それは一年で最も冷え込みの厳しい月の朝だった。
明け方より降り出した雪は少しずつあたりの景色を白く染めていく。
それが原因なのかはわからない。ケイはただその光景を呆然と見つめていた。
自宅近くの交差点。鈍い衝撃音がケイの耳を直撃した。
ほんの数十秒前、自分が歩いた横断歩道に一人の少女が横たわっている。冷たくなったアスファルトにもかかわらず、少女は身動き一つしない。
数人の大人たちが少女を取り囲み、そのうちの一人は携帯でどこかに電話をかけている。皆一様に表情は硬い。
倒れている少女の顔は見えない。ただ、神秘的なエメラルドグリーンのロングヘアが印象的だった。
しかし、しんしんと降り注ぐ雪がまるでその美しい髪と少女の身体を隠すかのように覆っていく。
近くに少女の物と思われる可愛らしいバッグが落ちている。そのバッグから飛び出たのか数枚の紙が散乱し雪解け水を吸収していた。
遠目なので何が書かれいるのかわからない。だがケイにはその紙が少女にとってとても大事なものだと直感した。
「もしかしてあの子も……」
一時間後にはクリプトン学院中等部音楽科の入学試験が行われる。
あの少女もこれから行われる入学試験の受験生だろうか。だとしたらもう試験は受けられないだろう。この学院に二次試験はない。もはや中等部への入学は叶わぬ物となってしまった。
少女も新たな学舎での学園生活を夢見ていたことだろう。だが、この日のための努力が報われることはなくなった。
ケイはまだその場を離れようとはしない。
だが十二歳の子どもにできることは何もなかった。
二〇××年三月。
リニア中央新幹線が九州まで開通したことを皮切りに、巷は活気づいている。長らく低迷し続けていた景気もようやく右肩上がりとなり、政府のスポークスマンも潤い始めた財政状況を嬉々として記者たちの質疑に応えている。
そんな世間の隆盛とは関係無く、ここクリプトン学院中等部では卒業式が厳かに催されていた。
首都圏に位置するクリプトン学院は全国的にも珍しく音楽科・美術科の芸術課程を中高一貫として擁し、その英才教育ぶりは広く知れ渡り、芸術を志す者ならば一度は耳にする私立学校である。
また、併設する普通科も芸術科に劣らぬ高い偏差値水準を誇り、国立大学・有名私大への進学校としてもその名を轟かせている。特に難関医学部への進学率は顕著で、それゆえ教育熱心な保護者からは『お受験』の対象校としても周知され、近隣の進学塾も『クリプトン学院特化コース』をかかげ、入塾者を増やす要因となっている。
この日、学院内にある大講堂には芸術科・普通科合わせて四百人ほどの卒業生が形骸化した式典に強制参加させられ、形式的な式次が淡々と消化されていた。
長らく掛かった式が終わると出口よりぞろぞろと卒業生が吐き出されてゆく。この後は特に予定もないため、各々級友や後輩と談笑したり、写真を撮りあったりしており、未だに校門から出て行くそぶりはない。
そんな中、まっすぐ正門を目指す二人の男子生徒がいた。
「レンはこのあと予定あるのか?」
「僕は帰ったら昨日買ったゲームの続きをやらなきゃ。ケイは?」
「母さんが式が終わったらすぐ帰って来いって」
「ユウさん今日は家にいるの?」
「いや、昨日から仕事で泊まり込んでるけど。でも今日の午後には帰るって」
「へー、サプライズパーティの準備でもしてるのかな」
「親子二人でパーティもないだろう。寂しすぎるわ」
と、たわいない会話をしながら校門まであと数メートルに差し掛かったときだった。
「ケイーーーー!」
和やかな雰囲気をぶち壊すかのように少女の声が響き渡った。声の成分には多少苛立ちの感情が込められている。
名前を呼ばれた本人は隣に連れだっているレンとともに歩みを止め、声のする方に振り向いた。
レンとよく似た顔つきの少女が駆け足でこちらに向かって来ている。先ほどからケイの隣にいるレンの双子の姉、鏡音リンである。
頭部にはプロペラのような白いリボンが結ばれている。そのリボンが大きくなびいている様子からかなりの走行スピードがうかがえる。同時になんとなく鬼気迫るようにも見える。
金髪碧眼の少年が迫り来る人物が身内だと認識し「あれ? 姉ちゃんだ」とつぶやいた。
「何だよリン。大声で人の名前を呼ぶなよ」
ケイの元へ到着するや、リンは呼吸を整えているのか沈黙し、ケイのクレームを受け付けない。
レンは「ああ、そうか」と何かを察し、姉に安堵するよう言葉をかける。
「姉ちゃん、そんなに慌てなくてもケイの第二ボタン、まだ取られてな……」
鈍い音とともにレンの腹部に姉の裏拳がめり込んでいた。「かふっ」と腹の空気を強制的に排出され、たまらずレンは地面にうずくまる。
「おい、レン、どうした?」
突然伏した級友にケイは驚く。
「あらあら、この子ったら。卒業式だからって感極まっちゃって。レン、大丈夫?」
リンは聖母のような声で慈しみの言葉をかけたが、ケイに背を向けると般若のような顔で「余計なこと言うんじゃない」と目力だけで実弟を恫喝した。
ボディに残る痛みと目の前に迫る恐怖とで、レンは涙目になってコクコクと首だけを上下に振った。幼少より姉の恐ろしさは心身共に刻まれている。
「で、何か用か?」
レンのことはさて置き、とりあえず自分らを追いかけてきた理由を尋ねる。
「何かじゃないわよ。なにさっさと帰ろうとしてるのよ」
「式が終わったらそのまま解散だろ。用もないし」
「あんたね、今日は卒業式でしょ」
こっちの用はまだ終わってないわよと、リンは小声で呟いたがケイの耳には入らなかった。
「だからそれは終わったじゃねーか」
「なに言ってるの、家に帰るまでが卒業式よ」
何だよそれ?遠足かよと、ケイは思った。
「まあいいわ。と、ところであんたさ……」
明らかにリンの声質が変わり、なぜかケイから視線をそらす。
「卒業式なのに女子から第二ボタンを取られてないって問題だと思わない?」
リンはケイの学ランのボタンを指さす。
「いや、別に。レンだって取られてないぞ」
「レンはいいのよ、元からモテないんだから」
「酷いや、姉ちゃん……」
リンの指摘は事実であったがレンは抗議の声を上げた。だがリンはそれを無視し話しを続ける。
「だ、だからさ、か、可哀想だからあたしがお、お情けでもらってあげてもい、いいわよ」
やたらと滑舌が悪くなり、顔に朱が帯びてくる。
「いや、いいよ。ってか卒業式に第二ボタンって今ドキそんなイベントないだろ」
「あたしは伝統を重んじるのよ! いいからあたしの善意に感謝しなさい!」
問答無用だった。リンはケイの第二ボタンに手を伸ばしボタンを引きちぎろうとする。あたかもその光景は女子生徒に胸ぐらを掴まれ、カツアゲされているように見えなくもない。
しかし、まわりにいる生徒たちは特に気にする様子もなく「またリンがケイに絡んでるな」と日常の一コマぐらいの認識しかない。
「ちょっ、待て、待てって」
引っ張られないように踏ん張るケイにリンはさらに力を入れて引きちぎろうとする。ついに糸の耐久力が限界を超え、制服の第二ボタンはブチッと音を立てて引きちぎれた。
ボタンの強奪、もとい入手に成功したリンはケイの第二ボタンを愛おしそうに見つめている。リンのあからさまな要求を真に理解しているのはレンだけで、姉の乙女な一面を見ては生暖かい視線を送っている。
リンはその視線に気づくと我に返り、体裁を取り繕うとケイに宣告する。もちろんレンに掌底を打ち込むのも忘れない。
「いい? これは義理よ、バレンタインの義理チョコと同じ。単にイベントに参加しただけ。別にアンタのボタンなんかこれっぽっちも欲しくないんだけど、モテないアンタがあまりにも可哀想だからお情けでもらってあげるんだからね。間違っても勘違いしないでよね! わかった?」
「ったく、相変わらず強引なヤツだな。高等部に行ったら少しは大人しくしてくれよ。クラスは変わっても俺たちそのまま同じ学院なんだから」
ここクリプトン学院では中等部から高等部へ進学は無試験であり、いわゆるエスカレーター方式となっている。
「他の学校じゃ高校に行ったらみんなバラバラになっちゃうけど、この学院ならみんな一緒だもんね」とレン。
「そうなのよね。高等部に行ってもあたしたち音楽科は一クラスしか無いんだし顔ぶれは変わらないのよね。まーたケイと同じクラスだなんてやれやれだわ」
オーバーなアメリカンジェスチャーを交えつつリンは嘆息した。しかしその顔に微塵も困惑や落胆の色は見られない。
「でも姉ちゃん、この前……」
先の掌底のダメージから復帰したレンはつい思ったことを口にしてしまった。直後、再び鈍い音がしたかと思うとレンは身体をくの字に曲げた。常人には見切ることのできない早さで拳をレンの腹に叩き込んでいた。と同時に人外化したリンは小声で「だから余計なこと言うんじゃないって。これ以上余計なことを話したらあんたがルカ先輩のエロコラでナニしてるって、本人にチクるわよ」とレンの恥ずかしい個人情報をネタに脅迫し始めた。
姉ちゃん、なんで知って……とレンは青ざめた。そして暴君・姉による日常的な圧政と情報収集能力の高さに改めて恐怖し何度も無言で首肯した。
だがケイは別の角度から疑問を口にする。
「同じクラス?」
「そりゃそうでしょ。高等部からの新入生は毎年何人かいるらしいけど、中等部の生徒はそのまま進学でしょ」
「いや、俺は……」
そうケイが言いかけたところでリンは回れ右をし、
「用も済んだし、じゃあね!」
と、もの凄い早さで走り出し正門の方へ去って行った。
「用も済んだって何がだよ、結局あいつも帰るんじゃないか」
リンの真意に今ひとつくみ取れていないケイは独り愚痴をこぼした。
「ねえケイ、念のため聞くけど……」
レンは先のやりとりで姉とケイの会話が微妙にかみ合っていないことに気がついた。
「ケイは高等部から普通科に転科したんだよね?」
「そうだけど。前に言ったろ」
「そのことを姉ちゃんにも話した?」
リンの言動から推測すると、ケイも同じ科、音楽科での進学と思い込んでいるようだった。
「いや、レンに教えたから伝わっているもんだと……言ってないのか?」
「そんなこと僕の口から言えないよ」
「なんで?」
疑問をそのまま口にしたケイだがレンは苦笑いをし「色々事情があってね」と言葉を濁した。
「まあでも入学式で分かるからいいだろ」
楽観的なケイにレンは親友の未来を案じて予言する。
「ケイ、たぶん姉ちゃんに激しく尋問されると思うよ……」
悪鬼羅刹と化したリンに尋問されるケイ。何故か後ろ手に拘束され正座を強いられている。レンにはそこまでの光景が目に浮かんだ。
「なんで?」
再び同じセリフを吐き、心底「分からない」といった顔つきでレンに問い直す。
入学式は修羅場になるなとレンは身震いし、自分に火の粉がかからないようにするにはどうしたらよいか模索し始めた。
だが入学式当日の帰宅後、激しく尋問を受けるのは自分自身だということにレンはまだ知るよしも無かった。
クリプトン学院から徒歩で十五分ほどの距離にある五十階立てのタワーマンション。この街で一番の高層建造物であり、ランドマーク的な存在である。
ケイはそのマンションに入ると高層階専用エレベーターに乗り、自宅のある五十階のボタンを押す。最上階でもあるこのフロアーには二軒分のみ配置されており、その間取りの広さが窺える。
エレベーターを降りたケイがドアに近づくとワイヤレス錠が起動し自動的に解錠した。
ただいまーっと言っても誰もいないんだよな…… と独り言のように呟くケイだが、
「ケイ君、お帰りー」
とリビングから顔を覗かせ、ケイの母ユウは息子の帰宅を出迎えた。
「あれ、母さんもう帰ってるの?」
予想していなかった事態にケイは帰宅の挨拶も忘れ、代わりに疑問の言葉を投げかける。
「ごめんねー、ケイ君の卒業式に出られなくて。午前中はどうしても外せない仕事があって」
手を合わせ拝むような仕草で息子に謝罪した。仕事とは言え、愛する息子の大切な行事を欠席したことに引け目を感じたのだろう。
「いいよ別に。大した、というか退屈な式だったよ。それに母さん仕事だったんだろ」
ケイは母親にフォローの言葉をかける。できるだけ「なんともない」感を演出しているが退屈なのは本心でもあった。
「仕事は仕事なんだけど……」
意外なことにユウはいささかの歯切れの悪さを残し言葉を絞り出す。そしてこう切り出した。
「実はね、ケイ君に紹介したい女の子がいるの」
「は? え? 何て?」
全く想像していなかった母の斜め上をゆく発言にケイは思わず聞き返した。
「ケイ君に女の子を紹介しようと思って。すごくかわいい子よ。彼女にできるかどうかはケイ君次第だけど」
情報が一つ追加されたことと余計な発言が増えただけで、先と同じ内容を繰り返すユウ。
ケイは疑問を抱いた。
実の息子の卒業式を欠席してまで優先させたことが女の子の紹介であった。
日頃から自他ともに認める『息子原理主義』――『ムスコン』とも言う――をかかげるケイの母親である。本来であれば息子の卒業式という一大イベントに出席しないなど考えられない。
不本意ながらケイも幼い頃より自身に対する母親の行動理念に薄々感づいていた。だからこそ「卒業式に出席できない」とユウから告げられたときはそれこそ慮外の出来事であった。しかも欠席の理由が『女の子の紹介』である。いつから母親の仕事に女性の斡旋業が追加されたのか。
訝るケイは今一度ユウに問い質す。
「いったいどういうことだ?」
やや圧を含めるも、
「そうそう、もうそろそろ来る頃だと思うけど」
などと、ケイの質疑を華麗にスルーし、わざとらしく時計を確認する。
その直後、予知能力でもあるのかと思わせるタイミングでインターホンが鳴った。
「あ、来た来た。ほらケイ君も一緒に」
そそくさとインターホンを取り次ぎ、ユウは来客の出迎えにと動き出す。
件の女の子が来たのだろうか? ケイは心の準備もおぼつかないままユウの後を追った。
だが、玄関に現れたのは高そうなスーツを纏った若い男だった。
「ユウさん、こんにちは」
「いらっしゃい、カイト君。待っていたわ」
お互い旧知の仲なのだろう、親しげな雰囲気で挨拶を交わした。
ケイはその場の空気に気後れしたのか、ただ二人のやりとりを眺めている。蚊帳の外にいるようでいささか居心地が悪い。
一通り話しを終えるとカイトはユウの後ろに視線を送った。
「ユウさん、そちらが……」
「ええ、息子のケイよ」
二人の視線がケイに向く。
「ケイ君、初めまして。クリプトン・エレクトロニクスの始音カイトと申します」
「あ、どうも。音無ケイです」
若干人見知り気味のケイはぎこちなく名乗った。
クリプトン・エレクトロニクス? あの有名な電機メーカーの?
ケイの脳内で情報が錯綜する。
女の子…… じゃなくて友達を紹介すると言いつつ、なぜ電気屋が来たんだ?
ケイも思春期の男子である。言葉や態度には表さないがほんの少しだけ、わずかながらその女の子に興味と期待があった。だが決してそんな素振りは見せない。思春期男子のプライドである。
「で、カイト君、あの子は?」
「はい、こちらに」
カイトは半歩右へずれると、背後に隠れて視認できなかった少女が現れた。
「さ、挨拶して」
カイトにうながされた少女は一歩前に出て、
「初めまして。初音ミクです」
と、簡素に自己紹介を終え、ゆっくりと頭を下げた。
プロローグ、及び第一話をお読みいただきありがとうございます。新参者ゆえ至らぬ点が多々あるかと思いますが、よろしくお願いいたします。
さて、こちらは初音ミクの創作小説です。設定など、全て妄想……いえ、オリジナルとなりますので、拒絶反応がある方はお読みにならないほうがよろしいかと思います。
「それでも読んでやるぜ」という菩薩のようなお方、厚かましくもお願いがございます。
この小説は読者の方々の優しさを必要といたします。ボーカロイドという一大コンテンツでは人それぞれが各キャラクターに色々な思い入れがあるかと思います。「○○はそんな性格じゃないぞ」と思われる方もいるかもしれません。「○○はそんなこと言わない」と言う方もいらっしゃるでしょう。
しかし、万人に納得頂けるキャラ作りは今の私ではあまりに力不足です。また、どこかで見たような設定や、ありきたりなあらすじになっているかもしれません。
でもそれは皆様の脳内で「王道」という言葉に置き換えて頂き、お読みくださればと思います。そして少しでも面白いと感じて頂けたら幸いです。
なお、今回、ハーメルンの仕様として『本文は千文字以上』を知らず、プロローグを前書きにぶっ込むという暴挙に出ましたこと、ご容赦願えました幸いです。