TCG能力《創世札典》を手に入れた俺、一日一マナから現代社会を攻略する~治療、未来予知、若返り。マナが足りないので山を買います~ 作:パラレル・ゲーマー
月曜日の夜。
会社からの帰宅途中、スマートフォンに「宅配ボックスへ荷物を投函しました」という通知が届いていた。
啓介がマンションのエントランスで受け取ったのは、細長い段ボール箱だった。差出人は、昨日オンラインで注文した園芸店だ。
部屋に入り、箱をローテーブルに置く。
すると、どこからともなくバサバサと羽ばたき音がして、赤銅色の小竜が飛んできて、段ボール箱の上にチョコンと乗った。
「あぎゃー?」
金色の瞳で啓介を見上げ、自分の所有物であるかのようにドヤ顔を決めている。
「まだ開けてもないのに、お前の物みたいな顔をするな」
啓介が苦笑して頭を撫でてやると、小竜はゴロゴロと喉を鳴らした。
小竜を横にどけ、カッターで丁寧にテープを切って箱を開ける。
中に入っていたのは、高さ四十センチほどの小さなオリーブの鉢植えだった。
輸送中に土がこぼれないよう、鉢の表面は濡れた新聞紙とビニールで厳重に覆われている。
啓介は慎重に梱包材を外した。
銀緑色の美しい葉。まだ鉛筆のように細いが、生命力に満ちた幹。
ダンボールの中で少し葉が揺れた形跡はあるが、枝が折れたり葉が枯れたりしている様子は全くない。
小竜が鼻先を近づけ、クンクンとオリーブの葉の匂いを嗅ぐ。
そして、端っこの葉を一枚、カプッと齧ろうとした。
「こら。食うな」
啓介は慌てて小竜を遠ざけた。
「これはお前のおやつじゃない。これから毎日、俺たちに生命マナを出してもらう大事な木だ」
「あぎゃ……」
小竜は少し不満そうに鳴いて、ソファの背もたれへと飛んでいった。
啓介はオリーブの鉢植えを、日当たりの良さそうな窓際へ置いた。
葉の裏表、幹の状態、土の湿り気。目立った病害虫がついていないことまで、素人目なりにしっかりと確認する。
準備は整った。啓介は《創世札典》を呼び出した。
「システム。このオリーブの鉢植えを、《生命樹の苗床》の物理的な核として指定できるか?」
『肯定』
『対象植物の生存および所有権を確認しました』
『核としての関連づけが可能です』
ここで、啓介は昨日システムが提示した「試作例」のテキストを、自分の手で書き換える作業に入った。
試作段階では「生きた植物を核として作成する」という、あまりにも広い条件だった。
だが、実際に現実世界で運用する段階では、それではリスクが高すぎる。
「その辺の道端の草花や、寿命の短い一年草まで対象にすると、すぐに枯れて遺物が破壊される危険性が高すぎる。核は『長期生存する樹木』に限定する」
さらに、もしこれが成功した場合、部屋中を鉢植えだらけにして生命マナを量産するというバグ技を防ぐため(システム側に警戒されないよう自ら制約を課すため)、【唯一】の属性を追加する。
維持条件も「枯らさないこと」という曖昧なものではなく、日照、土壌、水分などの具体的な「管理条件」を明記する。
頭の中で要件を整理し、完成した正式な設計をシステムに定着させる。
《生命樹の苗床/Cradle of Vitality》
遺物・魔力源・生命
必要マナ:生命3
生きた樹木を核として作成する。
【日次起動】
生命マナ1点を得る。
【唯一】
《生命樹の苗床》は一つしか存在できない。
【生育】
核となる樹木が枯死した場合、このカードは破壊される。
日照、水分、土壌その他、樹木の生育に適した継続的管理を必要とする。
命を生む器は、
それ自体もまた、命でなければならない。
啓介は、完成したカードテキストを見つめて頷いた。
「システムが勝手に条件を変えるんじゃない。試作表示はあくまでモックアップ(試作品)で、実際に作る前に、こっちで仕様を詰めてデプロイ(本番環境へ移行)する必要があるわけだ」
月曜日のマナを引き出す。
《借宿》から生命1。《五彩の魔石》からも生命1。
合計2マナ。
啓介は、窓際のオリーブの鉢植えへ両手を添えた。
「《生命樹の苗床》、作成開始」
二つの緑色の光球が、吸い込まれるようにオリーブの根元へと消えていった。
その瞬間、オリーブの銀緑色の葉脈が、内側から淡く発光したように見えた。
『作成進捗:2/3』
『核との関連づけを固定しました』
『核の破壊、枯死、紛失が発生した場合、注入済みマナはすべて失われます』
翌日、火曜日の夜。
仕事から帰った啓介は、すぐに《借宿》から生命1を引き出し、オリーブに最後のマナを注入した。
《五彩の魔石》から出る残りの1マナは、《日々の修繕》のテスト用として温存し、結局使わずに消滅させた。
最後の生命マナが根元に吸い込まれると、オリーブの葉が一斉にサワサワと揺れた。
部屋の中は無風だ。
鉢の土の奥から、脈打つような強い緑色の光が細い幹を上り、枝の先端、一枚一枚の葉先まで一気に巡っていく。
『遺物の作成が完了しました』
『物理的核とカード情報の関連づけを完了しました』
『次回の日次更新より起動可能です』
そして、水曜日の午前零時。
バインダーを開くと、《借宿》、《五彩の魔石》、そして完成した《生命樹の苗床》。
三つのマナ源が、日次起動可能であることを示す光を静かに放っていた。
「……最初は一日一マナだったのに、もう一日三回か」
啓介は感慨深く呟いた。
完全な任意属性の3マナではない。うち一つは必ず「生命」マナに固定される。
だが、これから計画している「医療検証」のフェーズに進むにあたって、むしろその固定化は非常に都合が良かった。
週末の人間ドックに向けて、啓介は重大な決断をした。
三崎からは事前に「前日夜から絶食」「水以外の飲料禁止」「激しい運動を避ける」といった一般的な注意事項が届いていた。
啓介は、魔法に関しても同様の「検査条件の統一」が必要だと考えた。
「少なくとも検査前日は、《日々の修繕》の使用を完全に控える。いや、可能なら木曜と金曜の二日間は一切魔法を使わず、通常の『三十六歳の疲れた会社員』としてダメージを蓄積させた状態で検査を受けるべきだ」
木曜日。
仕事の疲れが抜けきらず、朝から肩が鉛のように重かった。
金曜日。
連日のデスクワークで首筋がパンパンに張り、目の奥が熱を持ったように痛む。腰にも鈍い痛みが居座っている。
《日々の修繕》を使えば、これらは一瞬で消し去れる。
その甘い誘惑が何度も頭をよぎった。だが、ここで使ってしまえば、医学的検証の「使用前(ビフォー)」のデータが狂ってしまう。
啓介は、市販の湿布を貼り、首を回すストレッチだけでなんとか二日間を乗り切った。
「……魔法を使わないことが、検査の必須条件になる日が来るとはな」
金曜日の夜、啓介は余ったマナを使わずに消滅させながら、痛む腰をさすって苦笑した。
その金曜日の夜。
啓介は、過去数年分の健康診断結果の紙を机の上に並べ、深く息を吐いた。
改めて、自問自答する。
「三崎に、本当にこの能力を話すのか?」
通常の人間ドックを受けるだけなら、魔法の秘密を話す必要はない。
後日、《健全なる肉体》を使った後にもう一度検査を受け、結果が劇的に改善していたとしても「最近、食生活を根底から見直して、パーソナルトレーナーをつけた」とでも強弁すればいい。
だが、それでは《日々の修繕》や、今後の治療カードの正確な効果検証ができない。
魔法が、ただ『痛みを感じなくさせている』だけなのか。
それとも、筋繊維の断裂や炎症といった『損傷そのものを直している』のか。
あるいは、細胞の代謝を異常な速度で促進させた結果、見えない形で寿命を縮めたり、腫瘍を形成したりするリスクはないのか。
それらを検証するには、専門知識を持った医師の協力が絶対に不可欠だった。
しかし、秘密を明かせば、この世界で《創世札典》の存在を知る人間が自分以外に一人増えることになる。
一度口から出た言葉は、二度と取り消せない。
三崎修司は、学生時代からの悪友であり、気心の知れた男だ。
だが、彼が「絶対に誰にも話さない」という保証はどこにもない。
むしろ、医者としての強烈な使命感や倫理観から、「こんな正体不明の現象は、国や研究機関に報告して解明すべきだ」と判断し、啓介の意思を無視して行動に出る可能性すらある。
「……友達だから信じる、なんてのは、思考停止のただの言い訳だ」
啓介は、システム屋として「最悪の事態」を想定した。
危険をゼロにはできない。ならば、致命的なバグが発生した時に、直前のセーブデータまでロールバック(巻き戻し)できる「非常停止手段」を用意しておく必要がある。
啓介は《創世札典》の空白の枠に指を置き、条件を極限まで削り込む作業に入った。
最初の要求。
「対象一人の、任意の記憶を完全に消去する」
システムが弾き出した必要マナは二桁を超え、現在の3マナ体制では到底発動不可能だった。
範囲と条件を、極限まで狭めていく。
・過去二十四時間以内の出来事に限定する。
・『一件』の連続した出来事だけ。
・使用者(啓介)もその場に居合わせた出来事のみ。
・対象の身体に直接触れる必要がある。
・記憶を消すだけで、別の偽の記憶を作って埋め込むことはしない。
・スマートフォンの録音やカルテなどの外部記録には一切干渉しない。
・一度消した記憶は、復元不可能とする。
何度も条件を調整し、ようやくシステムが承認した。
必要マナ:知識1・境界1。
生成されたカードが、重苦しい紫と青の光を帯びて浮かび上がった。
《秘密の切除/Excise the Secret》
術式・知識・境界
必要マナ:知識1・境界1
接触している一人を対象とする。
対象が過去二十四時間以内に経験した、指定した一件の出来事に関するエピソード記憶を消去する。
【単一事象】
指定できるのは、連続した一件の出来事に限る。
【空白】
消去された記憶を、別の記憶で置き換えることはできない。対象には記憶の欠落が残る。
【記録外】
文書、映像、録音、電子記録、身体的変化その他、対象者の記憶以外には影響しない。
【不可逆】
このカードによって消去された記憶は、同じカードでは復元できない。
忘却は、なかったことにはしてくれない。
ただ、知る前へ戻すだけだ。
啓介は、完成したカードの冷たいテキストを見つめた。
もし三崎に魔法を見せて、拒絶されたらこのカードを使う。システム上は、そんな身勝手な使い方も可能だった。
だが、それは自分にとって都合の悪い結果を力でねじ伏せる、傲慢な行為だ。
三崎にとっては、人生の連続性を突然断ち切られ、意味不明な記憶の欠落を抱えて生きるという暴力に他ならない。
「……作れても、使っていいとは限らないよな」
啓介はノートを開き、このカードに対する自分自身の『使用条件』を書き殴った。
・単に信じてもらえなかっただけでは使わない。
・協力を断られただけでも使わない。
・気味悪がられたり、絶交されたりしても使わない。
・三崎本人、あるいは啓介自身に『重大な危険』が即座に及び、病院や警察、マスメディアなどに情報がその場で通報され、能力の秘匿性が回復不能な形で破壊される場合に限る。
・使用する前に、外部に記録が送信されていないか必ず確認する。
カードは作った。マナも残しておく。
だが、このカードは「絶対に使用しないこと」を大前提として封印する。
啓介は最後に、《五彩の魔石》から知識1を引き出し、《危険判定》を使用した。
「明日、三崎修司の勤務する健診センターで検査を受け、必要と判断した場合に限り、三崎本人へ《創世札典》の存在と《日々の修繕》の効果を開示し、その日のうちに無事に自宅へ帰る」
『否定』
少なくとも、この行動が二十四時間以内に啓介に重大な損害(死や破滅)をもたらす可能性は低い。
ただし、システムは友情が壊れることや、三崎に協力を断られること、あるいは長期的に秘密が漏洩するリスクまでは否定していない。
「危険じゃないことと、正しいことは別だ。……それでも、行くしかない」
啓介は静かにバインダーを閉じた。
土曜日の朝。
絶食のせいで少しばかりフラフラする身体を引きずり、啓介は都内の総合病院に併設された健診センターへと向かった。
持参したのは、過去五年分の健康診断結果の束、保険証、問診票。
そして、物理的な実体を持たない《創世札典》。
今日の3マナは、まだ一切引き出していない。
必要になったタイミングで、《生命樹の苗床》の生命1を《日々の修繕》による実演に使用し、残る《借宿》と《五彩の魔石》からの2マナ(知識・境界)を、最悪の場合の非常停止手段である《秘密の切除》のために待機させておく。
つまり、治療の実演と、記憶消去のセーフティネットを、同じ日に両立できる完璧なマナ配分だった。
「お前は留守番だぞ。今日は帰りが少し遅くなるかもしれない」
「あぎゃ」
出発前、玄関まで見送りに来た小竜の頭を撫でて、啓介は部屋を出た。
健診センターの受付を済ませ、指定された待合室で待っていると、白衣姿の三崎修司が顔を出した。
年齢は啓介と同じ三十六歳。学生時代からスポーツマン体型だったが、少し痩せ、目元には医者特有の慢性的な疲労の影が落ちている。
だが、少し皮肉げに歪む口元の笑みや、声のトーンは昔のままだった。
「本当に来たな、自称『体調が良すぎる患者』」
「言い方だけ聞くと、完全に厄介なクレーマーだな」
三崎は、啓介が差し出した過去の健康診断結果の束を受け取りながら、問診を始めた。
「二年前から軽度の脂肪肝の所見あり。LDLコレステロール値がやや高め。胃に慢性的な軽い炎症の傾向。血圧は正常範囲。今日の問診票には、慢性的な肩こりと腰痛を記載……体重は標準体重の上限ギリギリ。見事なまでの、おっさんのプロトタイプだな」
「うるさい。で、その結果を踏まえてどうだ?」
「だから、お前が『何をしたか』を聞いてるんだ。薬は?」
「使ってない」
「怪しいサプリメントやプロテインは?」
「なしだ」
「極端な糖質制限とか、ジムでハードな筋トレでも始めたのか?」
「多少気をつけるようにはなったけど、身体が劇的に変わるようなことは何もしてない」
三崎は眉間を揉みほぐすように指で押さえた。
「……じゃあ、お前は何をしてそんなに『体調が良い』って言い張ってるんだ?」
啓介は、まっすぐに三崎の目を見て答えた。
「まず、今日の結果を見てくれ。俺の単なる思い込みで済むなら、その方が俺にとっても平和だ」
三崎は不満そうに舌打ちをしたが、医者としての職務は全うした。
「原因を隠されたまま検査進めるの、医者としてはめちゃくちゃ気持ち悪いんだけどな。分かった、全部終わってからたっぷり聞かせてもらう」
それから数時間、啓介は一通りの人間ドックのメニューをこなした。
身長、体重、腹囲。血圧、心拍。胸部レントゲン、腹部超音波エコー。心電図。視力、聴力。
そして、首・肩・腰の可動域の確認、筋肉の圧痛テスト、握力測定。
採血の際、看護師によって左腕の内側に太い針が刺された。
検査が終わった後、止血バンドを外すと、そこには小さな赤い穿刺(せんし)の跡と、その周囲にうっすらとした紫色の内出血が残っていた。
(……よし。これは後で、目視での検証に使えるな)
啓介はこっそりと腕を確認し、袖を下ろした。
午前中の検査がすべて終わり、午後一番。
啓介は、三崎の個室の診察室に呼ばれた。
三崎は、当日に判明する基本データと画像所見を、過去のデータと見比べながら腕組みをしていた。
「結論から言う。結果は……意外なほど『普通』だ」
三崎の説明によれば、状態はこうだった。
【改善している点】
・睡眠不足気味だと申告している割に、血圧と心拍は非常に安定している。
・肩や腰の筋肉の緊張状態は、問診票にある『重度の疲労』という申告よりも明らかに軽い。
・血液検査における、軽い炎症反応を示す数値が過去のデータより低い。
・総合的な全身状態は、疲労を抱えた三十代半ばとしては非常に良好。
【改善していない点】
・軽度の脂肪肝の所見は残ったまま。
・LDLコレステロール値は依然として高め。
・胃粘膜の慢性的な荒れ。
・レントゲンで確認できる、年齢相応の軽い腰椎の変化。
・過去の歯科治療の痕。
・体脂肪率。
つまり。
《日々の修繕》は、啓介の肉体を「完全無欠の健康体」にしているわけではなかった。
日常的な筋疲労や、自然治癒可能なレベルの損傷、炎症などは綺麗にリセットしている。
だが、長年の生活習慣で蓄積された脂肪肝や、器質的な変化である腰椎の変形、脂質異常などの『慢性疾患』までは、一切修復していなかった。
まさに、カードのテキスト通り、「自然治癒可能な体調不良を回復する」という限定的な効果が、医学的にも証明された形だ。
三崎は、カルテから目を離して啓介を見た。
「三十六歳の社畜としては、コンディションはかなり良い方だ。だが、医学の常識を覆すような『奇跡の回復』なんて起きていない。お前が期待していたような結果じゃなくて悪かったな」
啓介は、内心で少し安堵する一方、肩透かしを食らったような奇妙な気分だった。
三崎が言葉を続ける。
「それと、言っておくが。今日一回検査をしただけで、お前の体調が良い『原因』なんて特定できるわけがない。過去の健診とは検査した病院も条件も違う。お前が隠している『何か』の効果を本当に医学的に調べたいなら、使用前と使用後を、同じ日に、同じ条件で比較しないとデータとしての意味がない」
その言葉が出た瞬間。
啓介の心臓が、ドクリと大きく跳ねた。
ここだ。
三崎は、椅子に深く腰掛け直し、啓介をまっすぐに見据えた。
「さて、検査は終わった。門倉、お前は何を使ってる?」
啓介の喉がカラカラに乾いていた。
ここで「やっぱりただの思い込みだったわ、気のせい気のせい」と笑って誤魔化し、通常の検査結果だけを受け取って帰ることもできる。
そうすれば、能力は完全に秘密のまま。非常用の《秘密の切除》も使わずに済む。
しかし、それでは次に進めない。
上位の回復カードである《健全なる肉体》を自分に使う前に、どうしても医学的な「使用前データ」を取っておきたい。
そして将来、この力で他人の命や怪我を治すような事態になった時、独学で使い続けるのはあまりにも危険すぎる。絶対に、医療知識を持った専門家のバックアップが必要になる。
啓介は、深く息を吸い込み、三崎の目を見返した。
「修司。これから俺が話すこと……いや、見せることを、すぐに誰かに連絡したり騒いだりせず、まず最後まで黙って見てくれるか?」
啓介の異常なまでの真剣さに、三崎の表情がスッと険しくなった。
「……なんだ。お前、違法薬物でもやってるのか?」
「違う」
「犯罪に関わってるのか?」
「少なくとも、俺は一切関わってない」
「誰かを傷つけるような話か?」
「逆だ。治す話だ」
三崎は、探るような目で数秒間、啓介を観察した。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「患者や第三者に、今すぐ生命の危険が及ぶような話なら、医者としての義務がある。黙っている約束はできない。……それ以外の話なら、まず聞く」
それは、友人としての全面的な無条件承諾ではなく、医者としての譲れない一線を引いた、極めて理知的な回答だった。
だからこそ、啓介は彼を信じられると思った。
「ここから先は、見たらもう戻れないぞ」
三崎の診察室。
防音の扉はしっかりと閉まり、外に人の気配はない。
机の上には、三崎のスマートフォンが裏向きに置かれている。
「録音とか、してないよな?」
啓介が念を押すと、三崎は呆れたようにスマホの画面を見せ、再び伏せた。
「してない。電子カルテにも、まだお前の奇妙な妄想話は一文字も打ってない。さっさと言え」
啓介は、自分の中にプールされているマナの状況を最終確認した。
生命1。知識1。境界1。
《秘密の切除》はいつでも撃てるよう、思考の隅に待機させてある。
「説明しても絶対信じないから、先に見せる」
啓介は、右手を何もない空間へと差し出した。
「バインダー」
ポンッ、という質量を伴った音とともに、啓介の膝の上に重厚な《創世札典》が顕現した。
三崎の動きが、完全に停止した。
瞬き一つせず、啓介の膝の上に出現した『本』を見つめている。
目の錯覚か。手品か。服の中に隠し持っていたのか。
様々な合理的な言い訳が三崎の脳内を駆け巡っているはずだが、出現の瞬間を正面から、わずか一メートルの距離で目撃してしまった事実が、それを許さなかった。
「……お前、今、それをどこから出した?」
三崎の声が、わずかに震えていた。
「説明は後だ」
啓介はバインダーを開き、《日々の修繕》のカードを指差した。
三崎は、動揺を顔に貼り付けながらも、ギリギリのところで医者としての理性を保っていた。
「……待て。お前が治ると言うなら、先に今の状態を正確に記録する」
三崎は立ち上がり、啓介の左腕を引き寄せた。
採血の痕。針を刺した赤い点と、その周囲に広がる五百円玉ほどの青紫色の内出血。
三崎は啓介のスマートフォンを手に取り、傷口の横に小さな定規を添えて、接写モードで何枚か写真を撮った。
「これなら、画像加工だとは言えないだろ。写真は俺の病院の端末には残さない」
さらに三崎は、啓介の首を左右に回させ、可動域の限界角度を測定。肩や腰の筋肉を強く指で押し、圧痛の度合いを確認し、握力計で数値を記録した。
木曜日と金曜日に《日々の修繕》の使用を我慢したため、今の啓介の肉体には、会社員としてのリアルな疲労と炎症がたっぷりと蓄積されている。
すべての記録を取り終え、三崎が念を押すように言った。
「いいか。これで仮に痛みが消えたとしても、それは治療じゃなく『強力な鎮痛作用』だ。外見の傷が見えなくなったとしても、皮膚の下の組織が本当に治っているとは限らない」
「分かってる。だから、見ててくれ」
啓介はバインダーの《生命樹の苗床》のカードに触れ、生命マナ1を引き出した。
淡い緑色の光球がふわりと浮かび上がる。
三崎の目が、限界まで見開かれた。彼にも、その『マナの光』がはっきりと見えている。
啓介は《日々の修繕》のカードに手を置いた。
「《日々の修繕》、使用!」
弾けた緑の光が、啓介の胸元から全身へと吸い込まれていく。
直後。
啓介の首と肩を万力のように締め付けていた重さが、嘘のようにフッと消え去った。
目の奥の熱も、腰の鈍痛も、空腹による疲労感さえも、静かに、しかし確実に洗い流されていく。
そして、三崎が凝視している目の前で。
啓介の左腕にあった、採血の小さな赤い点が、まるで逆再生の映像のようにスゥッと塞がった。
周囲に広がっていた青紫色の内出血も、目に見えて急速に薄くなり、肌の血色と同化していく。
数秒後には、絆創膏を剥がした際の粘着テープの跡だけが残り、その中央にあったはずの針痕は、どこを探しても見当たらなくなっていた。
三崎は、無言で啓介の腕を強く掴んだ。
先ほど撮影したスマートフォンの写真と、現実の腕を交互に見比べる。
位置は全く同じ。だが、あるはずの傷が、完全に消滅している。
啓介が首を回す。
先ほどは顔をしかめた角度を超えても、引っ掛かりも痛みもない。
三崎が先ほどと同じ強さで肩の筋肉を押すが、啓介は痛みを感じず、筋肉の異常な硬直も解けていた。
握力計を握り直すと、数値は先ほどより明らかに向上し、疲労前のベストな状態に戻っていた。
三崎は、啓介の腕を離し、ゆっくりと椅子に座り込んだ。
数分間、診察室には空調の音だけが響いていた。
啓介は、三崎の手元から目を離さなかった。
スマートフォンに手を伸ばすか。
立ち上がって扉を開けるか。
誰かを呼んで、この異常事態を共有しようとするか。
もしそう動けば、思考の隅に待機させてある《秘密の切除》を即座に起動しなければならない。
しかし、三崎が長い沈黙を破って最初に口にした言葉は。
「門倉。これを知ってる人間は、他に何人いる?」
だった。
啓介は答えた。
「誰もいない。お前が最初だ」
三崎は勢いよく立ち上がると、診察室の扉に歩み寄り、ロックが確実にかかっていることを確認し、さらにドアスコープから廊下に誰もいないことを確認した。
そして、足音を殺して戻ってくると、極限まで声を落として言った。
「病院の中で、こんな真似を二度と勝手にするな。もし誰かに見られたら、お前、完全に終わるぞ」
未知の能力を前にして、それを利用しようとしたり、医学的な名誉のために報告しようとしたりするより先に。
三崎は、友人である啓介が人体実験のモルモットになるリスクを恐れ、情報漏洩を心配したのだ。
同僚を呼ばない。上司に報告しない。自分のスマホで勝手に撮影しない。
その反応を見て、啓介は『三崎を選んだ自分の判断は、間違っていなかった』と確信した。
ページの隅で待機していた《秘密の切除》のカードが、啓介の思考から静かにフェードアウトしていく。
三崎が落ち着きを取り戻すのを待ち、啓介は必要最低限の説明を行った。
数週間前に《創世札典》というシステムを得たこと。
場所、物、生命、現象などをカードとして定義し、引き出せること。
使用には「マナ」というコストが必要で、それは一日ごとに更新されること。
今の自分は、一日に3マナ使える状態まで開拓を進めたこと。
先ほど使った《日々の修繕》は1マナで、軽傷や自然治癒可能な損耗を治せるが、慢性疾患や加齢までは治らないこと。
そして——より強力な自己治療のカードを設計済みであり、それを使う前に、現代医学による徹底的な検証をしたかったこと。
未来予知や、ドラゴンを飼っていること、最悪の記憶消去カードを作ったことなどは、今の段階では伏せた。
三崎が疑わしそうに目を細めた。
「……治療以外のカードも、あるのか?」
「ある。でも、今日の医療検証に必要のないものまで、全部話すつもりはない」
三崎は少し不満げに鼻を鳴らしたが、それ以上は無理に追求しなかった。
「分かった。ただし、今後人体に使うカードについては、テキストを全部俺に見せろ。どういう効果があるのか隠された状態では、医者として協力できない」
「それは約束する」
三崎は、啓介がバインダーから取り出した《日々の修繕》のカードテキストを読み返しながら、頭を抱えた。
「このテキスト……本当に、文字通りの効果だと信用できるのか? さっき傷が塞がったように見えたが、痛覚だけを完全に遮断し、表面の皮膚だけを高速で癒着させて、内部の組織の損傷はそのまま残っている可能性もある。細胞増殖を異常に促進させているなら、将来的な腫瘍形成のリスクもある。免疫系や代謝にどういう影響が残るのかも不明だ」
専門用語を並べ立ててリスクを列挙する三崎に、啓介は静かに返した。
「……そこまで最悪の事態を想定して考えてくれるから、俺は他の誰でもない、お前を頼ったんだよ」
三崎は深い溜息をついた。
「いいか。一回、針の穴が消えた程度で、『魔法は安全な治療に使える』なんて絶対に言うなよ」
「分かってる」
「分かってる顔じゃないだろ。お前、さっき『より強力なカードを作ってある』って言ったな。もう次の実験をやる気満々じゃないか」
図星を突かれ、啓介は苦笑しながら、まだ使っていないカードの案をバインダーの空きページに表示させた。
《健全なる肉体/Sound Body》
術式・生命
必要マナ:生命3
使用者自身を対象とする。
現在の年齢において、医学的に健康と評価される身体状態へ修復する。
【自己限定】
このカードは使用者本人にしか使用できない。
【年齢不変】
加齢そのもの、身体年齢、生来の特徴を変更しない。
【欠損外】
完全に失われた器官、四肢、歯その他の欠損を再生しない。
三崎は、そのカード名とテキストを見ただけで、露骨に嫌な顔をした。
「……おい。このカード、まだ一回も使ってないだろうな?」
「使う前に、お前のところに来た」
「そこだけは褒めてやる」
《日々の修繕》とは次元が違う。
このカードなら、今日残っていた脂肪肝、胃炎、脂質異常、そして過去に痛めた古い軽度損傷まで、すべてが『健康な状態』へと修復される可能性がある。
それだけに、安全性を担保するための「使用前(ビフォー)」と「使用後(アフター)」の精密な検査データの価値が跳ね上がる。
三崎は、デスクの引き出しから白紙のメモ用紙を引き寄せ、ペンを走らせ始めた。
「いいか。これから二人で、この狂ったオカルト現象を現代医学で検証するためのプロトコル(手順)を作る」
第一段階として、まずは《日々の修繕》の再現性と安全性の確認。
次回は、完全に条件を揃える。
前日から使用を控え、睡眠時間、食事、運動量をすべて記録する。
その上で、使用前に血液を採取し、可動域や握力を測定。軽い運動負荷をかけて疲労状態を作ってからカードを使用し、直後に再度採血と測定を行う。
さらに数時間後、翌日と、経過観察を続ける。
「故意に腕を切り裂くような馬鹿な怪我は作るなよ。採血の痕や、通常の運動疲労みたいな、安全な範囲だけで検証する」
それがクリアできれば、第二段階。いよいよ《健全なる肉体》の検証だ。
使用前の詳細な血液検査、腹部超音波、心電図、画像検査。
使用直後、二十四時間後、一週間後、一ヶ月後と、長期的な比較データを取る。
三崎はペンを置き、啓介を睨みつけた。
「そして、これが絶対の禁止事項だ。
一つ。俺が安全性を完全に判断できる材料が揃うまで、絶対に『他人』には使うな。
二つ。重病患者にいきなり試そうとするな。
三つ。病院内で無断で使用するな。
四つ。俺以外の医療従事者に絶対に見せるな。
五つ。魔法の力を過信して、必要な標準治療を中断するな」
啓介は、そのすべてに深く頷いた。
「分かった。約束する」
記録の残し方についても、厳密なルールを決めた。
病院の公式な電子カルテに「魔法によって採血痕が消失した」などと書くわけにはいかない。
三崎は、公式の人間ドックの結果には、通常の医学的所見だけを記載する。
魔法の検証に関する裏の記録は、すべて啓介が所有する暗号化されたローカル端末(オフラインのノートPCなど)にのみ保存する。
三崎が手書きで作った匿名化されたメモは、その場で啓介が持ち帰る。
「よし……これで、ひとまずはどうにかなるか」
すべての取り決めを終え、啓介がバインダーを閉じると、三崎はどっと疲れたように椅子に深くもたれかかった。
「まさか、休日の人間ドックの当直で、現代医学の常識が根底からぶっ壊れるとは思わなかった」
「俺だって、数週間前までは、土曜日は疲れて昼まで寝てるだけのただの会社員だったんだよ」
「お前、今もただの会社員だろ」
「まあな。でも、来月くらいには山も買う予定だけどな」
気の緩みから、思わず口を滑らせた。
三崎が怪訝そうに片眉を上げる。
「……待て。なんで医療の魔法検証の話に、いきなり『山』が出てくるんだ?」
啓介は少し迷い、「それは今日の検証には関係ないから、また今度な」と話をぶった切った。
三崎は額を押さえ、頭痛を堪えるような顔をした。
「お前、絶対まだ他にも、俺に見せてない面倒くさいカードを隠し持ってるだろ」
「学生時代から、最初から手札を全部見せる主義じゃないのは知ってるだろ」
三崎は呆れ果てたように息を吐き、手元のカレンダーに予定を書き込んだ。
「来週の土曜、もう一度来い。今度は、正式に『使用前』と『使用後』のデータを取り直す」
「え? 今日のじゃ十分じゃないのか?」
「十分なわけがあるか。たった一回、傷が消えたのが成功しただけだ。今日からお前は、俺にとってただの患者じゃない」
一拍置いて、三崎はニヤリと医者らしい不敵な笑みを浮かべた。
「世界で唯一の『未確認症例』だ。徹底的に調べ尽くしてやる」
帰り際、啓介は診察室を出る前に、バインダーのページを一度だけ確認した。
《秘密の切除》。最悪の場合のために作った非常停止手段は、使用されることなく、ページの隅で静かに収まっていた。
誰にも話せなかった秘密を、初めて一人だけ、信頼できる友人と共有した。
情報が漏れるかもしれないという恐怖が完全に消えたわけではない。
それでも、すべてを自分一人で抱え込み、手探りで検証していた時よりも、啓介の肩の荷はわずかに軽くなっていた。
三崎から渡された検証計画書のメモを鞄にしまい、病院の自動ドアを抜ける。
夏の強い日差しが、啓介の顔を照らした。
次に試すのは、生命3のカード。
今の啓介が一日に集められる、すべてのマナを注ぎ込む最大の大技。
「次は——俺の身体が、本当に『健康な状態』になれるかどうかのテストだな」
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