢でもなくなったし、会社も理不尽なブラック企業というわけではない。責任は年々重くなるが、それなりにこなせているという自負もある。
ただ、ふとした瞬間に思うのだ。
来週も、来月も、そしておそらく来年も、自分はこうして同じような疲労を抱えながら、同じような日常を繰り返していくのだろうと。
凪いだ海のような、波風の立たない平穏で停滞した日々。
啓介は軽く首を回してボキッと音を鳴らすと、寝室を出てリビングへと向かった。
カーテンを一気に引くと、九階の窓から休日の東京の街並みが目に飛び込んでくる。
遠くで私鉄の車両が通り過ぎるくぐもった音が響き、眼下の幹線道路にはすでに多くの車が行き交っていた。休日の街特有の、どこか浮き足立ったような気配。それらをガラス越しに眺めながら、啓介はキッチンへ向かう。
電気ケトルのスイッチを入れ、棚からコーヒーの道具を取り出す。
平日の朝はインスタントコーヒーをマグカップに放り込んで湯を注ぐだけだが、何もない休日の朝だけは、少し値の張る専門店で買った豆をミルで挽き、ドリップして飲むことにしている。
これもまた、変化の少ない生活の中で啓介が見つけた、数少ない「儀式」のような楽しみだった。
ガリガリと豆を挽く音がキッチンに響き、やがて香ばしくも深い香りが漂い始める。
沸いた湯を細い注ぎ口からゆっくりと落としながら、啓介はふと、リビングの端にある低い棚に目をやった。
そこには、ビジネス書や小説に混じって、色褪せた背表紙の古いバインダーと、プラスチック製のデッキケースがいくつか置かれている。
学生時代、友人たちと熱中していたトレーディングカードゲーム——TCGの遺物だ。
大会で優勝を争うようなガチのプレイヤーではなかった。
ただ、限られた小遣いの中でパックを買い、新しいカードを手に入れては、友人たちを驚かせるようなコンボを考えるのが好きだった。
強力だがコストの重いカードを使うために、いかにして序盤を耐え、マナの基盤を整えるか。デッキの枚数と確率を計算し、一喜一憂していたあの頃。
社会人になり、友人たちとも生活のリズムが合わなくなり、いつしか誰もカードに触れなくなった。
何度か大掃除のたびに捨てようかとも思ったが、あの頃の熱中した記憶までゴミ袋に放り込むような気がして、結局そのまま棚の肥やしになっている。
「……最後にデッキいじったの、いつだったかな」
ポタポタと落ちる琥珀色の液体を眺めながら、啓介は小さく自嘲気味に笑った。
今はもう、あの頃のように徹夜でデッキの構成を語り合うような情熱もない。
コーヒーが落ちきったのを確認し、お気に入りの陶器のカップに注ぐ。
芳醇な香りを漂わせるカップを片手に、啓介は定位置であるリビングのソファに腰を下ろした。
ローテーブルの上に置いてあった私用のスマートフォンを手に取り、いつものようにニュースアプリでも開こうとした——その時だった。
啓介の視界のど真ん中に、唐突にそれは現れた。
『固有異能の獲得を確認しました』
半透明の、システムフォントのような無機質な白い文字。
スマートフォンの画面に表示されているわけではない。壁にプロジェクターで投影されているわけでもない。
啓介が視線を窓の方へ向けても、天井の方へ向けても、その文字は視界の中央にピタリと張り付いたままついてくる。
「……は?」
啓介は持っていたコーヒーカップをテーブルに置き、目を強くこすった。
しかし、文字は消えない。
何度も瞬きをし、片目ずつ閉じてみる。それでも、右目だけで見ても左目だけで見ても、その文字ははっきりとそこにあった。
念のため、手元にあった眼鏡を外してみたが、視界の風景がぼやけるだけで、空中に浮かぶ文字だけは不気味なほどに鮮明なままだった。
『あなたは《創世札典/GENESIS DECK》を獲得しました』
新たな文章が追加される。
「なんだこれ……病気か? 飛蚊症のやばいヤツか?」
啓介は咄嗟に自分の身体の状態を確認した。
急激な頭痛はない。吐き気もない。手足の痺れや言語障害の兆候もない。意識は極めてクリアだ。
スマートフォンのカメラアプリを起動し、文字が見える空間を映してみるが、画面の中にはいつも通りの乱雑なリビングが映っているだけで、白い文字など微塵も存在しなかった。
つまり、自分にしか見えていない。
過労による幻覚か、あるいは脳のどこかの血管がどうにかなってしまったのか。明日、いや今日すぐにでも大きな病院でMRIを撮るべきか。
そんな現実的な焦りが胸に湧き上がってきたとき、視界の文字がまた切り替わった。
『《創世札典》のチュートリアルを開始します』
『札典を開くには、「バインダー」と発声してください』
「バインダー……?」
その単語に、啓介は奇妙な引っ掛かりを覚えた。
デッキ、でも、本、でもなく「バインダー」。
それはまさに先ほど、学生時代のカードを保管しているファイルを見て思い浮かべた言葉そのものだった。まるで、この謎の現象が啓介自身の記憶や認識を読み取り、最適な言葉を選び出しているかのように感じられた。
とはいえ、一人きりの部屋で、何もない空間に向かってキーワードを口にするのは、いくらなんでも気恥ずかしい。
万が一、隣の部屋に声が漏れていたら「休日の朝から一人で何言ってんだあの人」と思われかねない。
だが、もしこれが本当に何らかの病気のサインなら、進行を確認するためにも指示に従ってみるしかない。
啓介は周囲を一度見回し、誰の目もないことを確認してから、喉を鳴らした。
「……バインダー」
できるだけ小さな、聞き取れるかどうかの声で呟く。
一拍の遅れ。
ポンッ。
乾いた、しかし質量を感じさせる小気味良い音が部屋に響き——同時に、青白い光の粒子が空中で渦を巻いたかと思うと、啓介の膝の上に『それ』が落下してきた。
「うおっ!?」
ズン、と膝に確かな重みがかかり、啓介は思わず身をよじった。
テーブルの上のコーヒーがこぼれそうになり、慌ててカップを遠ざける。
「……出た。嘘だろ、なんか、本当に出たぞ」
幻覚でもVRでもない。
啓介の膝の上には、間違いなく物理的な実体を持った『分厚い本』が存在していた。
それは大判のカードバインダーによく似た形状だった。
深く沈み込むような、底知れない黒に近い紺色の硬い表紙。
中央には、星の軌道のような円環状の紋様が描かれ、その周囲を、形の異なる五つの小さな意匠が取り囲んでいる。
過剰な装飾はなく、どこか厳かで冷たい質感を持っていた。
恐る恐る手を伸ばし、触れてみる。
指先に伝わるのは、上質な革のような滑らかな感触と、微かな冷たさ。
持ち上げてみると、その重厚な見た目に反して、意外なほど軽い。
そして、表紙の中央には、鈍い銀色の文字でこう刻まれていた。
《創世札典/GENESIS DECK》
啓介は唾を飲み込み、その硬い表紙に手を掛け、ゆっくりと最初のページを開いた。
中はやはり、バインダー形式になっていた。
黒い背景に、縦三段、横三列の九つの透明なポケットが並んでいる。
だが、そのほとんどは空っぽだった。
ただ一つ、左上の最初の枠の中にだけ、一枚のカードが収まっていた。
啓介は目を凝らした。
そのカードのイラスト枠に描かれていたのは、見慣れた光景だった。
グレーのソファ。ガラス天板のローテーブル。遮光カーテン。そして、棚に置かれた古いバインダー。
「これ……俺の部屋、か?」
間違いない。現在のこのリビングの状況が、写真のように精密に描かれている。
枠の下に記されたカード名を見る。
《借宿/Borrowed Haven》
土地・住居
【日次起動】
生命、知識、物資、熱量、境界のうち、好きなマナを1点得る。
【借用地】
この場所を居住地として使用する権利を失った場合、このカードは消滅する。
カードのテキストを読み終え、啓介は思わず顔をしかめた。
「借宿……いや、確かにローン組んで買ったわけじゃない賃貸だけどさ」
異能力に目覚めて最初に手に入れた『土地』が、まさかの家賃八万五千円の賃貸マンション。
神聖な響きとは裏腹な、あまりにも生々しい現実に少し毒気を抜かれる。
だが、冷静にテキストを読み返すと、非常に重要なルールが隠されていることに気づく。
『居住地として使用する権利を失った場合』に消滅する。
つまり、不動産としての所有権を持っていなくても、賃貸契約によって法的にそこを使う権利さえあれば、システム上は『自分の土地』として認識されるらしい。だが同時に、退去や契約解除でこのカードを失えば、現時点で唯一のマナ供給源まで消えるということでもある。啓介は「……唯一の基盤に消滅条件付きか」と小さく呟いた。賃貸契約は当分切れない。それでも、借り物ではない土地を持つ意味はありそうだった。
視界に新たなメッセージが浮かび上がった。
『あなたは土地カードを一枚所有しています』
『《借宿/Borrowed Haven》』
『土地は、あなたがマナを得るための基盤です』
啓介はカードの表面を指の腹でそっと撫でた。
印刷されたただの紙ではない。よく見ると、イラストの中のカーテンが、エアコンの風を受けてわずかに揺らぐ様子がリアルタイムで反映されている。
「土地からマナを出して、そのマナをコストにしてカードを使う……」
啓介の脳内で、眠っていたTCGプレイヤーとしての思考回路が急速に接続され始めた。
昔遊んでいたゲームと、根本的なシステムは同じだ。
次のページをめくると、先ほどの五つのシンボルが大きく表示され、それぞれの解説が視界に流れてきた。
『《創世札典》におけるマナは、五つの系統に分類されます』
『生命マナ:肉体、治癒、成長、活力、生物に関わる力』
『知識マナ:観測、記憶、予測、解析、精神に関わる力』
『物資マナ:物質、生成、加工、道具、資源に関わる力』
『熱量マナ:熱、光、電気、運動、力そのものに関わる力』
『境界マナ:隔離、結界、収納、空間、転移に関わる力』
「なるほど、ゲームで言うところの属性みたいなもんか。表紙にあった五つの印は、これを示してたのか」
白、青、黒、赤、緑。あの頃親しんだ色分けに当てはめながら、啓介は大まかに理解を済ませる。
続けて、システムが核心を突くメッセージを提示した。
『今後、あなたはマナを対価として、さまざまな現象を実現できます』
『ただし、何事にも相応の対価が必要です』
『大きな奇跡には、より多くのマナが必要となります』
「現象を実現する……」
魔法、というファンタジーな単語ではなく、現象の実現。
言い換えれば、マナというコストさえ支払えれば、物理法則を無視した事象すら起こせるということだ。
しかし、啓介の目は現実的だった。
今、自分が持っている土地カードは《借宿》一枚のみ。
テキストには【日次起動】とある。おそらく、一日に一度だけ、好きなマナを1点だけ生み出せるという意味だろう。
「ってことは、一日一回、1マナ分の魔法だけ使えるってことか?」
ゲームにおいて、1マナのカードというのはあくまで初動、潤滑油でしかない。世界を滅ぼすドラゴンや、時空を歪める大魔法は撃てない。
だが、ここは現実世界だ。1マナの奇跡がどれほどのものなのか、まったく見当がつかない。
『チュートリアル用の術式カードを一枚寄贈します』
メッセージと共に、バインダーの空白だった二つ目のポケットに光が集束し、新たなカードが形成された。
《日々の修繕/Daily Maintenance》
術式・生命
必要マナ:生命1
自分の軽度な負傷、疲労、筋肉痛、二日酔い、睡眠不足、自然治癒可能な体調不良を回復する。
身体は毎日壊れ、毎日直る。
今日は、その仕事を少しだけ手伝った。
フレーバーテキストまで付いているそのカードのテキストを、啓介は一言一句逃さないように何度も読み返した。
対象は自分のみ。
失った腕を生やしたり、不治の病を治したりするような大掛かりな奇跡ではない。あくまで「自然治癒可能な」範囲の不調を取り除くもの。
しかし。
啓介は自分の身体の状態を思い返す。
徹夜まがいの残業による睡眠不足。首から右肩にかけてのひどい凝り。腰の重さ。モニターを睨み続けた眼精疲労。そして、左手の人差し指の切り傷。
今の自分にとって、これ以上ないほどクリティカルに刺さる効果だった。
もしこのテキストが本物なら、三十六歳の肉体を蝕むこれらの不快感が、一瞬で消え去るということだ。
『《借宿/Borrowed Haven》から生命マナを1点取得してください』
システムの指示に従い、啓介は《借宿》のカードに指で触れた。
すると、視界に五つのマナシンボルが展開される。
啓介が「生命」のシンボルを意識した瞬間、《借宿》のカードが柔らかく輝き、そのイラストから一粒の光が抜け出し、バインダーの上にふわりと浮かび上がった。
ただの緑色ではない。内側から生命の熱を帯びたような、暖かな金緑色の光球。
それが、啓介の心臓の鼓動に同調するように、トクン、トクンとゆっくり明滅している。
『保有マナ』
『生命:1』
『知識:0』
『物資:0』
『熱量:0』
『境界:0』
同時に、バインダーの中の《借宿》のカード全体がスッと暗く沈んだ色合いに変化した。
今日一日の行動を終え、タップ状態になったことが視覚的にもはっきりと理解できる。
『術式を使用する場合、カード名と使用宣言を発声してください』
『《日々の修繕/Daily Maintenance》使用――と発声してください』
光の球を前にして、啓介は一瞬だけ躊躇した。
「これ、ルビ振ってある英語名までフルで言わなきゃダメなのか?」
それに「使用」という単語。もう少し、こう「発動!」とか「解放!」みたいな厨二心をくすぐる言い回しはなかったのだろうか。
誰もいない部屋で、一人で技名を叫ぶ。
三十六歳の社会人にとっては、なかなかにハードルの高い要求だ。
だが——啓介は右肩をぐるりと回した。
ゴリッ、という鈍い音と共に、神経を逆撫でするような重苦しい痛みが走る。
この忌々しい肩こりが本当に消えるというなら、安い代償だ。
啓介は姿勢を正し、浮かび上がる金緑色の光を見つめ、バインダーの上に手を置いた。
「……《日々の修繕》」
短く息を吸い込む。
「使用!」
宣言した瞬間、空中に浮かんでいた生命マナの光球が弾けた。
パァン、という澄んだ破裂音とともに、金緑色の光の粒子がシャワーのように降り注ぎ、啓介の胸元から全身へと染み込んでいく。
眩しさはなく、熱さもない。
例えるなら、冷え切った冬の日に、適温の温泉に首まで浸かったような、全身の細胞が安堵の吐息を漏らすような圧倒的な心地よさ。
変化は劇的だった。
まず、眼球の奥でジンジンと燻っていた熱が、冷たい水で洗い流されたようにスッと消え去った。
ピントが合いやすくなり、視界の解像度が一段階上がったかのようにクリアになる。
続いて、右肩から首にかけて凝り固まっていた筋繊維が、魔法のように——いや、まさに魔法によって——一気に緩んでいく。
背骨を伝って腰の奥底に張り付いていた鉛のような重さも、霧が晴れるように消え去った。
睡眠不足特有の脳の奥のモヤモヤした感覚も拭い去られ、思考が研ぎ澄まされていく。
そして最後。
啓介が見つめる前で、左手の人差し指にあった鋭利な紙の切り傷の縁が微かに温かくなり、細胞が高速で編み直されるようにして、瞬く間に塞がっていった。
ほんの数秒後には、微かな血の跡だけを残して、傷口そのものが跡形もなく消滅していた。
光が完全に収まり、部屋に元の静寂が戻る。
数秒間、啓介はソファに座ったまま、まったく動くことができなかった。英語名まで口にしなくても術式は問題なく発動したらしいが、今はそんな確認すら頭から抜け落ちていた。
ただ、自分の身体に起きた現象を脳が処理するのを待っていた。
おもむろに、左手の人差し指の血をティッシュで拭き取る。
綺麗な肌があるだけだ。押しても曲げても、一切の痛みはない。
次に、右腕をゆっくりと上に伸ばす。
普段なら、ある一定の角度で「これ以上は無理だ」という筋肉の抵抗と痛みが走るはずだった。
しかし、腕はどこまでもスムーズに、まるで油を差したばかりの機械のように滑らかに頭上まで上がった。
首を左右に倒す。ゴリゴリという不快な音は鳴らない。
立ち上がり、腰をひねる。深く屈伸をしてみる。
「……すごい」
思わず口から漏れた声は、自分でも驚くほど震えていた。
「なんだこれ。身体が、めちゃくちゃ軽い」
筋肉が倍増したわけではない。十代の肉体に若返ったわけでもない。
ただ、三十六歳の身体が抱え込んでいた、あらゆる『マイナス』がゼロにリセットされただけだ。
しかし、慢性的な疲労と不調を「これが普通だ」と脳に思い込ませて生きてきた啓介にとって、その『完全な健康状態』は、飛べるのではないかと錯覚するほどの全能感を与えてくれた。
「本物だ」
啓介の顔に、子供のような純粋な笑みが広がっていく。
「本当に、魔法が使えたんだ」
異変に対する恐怖や警戒心は、もはや欠片も残っていなかった。
ただただ、得体の知れない力がもたらした圧倒的な恩恵に対する喜びが、全身を駆け巡っている。
たった1マナ。たった一つの現象。
それでも、この魔法は、すり減るだけだったサラリーマンの人生の質を、劇的に引き上げるだけの力を持っていた。
啓介が興奮に浸っていると、視界の端で再び白い文字が流れた。
『術式《日々の修繕/Daily Maintenance》の使用を確認しました』
『以上で、《創世札典》のチュートリアルを終了します』
抑揚のないシステムメッセージが続き、そして最後にこう結ばれた。
『今後、あなたが《創世札典》を用いて何を為すかは自由です』
『新たなカードは、あなたの発想、行動、所有物、経験によって獲得または作成されます』
『では、よい日々を』
『《創世札典》チュートリアルを終了します』
その言葉を最後に、視界に浮かんでいた白い文字は、すべて光の粒となって空気中に溶けるように消え去った。
後に残されたのは、いつもの休日の朝のリビング。
テレビの音もなく、聞こえてくるのは窓の外を走る車の走行音だけ。
啓介は、膝の上に乗ったままの重厚なバインダーを見下ろした。
最初のページには、暗く沈んだ《借宿》と、先ほど効果を発揮した《日々の修繕》の二枚が、確かな存在感を持って収まっている。
《借宿》から今日絞り出せるマナはもうない。
保有マナもゼロだ。
つまり、少なくとも今日という一日の間は、啓介はもう二度と魔法を使うことはできない。
その事実に対して、少しだけ残念な気持ちが湧き上がる。
だが、それ以上に、啓介の胸を満たしていたのは『明日』に対する強烈な期待だった。
毎日一回。
一日に使えるのは、今のところたった1マナだけ。
それでも、1マナの生命魔法で、日々の疲労や軽傷を完全にリセットできるとわかった。
ならば、他のマナならどうなる?
知識マナを1点使えば、何が知れる?
失くした書類の場所を見つけられるのか。明日の天気を100%の精度で当てられるのか。それとも、仕事での致命的なミスを未然に察知できるのか。
物資マナなら、何を生み出せる?
熱量マナなら?
境界マナなら?
想像の翼が、何年も使っていなかったTCGプレイヤーとしての思考回路に乗って、際限なく広がっていく。
啓介は、バインダーのページをめくり、何もない空白のポケットに指を這わせながら呟いた。
「新しいカードは、俺の発想や行動で作れるんだよな?」
当然、システムからの返答はない。
だが、何ページにもわたって続くその黒い空白の枠そのものが、「ここをどう埋めるかはお前次第だ」と無言で語りかけているように思えた。
啓介は満足げに息を吐き、バインダーを閉じた。
すると、分厚い本全体が青白い光に包まれ、ふっと空間の向こうへ収納されるように消えた。
「おっと」
慌てて、しかし今度は少し自信を持って口にする。
「……バインダー」
ポンッ、という音と共に、再び膝の上にそれは現れた。
呼び出しも収納も自由自在らしい。能力が消えたわけでも、夢を見ていたわけでもない。
ローテーブルに置かれたままの陶器のカップに目をやる。
すっかり時間の経ったドリップコーヒーは、もうぬるくなっていた。
啓介はカップを持ち上げ、ぬるくなったそれを一口喉に流し込む。
温度を失ったコーヒーは酸味が強くなっているはずなのに、不思議とまったくまずく感じなかった。
身体の隅々までが羽のように軽く、視界はどこまでも澄み切っている。
昨日までとまったく同じ間取りの部屋。
昨日までとまったく同じ、予定のない休日。
窓の向こうに広がる、昨日までとまったく同じ東京の景色。
しかし、啓介の目に映る世界は、もう昨日までのそれとは決定的に違っていた。
自分の生きる基盤からマナを引き出し、そのマナを支払って世界に現象を上書きする。
昔夢中になって遊んでいたカードゲームのルール。
そのルールにおいて、『1マナ』というのはいつだって、壮大なゲームのほんの始まりに過ぎなかった。
「毎日一回、魔法が使える……か」
啓介はバインダーの硬い表紙をポンポンと叩きながら、自然と緩んでしまう口元を手で覆った。その向こうに、棚で眠る古いカードバインダーが見える。昔は紙のカードを並べ、限られたマナで勝つ方法を考えていた。今度は、現実そのものをカードとして組み上げていくことになるらしい。
「今の生活も、別に悪くはなかったけど」
停滞し、ゆっくりとすり減っていくだけだと思っていた自分の人生。
「これは——面白くなってきたな」
三十六歳のサラリーマンの、誰に知られることもない、たった1マナからの奇跡の日常が、今ここに幕を開けた。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!