三介殿のなさる事だから(諦め) 作:数寄にあらず
(どうすればよかったのかな)
ふわふわとした、現実感のない心地で路地を歩く。ついさっきまで、自分はこの地の支配者だったのに、いまでは何の権力もない一牢人に過ぎないという。まさしくこの世は夢かまぼろしではないか。
父の形見であった甲冑を剝ぎ取られ、稲葉山城から縄をうたれて移された。首実検の最中だったのだろう、本陣でありながら濃密な血の香りが漂う中、らんらんと目を光らせる敵将達の前を歩かされ、敵の総大将のもとへ蹴り転がされる。
そのまま首を落とされるのかと地面に這いつくばっていたら、無感情な、いっさいの熱が消えうせた声で、
「疾く失せよ。以後、この地に入るのを禁ずる」
ぼくの首には斬る価値もない、と放逐されたのだった。
⋯⋯正直なところ、城を落とされた主としての覚悟がぼくにあったのかといえば、自信がない。大名の責務を果たす気構えを持っていたのかと聞かれても、どうだったのかわからない。なぜかって?
ぼくが決めたわけじゃないからだ。三十の半ばにも届かずに病死した父の後を継ぐようにいわれて、はいかいいえかも答える前から大名の座に押し込められた。統治のやり方は見ていたなりに知ってはいたから、経験がないなりに働こうとしたぼくよりも先に、勝手に補佐役を名乗り出た連中が好き放題に政治を動かし始めて、あれよあれよという間に国は衰えた。
気付いた時には、もう手遅れだった。ぼくはお飾りの殿様に過ぎなくて、曾祖父から続いた家は豪族達の食い物にされ、才ある家臣達は美濃を捨てて隣の国々に仕官していく。竹中兄弟のように忠言をくれた者もいるけれど、ぼくは何一つ活かせなかった。
無意味。無価値。無駄。
なるほど、あの敵の総大将、織田信長の判断は正しい。こんなぼくに関わる暇などない、首を斬ってついた血脂をぬぐう紙一枚すらもったいない。まさしくその通りだろう。
だって、ぼく自身がそう思っているんだから。
生まれた時からこうなのだ。曾祖父は荒れ果てた京から美濃土岐家に仕官し、祖父は下剋上を果たし、父はその祖父を殺して美濃を支配した。善悪はともかく、全員が蝮と呼ばれるだけの何事かを成し遂げている。己の中に確固たるものを持っているのだ。では、ぼくは?
(あるわけがない)
ぼくには何もない。智も、勇も、暴も、野心すらない。いつだってそうだし、いまだってそうだ。死が間近に迫っていた敵陣の中にあってさえ、この胸は高鳴ってはくれなかった。現実を生きているのに、意識は夢のようにあやふやで、曖昧だ。雨後の草露がしたたり落ちるよりも長い間隔でしか、ぼくの心の臓は脈動していない。京から呼び寄せた医師の曲直瀬道三でさえ匙を投げた、先天的な奇病。
ああ───熱が欲しい。
ふわふわとした足取りで、井ノ口の町を歩く。行き交う人々の誰ひとり、ぼくが殿様であったと知る者はいない。長きに渡る戦が終わった事に安堵し、次の殿様が有能であるようにと期待している。安心してほしい、その願いはきっと叶うだろう。最低でも、ぼくよりはマシなはずだから。
そうして、ひとつ、またひとつと路地を抜けた先で、ぼくは出逢った。
「おい、そこの者。こっちに来るのだ」
「⋯⋯ぼく?」
枯れた柳の木に背中を預けながら、やけに上等な着物を着崩した少年がぼくを手招きしている。申し訳程度に敷かれた布の上には、二束三文の値札が付けられたガラクタがずらりと並び、真鍮が陽の光で鈍く艶めいていた。これが辻売りというやつだろうか。興味を惹かれたので、しげしげと眺めてみる。
「うわぁ」
無意識に声が出てしまった。感嘆ではなく、唖然としたせいだ。これはひどい、と言いたくなるほどに。
錆びついて黒一色に染まった打刀はまだわかる。砥ぎに出せば業物に化けると口八丁で騙せないこともない。しかしこの、元は蛙のようだが、頭から蝙蝠じみた羽を生やす妖怪じみた根付は何なのか? 隣に置かれた銀か錫のような鈍色に光る鍵はどこの錠前に使えばいい? まともな姿を映したのが何年前かもわからない鏡の出どころは? しまいには、人魚だか河童だかを模したような、赤子の大きさに干からびた謎の物体まで無造作に転がされている。
どれ一つとしてまともな売り物がない。果たしてこの店主は正気なのか、と様子をうかがうと、少年が溜息を吐いた。
「もとは熱田に流れ着いた商人が話を持ち込んでな。「価値のわかる御仁に譲り渡したいものがある」というのでわざわざ足を運んだのだが、おれの顔を見たとたんに狂乱して逃げおった。どうにも嫌な予感がしたので追いかけたら、清州から小牧山、墨俣を越えて、とうとう井ノ口まで駆け通しよ。大事に抱えていた風呂敷まで放り捨てて、しまいにはそこの川に身投げしてしまった。いったい何がしたかったのか、さっぱりわからん」
うんざりした様子で川の下流を指さす先では、侍と数人の漁師が必死の形相で土左衛門を引きずり上げていた。よっぽど恐ろしいものを見たのか、激痛によって魂が抜き取られたような苦悶の死相を浮かべているのが見える。
「問題は残ったこれらよ。譲るといった本人がああなった以上、譲られたおれが始末せねばならん。正直どれもろくなものではない⋯⋯というか、価値をつけてはならない気がするのだ。粉々に砕いた上で伊勢の海から散じてやるのが一番だと思うが、もったいない物も混ざっているから困る」
「残すつもりですか? 綺麗さっぱり砕いた方がいいのでは?」
「物は使い様というではないか。並の人間では扱えぬ代物でも、名人にかかれば当代随一の業物になったりするのだぞ。たとえおれが持て余したとして、他の者が活かすのなら、それには生まれてきた意味があった証になる。それを否定しようとは思わんし、したくもない⋯⋯で、だ」
ずい、と木箱を押し付けられる。足元に散らばるガラクタとは扱いが異なった、ずいぶんと上等な桐箱である。手のひらに載せられるくらいの寸法からして、中身は刃物や茶器ではない。それなりの重みがあるので、鉱物の加工品ではないかと察する。
「お前にはこれをやろう。さぁ、持っていけ」
「⋯⋯どうしてぼくに? 見ず知らずの他人ですよ」
「わからん! が、たまにあるのだ。なんか『こうしたら面白い事が起こるぞ』的なひらめきがピキーンと頭に走る瞬間がな。たまたま路地を歩くお前を眺めていたら、それが来た。というわけで、遠慮せずに持っていくがいい。心配するな、他のに比べたら一番マシだから」
「えぇ⋯⋯ちっとも安心できない⋯⋯」
ジト目で見つめるぼくの気持ちなどお構いなしに笑う少年が、あっ、と声を出した。
「いかん」
「え?」
「雄利の奴め、思いのほか早く片付けたな。直におれの部下が来るから、お前は急いで町を出るのだ。あと、中身はともかく木箱は上物だから、適当に商屋へ持っていけ。数日の路銀にはなるからな。さぁ、早く!」
ぐいぐいと背中を押されるままに歩き出す。少年の部下らしき侍の装束にあった家紋からして、彼らは織田の係累なのだろう。これ以上の深入りはよろしくないとぼくでも思ったので、出来るかぎりの早足でその場を離れる。
⋯⋯生まれ育った美濃を出て、どこに行くのか。親類縁者のか細いツテを頼るなり、あるいは反織田家の大名に仕えるなりして、家を滅ぼした汚名を雪ぐのか。あても思い浮かばないが、しばらくはひとりでいようとだけ心に決めた。
井ノ口から今浜、あるいは目加田にでも向かうつもりでそのまま歩き続け、不破家の領内にさしかかる手前の山道で日が落ちたので、近くの洞穴で夜を過ごす。星々がまたたく夜空にぽっかり浮かぶ満月が眩しくて、隠れるように身を縮こまらせると、懐からカタリと木箱が転げ落ちた。衝撃で綴じ蓋が外れ、布にくるまれた中身が露わになっている。
あっ、と声が洩れた。結局、井ノ口を出た後も中身を確認しないままだったのだ。自分で開けるのが怖いというより、あの少年が言うところの『妙な予感』がちらついて、箱の存在を無意識に忘れようとしていたせいだった。
それを手にした瞬間、ぼくの運命が変わってしまうと、わかっていたかのように。
ほんの少しだけ警戒しながら、ゆっくりと身を起こす。おそるおそる伸ばした手が布地を掴み、眼前へと持ち上げる。本来は滑らかなはずの生地が、にかわで張り付いたように離れず、はがすのに苦労する。
やがて姿を現した中身は、月明かりに照らされて、目も眩むばかりに輝いていた。
それは石だった。翡翠、あるいは緑柱に近いような、わずかに青みがかった緑色の鉱石。全長はぼくの人差し指一本分、太さは中指と重ねた程度。表面には細かい傷がいくつも付いているが、芯から発せられる輝きは洞穴の中でもはっきりと見える。
⋯⋯少年の説明に嘘はなかった。いまなら理解できる。この石からは、やましさが感じられない。むしろ神秘性や加護といった、霊験あらたかな法力めいた力を感じるのだ。うぬぼれでなければ、ぼくが持ったことで威が増したような気さえする。
両の手でそれを持つ。拝むように、天へと捧げるように、夜空に浮かぶ満月に掲げる。月の光に照らされながら、いっそうの輝きを放ち出した瞬間、ぼくは気づいた。
この石が、二つの生物を掛け合わせた、異形の彫像であることに。
「──────羽の生えた、蛇?」
「あの化石を押し付けた相手が誰か、存じておられたので?」
「そんな細かい事を知るわけなかろう。おれには不要だし、路銀の足しにでもせよという厄介払いが半分だ」
「では、もう半分は?」
「⋯⋯あいつには必要なものだった、としておこうか」