気付くのが遅れた酒寄紅葉さんのお話です。
曇らせ死ネタ、鬱要素含みます。それでもという方は、よろしければ是非
気付きというものは、いつも少し遅れてやって来る。そのどれもが、今更理解したところで取り返しのつかないものばかりだ。
友情、愛情、羨望、期待。いつだって目の前にあるのに、その全てを取り零して気づけない。果てには、人の命さえ。
人という存在は気付いた時には無くなるくらい儚いものだ。瞬間瞬間を生き、そして死んでいく。生命とは一瞬の内に灯る灯火であり、その灯火は大きく揺れている時こそ美しいものだ。
これは、『気づくことが出来なかった人のお話』
『お悔み申し上げます』
今日という一日で、何度もこの言葉を聞いた。
朝から、何度も何度も。聞きたくなければ耳を塞いで蹲りでもすれば良いが、そうともいかない。厳かな雰囲気の内装の施設に、黒いスーツを着た人々が幾人と目の前を過ぎ去っていく。
施設のロビーでは、思い出話に花を咲かせる参加者が何人か見えた。きっと、この会の主役との思い出について語っているに違いない。高校生ともあろう若者が大人の振りをするなんて、笑い話だ。
時刻は黄昏時、外を見れば夕陽が空を紅く染めていた。そろそろあの時間がやって来る。その前に、少しだけ外の空気を吸わせて欲しい。
紅い空の下、自動ドアを潜って外へ出る。施設外周には沢山の花輪が並べられ、異様ながらも神聖な気配が漂っている。花輪を一瞥し、背後に掛けられた看板へ目を向ける。
故 酒寄彩葉 葬儀式場
母、酒寄紅葉は看板を睨む。その眼差しは娘に向けてのものか、それとも。
彩葉の訃報を受け取った時、紅葉は慌てることはしなかった。弁護士という職業柄、手続きは淡々と恙無く勧められた。葬儀会社の手配、通夜告別式の日取り、親族関係者への連絡など。
酒寄家の祖父母や兄への連絡も、何の躊躇い無く行われた。
彩葉の友人たちは、酒寄朝日経由で連絡が行き届いた。皆一様に涙を流し、彩葉の死を受け入れられないでいる。
それもそのはず、まだ彩葉は高校2年生。未来はまだ決まっていない、若い命なのだから猶更だ。
「彩葉はアンタのキツイ言葉に散々耐えて、耐え抜いて死んだ。その責任は取れるんか? なあ、母さん」
彩葉にとって『母親』であろうとした紅葉は、朝久が居なくなってから棘のある言葉を彩葉に吐くようになった。それも全て、彩葉の為を想って。
簡単に全てを認めてしまったら、彩葉は弱い子になってしまう。強い子にするには、心を鬼にしてでも詰めなければ。そう思っていた。
しかし、彩葉の求めていたものはどうやら違っていたようで。彼女が真に求めていたのは、頑張りを認めてくれる『母親』であった。頭ごなしに否定し、出鼻を挫き、全てが優良でなければいけない修羅の世界に生きる『母親』ではない。
紅葉の言葉が、彩葉の心を削っていった。それは高校生になっても変わらず、甘ちゃんの根性を叩き直すために棘を刺し続ける。
それを続けていたら、彩葉は壊れてしまった。壊れ切った瞬間を紅葉は見ていないが、連絡を聞いたところでは彼女自身の不摂生が祟ったようだ。
死ぬときでさえ人様に迷惑を掛けて死ぬなんて、どこまで行っても甘ちゃんなんやな、彩葉は。
「アンタ、人の話聞いてんのかよ」
朝日が紅葉の胸倉を掴み、鋭い視線を向けてくる。今まで一度たりともこんな目を見たことは無かった。けれども、驚きも悲しみも無い。
どこまでも無感情を貫き通す紅葉に、朝日は憤りを強くする。ここで殴れば目でも覚めるだろうか。いや、何も変わらない。今の紅葉は――
「……くそ」
胸倉を掴んでいた手を離すと、朝日は何も言わずに部屋を後にした。残された紅葉はただ静かに乱れた衣服を整え、何事も無かったかのように葬式類の書類に手を伸ばす。
そこから通夜の日まで、親子の間に会話は無かった。朝日も分かっている、全ての責任が母親にある訳ではない。彩葉の死因は栄養失調による衰弱死、事件性は無く自殺と断定される様な遺書も見つかっていない。
パソコンの画面にはDAWソフトが表示されていて、音楽を作っていた最中であったと。紅葉からすれば、ただ音楽を作っている途中で倒れて亡くなった、程度の認識だろう。
しかし、朝日としてはそれを簡単に認められない理由があった。
帰ってしまったお姫様に向けて、歌を作っていたのだと知っていたから。
結局、月の姫に音が届く可能性は潰えた。もう続きを作ることは出来ない。
ハッピーエンドを夢見た誰かの物語は、最悪な形でその幕を下ろした。
彩葉の通夜当日、酒寄紅葉は親族席でただまっすぐ彩葉の身体が収められた棺を見ていた。
特に何か声を掛ける訳でもない、涙を流す訳でもない。ただ静かに、機械の様に冷徹な視線を送っているだけだ。朝日は拳を強く握りながら、別れを惜しんだ。それと同時に涙すら流さない鉄仮面に怒りを抱く。
祖父母も他親族も一様に、彩葉との別れに涙を流し、嗚咽し、顔を覆う者も居た。その中で唯一紅葉だけが、普段通りを貫き通している。
読経や焼香が終わり、喪主代表として紅葉が挨拶をする時間がやってきた。
「本日はお忙しい中、亡き娘の通夜にお集まりいただき――」
決められた文章を、淡々と読み上げる。通夜におけるルーティンワークだ。少しの悲しみと、寂しさを表現できればそれで良い。
挨拶は、滞りなく進んでいった。涙を流さずいつも通り。
さて、挨拶まで終えれば通夜振る舞いの時間だ。参列者にも個別で挨拶をしていかなければならない。
通夜に参列していた彩葉の友人、綾紬芦花は氷のような視線を紅葉に向けていた。紅葉自身、そこにどのような感情があるかなど知り得ない。所詮は彩葉の友人、他愛ない関係性だろう。
……通夜振る舞いの食事がひと段落着いた頃、紅葉は参列者の間を縫ってやってきた芦花に連れられ、彩葉の棺の前にやって来ていた。
「……お悔み、申し上げます」
「ご丁寧にどうも。娘が生前お世話になったみたいで」
至っていつも通り、彩葉の友人ではなく式の参列者として芦花に言葉を返す。言葉に申し訳程度の感情を乗せ、悲しさを演出する。
子供相手にわざわざ気を遣う様な対応はしていられない。
「彩葉は、良い友達でした。勉強を教えてくれたり、私達に付き合って放課後過ごしてくれたり」
芦花は棺に手を添えて、静かに彩葉との思い出を語り始めた。
「寝る間も惜しんで勉強して、バイトして。学校では優等生だったんです。それでも、時々危うい面もあったりして……」
「気づいたら、居なくなっちゃいそうな。そんな気配だってあったんです。目を離したら隣に居ない、遠い所に行っちゃったんじゃないかって」
「彩葉の笑顔は貼り付けたみたいで、その下に涙を流している顔があるのは知ってました。でも、私じゃどうにも出来なかった」
「お母さんは、彩葉のこと助けてあげましたか?」
彩葉を、助ける。なぜそのようなことが必要なのだろうか。一人で生きると息巻いて家を出て行った我儘な阿保たれを、なぜ助ける必要があろうか。
自力で生きる努力をしているのであれば、母親はそれを見守るべきだ。救いの手など伸ばしたら、弱くなってしまう。
やりたいことがあれば、前提条件を整えて叶えるまでのプロセスを明確にしてから話す。それが当然だ。
「彩葉は、あの子は自分で生きていくと言った。そこに私が介入する余地は隙間も無い、これはあの子の問題やから」
「あなたも、彩葉に散々振り回されたんやろ? 母として、ここで謝ります。娘がいらん迷惑をお掛けして、すみません」
紅葉の発言がトリガーとなった。芦花は顔を歪めて、紅葉の頬に向けて平手打ちを放つ。
パン、という乾いた音が斎場に響き渡る。芦花の顔は、怒りと悲しみ、憎悪に塗れてぐちゃぐちゃだ。
「なんで、なんで平気でそんな事が言えるの!? 自分の娘が死んで涙の一つも流さない、果てには此処でも彩葉を侮辱する言葉ばっかり……!」
「彩葉がどんな気持ちで頑張ってきたかも知らないで、なんでそんな事言えるんだ!」
「行こう、芦花……!」
彩葉のもう一人の親友、諌山真美が斎場に騒ぎを聞きつけて芦花を静止しにやって来た。芦花の手首を掴んで、連れ出そうとしている。
「アンタが、アンタがちゃんと声を掛けてあげてればこんなことにはならなかったのに……! そんなんで、母親なんて名乗れるわけないっ! 母親失格だ、この……」
「人殺しッ!!」
「芦花!」
暴れる芦花を押さえながら、真実は斎場を後にする。
残されたのは紅葉一人だけ。さっきと打って変わってしんと静まり返った斎場の中には、物悲しげなメロディーが流れていた。
今一度、彩葉の棺に近づいて手を添える。顔窓の扉を開いて、顔をよく見てみる。年頃の子にしては少しやつれて、元気が無さそうだ。
『寝る間も惜しんで勉強して、バイトもして――』
そんなに頑張ってるなら、一言くらい教えてくれたら良かったのに
『放課後に付き合ってくれたり』
心を許せる友達を持つんは、ええことや
『気づいたら居なくなっちゃいそうな』
やっぱりアンタは父親にそっくりやな。そないなとこまで似んでもええのに
『笑顔を張り付けたみたいで』
乗り切れへんのやったら、帰ってきてもよかった
『助けてあげましたか?』
私、助けてあげられへんかったわ
『人殺し』
彩葉を殺したんは、私だ
そこから先は上手く覚えていない。呆然としたまま告別式を迎えて、最後のお別れを済ませて、彩葉を焼いた。
その時も、涙は出なかった。けれども、心はぐちゃぐちゃだった。
人殺しの自分を認識して、彩葉に別れを言える気にはなれなかった。彩葉を殺したのは酒寄紅葉だ、それは揺るがない。
彩葉が焼かれていく間も、声は出なかった。否、出せなかった。人殺しだから。
彩葉の骨を拾う時も、壺に入れる時でさえ何も言えなかった。淡々と彩葉だったモノを壺に入れていっただけ。細い骨を、ひたすらに。
彩葉だったモノが潰されて、壺に蓋をされる時も。彩葉を運ぶ時も、彩葉を墓に入れる時も、彩葉だったモノが壺越しに冷えていく時も、彩葉を、彩葉を彩葉を彩葉を彩葉を彩葉を彩葉を彩葉を彩葉を彩葉を彩葉を彩葉を彩葉を彩葉を彩葉を彩葉を彩葉を彩葉を彩葉を。
彩葉を殺すときだけは、あんなに言葉が出たのに。なぜ送る時は、言葉が出ないのだろうか。そんなの答えは簡単だ、彩葉を殺したのは酒寄紅葉だから。
彩葉を追い詰めることは幾らでも出来た。でも、助けることは出来なかった。追い詰めて追い詰めて、崖の際に追いやって、最後に突き落としたのは自分。
そこに救いの手を差し伸べるという考えはない。もう崖下へ落ちてしまったのだから、伸ばしたとて意味がない。
全ての工程を終え、紅葉は自宅へと帰りついた。仏壇に位牌と遺影を置き、その場にへたり込む。
「なあ、彩葉もあんたのとこへ行ってしもたみたいやわ。母親を置いて先に逝ってしまうなんて、ほんまに考えられへん。向こうで会うたら、よう言うて聞かせといて」
彩葉の遺影の隣で和らかい笑みを浮かべる朝久に、きつく伝える。
紅葉の呟きは、薄暗い部屋の中で消えていった。どこに届く訳でもないが、今の紅葉は後悔することしかできない。
この家にはあの時から紅葉が一人で住んでいた。一人でいる事なんて慣れている筈なのに、今日は何故か重苦しく、そして寂しく思えた。何故だろう? そんなこと、知る由もない。
心の壊れた酒寄紅葉に、分かることなど出来やしない。
塞ぎ込むのを許す訳、無いでしょ。この人殺し。
私が死んだ後にそんなことに気付いても遅いよ。
もうこの世にいない。謝罪なんて届かない。
人殺しの重荷を背負って、これからも生きてよ。
お母さん。