TCG能力《創世札典》を手に入れた俺、一日一マナから現代社会を攻略する~治療、未来予知、若返り。マナが足りないので山を買います~ 作:パラレル・ゲーマー
日曜日の朝。
啓介は、セットしていた目覚まし時計が鳴る数分前に、ふっと自然に意識が浮上するのを感じて目を覚ました。
昨夜は《健全なる肉体》の実験を終え、興奮も冷めやらぬまま帰宅したが、三崎から渡された注意事項のリストは分厚かった。
飲酒禁止。激しい運動禁止。長風呂禁止。市販薬やサプリメントの自己判断での服用禁止。
発熱、動悸、頭痛、吐き気などの急性症状があれば即座に連絡すること。
起床時の体温、心拍、体重を正確に測ること。排尿や排便の異常(血尿や血便など)も記録すること。原因不明の痛みや皮膚の変色、発疹がないか全身を鏡で確認すること。
啓介はゆっくりとベッドから起き上がり、自分の身体の感覚を確かめた。
肩の痛み、なし。
腰にへばりついていた鈍痛、なし。
寝起き特有の胃の重さ、なし。
昨日まで、啓介の肉体に常に薄く存在していた「三十六歳の会社員としてのノイズ」が、嘘のように綺麗に消え去っている。
だが、それはあくまで「エラーがなくなった」だけであり、「スペックが上がった」わけではない。
試しに床で腕立て伏せをやってみたが、回数は魔法を使う前と大して変わらなかった。息は上がるし、腕もパンパンになる。
眼鏡を外すと、視界は相変わらずぼやけている。近視も残ったままだ。
洗面台の鏡で顔を確認しても、シワが消えて二十代の若者に逆戻りしているような劇的な変化はない。額の生え際にも、当然のように奇跡は起きていなかった。
「……健康になっただけで、強くも若くもなってない。昨日の検査結果どおり、見事なまでに等身大の回復だな」
洗面台の前で独りごちていると、寝室の方からバサバサと羽ばたき音がして、小竜がパジャマ姿の啓介の肩に飛び乗ってきた。
「あぎゃー?」
以前なら、朝から不意に肩に乗られると、凝り固まった筋肉にその重みがピリッと響いたものだが、今日は何も感じない。
「お前が軽くなったわけじゃないんだよな」
「あぎゃ!」
なぜか小竜は、自分の功績であるかのように誇らしげに胸を張った。
啓介はリビングに戻り、三崎から渡されたスプレッドシートの記録表を開いた。
体温:36.4度。
安静時心拍:68。
血圧:118/75。
体重:69.2kg。
睡眠時間:7時間。
食欲:あり。
排泄:異常なし。
自覚症状、皮膚異常、腹痛、頭痛、動悸、息苦しさ:すべてなし。
入力した数値を確かめる。
体重は昨日の《健全なる肉体》使用直後とほぼ同じだ。魔法の反動で急激に減少したり、逆に一晩で元に戻ったりはしていない。
データを送信して数分後、スマートフォンが鳴った。三崎からだった。
「体調はどうだ?」
「今のところ、すこぶる良好だ」
「“良好”なんて曖昧な言葉はカルテには書けない。具体的に言え」
啓介が、先ほど入力した項目を読み上げていく。
三崎は相槌を打ちながら、さらに細かく確認を入れてきた。
「昨日より体重が急に一キロ以上減ってないか」
「尿の色は。コーラみたいな色になってないか」
「昨日エコーで消えた脂肪が、背中とか太腿とか、どこか別の部位に塊になって移ったような感覚はないか」
「視界が急に狭くなったり、飛蚊症が増えたりしてないか」
「首の付け根や脇の下のリンパ節が腫れてないか」
「全部異常なしだ」と啓介が答えると、電話の向こうで三崎が小さく息を吐く音が聞こえた。
「……よし。一応、今日の外出は許可する。今日はあの怪しい山の契約だったな」
「よく覚えてたな」
「休日の人間ドックで人体実験を見せられた直後に、『明日山を買う予定なんだ』なんて唐突に言われたら、嫌でも記憶に残る」
「体調に問題なければ、普通に行っていいんだろ?」
「行っていい。ただし、健康体になって気が大きくなったからって、その足で山を登ったり、木を伐採したりするなよ。今日のところは大人しくしていろ」
「分かってる。今日は不動産屋の事務所で契約書にハンコを押すだけだ」
「お前の場合、その“だけ”が一番信用できないんだよ」
電話が切れる。
啓介は苦笑した。完全に、主治医の厳重な監視下に入ったという実感が湧いてくる。
不動産会社へ向かう準備を整えた後、啓介はリビングで《創世札典》を開いた。
午前零時の日次更新を跨いだため、本日のマナ基盤はフルチャージ状態だ。
《借宿》:任意1。
《五彩の魔石》:任意1。
《生命樹の苗床》:生命1。
合計3マナが使用可能。
今日の契約は、事前に高梨から送られてきた資料を徹底的に読み込み、疑問点を洗い出した上で行う。すでに権利関係や境界についての調査報告も受けており、大きな落とし穴はないはずだ。
それでも、万が一に備えて「短期的な危険」だけはシステムで確認しておきたかった。
ただし、《危険判定》というカードの有効範囲は、あくまで『指定した行動から二十四時間以内』に限られる。
将来的に山林の地価が暴落するか。数年後に大雨で斜面が崩れるか。隠れた維持費や税金がどこまで膨れ上がるか。そうした長期的な資産価値の変動や、不確定な未来のリスクまで完全に保証してくれるわけではない。
啓介は、質問の条件を極限まで絞り込んだ。
「システム。今日、不動産会社の高梨真紀から提示される資料と説明を俺自身で確認した上で、青梅市の対象山林の売買契約を締結し、その日のうちに帰宅する。……この行動に、詐欺、脅迫、重大な説明隠し、あるいは移動中の事故など、二十四時間以内に俺へ『重大な損害』を与える危険があるか?」
《借宿》から知識マナ1を引き出す。
「《危険判定》、使用」
淡い青白い光が弾け、脳裏にシンプルな回答が響いた。
『否定』
つまり、今日の「手続きそのもの」に、啓介の人生を即座に破滅させるような隠された罠や、短期的な物理的危険はないということだ。
「……だが、これだけで『契約内容が優良である』と証明されたわけじゃない」
魔法は、契約書の細かい特約条項や、将来の資産価値までは読み解いてくれない。最後にハンコを押すかどうかを判断するのは、魔法ではなく啓介自身の責任だ。
啓介は、付箋をたくさん貼った事前資料の束をビジネスバッグに詰め込んだ。
残るマナは、《五彩の魔石》の任意1と、《生命樹の苗床》の生命1の2点。これは何かあった時のために温存しておく。
玄関で靴を履いていると、小竜がパタパタと飛んできて、下駄箱の上に着地した。
「あぎゃー!」
小竜は、啓介が持っている分厚い資料の束を見て、「山」という単語を覚えたのか、興奮したように小さな翼を広げた。
「お前は留守番だ。まだ連れていけないぞ」
「あぎゃ……」
「契約書にサインしたからって、今日からいきなりあの場所を自由に使えるわけじゃないんだ。……お前、本当に俺より山に行くのを楽しみにしてないか?」
啓介は小竜の顎の下を撫でながら、留守番のルールを復唱させた。
オリーブの葉を齧らないこと。宅配業者が来ても絶対に玄関に出ないこと。換気のために少し開けてある窓の隙間から、外へ飛び出さないこと。
小竜はすべて分かったような顔で、うんうんと頷いた。
その知能をどこまで信用してよいかは不明だが、啓介は「いい子にしてろよ」と言い残して部屋を出た。
午後。
啓介は、都内にある高梨の勤める不動産会社の事務所に到着した。
案内された応接ブースの机の上には、すでに分厚い書類の束が整然と並べられていた。
重要事項説明書。売買契約書。登記事項証明書。公図。地積測量図の有無に関する資料。接道資料。ハザードマップ。森林関係の案内。費用明細。そして、本日の契約から残金決済までの予定表。
前回の山歩きの格好とは違い、今日の高梨はパリッとしたダークスーツ姿だった。
「本日はご足労いただき、ありがとうございます」
高梨は一礼し、着席すると同時に、実務的なトーンで切り出した。
「門倉様。本日は対象山林をご購入いただくための『売買契約』の締結となります。ですが、今日の時点で土地の所有権が門倉様へ移るわけではありません」
啓介は、最初からそこを確認するつもりだった。
「売買契約を締結し、手付金を支払う。その後、後日行われる『残代金決済』のタイミングで、所有権と管理権限が完全に私に移り、同時に司法書士の先生が所有権移転登記を法務局へ申請する。……という理解で合っていますか?」
高梨は、少しだけ驚いたように目を見開いた。
「……はい。完璧にその通りです。重要事項説明の最初に、そこまで正確な理解で質問される方は珍しいです」
「権限と責任が切り替わる正確なタイミングは、最初にフェーズを区切って確認しておきたいので」
高梨は小さく笑みをこぼした。
「門倉様、本当にシステム開発のプロジェクト管理をされているんですね」
高梨は、胸元から『宅地建物取引士証』を取り出し、机の上に提示した。
「それでは、宅地建物取引士として、重要事項の説明を始めさせていただきます。……途中で分からない専門用語や、疑問に思う点があれば、遠慮なく止めてください。そして、最後まで説明を聞いた後で、『やはり自分の希望と違うから契約しない』という判断をしていただいても、全く構いません」
啓介も、背筋を伸ばして答えた。
「承知しました。今日は署名するつもりで来ましたが、説明を聞いて納得する前に決めたつもりはありません」
契約する意志はある。
だが、最悪の場合、契約しないという選択肢(ロールバック)を捨ててはいない。
高梨は、啓介のそのスタンスを聞いて、安心したように深く頷いた。
重要事項説明が始まった。
まずは土地の基本情報から。
対象地は青梅市内。登記簿上の面積は約四十坪。地目は山林。
「本契約は『公簿売買』となります。現地の境界杭を参考にはしますが、新規の確定測量は行いません。将来もし測量を行い、実際の面積と登記簿の面積に差が出たとしても、原則として売買価格の増減・精算は行わないという特約が付きます」
「つまり、あくまで登記上の数字を前提に買うと。高額な確定測量を売主へ求めない代わりに、多少の面積の誤差は自己責任で受け入れる契約ですね」
「その通りです」
三十八万円の土地に対して、隣地所有者全員の立ち会いが必要な確定測量を要求すれば、費用と手間の面で売買自体が破綻する。啓介もその点は十分に理解している。
既存の境界杭は現地で確認済みだし、調査の範囲で隣地との重大な紛争も見つかっていない。
「絶対に一ミリの狂いもなく問題がない」という神の保証はないが、「現在確認できる範囲で重大な問題はない」。
高梨は、決して言葉を過度に断定しない。その慎重さを、啓介はプロとして好ましく感じた。
次に、接道と駐車の確認。
「土地は公道へ接しております。ただし、『接道していること』と、『車を敷地内へ乗り入れられること』は別問題です」
高梨は現地の写真を示した。
「前回、私が車を寄せた場所は公道脇の余地です。荷物を下ろす程度の短時間の停車は現実的に可能ですが、あそこに長時間車を駐車する権利はありません。敷地内に駐車場はなく、車両を乗り入れるための進入口も未整備です」
将来的に拠点として本格運用するなら、近隣の月極駐車場を探すか、隣接地所有者に一時利用の相談をするか、あるいは自力で敷地内の一部を伐採・整地して駐車スペースを作る必要がある。
啓介は、手元のノートの『作業リスト』の項目に追記した。
【駐車・搬入経路の確保】
続いて、インフラ関係。
対象地には、水道引込みなし。下水道なし。電気引込みなし。都市ガスなし。
完全なオフグリッド状態だ。
「水道を新規に本管から引く場合、土地価格を遥かに上回る工事費がかかる可能性があります。井戸についても、掘れば必ず水が出るという保証はできません」
啓介は頷いた。
「当面は、自宅からポリタンクで飲料水を持参します。手洗いや道具の洗浄には雨水タンクを置き、電源はポータブル電源と小型のソーラーパネルで賄う想定です」
高梨はホッとしたように答えた。
「その程度の利用からスタートするのが、最も現実的だと思います。ただし、溜めた雨水は絶対に飲用しないでくださいね」
建築に関しても厳しい説明が続く。
「土地を買ったからといって、好きなように住宅や小屋を建てられる保証はありません。小さな物置であっても、規模、基礎の有無、固定方法、用途、そしてその地域の都市計画法などの規制によって、行政への建築確認申請が必要になる場合があります」
「購入直後に、基礎を打つような建築物を建てる予定はありません」
啓介はきっぱりと答えた。
「まずは自分で草刈りをし、倒れそうな危険木がないか確認し、移動可能なテントや収納ボックスを置くところから始めます」
次に、森林関係の義務について。
「対象地は『地域森林計画の対象森林』です。取得後九十日以内に、青梅市役所へ『森林所有者届出』の提出が義務付けられています。また、将来的に立木を伐採する場合は、事前に市への『伐採届』が必要になる可能性が高いです」
さらに、所有者になれば当然の管理責任が生じる。
「台風での倒木、枝の越境、道路への土砂流出、不法投棄の処理、害虫の発生。それらすべて、所有者である門倉様が責任を持って対応する必要があります。……買った後、何もしなくていい放置可能な土地ではありません」
高梨がはっきりと告げる。
啓介も深く頷いた。
「管理すること自体が目的の一つなので、そこは覚悟しています」
高梨には、都内のIT企業に勤める独身男性が、なぜ「小さな未整備山林を自分で管理すること」を目的とするのか、全く理解できていないだろう。
しかし、投資目的でも住宅建築でもなく、「自分で小さく管理し、試しながら整備したい」という希望は、すでに十分伝わっている。高梨はそれ以上、プライベートな動機を深く追及することはしなかった。
ハザードマップの確認に移る。
対象地周辺には斜面があり、大雨や台風時には土砂流出、倒木、落枝、道路寸断などのリスクがある。
「警報級の大雨が予想される時や、台風の直後に『自分の山が心配だから』といって、様子を見に行くようなことは絶対にしないでください」
高梨が強い口調で注意する。
啓介は即答した。
「絶対に行きません」
魔法が使えるようになったからといって、物理的な土砂崩れに巻き込まれてよい理由にはならない。《危険判定》も、自ら危険な場所へ積極的に入るための免罪符ではない。その点は、三崎からも散々釘を刺されている。
そして、最も重要な「現況有姿」と「契約不適合責任」に関する説明。
土地は、現在の雑木が生い茂った状態のまま引き渡される。売主が綺麗に草刈りや伐採をしてから渡してくれるわけではない。
地中に大きな石や木の根があっても不思議ではないし、目視できない小さな廃材が埋まっている可能性も、完全には否定できない。
高梨は、「現在確認されている事実」「売主から聞き取った内容」「調査しても分からなかった不確定な範囲」、そして「契約上、売主が負う責任の範囲」を、明確に切り分けて説明した。
啓介は条項を読み込み、自分なりに整理した。
「つまり、『絶対に何も問題がないと保証する』契約ではなく、『分かっている問題はすべて開示し、未確認の部分についてはこのリスク込みの条件で引き渡す』という契約ですね」
「はい。正確にはその理解です」
安い土地ほど、契約書を軽く読み飛ばしてはいけない。隠れたリスクを双方がどこまで許容して合意するのか、それが契約の本質だ。
高梨は最後に、費用明細を提示した。
土地本体の価格は三十八万円。
しかしそれ以外に、不動産会社への仲介手数料、売買契約書に貼る印紙代、法務局での所有権移転登記にかかる登録免許税、手続きを代行する司法書士への報酬、今年度の固定資産税の精算金などが発生する。
「土地価格だけを見ればお安いですが、諸経費を合わせると、総支出は三十八万円では済まないということです。低価格の土地ほど、総額に対する諸経費の割合が相対的に高くなる傾向があります」
「土地の値段が安いからといって、登記や契約の法的な手間が減るわけじゃないですからね」
システム開発でも、小規模案件だからといってプロジェクト管理やテストの工数がゼロになるわけではない。啓介には痛いほどよく分かる話だった。
説明の途中、啓介は持参したノートのチェックリストを確認しながら、いくつも質問を投げた。
接道部分の正確な位置。公道と私道の区別。固定資産税の年間想定額。不法投棄の既知情報の有無。決済時に必要な住民票などの書類。司法書士との連絡方法。万が一、決済日に売主側の必要書類が揃わなかった場合の対応。
高梨は一つ一つ丁寧に回答し、途中でふっと苦笑した。
「門倉様、重要事項説明書を事前にご自分で完全にレビューされていますね」
「仕事柄、仕様書をちゃんと読まずに本番環境へのリリースを承認したら、後でエラい目に遭うので」
「不動産契約も、そのくらい徹底的に確認していただける方が、私共としても後々のトラブルにならず助かります」
啓介が少し肩をすくめた。
「ただ、仕事で分からないところをベンダーの担当者に細かく聞くと、露骨に嫌な顔をされることがよくありますけどね」
高梨は即答した。
「不動産契約という人生に関わる大きな買い物で、お客様から質問されて嫌な顔をするような担当者がいたら、その場で席を立って契約を白紙にした方がいいですよ」
そのプロとしての矜持を見て、啓介は「この人を担当に選んで本当によかった」と心から思った。
およそ二時間にわたるすべての説明を終え、高梨が書類をバタンと閉じた。
「以上が、重要事項の説明となります」
そして、改めてまっすぐに啓介の目を見た。
「門倉様。ここまでの条件、そして山林を所有することのリスクをご理解いただいた上で……それでも、この土地をご購入されますか?」
啓介は即答せず、机の上の資料をもう一度見返した。
三十八万円の、小さな雑木地。
水道も電気もない。車を停める正式な場所もない。境界は確定測量されていない。買った直後から、管理者としての法的な責任と手間が発生する。
一般的な目線で見れば、使い道に困るだけの「負動産」かもしれない。
だが、啓介の目的は明確だ。
初めての所有地。土地カード化の検証。小規模な魔法設備の実験場。小竜を屋外で自由に飛ばせる場所。将来のマナ基盤。そして、より大きな拠点を手に入れる前の、ローリスクな練習台。
すべての欠点を差し引いても、三十八万円と数十万の諸経費で、自分だけの最初の「実験地」を持てる価値は計り知れないほど大きい。
「……購入します」
高梨が、最後の念押しをするように尋ねた。
「本当に、よろしいですか?」
「はい。ここまで徹底的に問題点を説明していただいた上で、私はこの土地を選びます」
高梨は深く頷き、売買契約書の原本を開いた。
啓介は、売買契約書、重要事項説明書、その他の確認書類に次々と署名し、実印を押印していく。
そして、事前に用意してきた手付金五万円を、現金で支払った。
高梨が入金を確認し、領収書を発行。売主側が事前に署名捺印済みの書類と照合し、すべてが整った。
「これで、売買契約は正式に成立です」
その言葉が発せられた瞬間。
啓介の脳内で、《創世札典》がわずかに反応する気配があった。
視界の端に、半透明のシステムメッセージが流れる。
『対象不動産に関する売買契約の成立を確認しました』
『将来取得関係をシステムに仮登録しました』
しかし、バインダーが開いて新しい「土地カード」が生成されるような派手な現象は起きなかった。
啓介は表情を変えることなく、高梨の前でシステムを確認したい衝動を抑え込んだ。
書類一式の入った厚い封筒を受け取る。
次の工程は、残代金の決済と引渡しだ。
高梨が、最後に念を押した。
「ご契約、おめでとうございます。ただし、門倉様が正式にあの山の管理者になるのは、残代金を決済し、所有権が移転した後です。それまでは、勝手に木を切ったり、物を置いたりしないでくださいね」
「契約書にサインしたのがゴールではないんですね」
「山林の場合、むしろ所有してからがすべての始まりですから」
不動産会社を出ると、夏の終わりの少し生ぬるい風が吹いていた。
二時間以上、椅子に座って細かい文字を追いながら説明を聞き続けていた。
以前の啓介なら、立ち上がった瞬間に腰が固まり、肩がギシギシと悲鳴を上げていたはずだ。
だが今は、身体に痛みが全くない。頭も比較的すっきりしている。
《健全なる肉体》は、集中力を無限にするような魔法ではないため、何時間も契約書を読み続けた精神的な疲労は残っているし、腹も普通に減っている。
「……健康って、派手さはないけど、生きていく上でめちゃくちゃ便利だな」
啓介は、遅めの昼食に少し奮発した焼肉定食を食べてから帰宅した。
自宅マンションに帰り着き、玄関のドアを開けた瞬間。
「あぎゃー!」
留守番訓練を忘れた小竜が、玄関へ弾丸のように飛んできた。
啓介は反射的に身体で小竜を隠し、急いで扉を閉めた。壁のモニターで廊下を確認し、誰もいないと分かってから、ようやく詰めていた息を吐く。
「今、隣の人や宅配業者が廊下にいたら終わってたぞ」
啓介が本気の声で叱ると、小竜はしょんぼりと翼を畳み、契約書類の入った封筒の隣で小さく伏せた。
今回の失敗は、小竜だけの責任ではない。これまでの訓練は「インターホンが鳴ったら隠れる」に偏り、自分が帰宅して扉を開ける場合を十分に教えていなかった。
「玄関が開いたら、相手が誰でも隠れる。俺が決めた合図をするまで出てこない。次からはこれを追加だ」
「あぎゃ……」
「テストケース不足は俺のミスでもある。でも、次は絶対に守れよ」
小竜は神妙に頷いた。啓介は、この狭い部屋で存在を隠し続ける生活にも、そろそろ限界が近いのだと改めて感じた。
啓介はカーテンを閉めて《創世札典》を呼び出し、まず膝の上の売買契約書へ視線を落とした。
「この契約書そのものを、カードか恒久遺物の核として扱うことはできるか?」
『カード作成上の関連資料として参照することは可能です』
『ただし、対象文書は将来の権利移転を定めた過渡的な証明文書です』
『契約履行後に主要な法的役割を終えるため、恒久的な魔力源の核としての安定性は低いと評価されます』
『対象文書のみをもって、土地の所有権または管理権限を代替することはできません』
「権利関係を証明する紙ではあっても、紙そのものが山を所有しているわけじゃない、か」
啓介は契約書を封筒へ戻し、今度こそ青梅の山林そのものを明確に思い浮かべた。
「システム。今日、売買契約を締結した青梅市の山林を、俺の土地カードとして確定できるか?」
回答は予想どおり、否定だった。
『対象不動産に対する売買契約の合法的な成立を確認しています』
『しかし、所有権および排他的な管理権限の移転は完了していません』
『現在の権利状態では、土地カードを生成・定着させることはできません』
「契約を結んだ時点では足りないのか。土地カード化が可能になる具体的なタイミングは?」
『売買契約に定められた所有権移転条件の履行、および現実の管理権限の取得、すなわち引渡しを確認した時点です』
「それと、さっき表示された『将来取得関係の仮登録』とは何だ?」
『使用者が将来取得する可能性のある対象と、その取得手続きの進行状態を一時的に関連づける記録です』
『仮登録自体に所有権、管理権限、カード効果はありません。契約が解除、失効または不履行となった場合は消去されます』
『権利移転および引渡しを確認した場合、対象を土地カードの評価候補へ移行します』
「頼んでもいないのに、契約の進行まで候補として追跡してるのか……」
《借宿》は所有物ではないが、賃貸契約に基づく居住権と、日常的に使用・管理している実態があるため土地として認識された。
一方、青梅の山林は売買契約が成立していても、現実に使用・管理する権限がまだ売主にあるため、土地にはならない。
「なら、所有していなくても、正当な使用権と実際の管理実績があれば、借りた土地や管理を任された場所も土地カードにできるのか?」
『可能性があります。独立した用途、継続的な利用、明確な管理範囲および実質的な管理実績を確認できる場所は評価対象となります』
『契約のみで実態を伴わない場合、または既存の土地と実質的に一体利用される場合は認定されません』
買わなくても、持て余された山林や空き家を正式に預かり、実際に管理することで土地を増やせる可能性がある。
ただし無料の土地ではない。購入費の代わりに、巡回、草刈り、清掃、修繕へ時間を払い続ける土地だ。名義だけ借りる抜け道にはならない。
青梅の所有権移転と引渡しまでは、一週間から二週間ほどかかる。
管理受託による土地化は、将来、高梨へ相談する価値がある。だが今は、目の前の一件を確実に完了させる方が先だった。
啓介はノートを開き、山林取得後に向けて必要な作業リストを書き出し始めた。
【権利・行政手続】
・残代金決済、所有権移転
・鍵の受渡し(もしあれば)
・市役所への森林所有者届出
・固定資産税の納付方法確認
【現地確認・初期整備】
・境界杭の再確認
・倒れそうな危険木、枯れ木、落枝の確認
・不法投棄の有無
・地面の傾斜と水はけの確認
・搬入経路の草刈り
・雨水タンク、ポータブル電源、ソーラーパネルの手配
・移動可能な収納ボックス(鍵付き)の設置
・獣害対策用の簡易防犯カメラ設置
・小竜の屋外飛行試験
啓介は、リストの最後の項目にぐるぐると丸をつけた。
小竜がノートを覗き込み、丸印を鼻先で突いた。
「お前は、これが一番楽しみなんだろ」
「あぎゃー!!」
小竜は嬉しそうに、狭いリビングの中で宙返りをした。
土地カード化までは、まだ時間がある。
だが、その間ただ待っているだけでは、毎日生み出されるマナがもったいない。
現在のマナ基盤は以下の通りだ。
《借宿》:任意1。
《五彩の魔石》:任意1。
《生命樹の苗床》:生命1。
合計3マナ。
医療検証には「生命3」を出せるため非常に強い。
しかし、新しいカードの設計、未来予知、情報収集などには「知識マナ」が必要になる。
毎回、二つしかない「任意マナ」から知識マナを捻出してしまうと、同じ日に「境界」や「物資」のカードを併用することができなくなってしまう。
「次は、知識マナを固定で確実に出せる遺物(アーティファクト)が必要だな」
単一属性の恒久的なマナ源を作るには、同属性の3マナが必要だ。
現在、一日に自由に知識マナへと変換できるのは、任意マナの2点だけ。そのため、一日では完成しない。
だが、《生命樹の苗床》の時と同じように、段階的な分割作成なら可能だ。
啓介は立ち上がり、クローゼットの奥から、長年開けていなかったプラスチック製の収納箱を取り出した。
学生時代のTCG(トレーディングカードゲーム)用品が詰まった箱だ。
古いデッキケース。擦り切れたカードスリーブ。丸められたプレイマット。大会の参加賞のプロモカード。手書きのデッキ調整ノート。対戦結果の勝敗表。TCGサークルの合宿で撮った色褪せた集合写真。
小竜が興味津々で箱の中に頭を突っ込んだ。
「こら。食べ物は入ってないぞ」
啓介は小竜をどかし、箱の底から一つの小さな金属の塊を手に取った。
手のひらにすっぽりと収まる、金属製の『ライフカウンター』。
二つの数字盤をカチカチと手動で回して、互いのプレイヤーの残りライフを記録する古い道具だ。
表面には、長年の使用による細かい傷が無数についている。
大学時代、このカウンターを使って何百回、何千回と対戦を繰り返した。
三崎と夜遅くまで部室に残り、ただゲームをするだけでなく、
「何ターン目に、どのカードのせいで負けたか」
「どのカードが手札で腐ったか」
「初手の事故率は何パーセントか」
「相手の行動に対して、自分はどう対応したか」
「次に勝つために、デッキの何をどう変えるべきか」
そうした検証と考察を、ノートに延々と書き殴り続けた記憶が鮮明に蘇る。
これは、単に数字を数えるためだけの道具ではない。
失敗を記録し、分析し、次の判断へと繋げるための、啓介にとっての『思索の道具』だった。
啓介は、システムに尋ねた。
「この古いライフカウンターを、知識属性の魔力源の『核』にすることはできるか?」
『可能』
『対象物に、長期間にわたる計数、判断、記録および検証への使用履歴を確認しました』
『知識属性との強い概念適合性があります』
市場価値で言えば、中古ショップで数百円で投げ売りされているような品だ。
当初は、古い金属製品を核にした《思索の文鎮》という案も考えていた。
だが、ただ重いだけの文鎮より、何百回もの対戦と検証に使ったライフカウンターの方が、知識属性との概念適合性は明らかに高い。
遺物の核として重要なのは金銭的価格ではなく、使用履歴、持ち主にとっての意味、そして望む魔法との一致だった。ただし、思い出があるだけで作成コストが消えるわけではない。
啓介は、最初の設計要求を出した。
「このライフカウンターを核として、毎日知識マナを1点生み出す遺物を作る」
システムが弾き出した概算コストは『知識4』。
《生命樹の苗床》の3マナよりも重い。
理由は明白だった。
単に「古い物を所有しているだけ」では、マナを継続的に生み出すための行動条件が弱すぎるのだ。
啓介は、システムの要求に応えるべく、自らに厳しい制約を加えた。
「【唯一】の属性をつけて、一つしか作れないようにする。さらに維持条件として、前日に合計三十分以上、俺自身が実際に学習、検証、あるいは記録を行わなければ、翌日はマナを生み出さないようにする」
再計算が行われる。
必要マナは『知識3』まで低下した。
啓介は、正式な設計を確定させた。
《思索の計数盤/Scholar's Counter》
遺物・魔力源・知識
必要マナ:知識3
長年、判断と記録に用いられた計数具を核として作成する。
【日次起動】
知識マナ1点を得る。
【唯一】
《思索の計数盤》は一つしか存在できない。
【研鑽】
前日に合計三十分以上、学習、検証、設計または記録を行っていなければ、その日の日次起動を行えない。
数えていたのは、ライフだけではない。
失敗と、選択と、次の一手もだ。
維持条件の意味は重い。
生命の遺物は、生きた植物の世話をする必要があった。
知識の遺物は、持ち主自身が学び、思考し続けなければならない。棚に飾っておくだけで自動的にマナが湧き出るわけではないのだ。
啓介が毎日三十分以上、カードの設計案を練る、使用結果を記録する、医療データの検証をする、不動産資料を読み込む、あるいは山林の管理に関する勉強をする必要がある。
現在の啓介なら、何かしらの検証作業を毎日行っているため問題ない。だが、仕事が忙しすぎて何も記録せず、思考を放棄した翌日は、ペナルティとして知識マナが出なくなる。
「固定給じゃなくて、前日の稼働実績に完全に連動する歩合制のマナ源か」
システムエンジニアとしては、むしろ挙動が明確で分かりやすかった。
今日のマナは、《危険判定》に知識1を使用済み。
残っているのは、《五彩の魔石》の任意1と、《生命樹の苗床》の生命1。
啓介は、《五彩の魔石》から知識マナ1を引き出し、机に置いた金属製ライフカウンターの上に手を翳した。
「《思索の計数盤》、作成開始」
青白い光が、細かい傷のついた古い金属へと吸い込まれていく。
カチッ、と。
誰も触れていないのに、カウンターの数字盤が一目盛りだけ回転した。
『作成進捗:1/3』
『核との関連づけを固定しました』
『作成完了までに、残り知識マナ2点が必要です』
翌日の月曜日。
仕事から帰って《借宿》と《五彩の魔石》から知識2を引き出して注入すれば、完成する。
《生命樹の苗床》の生命1は、疲労回復や医療用として温存できる。
そして、完成後の火曜日午前零時の日次更新から、一日4マナ体制(任意1、任意1、生命1、知識1)へ到達する。
啓介はノートの端に、今後のマナ基盤のロードマップを書き出した。
【現在】
《借宿》:任意1
《五彩の魔石》:任意1
《生命樹の苗床》:生命1
(合計3マナ)
【《思索の計数盤》完成後】
(合計4マナ)
【青梅の山林カード化後】
《名もなき雑木地(仮)》から、生命または物資1が追加。
(合計5マナ)
啓介は、ふと、第2話のカード作成テストで表示された高コストカードを思い出した。
《一年若く》
必要マナ:生命3・知識1・境界1。
合計5。
五つのマナ源がすべて揃えば、属性の配分上も支払いが可能になる。
《生命樹の苗床》(生命)
《名もなき雑木地》(生命)
《五彩の魔石》(生命へ変換)
《思索の計数盤》(知識)
《借宿》(境界へ変換)
「……数字の上では、《一年若く》まで手が届く」
だが、これは毎日保証された五マナではない。《借宿》の居住権、水晶の無事、オリーブの生存、前日の三十分の【研鑽】、山林の管理権――五つの条件がすべて有効な日に限る。
仕事が炎上して記録する時間すら取れなければ知識源が止まり、どれか一つ欠ければ四マナへ落ちる。「五マナある」のではなく、「五系統が正常稼働した日に五マナを出せる」のだ。
しかも、同じ設計の遺物は重複できない。二個目以降の魔力源には、別の核、別の役割、別の維持条件が必要になる。
土地も買う金だけでは済まない。数を増やすほど、移動、巡回、草刈り、修繕といった管理時間が積み上がる。
ここまでは最初から見えていた単純な基盤を順番に作っただけだ。本当に難しくなるのは、ここからだった。
さらに《一年若く》を使用すれば、その日の五マナをすべて使い切り、午前零時までは完全に丸腰になる。
「冗長化なし。どれか一系統が落ちても実行不能。実行後の予備もゼロ、か」
それ以前に、昨日《健全なる肉体》という強力な魔法を使ったばかりだ。三崎は、二十四時間後、一週間後、一ヶ月後という厳密な経過観察を要求している。
その途中で若返りという未知の要素を重ねれば、異常が出た時に原因を切り分けられない。カードテキストと医学的な検証基準を詰め、使用前データも取る必要がある。
少なくとも、《健全なる肉体》の一ヶ月後検査が無事に終わるまでは待つ。三崎の膝の治療も同じだ。
「使えるようになることと、使っていいタイミングは別問題だな」啓介は呟いた。手が届く奇跡ほど、使わずに待つための判断が必要だった。
ローテーブルの上。
片方には、今日署名捺印してきたばかりの青梅の山林の売買契約書。
もう片方には、知識マナを1点だけ注入された、古い金属製のライフカウンター。
契約書があっても、山はまだ魔法の土地カードにはなっていない。
ライフカウンターも、まだ知識マナを生み出さない。
どちらも、奇跡の基盤として完成するまで、あと一段階の手順が残っている。
小竜が、契約書の入った封筒とライフカウンターの間をトテトテと歩き、どちらを守ればよいのか迷うように左右を見比べている。
「山は決済待ち。こっちは、残り二マナだ」
「あぎゃー?」
「焦るな。一つずつ、確実に終わらせていこう」
啓介は、今日の契約内容を記録するため、ノートを開いた。
これは、完成後も毎日続けることになる【研鑽】を先行して習慣化する、最初の三十分の作業だった。
『不動産の売買契約の成立だけでは、土地カード化はされない。
現実の所有権と排他的な管理権限(引渡し)が必要。』
次の項目。
『知識遺物《思索の計数盤》の作成進捗、一/三。』
その下へ、啓介は少し迷ってから、ボールペンで力強く書き加えた。
『五つのマナ源が正常稼働すれば、一日五マナ。
《一年若く》は使用可能圏内。ただし、発動後の予備マナはゼロ。』
健康体になった翌日。
啓介は三十八万円の山を買う契約を結び、若返りへ続く「条件付き」の工程表まで手に入れた。
だが、契約しただけでは山は手に入らない。五つの条件が揃っても、すぐに奇跡を使ってよいわけではない。
「まずは、あの山を本当に俺のものにして、安定した基盤を作るところからだな」
ローテーブルに置かれた《思索の計数盤》の数字盤が、啓介の決意に呼応するように、青白い光を一度だけ静かに反射した。
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