TCG能力《創世札典》を手に入れた俺、一日一マナから現代社会を攻略する~治療、未来予知、若返り。マナが足りないので山を買います~   作:パラレル・ゲーマー

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第4話 五日間、奇跡を我慢するらしい

 日曜日の夜。

 啓介は、夕方に近所の雑貨屋で買ってきた小さな透明な水晶を、クッション材を入れたアクリルケースに慎重に収め、仕事机の引き出しにしまった。

 それだけでは少し不安になり、わざわざ引き出しの奥に百円均一で買った滑り止めシートを敷いて、ケースが動かないように固定する。

 

「……なんだか、夏休みの観察日記みたいだな」

 

 自分でも少し可笑しくなりながら、啓介はスマートフォンのカレンダーアプリを開いた。

 月曜日から金曜日まで。毎日、帰宅して落ち着くであろう午後九時半の枠に、同じ予定を登録していく。

 

『《種石》へマナ注入』

 

 休日の遊びだったはずのカードゲームのデッキ構築が、急に平日夜のルーティン業務のようなスケジュール管理に変わった。

「魔法の石を作る予定を、スマホのカレンダーで管理する日が来るとはな」

 

 改めて、バインダーを開いて《五彩の種石》のカードテキストを確認する。

 必要なのは、合計五回のマナ注入。

 注入したマナは午前零時の日次更新を跨いでも消えない。仮に仕事が忙しすぎて一日空いてしまったとしても、それまでの蓄積が失われるわけではない。

 全損条件は「核となるアイテムを破壊、または紛失した場合のみ」。

 

「一日空けても、それまでの進捗は維持される。ただし、一度注入したマナを途中で引き出して、別のカードに使い直すことはできない……か」

 

 作成を一日中断しても、それまでに注いだマナが無駄になるわけではない。完成が一日延びるだけだ。ただし、すでに注いだ分を取り戻して別の用途へ回すことはできない。

 

 この仕様は非常に重要だった。

 金曜日に究極の選択を迫られたとして、「四日分の努力を無駄にするか否か」ではなく、「目の前の問題に魔法を使う価値が、魔石の完成を一日遅らせるコストに見合うか」という、純粋に合理的な判断ができるからだ。

 

 啓介は、せっかく五種類のマナがあるのだから、月曜日から一種類ずつ順番に注いでみようと考えたところで、「《五彩》という名前なのに、注入するマナは何でもいいのか?」と確認した。

『注入するマナの系統は、《五彩の魔石》の機能には影響しません。注入された系統は完成した遺物の外観へ反映されます』という回答が返る。性能が同じなら、五種類すべてを注ぎ込んだ方が見栄えもいい。啓介はそう判断した。

 

 予定はこうだ。

 月曜日:生命。火曜日:知識。水曜日:熱量。木曜日:物資。金曜日:境界。

 

 啓介は引き出しを閉め、部屋の明かりを落とした。

 

「さて。明日から五日間、ただの三十六歳の会社員に戻るか」

 

 つい二日前まで、啓介は本当に『ただの会社員』だったのだ。

 だが、たった二日間の週末で、啓介の基準はすでに「1マナのある生活」へと完全に書き換わってしまっていた。

 

 月曜日。

 週明けの朝の満員電車は、いつにも増して殺伐とした空気に満ちている。

 

 土曜日に《日々の修繕》を使って身体を完全にリセットした効果は、たしかにゼロにはなっていない。

 しかし、ぎゅうぎゅう詰めの車内で無理な体勢を強いられ、重いビジネスバッグを持ち続け、会社に着いて自分のデスクに座る頃には、右肩の付け根から首筋にかけて、あの不快な重さがじんわりと戻り始めていた。

 

「……そりゃそうだよな」

 

 啓介は首を回しながら自嘲する。

 身体を魔法で一時的に治したところで、睡眠不足の生活習慣や、ストレスフルな労働環境そのものが変わらなければ、疲労はまた同じように蓄積していく。

 《日々の修繕》は、肉体を鋼に変える永久強化魔法ではない。あくまで「一日分の損耗を修復する」だけのカードなのだ。

 

 午前中は、溜まっていたメールの処理、週明けの進捗会議、そして顧客からの理不尽な問い合わせ対応に追われた。

 

 今、啓介のチームがメインで担当しているのは、取引先企業の受発注・在庫管理システムの週末更新だ。

 今週の土曜日の早朝——つまり金曜の深夜から——本番環境へ新バージョンを適用する予定となっている。

 

 啓介は主任として、若手社員の進捗管理、本番作業手順書の確認、顧客側担当者との調整、障害発生時の切り戻し(元に戻す)計画の策定、そして外部システムとの接続確認などを一手に担っている。実際の更新操作を担当するのは、夜間作業を専門とする運用チームだ。

 啓介たち開発側は現地で操作しないが、障害や想定外の事象が起きた場合に備えて自宅から連絡待機する。今回の待機責任者は、手順書の最終承認者である啓介だった。金曜日に最終確認を行い、問題がないと判断されて初めて、土曜日の更新作業へ進むことができる。

 

 月曜日は、特に大きなトラブルもなく過ぎていった。

 だが、夕方になり、長時間モニターを睨み続けていたせいで、首を回したときにピキッと鈍い痛みが走った。

 

(……《日々の修繕》を使えば、これくらい一瞬で消えるのにな)

 

 ふと、甘い誘惑が頭をよぎる。

 だが、まだ《借宿》からマナは取り出していない。

 啓介はマナを引き出さないまま退勤し、帰宅した。

 

 夕食を済ませ、少し長めに風呂に入って肩を温め、風呂上がりにストレッチをする。

 魔法を手に入れる前までは、そうやって自分の身体をごまかしながら何年も生き抜いてきたのだ。

 

 午後九時半。

 スマートフォンのアラームが鳴る。

『《種石》へ注入』

 

 啓介は机の引き出しからアクリルケースを取り出し、小さく息を吐いてから《創世札典》を呼び出した。

 《借宿》に触れ、生命マナを1点取得する。

 

 淡い緑色を帯びた光球が啓介の指先に浮かび上がり、そのまま透明な水晶へと静かに吸い込まれていった。

 

『《五彩の種石》へ生命マナを注入しました』

『作成進捗:1/5』

 

 水晶の中心に、髪の毛よりも細い、生命の鼓動のような緑色の光の筋がすっと生まれ、定着した。

 外から見ると、透明な石の中に小さな植物の芽が閉じ込められたようにも見える。

 

 バインダーの中のカードも変化した。

 

 《五彩の種石/Prismatic Seed》

 作成進捗:1/5

 注入済み:生命1

 

 最初の一滴は、まだ奇跡ではない。

 だが、すべての奇跡は最初の一滴から始まる。

 

「……一日目、完了」

 

 肩はまだ重い。

 だが、水晶の中に宿った確かな光を見れば、今日の1マナを投資したことが無駄だったとは思わなかった。

 

 火曜日。

 身体には、月曜日の疲れが確実に蓄積している。

 

 午後、チームの後輩である佐伯直人が、プリントアウトした書類の束を持って啓介の席にやってきた。

 佐伯は二十七歳。真面目で作業は速いが、早く終わらせようと焦るあまり、時折確認が少し浅くなる傾向がある。

 

「門倉さん、週末の更新用の作業工程表、修正版を作りました」

 

「お、早いな。ご苦労さん」

 

 啓介は工程表を受け取る。

 百項目を超える作業手順が、五分単位、十分単位で細かくタイムスケジュールに落とし込まれている。

 

 その膨大な文字の羅列を見た瞬間、啓介の脳裏に一枚のカードが浮かんだ。

 《見落としを一つ》。

 この書類に対して使えば、どんなに巧妙に隠れたバグやミスでも、最も重大な間違いを即座にピンポイントで教えてくれる。

 

 だが、今はまだマナを引き出していない。

 それに、今日はまだ火曜日。金曜日の最終版に向けた、途中段階の工程表だ。

 ここで貴重な1マナを消費して、魔石の完成を一日遅らせる価値はない。

 

 啓介は雑念を振り払い、赤いボールペンを手に取って、佐伯と一緒に項目を一つ一つ指差し確認していく。

「……ん? ちょっと待て」

 中盤の項目で、啓介の手が止まった。

「ここ、データ移行後の確認作業と、外部連携システムの再開の順序が一部逆になってるぞ」

 

 佐伯が慌てて覗き込む。

「えっ、あ、本当だ……。すみません」

 

「謝るほどじゃない。致命傷になる前、今見つけるためのレビューだからな。連携を開ける前に、必ず件数確認のプロセスを挟むように直しておいてくれ」

 

 もしこのまま進行していれば、最悪の場合、作業中に手戻りが発生し、タイムスケジュールが大きく狂うところだった。

 魔法を使わなくても、十数年培ってきた経験と、当たり前の確認手順を踏めば、間違いはちゃんと見つけられる。

 

 啓介は少しだけ安堵した。

 能力を得たからといって、自分がこの会社で積み重ねてきた時間が無価値になったわけではないのだ。

 

 帰宅後、午後九時半。

 今日は知識マナを水晶へ注ぐ。

 

 青白い光が水晶に吸い込まれ、昨日の緑色の筋に寄り添うように絡みついた。

 

『作成進捗:2/5』

『注入済み:生命1・知識1』

 

 《五彩の種石》のフレーバーテキストも、注入されたマナに合わせて書き換わっていた。——知るだけでは、世界は変わらない。

 だが、知らずに世界を変えることはできない。

 

 水晶の中で、緑と青の二つの光がゆっくりと巡っている。

 啓介はケースを眺めながら、少しだけ楽しくなってきた。

 

 水曜日。週の真ん中。

 この日は、朝から最悪だった。

 通勤電車の路線で人身事故があり、振替輸送の満員電車に一時間以上揺られ、会社に着く前に一日の気力を半分近く削られた。

 

 午前中は、あまり話の通じない顧客との長時間のオンライン会議。

 午後は、別部署から飛んできた理不尽な問い合わせへの対応。

 さらに夕方、別案件のシステムトラブルに応援として駆り出され、自分が予定していた作業がずるずると後ろにズレ込んだ。

 

 結果として、退社したのは午後九時近く。

 帰りの電車の中で、啓介は吊り革にすがりつくようにして目を閉じていた。

 

 肩が重い。腰が痛い。目の奥がジンジンと熱く、軽い頭痛までし始めている。

 それは、魔法を手に入れる前の、あの土曜の朝と全く同じ、すり減った会社員の末期症状だった。

 

(……生命マナを出して、《日々の修繕》を使えばいい)

 

 その考えが、月曜日よりも遥かに強い引力を持って迫ってくる。

 魔石の完成が土曜日から日曜日に一日延びるだけだ。誰かに迷惑がかかるわけでもない。

 今夜、この不快感をリセットしてぐっすり眠り、明日の仕事に備える方が、社会人としてはよほど合理的ではないか?

 啓介は、かなり本気で迷った。

 

 しかし、フラフラになりながら帰宅し、ネクタイを緩めたところで、啓介は思いとどまった。

「……いや、違う」

 

 痛みはあるが、市販の強い鎮痛薬を飲まなければ耐えられないレベルではない。

 温かい食事を腹に入れ、ゆっくりと湯船に浸かって肩を揉みほぐし、今日はもう何もせずに寝てしまえば、翌朝には「出社できる程度」には回復するはずだ。

 魔法でなければ絶対に対処できないような、致命的な状態ではない。

 

 午後九時半。

 這うようにして机に向かい、熱量マナを水晶に注ぐ。

 

 赤い光が水晶に吸い込まれ、緑と青の間を火花のようにパチパチと走った。

 

『作成進捗:3/5』

『注入済み:生命1・知識1・熱量1』

 

 カードのフレーバーテキストも、熱量マナに合わせて書き換わっていた。——熱は物を壊し、物を作る。

 意志もまた、燃え尽きるまでは人を動かす。

 

 手のひらに乗せた水晶は、赤い光のせいか、ほんの少しだけ温かい気がした。

 

「三日目……折り返しか」

 

 啓介はその夜、本当にすぐベッドに入った。

 魔法で疲労を消していないため、布団に入ってから意識を失うまでの時間は、驚くほど短かった。

 

 木曜日。

 一晩眠り、どうにか人並みに動ける程度まで回復した啓介は、昼休みに佐伯たち後輩を連れて、会社の近くにあるカレー屋へ向かった。

 

 午後には、重要な顧客とのオンライン会議が控えている。

 運ばれてきたチキンカレーをスプーンで掬い、口へ運ぼうとした——その瞬間。

 

 ピチャッ。

 

 スプーンから跳ねた小さな黄色い一滴が、啓介が着ている真っ白なワイシャツの胸元に、見事な弾道を描いて着弾した。

 

「あ……」

 向かいに座っていた佐伯が、気まずそうな顔をする。

「門倉さん、ついてます……」

 

「見れば分かる」

 啓介はげんなりした顔で、胸元の黄色い染みを見下ろした。

 

 脳裏に、あのカードが鮮明に浮かび上がる。

 《衣服の身だしなみ》。

 物資マナを1点使えば、汚れも臭いも皺も、一瞬で完全に消し去ることができる。

 これほどカードの用途にドンピシャでハマるシチュエーションは他にない。

 

 だが、啓介はまだ今日のマナを引き出していない。

 ここで使えば、魔石の完成は延びる。

 命の危機でもなく、仕事の成否に関わる重大なバグでもなく、「シャツにカレーが飛んだ」というただそれだけの理由で。

 

「……さすがに、これで一日分の奇跡を切るのは、人生の敗北者になった気がするな」

 

 啓介は小さく呟くと、立ち上がって店のトイレに駆け込んだ。

 水と石鹸を使い、ハンカチで叩くようにして応急処置をする。さらに、こういう時のためにビジネスバッグに忍ばせていた携帯用の染み抜きシートを取り出し、格闘すること五分。

 

 完全には消えなかったが、ジャケットのボタンを留めれば、画面越しにはほぼ見えない程度にはごまかすことができた。

 

 席に戻ると、佐伯が感心したように言った。

「さすがですね。やっぱり、こういう時の備えって大事ですよね」

 

「まあな。魔法がなくても、どうにかなるもんだ」

 佐伯には何のことか全く分からなかっただろうが、啓介は変な達成感を感じていた。

 

 帰宅後、午後九時半。

 今日は物資マナを注入する。

 

 白金色の光が水晶に加わり、内部を柔らかく照らす。

 

『作成進捗:4/5』

『注入済み:生命1・知識1・熱量1・物資1』

 

 カードのフレーバーテキストも、物資マナに合わせて書き換わっていた。——形あるものは、いつか壊れる。

 だから人は、壊れた先へ残す形を作る。

 

 あと一回。

 水晶の中には四色の光が複雑に巡り、中心に一か所だけ、まだ光の届いていない透明な空白が残されている。

 

「……明日で、完成か」

 

 啓介は、水晶の奥底にあるその空白を見つめながら、静かに高揚感を覚えていた。

 

 そして、金曜日。

 啓介はいつも以上に慎重な動作で身支度を整え、バインダーの中の《借宿》には指一本触れることなく出勤した。

 

 今日の1マナを使わずに無事に帰宅できれば、ついに《五彩の魔石》が完成する。

 だが同時に、今日は明日の早朝に控えた本番更新に向けた、絶対に失敗が許されない最終確認の日でもあった。

 

 午前中は、チーム全員で最終版の作業手順書をまとめ上げる作業に追われた。

 土曜日の午前二時から開始される作業は、多岐にわたる。

 利用者アクセスの停止。外部連携ジョブの停止。データベースのバックアップ。プログラム本体の更新。データ移行。外部連携の再開。データ件数の照合。業務担当者による確認。そして、万が一問題が発生した際の切り戻し。

 

 リハーサルは二週間前に実施済みだ。そこで出た課題も、すべて解消されているはずだった。

 

 午後四時。

 会議室の大型モニターに手順書のPDFを映し出し、最終レビュー会議が始まった。

 参加者は、啓介、佐伯、別チームの担当者、そして課長の四人。

 佐伯が画面をスクロールさせ、啓介が一項目ずつ読み上げ、全員で確認していく。

 

 最初は順調だった。

 しかし、中盤の「外部連携ジョブの停止」の項目に入ったところで、啓介が突然「ストップ」と声を上げた。

 

「待ってくれ。この停止対象のサーバー一覧、四台しかないな」

 

 佐伯が頷く。

「はい。リハーサル時の構成のままですが……」

 

 啓介は眉をひそめた。

「先週の金曜、本番環境のネットワーク負荷を分散させるために、冗長化用の二号機を追加してなかったか?」

 

 佐伯の表情から、さっと血の気が引いた。

「……あっ」

 

 確認すると、リハーサル後に本番環境にのみ追加された新しいサーバー群が、ジョブ停止対象の一覧からすっぽりと漏れていた。

 このまま更新作業を行えば、一号機のジョブは止まるが、二号機側で旧バージョンの処理が動き続けることになる。

 最悪の場合、データ移行の真っ最中に古い処理がデータベースに書き込みを行い、在庫件数に致命的な不整合が発生する。

 大事故に直結する、重大な見落としだった。

 

 佐伯が震える声で謝罪する。

「すみません……っ! リハーサルの手順書をベースに修正をかけていて、構成変更の差分を取り込めていなくて……」

 

 啓介は、感情的になることなく淡々と告げた。

「だから、今ここで最終確認をしてるんだ。今見つかったなら、それはまだ問題じゃない。すぐに修正しろ」

 

 サーバー一覧の追加、停止コマンドの追記、再開手順の修正、確認項目の追加。

 その場で修正を行わせながら、啓介の中に、これまで感じたことのない種類の不安が黒い泥のように湧き上がってきた。

 

(……ここで一つ見つかったということは。まだ見つかっていない『見落とし』は、本当にないのか?)

 

 最終レビューは続く。

 だが、啓介の脳内には、あのカードのテキストが強烈なフラッシュバックのように点滅し続けていた。

 

 《見落としを一つ》。

 必要マナ:知識1。

 自分が現在確認している文章、計画、設計の中から、最も重大な見落としを一つ指摘する。

 

 今日この日のために作られたのではないかと思えるほど、完璧なカードだった。

 この最終手順書に対して使えば、もし致命的な漏れが残っていたとしても、確実に一つ見つけ出せる。

 

 使うのは簡単だ。一度トイレに行くふりをして席を外し、個室で《創世札典》を呼び出して《借宿》から知識マナを取り出せばいい。

 

 失うものは、《五彩の魔石》の完成が一日遅れることだけ。

 これまで注いできた四日分の努力が無駄になるわけではない。明日の土曜日に最後のマナを注げば、それで完成する。

 顧客のシステムの安全と、自分の魔石の完成が一日遅れること。

 合理的に天秤にかければ、ここで魔法を使う判断は決して間違っていないように思えた。

 

 啓介は、本気で迷っていた。

 だが、彼は「四日分が無駄になるのがもったいないから使わない」という、サンクコストにとらわれた思考はしなかった。

 主任として、状況を冷徹に整理する。

 

 実際に一件、重大な漏れは見つかった。

 しかし、その原因は明確だ。「リハーサル後に追加された構成変更が手順書に反映されていなかった」こと。

 ならば、同じ時期に行われた変更箇所をすべて洗い直せば、類似の漏れは確認できるはずだ。

 本番前には別担当者によるダブルチェックもあるし、作業開始直前にも全員での読み合わせを行う。

 

 今の時点で、魔法を使わなければ絶対に確認できないような異常があるわけではない。

 

 啓介は、画面から目を離し、課長に向かって提案した。

 

「課長。一度、頭からの読み合わせを止めましょう。リハーサル後に変更された部分だけを、変更管理票から逆引きして、一つ残らず手順書に紐付け直します」

 

 手順書をただ漫然と眺めるのではなく、「リハーサルから何が変わったのか」を基準に、確認のプロセスそのものを再構築する。

 冗長化サーバーの追加。接続先URLの変更。一部ジョブの実行時刻の変更。監視設定の追加。顧客側の確認担当者の変更。

 それらを一つ一つ、手順書の該当箇所と照合していく。

 さらに、佐伯とは別の担当者にも、チェック済みの手順を意地悪な目線で再確認してもらう。

 啓介自身も、構成管理表、手順書、切り戻し手順を三つ並べて、矛盾がないか徹底的に照合した。

 

 当然、当初の予定よりも大幅に時間がかかる。

 

 課長が、少し呆れたような、だが頼もしく思っているような声で言った。

「門倉、随分と慎重だな。まあ、お前がそこまで言うなら付き合うが」

 

 啓介は、手元の資料から目を離さずに答えた。

「さっき、現に一個見つけましたからね。二個目がないという保証にはならないでしょう」

 

 それは、魔法を使えないことへの言い訳ではなかった。

 システムエンジニアとして、十数年現場で泥水をすすってきたプロフェッショナルとしての、正しい判断と意地だった。

 

 徹底的な洗い出しの結果、重大な漏れは追加では見つからなかった。

 ただし、緊急連絡先の内線番号が古いままだったり、確認用SQLのコメントアウト部分に旧テーブル名が残っていたり、作業時刻の表記が一箇所だけリハーサル時のままになっているなど、軽微な不備がいくつか見つかり、修正された。

 

 すべての確認が終わり、会議室に安堵の空気が流れる。

 それでも啓介は、画面上の最終版手順書を見つめながら、最後に一度だけ迷った。

 

 ここで《見落としを一つ》を使えば、さらに強い安心を得られる。

 その瞬間、日曜日に見た黄色い帽子と、車道へ転がる赤いボールが脳裏をよぎった。

 

 魔法は、人間の思考や確認を放棄するためのツールではない。だが、人間の確認では拾いきれない危険を無視するためのものでもない。

 危険は、確定してからでは遅い。あの時も、事故が起きる前にカードを使ったから、子供を助けることができた。

 だからこそ、具体的な危険の兆候が残っているなら、魔石の完成など迷わず遅らせるべきだ。

 

 だが今回は、見落としが発生した原因を特定し、リハーサル後の変更をすべて洗い出し、手順書、構成管理表、切り戻し手順を複数人で照合した。

 作業開始前には、運用チームを交えた最終読み合わせも行われる。

 今なお残っているのは、何かがあるという具体的な兆候ではなく、「絶対に何もないと知りたい」という自分自身の不安だけだった。

 

 啓介は、心の中で《創世札典》を呼び出そうとする衝動を完全に断ち切った。

 そして、手順書の最終承認欄に、自分の名前をタイピングする。

 

「これで、提出します」

 

 佐伯が、少し緊張した面持ちで尋ねる。

「……大丈夫でしょうか」

 

 啓介は、マウスから手を離し、力強く答えた。

「大丈夫にするための確認は、全部やった。あとは明日、この手順どおりにやるだけだ」

 

 その言葉は、佐伯へ向けたものでありながら、自分自身の決断を肯定するためのものでもあった。

 

 午後八時前。

 最終確認の提出と顧客への説明を終え、啓介は会社を出た。

 肩も腰も、鉛のように重い。精神的にもギリギリまで神経をすり減らしたせいで、ぐったりと疲労している。

 

 もしあの時、《見落としを一つ》を使っていれば、もっと簡単に、もっと早く安心できたかもしれない。

 しかし、魔法を使わずとも、仕事は無事に完了させられた。

 後輩と一緒に手順を確認し、致命的な問題を見つけ、論理的に修正し、責任を持って承認した。

 

 帰りの電車に揺られながら、啓介は小さく息を吐いた。

 魔法が使えるようになったからといって、自分がこれまで積み上げてきた経験や泥臭い努力まで捨てる必要はない。

 能力は、これまでの人生を否定するものではないのだ。むしろ、その経験と組み合わせることで、より強力な武器になる。

 

 帰宅すると、啓介はまず会社支給のノートパソコンをローテーブルに置き、社内ネットワークへ接続できることを確認した。会社支給のスマートフォンも充電器につなぎ、着信音を最大にする。

 午前二時からの更新作業中に問題が発生すれば、運用チームから連絡が入る。待機準備を整えてからスーツを脱ぎ、いつもより少し奮発した夕食を済ませ、眠気を飛ばすために熱いシャワーを浴びた。

 

 午後十時前。

 啓介は仕事机の前に座り、引き出しを開けた。

 アクリルケースの中には、四色の光を宿した水晶が静かに横たわっている。

 

「バインダー」

 

 声に出して呼び出す。

 膝の上に現れた《創世札典》を開く。

 最初のページの《借宿》は、今日一日、幾度もの誘惑を退けられ、使用されないまま静かな光を保っている。

 

「……危うく、仕事で切っちまうところだったよ」

 

 啓介は苦笑しながら、《借宿》のカードに触れた。

 五つのシンボルから、最後に選ぶのは「境界」。

 紫がかった、どこか神秘的な透明な光が、カードから浮かび上がる。

 

 境界。内と外。未完成と完成。1マナと2マナ。

 その境目を越え、新たなフェーズへと進むための最後の力として、この色が妙にふさわしい気がした。

 

 啓介は、紫の光球を水晶の上にそっと導いた。

 

「《五彩の種石》へ、境界マナを注入」

 

 紫色の光が、水晶の最後の空白へと滑り込むように流れ込む。

 

『《五彩の種石》へ境界マナを注入しました』

『作成進捗:5/5』

『作成条件の達成を確認しました』

『遺物化処理を開始します』

 

 ケースの中に置かれていた水晶が、ふわりと音もなく数センチ空中に浮かび上がった。

 内部に宿っていた、生命の緑、知識の青、熱量の赤、物資の白金、そして境界の紫。

 五色の光が、細い螺旋を描きながら激しく回転を始める。

 やがて、透明だった水晶の内部全体に、小さな星雲のような五色の輝きが完全に定着した。

 

 派手に部屋全体を照らすような発光ではない。

 手のひらにすっぽりと収まる、ささやかで美しい魔法の石。

 だが、一週間前まで何の変哲もない雑貨屋で売られていた単なる鉱石が、現実世界でマナを生み出す本物の『遺物』へと変貌を遂げたのだ。

 

 バインダーの中の《五彩の種石》のカードが眩い光に包まれ、テキストが完全に書き換わる。

 

 《五彩の魔石/Prismatic Mana Stone》

 遺物・魔力源

 

【日次起動】

 生命、知識、物資、熱量、境界のうち、好きなマナを1点得る。

 

【唯一】

 《五彩の魔石》は一つしか存在できない。

 

 一つの奇跡を五度諦めた者は、

 六日目から二つの奇跡を選べる。

 

『遺物《五彩の魔石》が完成しました』

『現実物品とカード情報の関連づけを完了しました』

『次回の日次更新から【日次起動】を使用できます』 『この遺物は指定された現実物品へ定着しています。定着物が修復不能な状態まで破壊された場合、対応する遺物カードも破壊されます』

 

「……完成した……!」

 

 啓介は、空中に浮かんでいた水晶をそっと両手で包み込むように手にとった。

 熱くも冷たくもない。

 だが、握っているだけで、その小さな石の中に、五種類の無限の可能性がみっちりと満ちていることが肌で感じ取れた。

 

 今日の分の1マナは、これで使い切った。

 完成したばかりの《五彩の魔石》も、次の日次更新を迎えるまでは起動できない。

 それでもいい。だが、完成したからといって失くしても平気になるわけではない。

 《借宿》は賃貸契約を失えば消え、《五彩の魔石》は現物を修復不能なほど壊せば失われる。「明日、ちゃんとした保管方法も考えないとな」と呟き、啓介は水晶をケースへ戻して引き出しに施錠した。

 

 啓介は会社支給のノートパソコンとスマートフォンを手の届く場所へ置き、眠気覚ましのコーヒーを淹れた。あと二時間ほどで日付が変わり、そのさらに二時間後には本番作業が始まる。待機しながら、久しぶりにバインダーの中の試作カードたちを整理して過ごした。

 

 そして、午前零時。

 スマホのアラームが鳴る。

 

『日次更新を実行しました』

 

 バインダーの最初のページで、《借宿》が淡い光を取り戻す。

 そしてそのすぐ下のポケットで、《五彩の魔石》のカードにも、力強い五色の光が宿った。

 

 日次起動可能なカードが、二枚。

 啓介は、ゆっくりと指を折りながら数えた。

 

「一マナ」

 《借宿》のカードに触れる。

 次に、《五彩の魔石》のカードを見る。

「……二マナ」

 

 たった一つ、数字が増えただけだ。

 だが、その「たった一つ」が、昨日まで絶対に不可能だった奇跡を、今日から可能にする。

 

 啓介の視線が、バインダーの奥の方に並べられた中から、特定の一枚へと向かう。

 

 《掌乗りの小竜/Palm-Sized Drake》

 必要マナ:生命1・境界1

 

 世界を焼くには小さすぎる。

 カーテンを破るには十分だった。

 

 啓介は、カードのイラストの中で小さな翼をパタパタと動かす小竜を眺めながら、たまらないといった様子で口元を緩めた。

 

「……更新作業が無事に終わったら、こいつだな」




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