TCG能力《創世札典》を手に入れた俺、一日一マナから現代社会を攻略する~治療、未来予知、若返り。マナが足りないので山を買います~ 作:パラレル・ゲーマー
休日の午後。
啓介のマンションの玄関先で、インターホンのチャイムが鳴った。
リビングで待機していた啓介の肩が、ピクッと小さく跳ねた。
「……来たな」
テーブルの向かいに座っていた相馬が、少しだけ声を潜めて言った。
隣でコーヒーを飲んでいた三崎も、頷く。
「来たな」
啓介が、二人を交互に見た。
「何でお前らまで、ちょっと緊張してんだよ。前回の飲み会で顔合わせたばかりだろ」
「まあ、それはそうなんだけどな」と相馬が苦笑する。
インターホンのモニターを確認する。
「藤堂です」
画面越しに聞こえてきた声は、いつもの淡々としたものだった。
「開けます」
啓介がオートロックを解除し、玄関のドアへ向かう。
ドアが開いた。
藤堂亮介は、今日はスーツではなく、休日の落ち着いた私服姿だった。ただし、完全な遊びではないため、ラフすぎる格好ではない。
藤堂は、玄関に一歩足を踏み入れるなり、三人の顔を見て言った。
「録音してないな?」
「してません」啓介が即答する。
「スマホも全員、テーブルの上に普通に置いてあります。録音アプリは動かしてません」相馬が付け加えた。
藤堂は小さく頷いた。
「分かった。俺も録らない」
全員が互いに録音しないことだけを確認し、スマートフォンもそのままにした。
藤堂が靴を脱ぎ、リビングの方へと向かおうとした時。
啓介が、その前にスッと立ち塞がった。
「藤堂さん。最初は、こっちの部屋でお願いします」
啓介が案内したのは、普段はあまり使っていない、小さな客間用の別室だった。
藤堂はピタリと足を止めた。
「リビングじゃないのか?」
「はい。まずはこっちで」
藤堂は、閉ざされたリビングのドアをチラリと見た。
そして、小さく息を吐いた。
「……なるほど。お前ら、見せたい『実物』はリビングに隠してるな。でも、俺が概要を聞いて『続きを聞く』って決める前には、見せないつもりなんだな」
「はい」啓介が答えた。
藤堂は、少しだけ感心したように頷いた。
「前回の居酒屋での話、ちゃんと理解したみたいだな。悪くない」
啓介たち三人は、藤堂が前回の条件をきちんと受け取ってくれたことに、少しだけ安堵した。
アカネをいきなり見せるのではなく、藤堂自身に「続きを聞くかどうか」を判断してもらう。そのための一段階が、まず成立した。
四人は別室に入り、テーブルを囲んだ。
出されたのは、ペットボトルのお茶だけ。酒はない。
藤堂は鞄を足元に置き、手ぶらのまま座った。ノートやペンすら出さない。
「藤堂さん、メモ、取らなくていいんですか?」
「今はまだいい。まず『概要だけ』を聞く約束だろ」
藤堂は続ける。
「それに。俺がお前らの話を聞いて、もし『ここから先の続きは聞かない(聞けない)』と判断した場合。余計な記録(メモ)は残さない方が、お互いのためだ」
三崎と相馬が、顔を見合わせた。(……この人でよかった)という確信が、さらに深まる。
啓介が、軽く深呼吸をしてから口を開いた。
事前に用意しておいた原稿ではなく、自分の言葉で慎重に紡ぐ。
「……藤堂さん。俺は今、現行の医学や、俺たちが知る既存の技術では説明できず、今の法制度上どう扱われるのかも分からない『未知の現象』を、個人的に所有しています」
藤堂の表情は、一ミリも動かなかった。
「続けろ」
「その現象には、人間の身体へ直接作用する(治療する)使い方があります」
三崎が引き継いだ。
「かなり限定的な条件ですが。実際に人間へ使用して、身体の機能状態が完全に修復した例があります」
「何例だ?」
「啓介本人への自己使用を除けば、人体への治療使用は二人です。俺と、もう一人」
三崎は続けた。「ただし俺は、この件を最初から知っている検証側の人間です。完全な外部協力者として治療したのは、今のところ一人だけです」
啓介が、現在の状況を補足する。
「今現在、進行中の犯罪に使っているわけではありません。今すぐこの能力を使わないと誰かが死ぬような、切羽詰まった緊急事態でもありません」
「ただ……」啓介は言葉に力を込めた。
「今後、俺たちがこの現象を世の中の『医療』へ本気で利用していくなら、公的な制度や国との接続を、絶対に避けられない可能性があると思っています」
啓介は、そこで口を閉ざした。
これ以上は言わない。
藤堂は、腕を組んだまま、しばらく黙り込んだ。
部屋に静寂が落ちる。
やがて、藤堂が静かに質問を始めた。
「……『現象を所有している』っていうのは。門倉自身が、自分の意思でその現象を任意に起こせるって意味か?」
「はい」
「どこかで偶然発生する自然現象を観察してるわけじゃない?」
「違います」
「お前の意思で、使うか、使わないかを選べるんだな?」
「選べます」
藤堂は、さらに細かく切り分ける。
「それは『薬(化学物質)』か?」
「違います」
「『医療機器』か?」
「違います」
「お前が独自に編み出した『手術法(手技)』か?」
「違います」
「じゃあ、未知の『生物由来の何か(菌やウイルス等)』か?」
啓介は、少し考えてから答えた。
「……その言葉だけでも、正確には説明できません」
藤堂の眉が、ピクリと寄った。
「今の概要だけじゃ、俺も『国のどの制度・どの法律に繋がる話なのか』全く判断できないな」
三人に緊張が走る。
藤堂は、真っ直ぐに啓介を見た。
「だから。……もう一段だけ、続きを聞く」
ここが重要だった。
藤堂自身が、自らの意思で「次の扉を開ける」ことを選択したのだ。
「俺たちは、その現象を便宜上――『魔法』と呼んでいます」
啓介は、それだけ言って口を閉ざした。
藤堂は何も返さなかった。
沈黙。
数秒間、部屋の空気が完全に止まった。
相馬が、隣で息を詰めて藤堂の顔色をうかがっている。
「…………」
藤堂は、ゆっくりと目を閉じ、そして開いた。
「もう一回言ってくれ」
「魔法です」
藤堂は、天井を仰いだ。
「……そういう方向か」
だが、藤堂は笑い飛ばさなかった。「お前ら、ついに頭がおかしくなったか?」と即座に切り捨てることもしなかった。
まず、冷静に事実確認を続ける。
「『魔法』という言葉を、機序が不明な現象に対して、便宜的につけているだけか?」
「それもあります。でも、既存の科学の延長線上として論理的に説明できるような根拠も、今のところ見つかっていません」
三崎が補足する。
「少なくとも、医者の俺たちには全く説明できない現象です」
「再現性は?」
「あります」
「本人の意思で?」
「はい」
「第三者の人体にも?」
「はい」
藤堂は、また少し黙り込んだ。
そして、ついに。
「……確固たる『証拠』は、あるんだな?」
啓介は深く頷いた。
「あります」
「その証拠を見ることによって、俺が新しく『誰か特定の患者の個人情報』を知ることになるか?」
「最初の証拠については、なりません」
三崎も言う。
「患者の治療データも最初は使いません」
「誰かを傷つけたりする、危険な実演はあるか?」
「しません」
藤堂は、一つ息を吐いてから宣言した。
「じゃあ、見る」
ここで初めて、第1段階の扉が開かれた。
藤堂は立ち上がる前に、少しだけ苦笑した。
「……結局、概要だけじゃ完全には判断できなかったな」
啓介が一瞬申し訳なさそうな顔をすると、藤堂は首を振った。
「お前らが悪いわけじゃない。既存の分類に入らないものを、既存の分類に入るかどうか判断してから聞こうって手順自体に限界があった」
「それでも、犯罪でも緊急事態でもなく、人体介入と医療制度に関わる話だってところまでは先に切れた。無意味ではない」
藤堂はそこで区切った。「だから、ここから先は俺が自分で選んで聞く」
啓介が頷き、リビングのドアを開けた。アカネはケージへ入れず、いつも通り自由に過ごさせていた。
金色の瞳。短い尻尾。
赤銅色の鱗を持つ、掌サイズの小さな竜。
初めて見る藤堂という人間を、アカネはジッと見つめた。
藤堂は。
リビングに一歩足を踏み入れた瞬間に、文字通り、その場で彫像のように完全に停止した。
「…………」
啓介、三崎、相馬の三人は、無言のまま藤堂の反応を待った。
アカネが、不思議そうに首を傾げた。
「あぎゃ?」
少し長い、永遠にも思える沈黙のあと。
藤堂が、絞り出すような低い声で言った。
「門倉」
「はい」
藤堂は、アカネを指さすことはせず、視線だけを固定したまま尋ねた。
「俺の認識が正常か、一つだけ確認する」
「はい」
「あそこのソファの上に。手のひらくらいの大きさの……『竜(ドラゴン)』に見える生き物がいるな?」
「います」
「今、動いて鳴いたな。……あれは、俺の頭が疲れてて、俺だけに見えてる幻覚ってわけじゃないな?」
相馬が横から答えた。
「俺にも見えてます」
三崎も答える。
「俺にも」
藤堂は、小さく息を吐いた。
「…………そうか」
そして。
「……いるのかよ、本当に」
藤堂の反応は、それくらいだった。
相馬の時のように「見れば分かるだろ」というツッコミを繰り返すことはせず、藤堂らしく、極めて冷静に『自分の認識と現実のすり合わせ』から入った。
「これ、生物なのか?」
啓介は正直に答えた。
「そこは、俺にも正確には分かりません。ただのホログラムやロボットじゃないことは確かですが」
「分からない?」
「俺が持っているシステムの表示上では、『召喚体』という扱いになっています。名前はアカネです」
「名前まであるのか」
「あります」
「記憶は?」
「ちゃんとあります」
「行動は自律か? お前が裏でプログラムで全部操縦してるわけじゃないんだな?」
「違います。かなり自律的に、自分の意思で動いてます」
アカネは、金色の澄んだ瞳で藤堂を見つめ返していた。
ここで重要なのは、藤堂はアカネに一歩も近づかなかったことだ。
手を伸ばして触ろうとしない。スマートフォンを出して写真を撮ろうともしない。
未知の存在に対して、不用意に手を出さない。事前の約束なしに記録を残さない。
啓介たちが決めていたルールを、藤堂は本能的に、誰に言われるでもなく自然に守っていた。
むしろ、藤堂の方から確認してきた。
「……少し近づいて、近くで見ていいか?」
「今は、そのままでお願いします」
「分かった」
藤堂は一歩も動かなかった。
人間側からは何の命令も出さない。
アカネは、しばらく藤堂を観察していたが。
やがて、ソファからトテトテと降りた。
初対面の藤堂を警戒しているのか、それとも単にいつものように啓介のところへ戻ろうとしただけなのか。
そこまでは、啓介にも分からない。
啓介が、スッと右手を差し出す。
アカネはそれに乗らず、少し横をすり抜けてから、ヒョイッとジャンプして啓介の腕に飛び移り、そのまま肩へとよじ登った。
そして、定位置である肩の上で。
前脚を揃え、翼を畳んで。
ちょこん、と座り込んだ。
藤堂は、その一連の極めて自然で動物的な動きを見て、言葉を失っていた。
「…………」
相馬が、隣で何か言いたそうに口元を緩めた。
藤堂が横目で見る。
「何だ」
「……いや、何でもないです」
相馬は今回は余計なことを言わず、素直に黙った。
「飛ばしてみる必要、ありますか?」
啓介が聞くと、藤堂は首を横に振った。
「わざわざ飛ばさなくていい。『見せてくれ』とは言わない方がいいんだな?」
啓介は少し驚いた。
「……はい」
「さっきの概要と今の態度で、こいつがお前らにとって『手品を見せるための道具』じゃないってのは、何となく分かった」
この一言に、啓介は内心で深く感謝した。
そして、藤堂は極めて冷静な結論を出した。
「……ただし。これで分かったのは、一つだけだ」
「何です?」
「お前ら三人が、集団で幻覚を見て妄想してるだけではない可能性が、ものすごく高くなった。それだけだ」
相馬が苦笑する。「相変わらず、微妙な言い回しですね」
「当然だ」藤堂は言った。「この竜みたいな存在が目の前に実在することと、『人間を治せる魔法がある』ことは、全く別の主張だからな」
三崎が深く頷いた。
「その通りです。これ一匹で全部信じられたら、逆に困ります」
藤堂の慎重なスタンスは、全くブレていなかった。
「次、見ますか?」啓介が促す。
藤堂は一度考え、頷いた。
「見る」
啓介が右手を空中に翳し、《創世札典》のバインダーを物理的に顕現させた。
空中に浮かび上がる、古びた革表紙のバインダーと、光るカード。
藤堂はまたしても固まったが、アカネの時よりは少し耐性がついていた。
「これが?」
「《創世札典》。魔法のシステム本体です」
藤堂は目を凝らした。
「……何か、空中に数字とかテキストの画面が出てるのか?」
「俺には見えてます」
「俺には見えないぞ。バインダーとカードの輪郭しか見えてない」
藤堂は三崎と相馬を見た。
「俺も同じ」と三崎。
「俺もです」と相馬。
「なるほど。システムを所有してる本人にしか見えない情報(UI)があるわけか」
藤堂はスーツの内ポケットから手帳を取り出そうとして、途中で手を止めた。
「……今日は記録なしだったな」
そのまま手帳を戻す。
啓介は、バインダーから一枚のカードだけを取り出して見せた。
《古傷の修復》。
生命2+知識1。
【単一損傷】【診断指定】【非若返り】。
藤堂がテキストを読み上げる。
「……古傷? これが、人間の身体を治せる魔法か?」
「俺が実際に受けた」三崎が言った。
「医療記録は?」
「俺のデータだから、俺の責任で許可する」
三崎が、自分の右膝の治療前のMRI画像、治療後の画像、可動域の改善データなどを藤堂に提示した。
(相馬の親父のデータは、本人の追加同意がまだないため見せない。ここも厳格に守った)。
藤堂は、提示された数値と画像を見た。
「……悪いが。俺は医者じゃないから、これが医学的にどれくらい異常で、どれくらい凄い回復なのか、正確には評価できない」
「それでいい」三崎が答えた。「俺の記録だけじゃ客観性に欠ける。だから将来的には、俺以外の独立した医療専門家にも確認してもらう必要がある」
「それを自分たちから言ってくれるなら、安心した」藤堂が息を吐いた。
「さっき、人間への治療は『二例』と言ったな」藤堂が指摘した。
「もう一人いる」三崎が答える。
「記録は?」
相馬が口を開きかけたが、三崎が制した。
「今日は見せない」
「理由は?」
「その本人から、藤堂さんへの医療情報開示の同意をまだ取っていないからだ」
藤堂は、即答した。
「じゃあいらない。誰なのか、名前も言わなくていい」
これで、藤堂の株は啓介たちの中でさらに一段上がった。興味本位で他人の医療情報を探ろうとしない、正しい行政官の姿勢だ。
「で。……その魔法、一日に何回使える?」
藤堂の思考が、ここで完全に『制度側(行政側)』のものに切り替わった。
「再現性があるなら、次に問題になるのは『供給量』だ」
相馬が少し笑った。
啓介が聞く。「何?」
「いや。俺が初めてこれを見た時も、全く同じこと聞いたなと思って」
藤堂が呆れる。「そりゃ誰だって一番に聞くだろ」
啓介は、マナのシステムについて必要最低限の説明をした。
一日に生成されるマナの総量は7。午前零時にリセットされ、持ち越しは不可。
マナには「色」があり、用途ごとに必要な色が違うこと。
藤堂が確認する。
「古傷の修復のコストが3なら、マナが7あれば、一日に二人治せるのか?」
「できません」
「何でだ?」
「『色』の制約です。生命2+知識1。現在の俺の供給源だと、一回使った後、二回目に必要な『同じ色』のマナをもう一度揃えることができないんです。マナの総量が余っていても、色が合わなければ魔法は発動しません」
藤堂は深く頷いた。
「……なるほど。国家予算の総額だけ見ても、目的別の『紐付き予算(特定財源)』が足りなければ使えないのと同じ理屈か」
「あ、それかなり近いです」
啓介は、行政官らしい秀逸なたとえに感心した。
「つまり」藤堂が結論づける。
「仮にその治療が完全に安全だとしても、供給制限(マナ不足)だけで、強烈な『配分問題(誰を治すか)』が起きるな」
三崎が同意した。
「そうなんです」
そこで、藤堂が厳しい顔をした。
「でもな。悪いが、単なる古傷を一日一人治せるだけなら……それを国家レベルの課題として厚労省まで持ってくるべき事案かどうかは、俺にはまだ分からないぞ。貴重な技術ではあるが、社会システムを揺るがすほどではない」
非常に冷静な評価だった。
啓介たち三人は、顔を見合わせた。
相馬が、少し重い声で言った。
「……そこなんですよ」
藤堂が嫌な予感を感じて顔をしかめた。
「まだ何かあるのか?」
啓介が言った。
「これ、実際にはまだ使っていませんし、正式なカードも作っていません」
「先にそれを言え」
「でも、コストの試算だけはしました」
「何の試算だ」
「悪性腫瘍です」
藤堂の動きが、完全に停止した。
「…………癌、か?」
三崎が補足する。
「初期の局所癌。診断と位置が確定していて、転移なし、というかなり狭い条件での試算です」
「実際に効くかは?」
「未検証です」
「患者は?」
「いません」
「カードは作ってないんだな?」
「作ってません」
藤堂は、明らかに安堵したように息を吐いた。「よし」
啓介が続ける。
「癌の治療カードを作った場合の仮コスト。生命3、知識2、境界1。……計6マナ」
現在の啓介のマナ総量は7。
任意マナを駆使すれば、色も現在なんとか揃えられる。
藤堂が、確認するように言った。
「つまり」
「一日分のマナのほぼ全部を使い切れば……理論上は成立する可能性があります」
「今?」
「はい」
「数年後の将来じゃなく?」
「今のマナで、です」
沈黙。
ここまで来て初めて。
藤堂の顔が、完全に「官僚(仕事)」の顔に変わった。
アカネの存在を見た時の驚きとは、質の違う顔だ。
「……なるほど」
藤堂の声が、低く響いた。
「お前らが、わざわざ俺を呼んだ本当の理由が、やっと分かった」
藤堂は三崎を見た。
「医学的なハードルは?」
三崎は、前回啓介に語った内容を繰り返した。
癌は一種類の病気ではないこと。転移、微小病変、治療歴、標準治療との兼ね合い。「画像から影が消えた=完全治癒」とは即断できないこと。
「それでも」藤堂が言った。
「仮に、初期癌の一種類だけでも、本当に完全に消せるとしたら?」
「現代医療のシステムにおいて、説明のつかない社会的な問題(ハレーション)が確実に発生します」
藤堂が、政策側の視点から強烈な事実を付け足した。
「いいか。一日一人なら、年間で三百六十五人だ」
毎日癌治療にマナを全振りできる保証はないが、それでも。
「『年間たった三百六十五人しか救えない』じゃない。……『年間三百六十五人も、既存の現代医療の前提を完全に無視して救える可能性がある』になるんだ」
藤堂の言葉が、重く響いた。
「その存在が社会に知られた瞬間。……患者の行動が完全に変わる」
三崎が頷く。
「標準治療(手術や抗がん剤)を拒否して、魔法の順番待ちを求める人が確実に出ます。現場の医者の判断も狂う。病院の経営も変わる」
相馬も続く。
「莫大な金も動く」
「政治も動く」藤堂が断言した。
「一日何人治せるかだけの問題じゃない。『治せる(かもしれない)手段がこの世に存在する』と社会が知った時点で、医療制度全体の前提が根底から覆る。……システムが壊れるんだ」
相馬が言った。
「だから、俺ら三人(素人)だけじゃ絶対に無理だと思ったんです」
藤堂は、初めて明確にそれを認めた。
「それは、正しい」
だが、藤堂はすぐに「じゃあ明日厚労省に報告する」とは言わなかった。
しばらく黙り込む。
アカネは、いつの間にか啓介の肩から降り、ソファの上に戻って丸くなっていた。
人間四人がこんなに重い話をしているのに、竜は全く関係なく普通に寝ている。そのコントラストが異常だった。
藤堂が結論を出した。
「まず確認する。今日、ここから先に新しい患者(古傷)へ使う予定は?」
「現時点ではありません」
「癌カードを作る予定は?」
「体制が整うまで作らないと決めています」
「そのままにしてくれ」
「三崎にも同じこと言われました」
「じゃあ医者の言うこと聞け」
三崎が少しだけ満足そうに頷いた。
藤堂は、古傷の検証についてまでは命令しなかった。
「古傷の検証まで全部止めろ、と俺が強制できる法的立場に今はない。まだ正式案件でもないからな」
ここが重要だった。
「でも俺なら、少なくとも今いる人の追跡が終わるまでは、新しい人数を増やさない。人を増やすたびに、秘密を知る人間と、説明不能な医療記録が増えるからだ」
「俺も同意見です」三崎が即答した。
これで自然に、新規の外部治療は一時停止となった。
「誰が知ってる?」
最小限の確認。啓介、三崎、相馬。征一(名前はまだ伏せている)は限定情報のみ。
藤堂は、長く重い沈黙の後で言った。
「俺の結論を言う」
三人が身構えた。
「少なくとも。……これは俺一人が『昔の後輩から面白い相談を受けました』で抱え込んで終わらせていい話じゃない」
ついに、官僚としての判断が下された。
「ただ。現時点で俺にどういう『法的な報告義務』が具体的に生じるのか、ここで安易に断定はしない。……前例がないどころの騒ぎじゃないからな」
藤堂自身も、この超常現象を現行法でどう扱うべきか、すぐには結論を出せないのだ。
「俺がまずやるのは、『誰にこの話を持っていくべきか(相談の入口)』を整理することだ」
藤堂は、三人を真っ直ぐに見た。
「誤解するなよ。俺が一人で国と交渉して、全部の制度を作ってやるって話じゃないぞ。最初の入り口の配線を整理するだけだ」
「それをお願いしたかったんです」相馬が深く頭を下げた。
藤堂はさらに釘を刺す。
「それと。俺が次に誰か上の人間へ相談する必要があると判断した場合。今日聞いた話を、全部そのまま丸ごと流すつもりはない」
まずは必要最小限だ。
例えば、『現行制度で位置づけ不能な、再現性のある人体介入現象について相談がある』という、極めて抽象的なレベルから。
相手の反応、必要性、権限を見ながら、少しずつ情報を出す。
「《創世札典》やアカネの存在は?」啓介が聞く。
「本当に必要になる限界まで言わない」
相馬が小さく笑った。
「……やっぱり、この人で良かったな」
「まだ採用面接してるのか、お前は」
ここで、啓介が藤堂に言った。
「藤堂さん」
「何」
「一個だけ。……これ、藤堂さん一人に全部の負担を丸投げしてやってもらうつもりはありません」
藤堂が少し意外そうな顔をした。
「入口だけ教えてもらえればいいんです」相馬が言う。
三崎も続く。「もし継続して協力をお願いするなら、その時は藤堂さんの仕事や立場との兼ね合いも含めて、改めて相談します」
藤堂は少し黙り込んでから。
「……ならいい」
とだけ言った。
重い話が一区切りつき、藤堂は初めて、深く息を吐いてソファの背もたれに寄りかかった。
ようやく、ソファの上にいるアカネを見る余裕が戻ったらしい。
アカネは、古いパーカーの上で丸くなったまま、人間の会議など一切興味なしという顔をしている。
「一個だけ、この件と関係ないこと聞いていいか?」藤堂が言った。
「何ですか?」啓介が答える。
「アカネ、だったな。普段からずっと、こんな感じなのか?」
「こんな感じです」
「もっとこう……口から火を吐いたりはしないのか?」
「吐きません。少なくとも、元になったカードの仕様では『攻撃能力を持たない』になっています」
藤堂が少し眉を上げた。
「『元になったカード』って言い方をするんだな」
「アカネになってから、記憶や行動面で変化した部分はあります。でも、だからって勝手に攻撃能力まで増えたと考える根拠はありません」
「じゃあ現状は、火は吐かないものとして扱ってる?」
「はい」
藤堂は、最後までアカネに触れようとはしなかった。それがむしろ、啓介たちにとっては有り難かった。
玄関へ向かう前。
アカネがソファから顔を上げ、藤堂と目が合った。
「あぎゃ」
藤堂は、少し考えてから言った。
「……よろしくな」
「あぎゃ?」
「多分分かってませんよ」啓介が言う。
「知ってる」
玄関で靴を履き、藤堂が最後に言った。
「門倉。次に俺から連絡するまで、癌の方は本当に触るなよ」
「分かってます」
「古傷の方も、今いる検証協力者の追跡を優先しろ」
「同意です」
「じゃあ俺は、入口だけ調べる」
ドアが閉まった。
三人がリビングに残り、沈黙が落ちた。
数秒後。
相馬が言った。「……どうだった?」
三崎が聞き返す。「何が」
「政府接続、第一回目」
啓介が呆れる。「まだ政府に接続してないだろ」
「でも、確実に入口の前に立った」
アカネがトテトテと歩いてきて、啓介の足元で見上げた。
「お疲れ、アカネ」
「あぎゃ」
「今日、こいつ結局何もしなかったな」相馬が笑う。
「それでいいんだよ」
啓介はノートの『《行政接続》』のページに結果を書き込んだ。
藤堂亮介。概要提示:完了。
本人判断:追加開示を選択。
開示済み:超常現象の存在、アカネ、《創世札典》の限定情報、《古傷の修復》、三崎の治療記録、現行マナ制約、癌治療の未確定試算。
未開示:《約束された当選番号》《秘密の切除》《一年若く》《明日のログ》、全カード一覧、各マナ源の詳細所在地、征一の個人情報。
必要のない情報は、まだ藤堂にも渡していない。
新規の外部治療は一旦停止。癌カードも使用禁止継続。
藤堂はまだチーム加入ではないが、行政接続について助言する強力な協力候補となった。
夜。
三崎と相馬も帰り、静かになったリビング。
啓介はソファに座り、アカネは古いパーカーの上で丸くなっている。
今日、癌、国家、医療制度、秘密管理。
そんな途方もないスケールの話が、この小さな部屋の中で飛び交った。
でもアカネは、その間、本当に何一つ特別なことをしなかった。
啓介が呟いた。
「結局、お前、本当に何もしなかったな」
「あぎゃ」
「でも……一番話が早かったの、お前だった気がする」
アカネは首を少し傾げた。
「まあ、いいか」
アカネは前脚を揃え、翼を畳んでちょこんと座り、目を閉じた。
複雑な魔法の理論や制約を説明するのには、何十分もかかった。
だが、この世界に『竜がいること』を説明するのには、たった数秒しかかからなかった。
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