三介殿のなさる事だから(諦め) 作:数寄にあらず
織田家は子だくさんの家系である。36人も増やした信長には負けるが、父親の信秀も27人こさえたというのだから、そういう血筋としか言いようがなかろう。なお、信秀パッパは40代前半で亡くなっているので、信長よりもハッスルしていたのは間違いない。
人間五十年も生きれば上等な寿命の戦国時代において、子作りは立派な仕事である。大名の末子が跡取りの子供と同世代かそれ以下であっても珍しくはない。某権現様だって還暦を過ぎてからも子供をこさえたのだ。老いてなお盛んであれ。
「どうぞ」
「ん、結構なお点前で」
濃い目に点てられた茶をがぶりと飲み干してから、袖で口元を拭って一言。
「しかし、お前の茶は⋯⋯アレだな。良く言えば丁寧、悪く言えば神経質に過ぎる。うちの家系からよくこんな繊細なのが生まれたもんだ」
「そんな事を言われても困りまする。そもそも、私からすれば全員血の気が多過ぎるのですよ。信包兄も侘び寂びに理解を示してくだされ」
「それも利休の受け売りだろう? 茶で城が落とせるなら苦労はないわ。それが出来んから弓槍鉄砲かついで戦っとるんだぞ俺らは。だいたいだな、この茶葉一包を取り寄せる金の出どころにしても、戦に血を流して勝ったからじゃないか。鶏と卵の論争以前の問題だぞ、長益よ」
三畳あるかないかの茶室で話すのは、信長の弟である信包・長益兄弟だった。どちらも織田の血筋にふさわしい美形だが、信包は武に傾き、長益は政に寄った顔立ちをしている。
天下の行く末が決まりつつあった西暦1581年、京都にて行われた御馬揃えの儀において、信包は信忠80騎・信雄30騎に続く10騎を率いる第三席にあった。同じく10騎を与えられた信孝よりも先に据えられた事から、織田一門における信包の地位は比較的高い。
もう一方、長益もひとかどの人物である。後年では文化人、外交官としての活躍が目立つものの、武将として甲州征伐・小牧長久手・関ケ原に従軍して戦功を挙げるだけでなく、本能寺の変時には単身京を脱出するしたたかさを秘めている。彼もまた戦国を生きるいくさ人であった。
それからしばらく、二人でああだこうだと口論する内に、信包が本題を切り出した。
「年始参りの件。お前はどう思った、長益?」
「⋯⋯どうもこうも。血は争えないと思ったまでですよ」
当主・信長の息子三人。いずれも父親の一面を色濃く受け継いでいる。信忠は高潔かつ几帳面な気質を、信孝は勇猛にして苛烈な資質を。そして、信雄は若かりし頃に大うつけと呼ばれていた性質を。まさしく信長を三つに分けたような息子達であった。
「誰にも興味を抱かない信長兄が唯一気を許すのは猿のみ。そう思っていたところへ、初めて父親らしい振る舞いを見せたのが奇妙でも三七でもなく、あの茶筅ときた。驚きすぎてひっくり返るかと思ったぞ」
「同じく。うつけとたわけでは違うと考えていましたが、改めねばならないようで」
三杯目の濃茶を干してから、信包が冷え冷えとした声で洩らした。
「───俺達より、よっぽど血が濃いのだろうさ」
そこに籠められたのは諦観である。嫉妬するのも馬鹿らしい、努力では覆せない現実に打ちのめされた者だけが為せる、厳然たる事実の確認作業。どれだけ欲しても手に入らない、天性の大輪。あの偉才に比べれば、誰もが路傍の石となろう。
長益も瞑目して頷く。
「かつての大身が見る影もなく滅びる下剋上の世にあって、我が家は間違いなく伸びるでしょう。美濃を獲り、伊勢を喰らい、近江と結んで京に至る。それが為せるだけの力は十二分にある⋯⋯さて、後を継ぐのは誰でしょうな?」
「先の事なんぞわからん。人の身に過ぎぬ俺には、明日の手柄首の心配が精いっぱいだ」
「まったくです」
やがて茶会もお開きとなり、道具の片付けにかかる長益を退屈そうに信包が眺めていると、けたたましい音を立てて城門が開いた。美濃での合戦の様子を知らせる伝令が到着したのだと気づき、慌ただしく茶室を後にする。
稲葉山城が落ちた日の一幕である。
「長益叔父上とも長い付き合いになったもんだな(大阪冬の陣前まで一緒)」
「あの方も辛い立場ですなぁ。兄の息子が二条城で死ぬのを助けられず、その三十年以上も後には姪とその子が火の海に消える寸前に城を離れるとは。つくづく因果は巡るもので」
「数寄者を気取ろうと、おのれの業からは逃げられんのだ⋯⋯生き残っただけで万々歳だと思うがなぁ、おれは」