TCG能力《創世札典》を手に入れた俺、一日一マナから現代社会を攻略する~治療、未来予知、若返り。マナが足りないので山を買います~ 作:パラレル・ゲーマー
土曜日の朝。
啓介は、いつもの健診センターの診察室にいた。
《健全なる肉体》を自分自身に使用してから、ちょうど一ヶ月。
この一ヶ月間、啓介は一日も欠かさず、体温、体重、血圧、心拍、食欲の有無、睡眠時間、排便の状況、自覚的な疲労感や痛み、皮膚の異常、その他思いつく限りの健康データを記録し、暗号化して三崎へ送り続けてきた。
一週間後の検査までは、明らかな異常はなし。
その後の三週間も、啓介の身体は驚異的な安定を保っていた。
魔法で消し去ったはずの脂肪肝のリバウンド(再発)はなし。
デスクワークによる慢性的な腰痛や肩こりの再発もなし。
魔法の反動による急激な体重変化、異常な発熱、アレルギー反応、細胞の異常増殖を疑うようなしこりの発生も一切なし。
極端な空腹や過眠といった生理的異常もなく、逆に身体能力が不自然に暴走して「超人」になってしまうような変化も起きていない。
完璧な、三十六歳の健康な成人男性そのものだった。
だが、三崎は今日も容赦なく、啓介の全身を徹底的に検査した。
血液検査、尿検査、腹部エコー、心電図、体組成計、リンパ節の触診、皮膚や口腔内の視診、各関節の可動域確認。
現在の数値を、一週間前、二週間前と比較するだけでなく、《健全なる肉体》を使用する前の「少し疲れた会社員」だった頃のデータとも厳密に突き合わせていく。
すべての検査とデータ確認を終え。
三崎は、机の上の分厚い検査表の束をバサッと揃え、深く、長く息を吐き出した。
「……認めるのは非常に癪だが。一ヶ月経過した現時点では、お前の身体に全く異常はない」
啓介は少しだけ肩の力を抜いた。
「それは、今回の検証は『成功』ってことでいいのか?」
「勘違いするな。一ヶ月以内に顕在化するような『急性・亜急性の遅発性障害』は、少なくとも現代医学の検査の網には引っかからなかった、というだけだ。三ヶ月後の検査も予定通りきっちりやる。これで『魔法による肉体改造は絶対に安全だ』なんて口が裂けても言わないからな」
啓介も、三崎のその極めて慎重なスタンスには完全に同意だった。
このカード一枚、啓介というたった一症例のデータだけで、「すべての人間に使っても安全だ」と証明できるわけがない。
ただし。
『啓介本人への一回の使用については、一ヶ月後まで正常な健康状態が完全に維持された』
この強固な実績データが得られたことの価値は、計り知れなく大きかった。
三崎は、眼鏡の位置を少し直し、まっすぐに啓介を見た。
「……当初の約束どおり、俺の膝へ《古傷の修復》を試すことには、同意する。いつでもやれ」
これで、《一年若く》も「安全性を検証する次の候補」へ進める。ただし、《健全なる肉体》とは別の術式であり、無条件に安全が証明されたわけではない。
三崎が、少し意地悪く言った。
「今日は俺の古傷じゃなく、自分の若返りの方を先に試してもいいんだぞ。もっとも、使うなら使用前検査から新しい観察計画を組み直すがな」
だが、啓介は迷いなく首を横に振った。
「いや、後回しだ。俺が一ヶ月も《一年若く》を我慢して待ったのは、ただ自分が若返りたかったからじゃない。お前の膝を安全に治すための実績作りの意味もあっただろ」
《一年若く》は、改めて検査計画を組めば試せる。三崎の膝も、どこかへ逃げるわけではない。
それでも今日は、最初に約束した「第一の対人治療」を優先する。大げさな自己犠牲のつもりはないが、それが啓介なりの、この検証に付き合ってくれた友人への誠実さだった。
治療に入る前に、三崎は医師として、自分自身の右膝の状態をカルテに厳密に再定義し始めた。
過去のフットサルでの受傷事故による、右膝の前十字靱帯の不完全な損傷。それに伴う半月板の微小な亀裂と軟骨の偏った摩耗。気圧の低下時や疲労時に現れる慢性的な関節内の炎症。一定の角度で発生する可動域の軽微な制限。そして、痛みを長年かばって生活し続けたことによる、右脚全体の筋肉と腱のアンバランスな緊張。
「これらをすべて、『過去の一件のスポーツ外傷に直接起因した後遺症』として一つにまとめる。対象は俺の右膝、この一回だけ。これでいいな?」
三崎が診断記録と同意書を揃えたことを確認する。
啓介は頷き、以前は仮設計のまま保留していたカードを、この治療条件で正式に確定させた。
《古傷の修復/Mend the Old Injury》
術式・生命・知識
必要マナ:生命2・知識1
医療的に特定された一件の既往外傷、およびその外傷へ直接起因する後遺症を、対象者の現在年齢において健康な状態へ修復する。
【単一損傷】一度の使用で対象にできるのは、原因となった一件の既往外傷と、それに直接起因する後遺症のみ。
【診断指定】発動には、対象となる外傷、部位、後遺症および治療範囲を特定できる医学的診断記録を必要とする。
【対象同意】判断能力を持つ対象者本人の、明示的な治療同意を必要とする。
【非若返り】対象者の現在年齢における健康な状態へ修復する。全身の若返り、身体能力の強化、無関係な疾患または別の外傷には作用しない。
三崎は、治療直前のデータを徹底的に残し始めた。
自覚的な痛みの程度のスケール。膝の曲げ伸ばしの角度。階段の昇降テスト。片脚立ちでの安定性テスト。深い屈伸。
さらに、現在の右膝の超音波(エコー)画像と、過去に撮ったMRI画像の比較用データ。両脚の太ももやふくらはぎの周径(太さの左右差)。筋力測定。歩行時の動画撮影。
そして最後に、三崎は自分自身で「治療同意書」を書き始めた。
魔法による治療に、法的に有効なフォーマットなど存在するはずもない。だが三崎は、
「何を説明され、どの危険性を理解し、自分の自由な意思でこの未認可の治療に同意したか」
を、自筆で細かく書き残し、サインをした。
その異様なまでの徹底ぶりに、啓介は呆れた。
「お前、自分が患者になると、医者の時より余計に面倒くさい患者になるんだな。そもそも、他人へ使えるカードを持つこと自体には反対してたんじゃなかったのか?」
「《健全なる肉体》は善意や衝動で誰にでも撃てるから自己限定にした。《古傷の修復》は診断記録と本人の同意がなければ発動しない。今日は俺を第一症例として一回だけ認める。一般の他人へ使っていいという許可じゃない。記録も完璧に残す」
準備はすべて整った。
啓介はバインダーを呼び出し、本日のマナ配分を行う。
《生命樹の苗床》から、生命1。
《名もなき雑木地》から、生命1(生命または物資から選択)。
《思索の計数盤》から、知識1。
生命2、知識1。合計3マナ。
これで、《古傷の修復》のコストは完全に支払える。残る《借宿》(任意1)、《五彩の魔石》(任意1)、《小さな工房箱》(物資1)は、不測の事態のために温存する。
「いくぞ」
啓介は、三崎の右膝の少し上に、そっと手を添えた。
「《古傷の修復》、使用」
バインダーから、生命の濃い緑の光と、知識の青白い光が同時に溢れ出し、螺旋を描きながら三崎の右膝へと吸い込まれていった。
派手な骨の変形音や、痛みを伴うような劇的な変化は起きなかった。
三崎が感じたのは、静かな変化だった。
膝の奥深く、関節の芯がカッと温かくなる。
過去に切れた靱帯、削れた軟骨、傷ついた半月板。その古い傷の痕跡を、目に見えない無数の細い糸が正確になぞり、縫い合わせていくような奇妙な感覚。
長年、膝の曲げ伸ばしのたびに存在していた、微かな『引っかかり』が、スルリとほどけていく。
関節の奥で、ズレていた骨と軟骨の位置が正しく収まり直す。
痛みをかばうために無意識に硬直していた周囲の筋肉や腱の緊張が、ふっと一斉に抜けていく。
時間にして、数秒から十数秒。
膝を包んでいた二色の光が、完全に消え去った。
「……終わった」
啓介が手を離す。
三崎は、無言のままスッと立ち上がろうとした。
啓介が慌ててその肩を押さえる。
「おい、待て! 急に走ったり飛んだりするな。ちゃんと治ったか、エコーとかで確認するのが先だろ」
「……それは本来、医者である俺の台詞だ」
三崎は、まず椅子に座ったまま、右膝をゆっくりと曲げ伸ばしした。
以前なら、一定の角度まで深く曲げると、必ず「コリッ」という小さな引っかかりと、それに伴う鈍い痛みがあった。
今はない。全く、何もない。
次に、立ち上がる。
右脚に全体重をかける。片脚立ちになる。
そのまま、深くしゃがみ込む(フルスクワット)。
そして、立ち上がる。
診察室に備え付けられた、踏み台昇降用の短い階段を、何度か上り下りする。
最後に、その場で軽くジャンプし、両足で着地した。
痛み、なし。
関節が外れそうになる不安定感、なし。
不快な摩擦音やクリック音、なし。
三崎は、信じられないものを見るような顔で、自分の右膝を何度も、何度も曲げ伸ばしした。
「……ない」
「何が?」
「痛みがない。違和感も、引っかかりも、不自然な筋の張りも、何一つない」
それでも、三崎は決して主観的な感情だけで判断しなかった。
「エコーを当てるぞ」
自ら腹部超音波のプローブを手に取り、ゼリーを塗って自分の右膝の関節内を描出した。
モニターに映し出される白黒の画像。
超音波で観察できる範囲では、慢性的に溜まっていた少量の関節液が消え、炎症所見も完全に消失していた。
靱帯、半月板、軟骨の深部まで断定するにはMRIが必要だが、触診、安定性、可動域、疼痛、そして現在確認できる画像所見は、すべて健康な右膝と一致している。
「前十字靱帯と半月板、軟骨の最終確認はMRIでやる。提携先へ自費で予約を入れる。今この場の感動だけで、検査手順を飛ばす気はない」
すべての検査を終え、三崎はプローブを置いた。
「……医者として、簡単に『完全』なんて無責任な言葉は使いたくないんだが」
三崎は、少しだけ震える手で、右膝をさすった。
「だが、少なくとも今、俺の感覚と検査で確認できるすべての範囲において。……俺の膝は、治っている。完全にだ」
三崎は、大声で歓喜して泣き崩れるようなタイプではなかった。
むしろ彼は、その後も無言で何度も膝を曲げ、階段を往復し、昔は痛くてできなくなっていた「正座」や「深くしゃがみ込む姿勢」を繰り返し試した。
無意識のうちに右膝をかばう、あの不格好な歩き方の癖が抜け、両脚に均等に体重を乗せて歩けていることに、自分自身で気づいていく。
長年、朝起きた時や、雨が降る前日、そして当直明けの疲労が溜まった時に必ず付き纏っていた、あの嫌な鈍痛がない。
常に、脳の片隅で「これ以上負担をかけたら痛むかもしれない」と、少しだけ意識を向けて警戒していた右膝から、警告のアラートが一切上がってこないのだ。
「……痛くないことって、こんなに静かなんだな」
三崎が、ポツリとこぼしたその一言に、彼の長年の苦労と、それから解放された静かな感動がすべて詰まっていた。
啓介は、大きく肩の力を抜いた。
自分自身の《健全なる肉体》で一ヶ月待った意味が、この親友の言葉でようやく完全に報われた気がした。
ただし、この魔法の奇跡を、すぐに一般の医療現場へ公開・応用できるわけではない。
三崎は完全回復しても、即座に「よし、明日からうちの病院の患者にも使おう」と暴走することはなかった。
「今回分かったのは、お前への《健全なる肉体》の一例と、俺への《古傷の修復》の一例。世界でたった二例だけだ」
三崎は、冷静に現実を指摘した。
「しかも使ったカードの術式が違う。対象者も、比較的健康な三十代の男二人だけ。……年齢や性別による個人差、重症度の違い、患者が飲んでいる薬との相互作用、感染症や遺伝病への効果、高齢者や小児への影響、悪性腫瘍(ガン)に対する作用、複数の疾患が絡み合っている場合の挙動、そして魔法が精神へ与える影響。……分からないことだらけだ」
三崎は、啓介をまっすぐに見据えて念を押した。
「今日解除したのは、『診断済みの三崎修司の右膝へ、一回だけ使ってよい』という許可だ。俺以外の人間へ勝手に使っていいという意味じゃない。次の対人治療も、対象、診断、カード設計、経過観察計画を全部決めてからだ」
「分かってる」啓介も深く頷いた。
「それと《一年若く》も、明日一人で勝手に使うな。使用前、二十四時間後、一週間後、一ヶ月後、三ヶ月後で追う。《健全なる肉体》より分からないことが多い分、検査はむしろ厳しくする」
治療が成功したからこそ、二人はこの力が現代医療の限界を変え得ると理解し、同時に、一例の成功を許可の拡大と取り違えないための手順をさらに固くした。
治療が終わり、ようやくすべての緊張が解けた後のことだった。
三崎は残った任意2・物資1を確認し、「今日は別の魔法を使うな。異常が出た時に原因を切り分けられなくなる」と命じた。
そのままコーヒーを飲みながら、三崎が尋ねる。「ところで。この一ヶ月、お前は俺の膝の検証以外に、一体何をしてたんだ?」
啓介は、最近の激動の出来事をかいつまんで説明した。
《五彩の魔石》と《生命樹の苗床》の安定稼働。古いライフカウンターから作った《思索の計数盤》。工具一式から作った《小さな工房箱》。
そして、以前三崎へ話して呆れられた青梅の山林を、本当に三十八万円で購入し、《名もなき雑木地》として土地カード化したこと。
「待て。前に言ってた『山』って、本当に買ったのか?」「三十八万円で」「値段の問題じゃない。俺が冗談だと思って流した話を、どうして一ヶ月後には登記まで終わらせてるんだ」
土地を含めて一日6マナ体制へ到達したが、固定の境界マナがないため、総量が足りても《時間停止》は使えないことまで説明した。
そして、小型の召喚生物である「小竜」を作り出したこと。
その小竜のために、青梅の山林へ専用施設《小竜の家》を自作して建てたこと。
「《小竜の家》? 表札にもそう書いたのか?」「内側にな」「それ、犬小屋へ『犬の家』って表札を掛けるようなものじゃないか?」
さらに、防犯カメラとスピーカーを設置し、野良猫が接近した際には遠隔指示で退避させたが、安全不足のため単独宿泊は認めず、次は啓介も一緒に夜間試験をする予定だと話した。
三崎は目を丸くした。「……お前、俺が一ヶ月大人しく体調の記録をつけてる間に、一人でファンタジーと開拓サバイバルと小規模インフラ構築を並行して進めすぎだろ」
ただし、啓介は従来の方針通り、重大なリスクを伴う秘密については意図的に伏せていた。
《約束された当選番号》による宝くじの高額当選と、それによる金銭の獲得。
未来予知のカードの存在。そして何より、他人の記憶を強制的に消去できる《秘密の切除》のこと。
三崎には医療魔法とマナ基盤についての協力は仰いでいるが、啓介が抱えるすべての危険な秘密を開示し、彼を共犯者にする段階ではまだない。
「言葉で説明されても、俺の脳の処理が追いつかん。……お前、本当に『竜』なんてものを飼ってるのか?」
「飼ってるというか、魔力で召喚して維持してるというか」
「その違いは、もう現代社会においてほとんどないだろ」
信じ切れない様子の三崎に、啓介はスマートフォンを取り出し、画面を見せた。
外部のクラウドサービスには一切送信せず、端末のローカルストレージ内にのみ厳重に暗号化保存してある、小竜の映像データだ。
山林の木々の間を飛ぶ小竜。
監視カメラのレンズに興味津々で鼻を近づけ、ドアップで映る小竜。
《小竜の家》の内扉を鼻先で開けて入っていく小竜。
水皿に鼻を突っ込んでくしゃみをする小竜。
野良猫が近づいた時、小屋の奥で身を低くして隠れる小竜。
そして、家確認用の監視カメラに映っていた、敷地へ戻った啓介を見つけて《小竜の家》から弾丸のように飛び出し、肩へしがみつく小竜。
三崎は、映像を食い入るように見つめ、しばらく完全に無言になった。
「……CGやAIじゃないな。影の落ち方や、筋肉の連動、周囲の環境との接地感がリアルすぎる」
三崎は医師としての好奇心を爆発させ、矢継ぎ早に質問攻めにしてきた。
「こいつ、食事は必要なのか? 排泄はするのか? 触った時の体温はあるか? 病気になったり、成長して巨大化したりするのか? 人獣共通感染症(ズーノーシス)のリスクは? 爪や歯に毒腺はないか? 知能レベルは犬や猫と比べてどの程度だ? 痛みを感じる痛覚はあるか? 感情はどこまで複雑だ?」
啓介はバインダーを開き、既知の仕様と未確認項目をその場で照会した。「分かっているのは、食事や水は召喚維持に必須じゃないこと、身体はカードで定義された掌サイズから自然成長しないこと、経験や技能や感情は育つこと、快不快も不安も帰属意識もあって、現実に傷つけば痛みも感じることだ」
「逆に、排泄や代謝、感染症の媒介、毒腺、正常体温、治療魔法の適用範囲は未確認か。次はこいつを連れてこい。採血や麻酔はしない。本人が嫌がらない範囲で、体温、心拍、呼吸、体重、口腔、爪、翼、関節だけ非侵襲で診る」「こいつが嫌がったら中止だぞ」「患者本人の同意が必要なのは、竜でも同じだ」
そして、啓介が映像の中で、
『小竜。家へ戻れ』
とスピーカー越しに遠隔指示を出している場面が再生された時だった。
やがて、啓介が映像の中で『小竜。家へ戻れ』と遠隔指示を出す場面になり、三崎が「ちょっと待て」と動画を止めた。
「何だ?」
「さっきから気になってたんだが、お前……こいつのこと、本当にずっと『小竜』って呼んでるのか?」
「そうだけど。それが何か?」
三崎は、信じられないものを見るように深く呆れた顔をした。
「やっぱりそれ、名前じゃなくて単なる生物の種類だろ。《小竜の家》も、犬小屋に『犬の家』と書いた表札を掛けてるのと同じだ」
啓介が、一瞬言葉に詰まって黙り込んだ。
三崎が畳み掛ける。
「犬を飼ってて、その犬にずっと『おい、小型犬』って呼び続けてるようなもんだぞ。猫に向かって『子猫、ご飯だぞ』って言ってるのと同じだ。お前、正気か?」
「いや、でも、俺が『小竜』って呼べばあいつは来るし、本人もその言葉に反応して動くぞ」
「それはお前が『小竜』という音声記号で指示を出し続けたから、条件反射で反応するようになっただけだろ。パブロフの犬と一緒だ」
啓介は、雷に打たれたように固まった。
そして初めて、その『名前』という問題について真剣に考えた。
《掌乗りの小竜》というカードを作ってから、これまで。
小竜のために、手作りのハーネスを作った。呼び戻しの訓練を重ねた。山林に専用の家を建てた。拾ってきたガラクタを置くための宝物棚を作った。野良猫から守るために防犯カメラとスピーカーまで設置した。
それだけ過保護に環境を整えておきながら。
啓介は小竜に、『名前』だけはつけていなかったのだ。
三崎は、一時停止された画面の中で、啓介の帰還を待ち、肩へ飛びついている小竜の姿を指差した。
「そいつ、自分の家の場所も、自分の宝物も、お前の声の指示も、ちゃんと区別して分かってるんだろ」
「……ああ。めちゃくちゃ賢い」
「だったら」三崎は言った。
「そろそろ、『俺はお前自身という個体を呼んでいるんだ』と分かるような、ちゃんとした名前くらい、つけてやれよ」
その一言は、啓介の胸の痛いところに深く刺さった。
小竜はすでに、単なる魔法のプログラムやシステムの一部ではなく、『一個体』として学習し、感情を持ち、啓介の帰りを待ち、自分の家へ帰り、自分の財宝を所有するところまで成長している。
『小竜』というのは、あくまでカードの名前であり、種別名だ。
あいつ自身の名前ではない。
夕方まで三崎の経過観察を受け、残った任意2と物資1を別の魔法へ使わないまま、啓介はマンションへ帰宅した。
玄関のドアを開け、指を二回鳴らす合図を出すと、リビングから小竜がパタパタと喜んで飛んで迎えにきた。
啓介はいつものように、
「ただいま、小竜」
と呼びかけようとして、ハッと途中で言葉を飲み込んだ。
「ただいま、……」
突然名前を呼ばれなかった小竜は、啓介の肩の上で「あぎゃ?」と不思議そうに首を傾げた。
啓介は、肩に乗る小竜を改めて正面から見つめた。
赤銅色に輝く硬質な鱗。背中の小さな翼。生意気そうで、どこか愛嬌のある顔立ち。啓介のシャツの袖をギュッと掴んでいる前脚。
青梅の山林に、自分の家と、自分の財宝を持つ。世界にたった一匹しかいない、啓介だけの小さな竜。
「……お前、名前が欲しいか?」
「あぎゃ?」
小竜は、言葉の意味は分かっていない。
ただ、啓介が自分という存在に向けて、真剣に何かを語りかけていることだけは理解しているようだった。
啓介はリビングのローテーブルに座り、ノートの新しいページを開いた。
見出しを書く。
《小竜の命名候補》
啓介がペンを走らせようとすると、小竜が飛んできて、ペンの後ろにガブッと噛みついた。
「こら。お前自身の名前を選ぶんだから、邪魔するなよ」
啓介は、世界に一匹しかいないその個体を、初めて種別ではなく名前で呼ぶために、ペンを握り直した。
決めるのにマナも金もいらない。ただ、本人が気に入る一つを選べばいい。
小竜には、まだ名前がなかった。
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