母親でありたかった酒寄紅葉さんのお話です
曇らせ、死ネタ、鬱要素含みます。それでもと言う方、よろしければ是非
大きな三日月が窓の外から顔を覗かせた。まるで部屋の主を嘲笑うかのような月は、何も言わず暗夜の空に浮かぶだけ。
部屋の主である酒寄彩葉は、身体を襲う気怠さと共に一人で布団に潜り込んだ。以前であれば、あの騒がしいお姫様がどたどたと廊下を走って部屋へ突撃してくる頃だが、今日はその気配はない。
いや、今日は……ではない。もう今後、あのお姫様の笑顔と声を聞くことは無い。かぐやは、月へ帰ったのだから。
彩葉は、かぐやの為に曲を作ろうと躍起になっていた。しかし、どれだけ頑張っても続きの作り方が思い出せない。彼女が遺してくれたブレスレットを強く握り、思いを込める。
それでも、ワンコーラスより先のメロディが続かない。失われたかぐやの歌声を、何度も頭の中で反芻した。でも、それ以上世界が広がることは無い。
まるで、先の見えない霧に世界を覆われている様な。進めど進めど、先にあるのはいつも壁。壁を壊したくとも、一人で壊すことが出来ない。かぐやさえ居てくれれば……。何度考えただろうか。
もう、かぐやはこの世界に居ないのに。
絶望に沈む彩葉のスマホが、静かに震えた。電話の主は、酒寄紅葉。彩葉の母だ。ここで電話を取れば、何を言われるかなんて分かり切っている。鋭く研がれた刃を持つ罵詈雑言が、彩葉の心を削り取っていくだけだ。
何度かスマホが震えると、留守電としてメッセージが一つ残っている。何の装飾も無い、たった5秒ばかりの短いメッセージ。
静かに、再生ボタンをタップした。
『そんな枯れ枝みたいに弱い根性で、何が出来るん? アンタは結局、何も出来ん甘ちゃんのままや』
無機質な切断音と共に、メッセージは中断された。スマホを取り落として、項垂れる様に彩葉はその場に座り込む。色々なことに手を出すけれど、全てが中途半端で完璧に出来たことなんて何一つない。
ゲームも、音楽も勉強も、かぐやのことだって。いつも手を伸ばすだけで、掴めたものは無かった。彩葉はどこまで行っても、何も出来ない甘ちゃんのまま。
いつか、かぐやに言われた言葉を思い出した。
『二人は最強!』
この言葉があれば、何だって出来る気がした。無敵の気分でいることが出来た。だが現実はそう甘くなく、かぐやの残してくれた言葉を時の波が攫って行った。
無敵である訳がない、何でも出来る訳がない。二人で最強なら、一人の場合どうなる? そんなの、半人前以下の雑魚同然だ。かぐやがいてこその世界は、灰色に沈んだ。
彩葉の世界は、煌びやかな彩を失った。唯一隣に居てくれた金色も、消え失せた。
過去を逡巡したところで、今の現実が変わるわけはない。家の中をどれだけ探そうともかぐやは居ないし、その悲しみを埋める代わりのものなんてありやしない。
ただ静寂に包まれた部屋だけが、現実という地獄を彩葉の喉元に付き立てる。
「……寝ないと」
依然身体を襲う怠さは消えない。恐らく風邪の引きはじめ、初期症状だろう。少しでも予後を良くするために今日は早めに布団に入る。
今が何時かも分からないが、体調だけは万全にしておかなければ。何も出来ない身だからこそ、健康くらいは――。
煎餅布団に入り込み、天井を見つめながら意識を微睡に沈ませる。ふわりと体が浮く感覚、眠りに入る直前の心地よさが彩葉のお気に入りだ。
「おやすみ……」
明日の朝起きれば、体調はある程度回復している筈。今は療養に専念しよう。意識を完全に沈める直前、彩葉の耳にいる筈の無い彼女の声が届いた。幻聴か、脳の奥底に仕舞われた音がたまたま聞こえたのか、理由は定かではないが、優しい声だった。
『おやすみ、いろは』
☆ ☆ ☆
翌日、目を覚ました彩葉を襲ったのは最大級の気怠さだった。鎖を身体中に巻き付けられ、そこから鉛で出来た重りを吊るされたかと錯覚するほど身体が重い。
起き上がろうにも、腕に力は入らないし頭も上手い事はたらかない。思考に靄が掛かっている、酒寄彩葉の全てが機能不全に陥っていた。
「っ、だる……」
何とか布団から這い出して、床を這いながら小物入れの体温計に手を伸ばす。やっとの思いで体温計を掴んだ後、深く息を吐きながら仰向けになった。
視界は潤んで、カーテンの間から差す光がやけに鬱陶しい。潤んだ視界の中で乱反射する太陽の光が、絶望に沈む彩葉を焼き尽くす。
太陽の猛攻を耐え抜き体温計で熱を測ったところ、液晶に映ったのは『39.8』の表示。40℃も目前に迫るほどの熱だ。
こんな時どうすれば良いのか、彩葉は思案する。学校、病院、救急車? 靄掛かって正常な思考を封じられた脳は、正解を導き出すには程遠い。
熱の事は一度放り、学校に行かなければ。母の期待に応えるために、体調不良如きで学校を休むわけにはいかない。それに、ここ数日無断欠席をしていた為、学校優先の思考に拍車が掛かった。
こんな時、かぐやが居たのならあの時の様に大泣きしながら彩葉を止めただろう。
『死んじゃうよ! いろはぁ……休んでぇ!』
でも、止めてくれるお姫様は月に帰ってしまった。
もう彩葉を止めてくれる声は聞こえないし、あの時に作ってくれた料理が出てくることも無い。これから全て、自分一人でやっていかなければならない。
何を馬鹿なことを、今まで一人でやってきたではないか。今更一人に戻ったから何だ、やるべきことをやるだけだろ。
「……学校じゃなくて、病院か」
何とか持ち堪えた思考で、正解の道を選ぶ。かぐやがいたら、『病院行こ!』なんて言っていた頃だろう。
記憶の中のかぐやに留められ、失態を犯す最悪な事態だけは免れた。
重い身体を支えながら、何とか制服に着替えた彩葉は貴重品を持ち家を後にした。9月と言えど残暑の厳しい日本の夏は、否応なく彩葉の身体に熱を送り続ける。
風邪のせいで異常に高い体温と、アスファルトの照り返し、太陽から降り注ぐ熱に身体の内外から焼かれていく。
横断歩道の手前で、信号に従って立ち止まる。彩葉を焼く熱は依然降り注いでいて、碌に準備をしてこなかった彩葉の正気を奪う。
ふと、横断歩道の先に目をやった。熱せられたアスファルトから立ち昇る熱が、陽炎を生み出している。ゆらゆらと揺れる景色の向こうに、微かに彩葉の求める金色が見えた気がした。
著しく削られた正気と、熱に浮かされた思考のせいで現実と幻の境目が曖昧になっている彩葉は、徐に手を伸ばして金色に呼びかけた。
「ぁ、かぐや……? 横断歩道、赤じゃん。あぶな」
手を掴もうとして前に進んだ時、目の前の金色は儚く消え去った。残っていたのは横断歩道向かいの景色と、驚きに目を見開く衆目の姿。
されども、彩葉の手はあの時掴み損ねた金色の、かぐやの手をしっかりとその手に収めていた。夏の終わりが見せる幻影だとしても、逃した手を掴んだのだ。
『いろは、いこっ!』
酒寄彩葉の最後の記憶は、月からやってきた愛しいお姫様の太陽の様な笑顔だった。その笑顔に、偽りのない、本心からの笑みを返す。
――ごしゃっ。鈍い音が交差点に響き渡った。
☆ ☆ ☆
その報を受け取ったのは、秋の戸口に立った頃だったか。普段と同じ様に仕事を熟し、帰宅の途についた直後であった。
彼女の娘に連絡して以降、仕事の通知のみが届いたスマホが突如として揺れた。
「……はぁ?」
酒寄彩葉の母、酒寄紅葉を呆れさせるくらいには突飛な連絡だ。通話口の向こうでは、警察と名乗る人物が捲し立てる様に言葉を連ねている。
『ですから、娘さんが交通事故に――』
どれだけ話を聞いても、紅葉の頭は理解することを拒絶している。いや、拒絶しているのではない。受け入れることが出来ないのだ。
通話口の向こうに居る人間は今、交通事故と言った。紅葉の脳裏に過去の記憶が過る。
自分の与り知らぬところで勝手にその生に幕を下ろした夫を、想起したのだ。悠長という言葉を体現した彼の最期の姿は、今でも鮮明に残っている。
呑気に眠りこける顔は、あまりにも馬鹿らしく、何かを言う気にもなれなかった。
「――彩葉はどこにいるん? 態々電話を掛けて来たってことは、確認をしてくれってことやろ」
『娘さんのご遺体は今……』
「死んでるかどうか、私が確認しておらんのやし、遺体なんて確定してる訳ないやろ。あの甘ちゃんは、どこで眠りこけとるん?」
警察の言葉を遮ってまで、自分の胸の内を吐き出す。
この母にして、あの娘がそう簡単に死ぬわけがない。ただ軽い怪我をして家で眠りこくっているだけだろう。
何があったのか知らないが、ここ数日無断で学校を休んでいるほどだ。そんな阿呆なのだから、一回顔を合わせて注意しなければ。
たかだか確認のために数日仕事に穴を空けて、東京に向かわなければいけないなんて、馬鹿馬鹿しい。それも、娘の不注意で起きた事故によってだ。計画していたスケジュールが、音を立てて崩れていく。胸中は苛立ちに埋め尽くされた。
しかし、紅葉すら自覚する事の出来ない不安の芽は、確実に根を張って育っている。
仕事の後帰宅する事すら途中で投げ出し、着の身着のまま紅葉がやってきたのは東京都、立川市内にある病院。警察の話によれば、彩葉はここにいるらしい。
病院を使う程重い怪我を負ったのか、自身の不注意で。阿保らしい。
夜間出入り口を通り、受付の事務員に名前を告げる。
「夜分遅くにすみません、酒寄です」
「酒寄様ですね、医師と警察からお話は伺っております。担当をお呼びいたしますので、暫くお待ちください」
事務員は内線電話を手に取り、小声で話し始めた。
その間紅葉は、夜間で静まり返った病院の中をゆらりと見やる。昼間の病院とは打って変わって静謐に包まれた院内は、間接照明の明かりでどこか神聖にも見える。
死に行く者を送る回廊、もしくは快気の祝道か。二面性を持ち得るこの施設は、死神と天使が同居する歪な空間である。
それ故に、一概の正しさを持ち得ないこの施設が、紅葉は嫌いだった。職業柄、裁定の補助を担う者としてどっちつかずの場所は心底嫌気がさす。
「酒寄様、お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
ある程度の逡巡のち、医師と警察が紅葉の前に現れた。案内に促されるまま紅葉が着いて行くと、案内されたのは地下にある部屋だった。
こんな所で特別扱いを受けて。なんて偉くなったのだろうか、うちの娘は。人様に迷惑までかけて、こんな場所で眠り呆けているというのだから、大層なご身分だ。
「私共の方で、手は尽くしました」
医師の言葉が、耳に響く。それと同時に彼らが部屋の扉を静かに開けた。
あぁ、そう言えば。この甘ちゃんが寝転がっている部屋の名前を確認していなかった。
霊安室と書かれた扉が、完全に開かれた。
無機質な壁に囲まれた小さな部屋、その中央で誰かが横たわっていた。真っ白な布に覆われて、顔までは確認できないけれど、布の膨らみは少女と言っても過言ではない背丈だ。
医師達の間を通って、紅葉が膨らむ布に近づいた。
部屋の奥には一本の蝋燭と花、祭壇が置かれていて、部屋の雰囲気を厳かなものにしている。
「アンタ、何そんな所で寝とるん? 学校は、勉強は。呆けてる暇あったらさっさと起きや」
「お母様……」
医師の静止すら聞かず、紅葉は被されていた誰かさんに掛けられた白い布を取り払う。言う事を聞かずに寝呆ける娘の顔を拝むために。
小学生の娘を起こした時のことを思い出す。どれだけ呼び掛けても起きず、結局布団を無理矢理引き剝がして叩き起こした。あの時と同じように、今回も起こすしかない。
高校生にもなって無断欠席を続けて、挙句の果てに母親の電話にも出ないこの娘を。
「彩葉、はよ起きや。何日も学校行ってへんのは知っとるんやで? 起きて学校行きや。また怒鳴られな分からんのか?」
布の下にある顔は、最後に見た時から変わっていないくらい奇麗で、だが少しやつれただろうか。まるで、本当に眠っている様で。
声を掛け続ければ起きるんじゃないか、揺すれば静かに目を開けて「おはよう」なんて言うんじゃないか。胸中で完全に芽吹いた不安から、淡い期待が漏れ出て行く。
耳を澄ませても、彩葉の寝息は聞こえない。視線を下に降ろせば、胸元は上下していない。静かに彩葉の頬に手を添えた、酷く冷たい。
思えば、最後に娘に触れたのはいつだったか。出て行くと大喧嘩をしたきり、触れたことは無かった。もう、その温もりに触れることは出来ないが。
彩の無い光が部屋の中を照らす。その光が、彩葉の顔を更にくっきりと浮かび上がらせた。
理解を拒む。何のために此処まで来たと思っている? この阿保たれを起こすためだ。
逡巡する。起きない娘を起こす方法は無いのか? 揺すっても声を掛けても無駄なら、意味がない。
理解したくない。警察から『交通事故』と説明されて、脳はその言葉を拒絶した。
よりによって。夫と同じ結末を辿った娘を、どう見たらいい? 馬鹿らしい? 阿保らしい? 否、可哀想だとでも?
息が詰まる。
目の前が暗い。
明りすら見えない暗闇の中で、彩葉に向け、最後まで『母親』であろうとして、言葉を投げた。
「ほら、アンタは甘ちゃんやから。死んでまで私に迷惑かけて満足? 最初から言う事聞いとれば、こんなことにはならへんかったのに」
理解する。酒寄彩葉は、死んだ。
嫌でも理解した。彩葉はもう起きることなどない。あの花緑青を携えた瞳を拝むことは二度と無い。
『母親』であろうとした末路が、これだ。
暗闇の底に沈んだ紅葉の心に、彩葉の顔が浮かぶ。笑顔? 困り顔? そんな甘い考えを持っていた自分を、心中の彩葉は無情にも一蹴した。
『私が死んだのは、お母さんのせいだよ』
――甘ちゃんなのは、どっちだ?