TCG能力《創世札典》を手に入れた俺、一日一マナから現代社会を攻略する~治療、未来予知、若返り。マナが足りないので山を買います~ 作:パラレル・ゲーマー
月曜日の夜。
会社から帰宅した啓介は、夕食を手早く済ませ、リビングのローテーブルにノートを広げた。
隣では、アカネが段ボールの仮住居の屋根に乗り、啓介がペンを動かすのを邪魔するかのように、短い尻尾をパタパタと振っている。
ノートの新しいページに、今週末の計画の見出しを書き込む。
《青梅山林・管理者立会い夜間試験》
現在、青梅の山林には、先週完成させた《アカネの家》がある。
アカネにとっては、雨風をしのぐ屋根があり、お気に入りの古着の寝床があり、拾い集めたプルタブを並べる宝物棚があり、さらには魔法の【微気候】や【巣守り】まで完備されている。
だが、啓介自身には、あの山に「何もない」。
電気も通っていない。水道もない。休むための椅子すらない。
週末、アカネを一晩山に泊まらせる試験をするにあたって、管理監督者である啓介が、ただ地面に突っ立って夜を明かすわけにはいかなかった。
「……待てよ。お前の立派な家を作ってやったのに、俺の寝床がまだないじゃないか」
「あぎゃ?」
アカネは首を傾げた。
土地の所有者であり、マナを生み出す創造主である啓介の方が、圧倒的に劣悪な住環境なのだ。完全に順序が逆だった。
啓介は、人間用の宿泊要件をノートに書き出していった。
『目的』
アカネの夜間利用状況(不安がらないか)の観察。
夜の山林の気温、湿度、騒音、野生生物の活動状況の確認。
先週設置した防犯カメラとセンサーが、暗闇でも正常に機能するかの確認。
そして、何かトラブルが起きた時に、現地にいる人間(自分)が即座に対応できるかのテスト。
『必要設備(就寝)』
軽量な一人用テント。地面の湿気を防ぐ防水のグランドシート。
身体を地面から離すための折りたたみ式コット(簡易ベッド)。
季節に合った寝袋と、断熱マット。
照明類(ヘッドライト、小型のLEDランタン、予備電池)。
『衛生・食事』
非常用の携帯トイレと、それを使うための小さな目隠し用テント。
手洗い用の水タンク、アルコール消毒液。
火を使わずに食べられる食料(おにぎり、パン、ゼリー飲料など)。
匂いの漏れない密閉できるゴミ袋。
啓介は、キャンプの動画などでよく見る「焚き火」や「カセットコンロ」を、今回のリストから完全に除外した。
火を使えば確かにキャンプらしくなる。しかし、今回はレジャーではないのだ。
山火事のリスク、煙による近隣住民への発覚、一酸化炭素中毒、アカネが火に突っ込む危険性。猫などの野生動物を匂いで引き寄せてしまう可能性。
「映えるキャンプをしに行くわけじゃない。これはあくまで、アカネの夜間運用テストだ」
『防虫』
肌を露出しない長袖長ズボン。蚊帳機能のついたテント。人間用の肌用虫よけスプレー。
ただし、強い匂いの出る蚊取り線香や、空間に散布するタイプの殺虫剤は使用しない。召喚生物であるアカネや、森の生態系にどのような悪影響を及ぼすか、まだ未知数だからだ。三崎へ相談すると、『来週の日曜、診療時間外に連れてこい。最初は採血も麻酔もせず、体温、心拍、呼吸数、体重、口腔、爪、翼、関節、皮膚と粘膜だけを見る』『一ヶ月以上同居しているんだ。今さらだから調べなくていい、にはならん』と検査日程まで決められた。
『緊急対応・中止条件』
雨、雷、強風の予報が出た場合は即中止。
通信障害。啓介の体調不良。不審者の目撃。イノシシなど大型動物の痕跡があった場合。
そして、アカネが極度の不安やパニックを起こした場合も、即座に試験を打ち切って撤収する。
平日、仕事の合間や帰宅後に必要な道具をネット通販で揃えた啓介は、金曜日の夜、マンションのリビングで一人用テントの試し張りを始めた。
ポールを伸ばしてスリーブに通す。
インナーテントを立ち上げ、フライシートを上から被せる。室内なのでペグダウンはできないが、おおよその形と手順は確認できた。
作業開始直後から、アカネは興味津々だった。
伸ばしたポールの先端に飛び乗ってバランスを崩させたり、広げたテント生地の下に潜り込んで、床を下からボコボコと持ち上げたりして遊んでいる。
「こら。そこにいたらポールが差し込めないだろ」
「あぎゃあ!」
ようやくテントが組み上がり、入口のファスナーを開ける。
アカネは、当然のように一番乗りで中へと飛び込んでいった。
啓介が寝袋を広げて敷くと、アカネは迷うことなく寝袋のど真ん中へ移動し、クルクルと回ってから丸く伏せた。
「……そこ、俺の寝る場所なんだけど」
アカネは聞こえないふりをして目を閉じた。
「おい、アカネ」
名前を呼ばれ、片目だけを薄く開けたが、絶対に退こうとはしなかった。
啓介は、一つの懸念事項に気づいた。
アカネの爪だ。小さくても、竜の硬い爪。
テントのメッシュ部分や、寝袋の薄いナイロン生地を引っ掻けば、簡単に穴が開いてしまうかもしれない。
対策として、テントの床には厚手の保護シートを二重に敷き、空気で膨らませるタイプのエアマットではなく、穴が開いても使えるウレタン製の折りたたみマットを採用することにした。
さらに、アカネを啓介の寝袋から隔離するため、寝袋のすぐ横に、アカネ用の小さな専用クッションを配置した。
啓介がアカネを抱き上げてクッションの上に移動させる。
十秒後。アカネはトテトテと歩いて、再び啓介の寝袋のど真ん中へ戻ってきた。
「立派な自分の家(別荘)があるのに、なんで俺の寝床にこだわるんだお前は」
攻防の末、最終的に啓介の寝袋の足元のスペースに、啓介の匂いのする古いタオルを敷いてやることで、ようやくアカネはそこで大人しく丸くなることに同意した。その後、宿泊前の安全確認として山林の一週間分の録画を見直すと、例の猫が火曜の夕方、木曜の深夜、金曜の早朝の三度映っていた。胸元の白い毛、左耳の欠け、曲がった尾まで一致する。偶然の一度きりではなく、この周辺を継続的な行動範囲にしているらしい。
土曜日の朝。
天気予報は晴れ。雨、雷、強風の予報はなし。
啓介とアカネの体調も正常。
啓介は、バインダーを呼び出し、恒例の《危険判定》を使用した。
「本日午後から明朝にかけて、青梅の山林において、俺が管理者としてテントへ宿泊し、アカネに《アカネの家》を夜間利用させる試験を行う。第三者にアカネまたは魔法を認識・記録されず、俺、アカネ、または第三者に重大な損害を生じさせず、明日無事に帰宅できるか」
回答。
『否定』
重大な危険は検出されなかった。
ただし、当然だが「虫に刺されない」「野生動物が絶対に来ない」「啓介が快適に熟睡できる」「アカネが素直に自分の家で寝る」といったことまで保証してくれるわけではない。
本日のマナ配分を確認する。
現在の六マナ基盤のうち、《思索の計数盤》の知識1は、今の《危険判定》に使用済み。
残りは、
《借宿》:任意1。
《五彩の魔石》:任意1。
《生命樹の苗床》:生命1。
《小さな工房箱》:物資1。
《名もなき雑木地》:生命または物資1。
残る五マナは、すべて緊急時の防衛や回復のために温存する。
「日没前に大きな魔法を使わなければ、夜中の午前零時には日次更新が入って、再び六マナが全回復するからな」
一晩をまたぐ宿泊試験としては、マナの運用スケジュールは非常に好都合だった。
レンタカーの荷台に、大量の荷物を積み込む。
テント、コット、寝袋、マット。目隠し用の簡易テント、携帯トイレ。水、食料、救急用品、着替え。
ランタン、予備のモバイルバッテリー、雨具、工具。防犯カメラの予備部品。
そして、アカネの入ったキャリーケース。
折り畳みカート一台では一度に運びきれず、駐車場から山林の敷地まで二往復することになった。
キャリーケースの中のアカネは、山へ行くと分かっているのか、外の音に反応して興奮気味に「あぎゃ! あぎゃ!」と鳴き続けている。
「お前は自分の手ぶらで帰るだけだからいいよな」
啓介の皮肉に、ケースの中から元気な返事が返ってきた。
山林へ到着し、まずは現況記録用のカメラを回して敷地全体を確認する。
公道、進入口の看板、境界杭。先週設置した監視カメラと、その奥の《アカネの家》。
すべて異常はなかった。
撮影を終了し、カメラのカバーを閉じてから、キャリーケースの扉を開けた。
「アカネ。お前の家へ行っていいぞ」
名前を呼ばれた瞬間、アカネは弾丸のように飛び出した。
迷うことなく一直線に《アカネの家》へと向かい、内扉を鼻先で押し開けて中へ入っていく。
奥の宝物棚のプルタブと寝床の匂いを確認し、すぐに顔を出して満足そうに鳴いた。
「今日は、俺もここで寝るからな。朝まで一緒にいるぞ」
アカネはその意味を完全には理解していないようだったが、「帰る」という指示が出ないため、すこぶる機嫌が良かった。
啓介は、テントの設営場所を慎重に選定した。
平坦地だからといって、どこでもいいわけではない。
頭上に枯れ枝がないか。雨水が集まってきそうな窪地ではないか。
《アカネの家》が直接目視でき、かつ『家確認用カメラ』の画角に啓介のテントがギリギリ収まる位置。
いざという時に、車まで数分以内で走って戻れるルート。携帯の電波が安定して入る場所。
そして、先週カメラに映った「野良猫」が通ったと思われる低木の獣道から、ある程度距離を取る。
《アカネの家》から約三メートル離れた、開けた場所に決定した。
グランドシートを広げる。
バサッと音がした瞬間、アカネが飛んできてシートのド真ん中に着地し、四肢を踏ん張った。まるで「俺が風で飛ばないように押さえてるぞ」と言わんばかりだ。
「……まあ、ちょっとは役に立ってるか」
次に、インナーテントのポールを組み立てる。
アカネがポールの先端に止まり、その重みでポールがグニャリと曲がる。
「やっぱり邪魔だ。降りろ」
ペグを地面に並べる。
アカネが一本を咥えて、バサバサと飛び去ろうとする。
「アカネ。返せ!」
アカネは空中で旋回して戻り、ペグを啓介の前へポトリと落とした。
「尖ってて危ないから、ペグはケースに入れておくか……」
すったもんだの末、テント、コット、断熱マット、寝袋、ランタンの設置が完了した。
啓介がコットの上に横になってみる。地面のゴツゴツとした不快感は全くなく、天井の高さも座るには十分だ。
入口を開けたままにしていると、アカネが当然のように入ってきて、寝袋の中央で丸くなった。
「完成から三十秒で占領するなよ」
少し離れた木陰に、目隠し用の縦長テントを張り、中に非常用の携帯トイレを配置する。使用後は専用の袋で完全に密閉し、絶対に山林には放置しない。
アカネが興味津々で目隠しテントの中へ入り、携帯トイレの真ん中にチョコンと座った。
「そこはお前の第二の家じゃないぞ。汚いから出ろ」
啓介に追い出され、アカネは不満そうに「あぎゃあ」と鳴いた。
これで、小さな区画の中に、《アカネの家》、啓介の寝るテント、トイレ用テントという、三つの施設が並ぶ小さな野営地が完成した。
午後。
テントの最終確認をしている時だった。
啓介のスマートフォンのポケットで、短いバイブレーションが鳴った。
『動体検知(接近カメラ)』
映像を確認する。
低木の奥から、一匹の猫が姿を現した。
胸元の小さな白い毛。左耳の縁の欠け。太い縞模様。そして、尾の先が少し曲がっている。
先週、アカネの家に近づき、【巣守り】の魔法に阻まれて去っていった、あの野良猫だ。
金曜日の映像確認ですでに三度の再訪を確認していた個体でもある。啓介は「やっぱり来たか」と小さく呟いた。
猫は、啓介のテントと、動いている啓介の姿に気づき、ピタリと足を止めた。
逃げようとはしないが、それ以上近づこうともしない。
《アカネの家》の屋根で、アカネが翼を半開きにし、低い姿勢をとった。
金色の瞳が、侵入者である猫の動きを鋭く追っている。
「アカネ、待て」
啓介が短く指示を出す。
アカネは飛びかかろうとはしなかったが、全身の筋肉を張り詰めさせ、いつでも動ける【警戒】の態勢を維持した。
猫も、屋根の上のアカネを覚えているのか、家の方へは近づこうとしなかった。
数メートル離れた境界付近の切り株の横に座り込み、ペロペロと前脚を舐めて毛繕いを始めた。
啓介は、猫を静かに観察した。
威嚇してくる様子はない。人間(啓介)に媚びて近寄ってくるわけでもない。アカネの家へ手を出そうともしないし、食料を要求して鳴くわけでもない。
ただ、自分が普段通っている場所の端っこで、休んでいるだけだ。
「……今の段階なら、積極的に追い払う必要はないな」
ただし、アカネとの物理的な接触は絶対に避けなければならない。
啓介は、アカネの家からも、自分のテントからも十分に離れた土地の端っこに、浅い水皿を一つだけ置いた。
餌は絶対に置かない。
「餌付けしてここに居着かせるつもりはない。喉が渇いてるなら飲むかどうかも、お前の自由だ」
啓介がテントの方へ戻ると、猫はしばらくしてから水皿の匂いを嗅ぎ、少しだけピチャピチャと水を飲んだ。
その猫の姿を見ながら、啓介の脳裏にふと、ある疑問が浮かんだ。
マンションの賃貸契約は、所有権がなくても「借りて実際に生活している」という実態によって《借宿》という土地カードになった。
青梅の山林は、「所有し、管理し、利用している」ことで《名もなき雑木地》となった。
工具一式や古いライフカウンターも、現実の物体を核として遺物カードにできた。
「……なら、今そこで生きている『動物』も、カードにできるのか?」
啓介は、小声でシステムへ尋ねた。
「システム。あの猫を、今存在している身体や自由意思を変えずに、生物カードとしてバインダーに登録することはできるか?」
回答は、驚くほどあっさりとしたものだった。
『可能です』
啓介は目を見張った。
「……できるのかよ」
アカネは魔法の力で虚無から身体を生成された「召喚生物」だ。
だが、あの猫は、魔法とは無関係にこの現実世界で生まれ育ち、今そこを歩いている普通の動物だ。
システムが、分類の違いを表示した。
【生成型召喚生物】
魔法の力(マナ)によって一時的、または継続的に身体を生成し、現実へ顕現させる生物。
例:《帰る場所を得た小竜、アカネ》
【既存個体型生物カード】
現実にすでに存在し、自立して生きている特定の生物個体と、カード情報を一対一で関連づけるもの。
対象の身体を新たに生成しない。対象をカードの中へ収納(隔離)しない。対象を複製しない。そして、対象を使用者の所有物にしない。
「なるほど……生物カードだからといって、全部がモンスターボールみたいに自由に出し入れできる召喚物になるわけじゃないのか」
『肯定』
啓介は確認を続けた。
「でも、あの猫は俺の飼い猫じゃない。どこかに法的な飼い主がいるかもしれない。それでもカードにできるのか?」
『可能です』
『ただし、カード化の処理によって、使用者(啓介)が対象個体に対する【所有権】【命令権】【排他的な管理権】または【身体の処分権】を新たに取得することは一切できません』
『カード化は、現実に存在しない権利や関係を、魔法で新規に捏造(ねつぞう)する処理ではありません』
『現実にすでに成立している関係性、利用実績、相互認識を、単にカードのデータとして定義するだけの処理です』
今の啓介と、あの野良猫の間に成立している「現実の関係」。
・猫は、啓介が管理する土地を行動範囲の一部として利用している。
・啓介は、監視カメラを通じて同一個体を継続的に観察している。
・啓介は猫を傷つける意思がなく、アカネとの衝突を避けようとしている。
・猫は啓介を「飼い主」とは全く認識していない。
・啓介も猫を所有していないし、餌付けもしていない。
・猫は、いつでも自分の意志で自由にこの土地を去ることができる。
カード化しても、この関係性を超える強制力(魔法の力で従わせるなど)は一切生まれない。
啓介は、スマートフォンの監視映像の記録と、現在十メートル先にいる猫の姿を注意深く照合した。
胸元の白い毛、左耳の欠け、曲がった尾。毛色。警戒しながら歩く癖。
同一個体である可能性は極めて高い。
システムも判定を下す。
『継続観察された同一個体として識別可能です』
『ただし、対象に法的な正当な所有者(飼い主)が存在するかどうかはシステムでは判定できません。もし後日、保護者等が確認された場合、その権利が最優先されます』
カード化したからといって、「これは俺のカードだから俺の猫だ」と泥棒するような理屈は通らない。左耳の欠けが単なる喧嘩傷なのか、人為的な目印なのかも分からない。啓介は、まず高梨へ「土地の周辺で世話されている猫がいないか」だけを照会し、必要なら受け取った近隣情報を再確認する課題をノートへ加えた。不用意な聞き込みで土地利用を目立たせず、飼い主や世話人が判明した場合は、その権利と関係を最優先する。
既存のルール通り、一つの物理的な核(個体)には、一枚の恒久カードしか関連づけられない。
この猫をカード化した後、同時に「実はあの時の猫でした」と別のカードを重ね掛けすることはできない。関係性が変化した場合は、アカネの時のように『上位再設計』を行うことになる。
啓介は、カードの仮設計に入った。
カード名を試行する。
《山林の番猫》
却下。猫は山を守ってなどいない。警備の契約もしていないし、侵入者を知らせてくれる義理もない。
《アカネの友達》
却下。現時点で互いにガンを飛ばして警戒し合っている。友達どころか不審者扱いだ。
《山林に住み着いた猫》
却下。猫がこの土地に完全に定住しているとは限らない。通り道にしているだけかもしれない。
《管理地を巡回する猫》
却下。猫が歩いているのは猫自身の気まぐれであり、啓介がパトロールの業務を与えたわけではない。
最後に、啓介が入力した名前。
《自由気ままな猫》
システムが判定を下す。
『現在の対象個体および使用者との関係性を、過不足なく正確に表現しています』
啓介は、カード化によって猫に何らかの不自然な能力が付与されないよう、テキストに厳重な制約を加えた。
身体能力を変えない。知能を変えない。寿命を変えない。性格を変えない。啓介に魔法の力で懐かせない。アカネと無理やり仲良くさせない。山から離れられなくするような呪縛をかけない。位置情報をGPSのように常時追跡しない。召喚・送還機能はつけない。怪我や病気を自動で治療しない。
「カード化する前と後で、この猫自身の生き方や権利は、何一つ変えない」
必要なのは、ただ「この猫とこの土地との既存の関係」を、システムへ公式な実績として登録することだけだ。
概算費用が出た。
『初回関連づけ費用:生命1』
身体を作るわけでも、知識を操作するわけでもない。
「生きた個体」と「創世札典」を、相手の身体を一切損なわずに一対一で関連づけるための、最低限のシステム登録料だった。
啓介は、今日残っているマナから《生命樹の苗床》の生命1を確保した。
カード化を実行するにあたり、動物には人間のように「契約書を読んで同意する」能力がない。
そのため、システムは安全装置として、対象からの「明確な拒絶」がないことを要求した。
『対象を物理的に拘束、執拗に追跡、または極度の恐怖状態へ置いた上でのカード化処理は実行できません』
『対象個体が、生命マナの接触、または使用者との関連づけを明確に【拒絶(威嚇、逃亡、攻撃)】した場合、処理は強制的に中止されます』
無理やり捕まえて魔法をかけるような真似は許されない。しかし、意思を確かめるべき相手は猫だけではなかった。
啓介は《アカネの家》の屋根の前へしゃがみ、警戒を続けるアカネと目線を合わせた。「アカネ。あの猫を、お前の家へ入れるつもりはない。ここはお前の家だ」
次に、猫が休んでいる土地の端を指す。「でも、この山全部をお前だけの縄張りにするわけにもいかない。あいつは俺が買う前から、この辺りを歩いていたらしい。嫌いでもいいし、仲良くしなくてもいい。お前の家へ近づかず、お前を襲わないなら、俺も追い払わない」
すべてを理解したわけではないだろう。それでも、家を奪われるわけではないことは伝わったのか、アカネは猫を睨んだまま屋根へ伏せた。啓介はそこで初めて地面へ座り、猫がいつでも逃げられる距離を残して、生命マナの淡い緑色の光球を自分の手前へ浮かべた。アカネには改めて「待て」と命じる。
猫は、空中に浮かんだ緑色の光に気づいた。
耳をピクッと動かす。
警戒しながら、ゆっくりと数歩近づいてくる。
一度立ち止まり、啓介の顔を見た。
そして屋根の上のアカネを一瞥し、また緑の光へ視線を戻す。
猫は光のすぐそばまで来ると、鼻先を近づけて匂いを嗅ごうとした。
匂いはない。
不思議そうに、右の前脚をチョイッと出して、光の玉を軽く叩いた。
生命マナは、猫の身体に無理やり侵入しようとはしなかった。
触れた前脚の先から、猫の輪郭をなぞるように、薄く、優しく広がっていく。
もし猫が嫌がって「シャーッ!」と飛び退けば、その場で儀式は中止になる。
しかし、猫は逃げなかった。
一度だけ、ブルルッと身体を身震いさせた。
そして、そのまま水皿の横にコロンと座り込み、また自分の毛繕いを始めた。
『対象個体による明確な拒絶なし』
『【非所有】属性を持つ、既存個体型生物カードへの関連づけが可能です』
啓介は宣言した。
「この猫の身体、自由意思、生活、権利を一切奪わず、現在の関係だけをカードとして定義する」
「《自由気ままな猫》、カード化!」
緑色の光が猫の輪郭を一周し、スゥッと空間に溶けて消えた。
バインダーの空白ページに、新しいカードが生成された。
《自由気ままな猫/A Free-Spirited Cat》
生物・猫・既存個体
初回関連づけ費用:生命1
【既存個体】
このカードは、現実に存在する一体の猫のみを表す。対象個体の生成、複製、置換、収納または消去は行わない。
【自由意思】
対象個体は完全な自由意思を保持する。使用者は、このカードを通じて対象を召喚、送還、拘束、追跡または命令できない。
【非所有】
このカードは、対象個体に対する法的または物理的な所有権を発生させない。正当な所有者または保護者が確認された場合、その権利を優先する。
【緩やかな帰属】
対象個体が、使用者の管理する土地を自発的な行動範囲、休息場所または避難場所として利用している間、土地との関連づけを維持する。
【気まぐれな巡回】
対象個体が自発的に管理地を移動した場合、その行動は土地における生態利用および観察実績として記録される。巡回、警戒、報告または帰還を強制することはできない。
呼べば来る日もあれば、こちらを見もしない日もある。
だから、帰ってきた日は少しだけ嬉しい。
カード化が完了しても、現実の猫の外見は何一つ変わらなかった。
目が赤く光ったり、筋肉が隆起したりすることもない。
啓介の足元にすり寄ってくるようなこともない。
啓介が少し意地悪く呼んでみた。
「おい、猫」
猫は一度だけ顔を上げ、啓介を見た。
その後、完全に興味を失ったように、後ろ脚を高く上げて股間の毛繕いを再開した。
「……本当に、これっぽっちも言うことを聞かないな」
『【自由意思】は正常に維持されています』
「正常にシカトされてるなら仕方ない」
屋根の上のアカネが、不満そうに「あぎゃあ」と鳴いた。
「お前の仲間にしたわけじゃない。あいつが勝手にこの山を通っていることを、カードに記録しただけだ。お前の家へ入れていいとも言ってない」
アカネは納得し切れない様子で猫を睨み続けた。猫は面倒くさそうに一瞥して木陰の奥へ去り、アカネはすぐ《アカネの家》へ戻って入口と宝物棚を確認した。仲間にもペットにもなっていないし、アカネの心理的な受容もまだ得られていない。啓介は「距離を保った同時滞在は可能。無理な接触試験は禁止」と記録した。
「このカードを見れば、あいつが今、森のどこにいるかGPSみたいに分かるのか?」
『否定』
『現在地の常時追跡は、対象個体との実際の関係性を超える(プライバシーを侵害する)権限です』
カードに表示されるのは、「関連づけが維持されているか(生きているか)」「山林の利用実績が最近存在したか」程度だ。
森のどこで寝ているか。誰かの家でエサをもらっているか。何をしているか。それは一切分からない。
監視カメラの画角に偶然映り込んだ時にだけ、確認できる。
この不便さこそが、あの猫の「自由」を魔法的に保証している証だった。
一方で、土地カードである《名もなき雑木地》の補助情報には変化があった。
『自発的利用生物:猫一体』
『管理地における既存生物の継続利用を確認』
『生態観察実績を追加』
『《アカネの隠れ森》への再評価条件が進行しました』
しかし、猫が敷地を通り過ぎるだけで、土地が強力なマナ源に劇的に強化されるわけではない。
「……待て。猫一匹で生態利用実績になるなら、餌場を作って鳥や狸を呼び込み、片っ端から関連づければ土地を一気に育てられるんじゃないか? いや、それは土地を育てるんじゃなく、餌で生き物を釣ってるだけか」
『肯定』『人為的な誘引、拘束、過密化または依存を発生させる給餌によって得られた生物利用実績は、土地の自然な利用実績として評価されません』『周辺環境の収容能力を超える誘引は、土地評価を低下させる可能性があります』「やっぱり駄目か」餌を置かない理由は、猫を懐かせないためだけでなく、土地の生態系を壊さないためでもあった。
啓介は、バインダーの中で二枚の生物カードを並べてみた。
一枚は、《帰る場所を得た小竜、アカネ》。
魔法で生成された召喚生物。召喚も送還も自由。命令を学習し、啓介の肩やマンションを生活拠点にしている。山に自分の家を持ち、啓介との相互認識が極めて強い『ネームドカード』。
もう一枚は、《自由気ままな猫》。
現実に存在する既存個体。召喚不可、送還不可、命令不可。山林を行動範囲の一部として気まぐれに使うだけ。いつでも去ることができる。所有者不明。名前もまだない。
同じ「生物カード」という枠組みであっても、カード化の意味と関係性が全く違う。
アカネは今も啓介の頭上の屋根にいて、猫はすでに木陰の奥深くへ消え去っている。
その物理的な距離感が、二枚のカードの関係性の違いをそのまま表していた。
猫のカードを眺めながら、啓介の思考が、ふと危険な、嫌な方向へと滑り落ちた。
土地。道具(ライフカウンター、工具)。植物(オリーブ)。魔法で生成した小竜。現実に存在する野良猫。
ここまでの存在を、カードとしてバインダーに定義し、関連づけることができた。
ならば。
「……システム」
啓介は、少し躊躇いながらも問いかけた。
「……『人間』も、既存個体型の生物カードとして、カード化できるのか?」
システムは、感情のないテキストで即答した。
『可能です』
啓介の背筋が、一瞬凍りついた。
「えー……できちゃうのかよ」
システムが、無機質に条件を羅列し始める。
『人間を対象とするカード化には、対象者本人による【明示的かつ継続的な同意】を絶対条件として要求します』
『対象者が、カードの定義、効果、制約、解除条件、および魔法的危険性を完全に理解できる精神状態にあることを必要とします』
『カード化の仕様は、対象者の人格、自由意思、基本的人権、または現実の法的地位を損なう設計にすることはできません』
『使用者はカード化によって、対象者に対する所有権、絶対的な命令権、強制召喚権、複製権、記憶の改変権、または身体の処分権を取得することは一切できません』
さらに、最も重要な一文が続いた。
『現実に存在している関係性を超える効果は成立しません』
相手が友人なら、友人の範囲で。
医師なら、医師の範囲で。
雇用契約があるなら、その業務範囲で。家族なら、家族として。
カード化したからといって、無関係な他人を突然奴隷のように従わせたり、洗脳して絶対服従の部下にしたりするような魔王の真似は、システム上不可能なのだ。
啓介の脳裏に、白衣を着た口うるさい友人の顔が浮かんだ。
仮に三崎をカード化するとしたら。
《口うるさい主治医、三崎修司》
能力候補:【医療相談】【治療時の誤り防止】【健康記録の精査】【危険な魔法使用への強制的なツッコミとストップ】。
だが、冷静に想像してみる。
バインダーに収められた自分の名前のカードを三崎に見せた瞬間、完全に回復したあの右膝で、容赦なく顔面を蹴り飛ばされる光景しか浮かばない。
しかも、三崎本人の「明示的な同意」が必要となれば、《創世札典》のすべてを包み隠さず説明しなければならなくなる。
「……いや。やめておこう。絶対に碌なことにならない」
『確認しました。人間対象のカード化プロセスの検討を終了します』
啓介は、バインダーをパタンと閉じた。
カードが単に現実の関係性を記録するだけのものであれば、それ自体が必ずしも危険なわけではない。
しかし、「人間を魔法の『効果』として見る」「友人関係をコストや能力値に変換する」「相手の人間としての価値を、カードの性能で評価する」という発想そのものが、人間性を根本から歪める劇毒だ。
「少なくとも、便利そうだからとか、能力が上がりそうだからという理由で、安易に人間をカードにするもんじゃないな」
この機能は、厳重に封印する。
将来、もしどうしても必要性が生じたとしても、対象となる相手(例えば三崎)と腹を割って話し合い、完全に納得してもらうまでは絶対に手を出さないと固く誓った。
夕方。
山林に少しずつ影が落ち始める頃、啓介は車のトランクを開け、持参した簡単な夕食をとった。
コンビニのおにぎり、惣菜パン、ペットボトルのお茶。
食べ終えた後の包装フィルムや空き容器は、持参した密閉できるジップ付きの袋に二重に入れ、匂いが漏れないようにして車内のハードケースに戻した。
アカネが、啓介の食事に興味を示して肩から覗き込んでくる。
啓介は、味のついていないパンの白い部分をほんの少しだけちぎり、アカネの鼻先へ近づけた。
食べるかどうかはアカネの自由だ。
アカネはクンクンと匂いを嗅ぎ、シャリッと小さくかじった。
召喚生物であるアカネに栄養補給は不要だが、味や食感を楽しむという概念はあるらしい。
猫には、一切の餌を与えなかった。
というより、あの猫はすでにどこかへ姿を消していた。
カードのステータスを見ても、関連づけが維持されていることしか分からず、現在地は表示されない。
「本当にどこかの家に帰ったのか、それともその辺の茂みで寝てるのかも分からないな」
《自由気まま》という名前どおりの存在だった。
日没前。完全に周囲が暗くなる前に、啓介は野営地の最終点検を行った。
テントのペグの抜けはないか。張り綱のテンションは適切か。万が一雨が降った際の水の逃げ道は確保できているか。
テント内のコットと寝袋の配置。ランタンの電池残量。
監視カメラの画角、スピーカーのテスト、通信ルーターと蓄電池の動作状況。
《アカネの家》の屋根のロック。水皿の水の量。
車までの避難ルートの確認と、つまずきそうな木の根元への反射テープの設置。携帯トイレの目隠しテントのペグ確認。
異常はなかった。
人間用のテントのメッシュ窓から、約三メートル先の《アカネの家》がはっきりと見える位置関係だ。
アカネは、《アカネの家》の平らな屋根の上にちょこんと座り、夕闇に沈んでいく森の奥をジッと見つめている。
魔法の【警戒】が働いているが、戦闘フェイズという緊迫した状態ではない。ただの、彼なりの自然な見張り行動だ。
日没。
太陽が山の稜線に隠れると、周囲は急速に、そして圧倒的な闇に包まれた。
昼間はただの木々だったものが、得体の知れない巨大な黒い影へと変わる。
風で揺れる葉の音。遠くで鳴く夜行性の鳥の声。名も知らぬ虫の羽音。時折、パキッと枝が折れるような小さな音。どこかの斜面を歩く正体不明の動物の気配。遠くの公道を通り過ぎていく車のくぐもったエンジン音。
監視カメラが、カチャッと小さな音を立てて赤外線モードに切り替わった。
気温がスゥッと下がり、森の湿気が肌にまとわりつく。
昼間と全く同じ土地なのに、夜の山は完全に「別の世界」のような顔を見せていた。
アカネは、屋根の上で暗闇を見回している。
啓介が、少し声を張って呼んだ。
「アカネ。もう暗い。家に入れ」
アカネは反抗することなく、素直に屋根から降りて、内扉を押し開けて寝室へと入っていった。
システム表示が流れる。
『《アカネの家》における夜間利用を開始しました』
『管理者立会い:確認』
『夜間環境観察:進行中』
啓介も、ヘッドライトの赤い光だけを頼りに自分のテントへ入り、入口のファスナーを完全に閉めた。
ただし、外の様子が確認できるように、メッシュ窓のカバーは半分だけ開けておいた。
スマートフォンの画面には、赤外線で映し出された《アカネの家》の内部と、周囲の様子が白黒のクリアな映像で映し出されている。
距離はわずか三メートル。テントの入口は《アカネの家》側へ向け、ファスナーの引き手をすぐ掴める位置へ揃え、靴、ヘッドライト、車の鍵も入口横の定位置へ置いた。異常を検知すれば、入口を開けて数秒で駆けつけられる。
これは、マンションにいて遠隔で監視する「宿泊運用」ではない。
現地に管理者が同席し、即座に物理的な対応ができる状態での「立会い試験」だった。
夜。
テントの中で横になっていると、最初の一時間でスマートフォンに複数の動体通知が飛んできた。
一回目。巨大な蛾がカメラのレンズの前を横切った。
二回目。低木の茂みを、タヌキのような丸っこい小動物がカサカサと音を立てて通り過ぎていった。
三回目。
『動体検知(接近カメラ)』
画面を見ると、《自由気ままな猫》が再び赤外線映像の中に現れた。
猫は、啓介が設置した水皿の近くをゆっくりと通り過ぎた。
しかし、昼間のように《アカネの家》へ近づこうとはしなかった。啓介のテントの方を一度だけチラリと見たが、警戒するように少し距離を保ち、そのまま低木の奥の暗闇へと姿を消した。
カード化したからといって、啓介を慕って戻ってきたわけではない。彼のもともとの夜のパトロールコース(行動範囲)を、ただ気まぐれに巡回しているだけなのだ。
夜も更け、啓介はランタンの明かりを落とし、寝袋のジッパーを上げた。
スマートフォンの《アカネの家》の内部映像を見る。
アカネは、啓介の匂いのする古い部屋着の寝床の上で、身体を丸くしている。
消灯して最初の十分。アカネは全く動かなかった。
十五分。頭を上げ、入口の可動扉の方へ顔を向けた。
二十分。アカネは立ち上がり、扉を鼻先で押し開けて外へ出た。
カメラの映像が、家の屋根に乗るアカネの姿を捉えた。
アカネは、真っ暗な森の中で、啓介のテントがある方向をじっと見つめている。
啓介は声をかけず、息を潜めて様子を見た。
数秒後。アカネが屋根を蹴って飛んだ。
バサッ、という羽音がして、啓介のテントのフライシートの上に何かが着地した。
テントの布地が、アカネの体重でわずかにポヨンと沈み込む。
「……やっぱり、来たか」
カリカリカリッ。
テントの入口のファスナーのすぐ外側で、小さな前脚が布地を引っ掻く音がした。
啓介は、テントが破られる前に慌ててファスナーを少しだけ開けた。
アカネが、待ってましたとばかりにスライディングするように中へ入り込んできた。
啓介は、寝袋のすぐ横に、あらかじめ用意しておいたアカネ用の専用クッションを指差した。
アカネはそれを一度チラリと見たが、完全に無視して、啓介が胸元まで被っている寝袋の中央、一番温かい特等席へと歩いていった。
そして、啓介の首のすぐ横のスペースに陣取り、クルクルと回ってから丸くなった。
「おい。お前、自分の立派な家で寝るために、ここまで大掛かりな準備をして試験しにきたんじゃなかったのかよ」
「あぎゃ……」
アカネは、ものすごく眠そうな甘えた声を出し、啓介のパジャマの襟元を前脚でギュッと掴むと、そのまま数秒でスヤスヤと寝息を立て始めた。
一ヶ月以上、同じマンションで暮らし、肩や腕へ密着してきた相手だ。今夜だけ距離を取っても過去の接触履歴は消えない。とはいえ、来週の三崎による非侵襲検査が終わるまでは、口元を舐めさせたり、食器を共有したりするような接触は引き続き避ける。
スマートフォンのシステム表示には、冷徹な事実が記録されていた。
『居住者は、管理者用テントへ自発的に移動しました』
「……お前、そこまでシステムに正直に申告されなくてもいいだろ」
啓介は苦笑した。
結果として、アカネは《アカネの家》の中で一晩を完走することはできなかった。
それでも、「夜間に家を一時的に利用した」「夜の森の環境を経験した」「不安を感じた時に、自発的に管理者のいるテントへ避難してきた」という事実は、重要な実績として残る。
午前零時。
スマートフォンの時計が日付を跨いだ。
《創世札典》のバインダー内で、日次更新が実行される。
土曜日の日中から温存していた五マナは失効し、代わりに新しい六マナが生成された。
日付をまたぐ宿泊では、深夜以降の緊急対応に使える余力が一マナ分増える。これも今回確認できた運用上の利点だった。
新しい六マナは、野生動物との遭遇や怪我に備えて温存し、朝まで一度も使わずに済んだ。
アカネは啓介の首元で、スースーと気持ちよさそうに眠っている。
《自由気ままな猫》のカードの関連づけも、途切れることなく維持されている。恒久カードは日次更新で消えたりはしない。
『《アカネの家》:夜間利用実績確認』
『管理者立会い下での夜間安全確認:進行中』
『居住者の連続夜間滞在:不足』
深夜。
テントの外で、カサッ、カサッと枯れ葉を踏む微かな音が聞こえ、啓介はパチリと目を覚ました。
同時に、首元で寝ていたアカネもバッと頭を上げ、耳のような突起をピンと立てた。
【警戒】の態勢。しかし、戦闘フェイズは成立していないため、直ちに襲いかかってくるような危害意思を持った敵ではない。
啓介がスマートフォンのカメラ映像をこっそり確認すると、《自由気ままな猫》がテントから数メートル離れた場所を、足音を殺して歩いていた。
テントや啓介に対して攻撃する意思はないようだ。
啓介は外へ出ず、じっと息を潜めた。猫もテントに近づくことはなく、やがて暗闇の中へ去っていった。
「……お互い、好きな場所で平和に寝ようぜ」
啓介の呟きは、暗闇に溶けて消えた。
翌朝。
木々の間から朝日が差し込み、遠くで野鳥の鳴き声が聞こえ始めた。
アカネが啓介より先に起き出し、寝袋から這い出した。
テントの入口のファスナーの前で立ち止まり、振り返って啓介を「開けろ」という顔で見つめる。
啓介がファスナーを開けてやると、アカネは元気よく外へ飛び出し、一直線に《アカネの家》へと向かった。
屋根に乗り、内扉を開けて中へ入り、宝物棚のプルタブが無事か確認している。
まるで、「一晩中、俺はずっとこの自分の家で寝てましたけど?」と言わんばかりの、堂々としたドヤ顔で小屋から顔を出した。
「お前、夜中ずっと俺の首元でイビキかいて寝てただろ」
啓介のツッコミに、アカネは全く聞こえないふりをして、朝の毛繕いを始めた。
テントの外に出て、啓介は昨日猫用に置いた水皿を確認した。
水が少しだけ減っており、周囲の柔らかい土に小さな足跡が残っていた。
しかし、周囲を見渡しても猫の姿はない。
《自由気ままな猫》のカード状態を確認する。
『関連づけ:維持』
『現在地:不明』
『管理地利用実績:昨夜確認』
カード化しても、朝になれば勝手にいなくなる。それでいいのだ。
啓介は猫を探し回るようなことはせず、水皿の水を捨てて綺麗に片づけた。餌も残さない。
土地と家のシステム進捗を確認する。
《アカネの家》
『夜間利用実績:確認』
『管理者立会い下での夜間安全確認:確認』
『境界属性を持つ恒久施設として、安定化段階への移行を確認』
『上位施設候補:《アカネの守り巣》』
『不足条件1:人間および外部動物の侵入に対する物理的境界』
『不足条件2:管理者不在時に作動する自動保護・緊急退避』
『不足条件3:通信・電源喪失時にも機能する独立動作。三条件中二項目以上と継続利用実績の達成後、境界マナ源への再評価が可能』
《名もなき雑木地》
『管理者による夜間利用:確認』
『ネームド召喚生物による夜間利用:確認』
『既存生物一体による継続利用:確認』
『生態観察実績:追加』
『再評価候補:《アカネの隠れ森》』
『再評価条件の進行を確認しました』
一泊しただけで土地や家が完成したわけではない。それでも「境界が足りない」という曖昧な課題は、人間への物理的境界、自動保護、独立動作という三つの具体的な条件へ変わった。
今回の試験結果をノートにまとめる。
【達成】
啓介の山林宿泊。人間用テントと防犯設備の運用。夜間環境の観察。アカネの家の夜間利用。猫の再訪確認。猫のカード化。管理者が同席した状態での夜間安全の確認。
【不足】
アカネは一晩を自分の家『だけ』で過ごすことができなかった。
猫以外の大型動物(イノシシ等)への物理的対策が不十分。人間の侵入対策なし。通信断時の安全確保手段なし。自動退避機能なし。アカネによる猫の心理的受容は未達。長期的な共存状況と、猫の飼い主・世話人の有無も未確認。
結論。
「俺が一緒に泊まる運用としては成功だ。でも、アカネ『だけ』をこの山に泊める単独運用としては、まだ不合格だ」
啓介の冷徹な評価に、アカネは家の屋根の上で「あぎゃあ」と不満そうに鳴いた。
撤収作業。
夜露で濡れたテントを乾かし、寝袋、コット、ゴミ、携帯トイレの袋、水皿、食料の残りをすべて車に積み込む。
山林に、人間の生活ゴミは一切残さない。猫用の恒久的な設備も、まだ置かない。まず高梨へ周辺で世話されている猫がいないか照会し、あの猫の継続利用と飼い主・世話人の有無を確認してから判断する。
山に残すのは、《アカネの家》と、バッテリー駆動の監視設備一式だけ。
アカネは「帰りたくない」と渋ったが、昨夜は啓介の寝袋で一緒に眠って満足したのか、前回ほど激しく抵抗はしなかった。
「アカネ。帰るぞ」
アカネは少しだけ渋った後、自分からキャリーケースの中へトテトテと入っていった。
帰宅後。
啓介はマンションのリビングで、山の匂いのついた寝袋を干すために大きく広げた。
すると、キャリーケースから出たアカネが、当然のように飛んできて、広げた寝袋のド真ん中でクルクルと回り、丸くなった。
「……お前なぁ。それは山でもマンションでも、俺の寝床なんだけど」
「あぎゃ」
アカネは満足そうに目を閉じ、喉を鳴らした。
ノートを開き、最後の記録をつける。
アカネには、山に自分の家がある。
猫には、誰の許可も求めず、好きな時だけ通り過ぎられる場所がある。
啓介にも、ようやく山で眠るための寝床ができた。
ただし、その寝袋はマンションへ帰った後も、アカネに占領されていた。
三十八万円で買った山は、魔法の生き物を従える王国にはならなかった。
猫が勝手に通り過ぎ、人間がテントを張り、小さな竜が人間の寝床を奪う。
思ったよりもずっと不自由で。
思ったよりもずっと現実的な。
そんな場所になりつつあった。
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