ノッキングマスターの弟子のアカデミア   作:のんびり者

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 今日から岩手に旅行だ。



明かされる過去

 

「では、少し長い話になるが──」

 

 根津校長は静かに語り始めた。

 

「これは、まだ超常黎明期と呼ばれていた頃の話だ」

 

 瞬は黙って耳を傾ける。

 

「今よりも、個性というものが社会に受け入れられていなかった時代」

 

「ヒーローという職業そのものも、まだ今ほど確立されてはいなかった」

 

 根津は一度、紅茶へ手を伸ばす。

 

「そんな時代に、一人のヴィジランテがいた」

 

 その名は──

 

「暴獣二狼」

 

 その名前が、再び校長室に響いた。

 

「彼は、決して悪人ではなかった」

 

 瞬が少し目を見開く。

 

「……悪人じゃない?」

 

「ああ」

 

 根津は頷く。

 

「むしろ、彼は多くの人々を救った」

 

 オールマイトも静かに続ける。

 

「特に、無個性の人々をな」

 

「無個性を……」

 

 瞬の表情が変わる。

 

「当時は今以上に、無個性に対する偏見や差別が強かった」

 

 根津は淡々と語る。

 

「個性を持たないというだけで、社会から取り残される者も少なくなかった」

 

「そんな人々の前に現れたのが、二狼だった」

 

 彼は無個性の人々を助けた。

 

 個性の有無で人を判断しなかった。

 

 困っている者がいれば手を差し伸べ。

 

 襲われている者がいれば、その身を盾にしてでも助けた。

 

「そこまでは、何も問題はなかった」

 

 しかし。

 

 根津の声が僅かに低くなる。

 

「問題だったのは──彼の『鎮圧』だ」

 

「鎮圧……?」

 

「ああ」

 

 オールマイトが答える。

 

「二狼は、犯罪者を止めるために圧倒的な暴力を使った」

 

 瞬は黙って聞いている。

 

「彼は強かった」

 

「それこそ、当時のヒーローたちですら簡単には止められないほどに」

 

 悪事を働く者がいれば。

 

 二狼は現れる。

 

 そして。

 

 相手が二度と立ち向かえないほどの力で叩き伏せる。

 

「ただし」

 

 根津が言う。

 

「彼は、一度も相手を殺さなかった」

 

「……」

 

「どれほど凶悪な犯罪者であろうと、最後には必ず生かしていた」

 

「だからこそ、当初は彼を支持する者も多かった」

 

 救われた人々。

 

 特に無個性の人々からすれば。

 

 二狼は、自分たちを守ってくれる存在だった。

 

「ですが」

 

 根津は続ける。

 

「犯罪者たちが、次第に悪質になっていった」

 

「それに合わせるように──二狼の暴力性も強くなっていった」

 

「……」

 

 瞬は黙り込む。

 

「最初は、相手を倒すだけだった」

 

「次は、二度と立ち向かえないようにする」

 

「その次は──」

 

 根津はそこで言葉を止めた。

 

「……それ以上は、言わないでおこう」

 

 オールマイトが静かに目を伏せる。

 

「彼は犯罪者を殺さなかった」

 

「だが」

 

 拳を握る。

 

「だからといって、その行いが正しかったとは言えない」

 

 瞬はその言葉を聞いても、何も言わなかった。

 

 ただ。

 

 静かに話を聞いていた。

 

「やがて」

 

 根津が続ける。

 

「二狼を止めるべきだという声が、ヒーロー社会の中でも大きくなった」

 

「そして──」

 

 一拍。

 

「我々は、彼を制圧することにした」

 

「我々……?」

 

「そうだ」

 

 根津が答える。

 

「複数のプロヒーローを動員した」

 

 そして。

 

「その中には──」

 

 オールマイトもいた。

 

「僕もいた」

 

「……」

 

 瞬がオールマイトを見る。

 

「二狼とは、まず話し合いをしようとした」

 

「彼に事情を説明し、これ以上の暴力をやめるよう説得する」

 

「しかし」

 

 オールマイトの表情が曇る。

 

「彼は、その話し合いを一蹴した」

 

「『俺は間違っていない』」

 

「そう言ってね」

 

 根津が続ける。

 

「ならば、我々は彼を止めるしかなかった」

 

 多数のヒーロー。

 

 そして。

 

 オールマイト。

 

 当時の日本でも屈指の戦力を投入した。

 

「……結果は?」

 

 瞬が尋ねる。

 

 根津は答えなかった。

 

 代わりに。

 

 オールマイトが口を開く。

 

「私たちは──」

 

 一拍。

 

「負けた」

 

「……え?」

 

 瞬の目が見開かれる。

 

「私一人ではない」

 

「集まったヒーロー全員がだ」

 

「……」

 

 校長室が静まり返る。

 

「二狼は、私たち全員を相手にして──」

 

 オールマイトはそこで言葉を切る。

 

「制圧した」

 

 瞬は言葉を失った。

 

「……オールマイトまで?」

 

「ああ」

 

 オールマイトは静かに頷く。

 

「私も、彼に敗れた」

 

 その言葉には。

 

 普段の明るい笑顔はなかった。

 

 ただ。

 

 過去を知る者だけが持つ、重い表情があった。

 

「だからこそ」

 

 根津が言う。

 

「暴獣二狼という名は、今でも我々の記憶に残っている」

 

 人を救ったヴィジランテ。

 

 無個性の希望。

 

 そして。

 

 圧倒的な暴力によって犯罪者を制圧した男。

 

 その二つは。

 

 決して切り離すことができない。

 

「……その人は」

 

 瞬が小さく呟く。

 

「今、どうしてるんですか?」

 

 根津とオールマイト。

 

 二人は顔を見合わせる。

 

 そして。

 

 根津が静かに答えた。

 

「それを話すために──」

 

 根津は瞬を見る。

 

「君をここへ呼んだんだよ」

 

「……」

 

 瞬の表情が変わる。

 

 暴獣二狼。

 

 その男が何者なのか。

 

 なぜ今になって、自分にその話をするのか。

 

 まだ。

 

 何も分からない。

 

 ただ一つ。

 

 瞬は知らなかった。

 

 この話が。

 

 自分自身の過去と、深く繋がっていることを。

 

 そして──。

 

 暴獣二狼の物語は。

 

 ここからが本当の始まりだった。

 

 ────────

 

「……そして、その後どうなったんですか?」

 

 瞬の問いに、根津校長は一度だけ目を細めた。

 

「暴獣次郎は、表舞台から姿を消した」

 

「……消えた?」

 

「ああ」

 

 根津は静かに続ける。

 

「彼を逮捕することは、最後までできなかった」

 

「理由は単純です。強すぎたからですよ」

 

 オールマイトが、少し複雑そうな表情を浮かべる。

 

「しかし、彼は一般市民を傷つけたことが一度もなかった。むしろ救助した人間の数は数え切れない」

 

「ヴィランの逮捕にも幾度となく協力していた」

 

 根津が言葉を継ぐ。

 

「だからこそ、警察上層部、ヒーロー側、そして当時の関係者たちが協議した」

 

「そして、最終的に出された結論が──『逮捕しない』だった」

 

「……」

 

「その代わりに、彼にはこう伝えたそうです」

 

 根津は一拍置いた。

 

「もう表舞台には出ないでほしい」

 

「静かに暮らしてくれ、と」

 

 瞬は黙って聞いていた。

 

「すると彼は少し考えてから、こう答えた」

 

 根津の口から、その言葉が語られる。

 

「『なら、山を一つよこせ』」

 

「『誰にも邪魔されん山なら、大人しくしといてやる』」

 

「……山」

 

「ええ」

 

 根津は頷いた。

 

「その条件は受け入れられた」

 

「そして暴獣次郎は、国から正式に管理を任された山へ移り住んだ」

 

「そこで、静かに暮らし始めた」

 

 瞬はそこで、ふと眉を寄せた。

 

「……それが、ジジイの住んでる山……?」

 

 空気が止まった。

 

 オールマイトが瞬を見る。

 

 相澤も、黙ってその横顔を見つめる。

 

 そして根津が、静かに頷いた。

 

「そうです」

 

「……」

 

「我々が調べた結果、暴獣次郎が引退後に住み始めた山と、君が育てられた山は一致しました」

 

 瞬は何も言わなかった。

 

 驚いていない。

 

 いや。

 

 正確には──驚けなかった。

 

 ずっと昔。

 

 まだ自分が赤ん坊だった頃の話など、当然覚えているはずがない。

 

 けれど、次郎が昔の話をほとんどしないこと。

 

 自分が山で育った理由。

 

 そして何より──。

 

 あのジジイなら、やりかねない。

 

 そう思ってしまった。

 

「……やっぱり」

 

 瞬が小さく呟く。

 

「君は、薄々気づいていたのですね」

 

「まあ……なんとなく」

 

 瞬は苦笑する。

 

「ジジイが普通の爺さんじゃないってことくらい、ずっと前から分かってましたよ」

 

「それでも、確信はなかった」

 

「……だから、聞きたかったんです」

 

 根津が静かに尋ねる。

 

「何をです?」

 

「暴獣二狼が……いつ、あの山で暮らし始めたのか」

 

 根津は少しだけ間を置いた。

 

「ヴィジランテとしての活動を終えた直後です」

 

「……そうですか」

 

「そして、その直後に──彼は一人の赤ん坊を拾っています」

 

 瞬の表情が止まった。

 

「赤ん坊……?」

 

「ええ」

 

 根津は静かに続ける。

 

「身寄りもなく、まだ幼い赤ん坊だったそうです」

 

「暴獣二狼は、その子を保護した」

 

「そして──」

 

 根津は瞬を真っ直ぐ見た。

 

「その出会いを境に、彼は完全にヴィジランテとしての人生を終えた」

 

「その赤ん坊を育てることを選んだのです」

 

 瞬は黙っていた。

 

 やがて、その口から小さな声が漏れる。

 

「……その赤ん坊って」

 

「君です」

 

「……」

 

「君が、あの山で育った理由です」

 

 長い沈黙。

 

 瞬は俯いた。

 

 そして、ゆっくりと顔を上げる。

 

「……やっぱり、そうだったんだな」

 

 驚きよりも、納得の方が強かった。

 

「俺を拾ったのがジジイだった」

 

「そして、そのジジイが──暴獣二狼」

 

「はい」

 

 根津は頷いた。

 

「我々が調査した結果、そこに間違いはありません」

 

 瞬はしばらく黙っていた。

 

 そして──笑った。

 

「……なんだよ」

 

「結局、昔からジジイはジジイだったんだな」

 

 オールマイトが目を丸くする。

 

「驚かないのかね?」

 

「驚いてますよ」

 

 瞬は苦笑した。

 

「でも……」

 

 拳を軽く握る。

 

「俺にとっては、暴獣二狼が誰だったとか、昔何をしてたとかより」

 

「俺を拾って、育ててくれた人間がジジイだった」

 

「それだけで十分です」

 

 その言葉を聞いた根津は、ほんの少しだけ表情を変えた。

 

 そして──慎重に口を開く。

 

「……そうですか」

 

「では、もし君が──」

 

 根津がそこで言葉を選ぶ。

 

「もし、次郎さんから離れたいと思うのであれば──」

 

 瞬の笑顔が消えた。

 

 空気が変わる。

 

 何かを叫んだわけでもない。

 

 立ち上がったわけでもない。

 

 ただ──瞬が根津を見る。

 

 その眼差しに、先ほどまでの柔らかさはなかった。

 

「…………」

 

 校長室の空気が、重く沈む。

 

 オールマイトも、相澤も黙っている。

 

 瞬は一言だけ告げた。

 

「……それ以上は、言わないでください」

 

 静かな声だった。

 

 だが、その言葉には明確な意思があった。

 

 次郎から離れる。

 

 その選択だけは、最初から存在していない。

 

 根津は瞬の目を見つめ──やがて、静かに口を閉じた。

 

「……分かりました」

 

 瞬は再び椅子に座る。

 

 帰ろうとはしない。

 

 まだ、ここで話すべきことがある。

 

 そして──根津もまた、それを理解していた。

 

「では、話を続けましょう」

 

 校長室には、まだ語られていない話が残っていた。

 

 ────────

 

「では──最後に、一つだけ君に伝えておきたいことがあります」

 

 根津校長は、いつもの穏やかな笑みを浮かべながら言った。

 

「まだ何かあるんですか?」

 

「ええ」

 

 瞬は顔を上げる。

 

「今回、我々が君をここへ呼んだ最大の理由です」

 

「最大の理由?」

 

「はい」

 

 根津は机の上に置かれていた一枚の書類を手に取った。

 

「実はですね」

 

「次郎さんから、ある申し出がありました」

 

「ジジイから?」

 

「ええ」

 

 根津は頷く。

 

「君の職場見学を、自分自身が担当したい、と」

 

「…………」

 

 瞬は目を丸くした。

 

「ジジイが?」

 

「はい」

 

「職場見学を?」

 

「はい」

 

 あまりにも予想外だったのか、瞬はしばらく言葉を失う。

 

 そんな瞬を見ながら、相澤が口を開いた。

 

「ただし、問題があった」

 

「問題?」

 

「次郎さんはヒーロー免許を持っていない」

 

「あ……」

 

 瞬も思い出す。

 

 次郎はかつてヴィジランテだった。

 

 当然、ヒーロー免許など持っていない。

 

「だから普通なら、職場見学を受け入れることはできない」

 

「そこで──」

 

 根津が一枚の書類を瞬へ向けた。

 

「次郎さんは、一から勉強を始めました」

 

「……一から?」

 

「ええ」

 

「ヒーロー制度、法律、救助活動、災害対応、ヴィランへの対処、その他諸々」

 

 オールマイトが苦笑する。

 

「いやぁ……私も少々驚きましたよ」

 

「まさか本当に勉強を始めるとは思いませんでした」

 

 相澤もため息を吐く。

 

「しかも、学校に行っている君に一切気づかれないようにやっていた」

 

「……マジかよ」

 

 瞬は呆然とする。

 

「そして──」

 

 根津が続ける。

 

「つい先ほど、正式にヒーロー免許を取得しました」

 

「…………は?」

 

 瞬の目が点になる。

 

「ヒーロー名も、すでに決まっています」

 

「その名は──」

 

 根津が書類を見せる。

 

「『暴獣』」

 

「……暴獣」

 

「かつて人々からそう呼ばれていた名前を、そのままヒーロー名にしたそうです」

 

 瞬はしばらく書類を見つめていた。

 

 そして、ふっと笑う。

 

「……ジジイらしいな」

 

「さらに、それだけではありません」

 

「え?」

 

 根津は別の書類を取り出した。

 

「君が育ったあの山を拠点として、ヒーロー事務所を設立しました」

 

「……え?」

 

「事務所名は──」

 

 根津が読み上げる。

 

「ヒーロー事務所『ノッキング』」

 

「…………」

 

 瞬は完全に言葉を失った。

 

「山を事務所として登録し、ヒーロー事務所としての活動拠点にするそうです」

 

「ヒーロー免許を取って、事務所まで……」

 

 瞬は額に手を当てた。

 

「何やってんだよ、ジジイ……」

 

 呆れたような言葉。

 

 だが、その口元には笑みが浮かんでいた。

 

 根津はそんな瞬を見ながら続ける。

 

「さらに驚くべきことに──」

 

「この一連の手続きは、異例の速さで進みました」

 

「行政側も、ヒーロー側も異論なし」

 

「必要な手続きは滞りなく進み──」

 

 根津は書類の最後を指で示した。

 

「つい先ほど、正式に受理されました」

 

「……今日?」

 

「今日です」

 

「俺が学校に行ってる間に?」

 

「その通りです」

 

 瞬はしばらく沈黙した。

 

 そして──

 

「……そこまでやったのかよ」

 

 小さく呟く。

 

 次郎は、これまで瞬に何かを求めたことなどほとんどなかった。

 

 山で育て。

 

 食わせ。

 

 鍛え。

 

 笑わせ。

 

 ただ、それだけだった。

 

 そんな次郎が。

 

 瞬の職場見学のためだけに、一から勉強し、免許を取り、事務所まで作った。

 

「……ジジイ」

 

 瞬はぽつりと呟いた。

 

 根津は静かに問いかける。

 

「そこで、我々が君に確認したかったことがあります」

 

「何ですか?」

 

「君は、すでに多くの有名ヒーロー事務所から指名を受けています」

 

「その中には、君が憧れているような有名ヒーローもいるでしょう」

 

「ですが──」

 

 根津は瞬の目を見る。

 

「それらの指名を断って、次郎さんについていくのか」

 

「それを確認するために、今回君をここへ呼びました」

 

「…………」

 

 瞬は一瞬たりとも迷わなかった。

 

「行きますよ」

 

 即答だった。

 

「次郎さんのところへ行くのかね?」

 

「もちろん」

 

 瞬は笑う。

 

「ジジイが俺のために、こんなにやってくれたんだ」

 

「行くに決まってますよ」

 

 その言葉に迷いはなかった。

 

「それに──」

 

 瞬は立ち上がる。

 

「俺にとって、一番最初に俺を鍛えてくれた人がジジイなんです」

 

「だったら、今度は俺がジジイのところで学びます」

 

「それが一番いい」

 

 根津は満足そうに目を細めた。

 

「そう言ってくれると思っていました」

 

 相澤も小さく息を吐く。

 

「……まあ、本人が決めたならそれでいい」

 

 オールマイトも笑みを浮かべる。

 

「うむ!」

 

「それでは、これで話し合いは終了です」

 

 根津がそう告げる。

 

 瞬は一礼すると、校長室の扉へ向かって歩き出した。

 

「失礼します」

 

 扉が閉まる。

 

 静寂。

 

「…………」

 

 三人はしばらく何も言わなかった。

 

 そして──

 

「はぁ……」

 

 相澤が深く息を吐く。

 

「……良かった」

 

 オールマイトも、同じように大きく息を吐いた。

 

「本当に……良かった」

 

 根津も椅子へ背を預ける。

 

「これで、次郎さんが暴れることはなくなりましたね」

 

「ええ」

 

 相澤が頷く。

 

「職場見学先が決まらなかったら、どうなるか分からないって言ってましたからね」

 

 オールマイトの表情が引きつる。

 

「……あれは、なかなかの迫力だったな」

 

 少し前。

 

 次郎が学校側へ告げた言葉が、三人の脳裏に蘇る。

 

『瞬の職場見学までに間に合わなかったら──どうなるか分かっておるよな?』

 

 冗談ではなかった。

 

 だからこそ、三人は安堵していた。

 

 次郎が望んでいたのは、ただ一つ。

 

 ──瞬のために、自分が職場見学をしてやること。

 

 そのためならば、かつてヴィジランテとして生きていた男は、今度は一からヒーロー制度を学び直すことすら厭わなかった。

 

 そして今日。

 

 元ヴィジランテ、暴獣次郎は──

 

 正式なヒーローとなった。

 

 ヒーロー名──暴獣。

 

 活動拠点──ヒーロー事務所『ノッキング』。

 

 そしてその最初の職場見学者は──

 

 誰よりも大切に育ててきた、一人の少年。

 

 針山瞬だった。

 

 ────────

 

 学校を出て、家へと続く道を歩く。

 

 瞬の頬には、ずっと笑みが浮かんでいた。

 

 隠そうとしても、隠せない。

 

 口元が緩む。

 

 頬が緩む。

 

 歩く足取りまで、どこか軽い。

 

「……へへ」

 

 思わず笑い声が漏れる。

 

 嬉しかった。

 

 ただ、職場見学先が決まったからではない。

 

 自分が有名なヒーロー事務所から指名されたからでもない。

 

 もっと単純なことだった。

 

 ──自分は、愛されている。

 

 それを改めて知ることができた。

 

 次郎は、瞬のために動いてくれた。

 

 ヒーローになるための勉強を一から始めた。

 

 免許まで取った。

 

 そして、自分が暮らしてきた山をヒーロー事務所にした。

 

 そこまでして。

 

 そこまでして、瞬を受け入れようとしてくれている。

 

「……ジジイ、ほんとに俺のこと好きだよなぁ」

 

 嬉しそうに呟く。

 

 すると──

 

「うれしい?」

 

 突然、隣から声がした。

 

「うわっ!?」

 

 瞬が驚いて横を見る。

 

 そこには、いつの間にかクーちゃんがいた。

 

「クーちゃん……いつからいたんだよ」

 

「ずっとよ」

 

「マジかよ……」

 

 瞬は苦笑する。

 

 だが、その表情はすぐに笑顔へ戻った。

 

「……うん」

 

「すっごくうれしいよ」

 

 少しだけ空を見上げる。

 

「今までで一番かもしれない」

 

 クーちゃんは瞬を見つめる。

 

 そして、口元を僅かに緩めた。

 

「それは良かった」

 

「それと同時に──」

 

 クーちゃんは、少しだけ拗ねたように続ける。

 

「少し焼けるわね」

 

「え?」

 

「だって、次郎さんのことをそんなに嬉しそうに話すんですもの」

 

「……ああ」

 

 瞬は一瞬だけ目を丸くして──

 

 すぐに笑った。

 

「安心してよ、クーちゃん」

 

「クーちゃんはジジイと一緒で、俺の家族だから」

 

「……」

 

 クーちゃんが目を瞬かせる。

 

 そして──

 

「クフフフ」

 

 小さく笑った。

 

「嬉しいわね」

 

 その声は、どこか満足そうだった。

 

「ほら」

 

 クーちゃんが前方を指差す。

 

「次郎さんが麓で待っているわよ」

 

「え?」

 

 瞬が目を凝らす。

 

 すると、少し先。

 

 山道の麓に、一人の老人が立っていた。

 

「ジジイ!」

 

 瞬の顔がぱっと明るくなる。

 

「早く行ってあげなさい」

 

「うん!」

 

 瞬は駆け出す。

 

 そして、ふと振り返った。

 

「ありがとう、クーちゃん!」

 

「クフフフ」

 

 クーちゃんは手を振る。

 

「またね、瞬」

 

「またね!」

 

 瞬は再び走り出した。

 

 その背中を見送りながら、クーちゃんは静かに微笑んでいた。

 

 やがて瞬は、次郎の元へ辿り着く。

 

「おう、遅かったな」

 

「ごめんごめん!」

 

「何をそんなにニヤついとるんじゃ」

 

「いやぁ……ちょっと嬉しいことがあってさ」

 

「そうか」

 

 次郎はそれ以上聞かなかった。

 

 ただ、少しだけ口元を緩める。

 

「腹減ったじゃろ」

 

「うん!」

 

「なら帰るぞ」

 

「おう!」

 

 二人は並んで山道を歩いていった。

 

 その日の夕食。

 

 食卓にはいつも通りの料理が並んでいた。

 

「それでな、ジジイ」

 

「なんじゃ」

 

「今日、校長室で聞いたんだけどさ」

 

「うむ」

 

「まさかヒーロー免許、本当に取るとは思わなかったぞ」

 

「何を言っとる」

 

 次郎は当然のように答える。

 

「お前の職場見学じゃろうが」

 

「いや、それにしたって早すぎるだろ!」

 

「必要だったから取っただけじゃ」

 

「事務所まで作ったんだろ?」

 

「作った」

 

「名前まで『ノッキング』って……」

 

「悪くないじゃろ?」

 

「悪くないけどさ!」

 

 瞬は笑いながら箸を動かす。

 

「ヒーロー名も『暴獣』なんだろ?」

 

「昔からそう呼ばれとったからの」

 

「じゃあ、これからジジイはヒーロー『暴獣』ってことか」

 

「そうなるの」

 

「……なんかすげぇな」

 

 瞬は嬉しそうに笑う。

 

 次郎はそんな瞬を見ながら、酒を一口飲んだ。

 

「お前も、明日から忙しくなるぞ」

 

「うん」

 

「職場見学じゃ」

 

「楽しみだな」

 

「ワシがしっかり鍛えてやる」

 

「……え?」

 

 瞬の笑顔が固まる。

 

「職場見学だよな?」

 

「もちろん」

 

「……鍛えるの?」

 

「当たり前じゃろうが」

 

「ヒーロー事務所なんだから、普通に見学させてくれよ!」

 

「何を言っとる」

 

 次郎は豪快に笑った。

 

「ワシのところに来るんじゃ」

 

「ただ見て帰るだけで済むと思うなよ」

 

「うわぁ……!」

 

 瞬も笑いながら叫ぶ。

 

「やっぱりジジイだ!」

 

 山の中に、二人の笑い声が響く。

 

 それは──

 

 かつて「暴獣」と恐れられた男と。

 

 その男が何よりも大切に育てた少年。

 

 二人の、いつもと変わらない夕食だった。

 





 楽しみだ。
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