来いッ!淫乱竜スケベンズ・ドラゴン!!   作:秘密の豚園

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第1話 ヤンデレと淫乱竜、そして俺だ。

『地元が嫌いだ。』

 

『俺の青春は灰色で終わるんだろうな。』

 

 なァんて、死んでも頭に思い浮かべてやるもんかよ。

 

 厭世的なモノローグなんてのは、救われたさへの裏返し、救済への誘い受けみたいなもんだからな。

 

 地元を憎んで、周囲の環境や人間関係を敬遠して、理想と現実のギャップに苦しんだら、お節介な救いなんてものは、俺達をすぐにシンデレラにしちまうらしい。

 

 例を出すなら、そうさな。

 

 漫画の1ページ目、スクエアに囲われたモノローグだ。そんなものは、救いと非日常を呼び寄せる誘蛾灯みたいなもんで、恐ろしいったらありゃしない。

 

 加えてだ。一歩引いた視点でモノローグなんて書こうもんなら、蛾はわんさか張り付いてくる。

 

 だから俺は、救いと程よい距離感を保って、こんな世界を少し肯定してやる。

 

 胸の中にちょっとした赦しを抱いてやる。理解をした風に装って。分かった気になってやる。

 

 

 そして俺はいつものように、少し苦い顔で、眠たげな顔で廊下を渡った。気だるげな欠伸は、俺にとっては安物のアクセサリーだ。

 

「ほわぁ…。」

本館から1年生棟にわたる空中廊下。入学早々の新入生はコイツにエモーショナルで柔い部分を突かれるが、7月となると周囲の連中も慣れたもんで、窓に目もやらずに、会話なんかに躍起になる。

 

「おはよ~、イコ~。」

すれ違うハルピュイアのクラスメイトが、俺の名前を呼ぶ。

 

「おはぁ。…ん、どこ行くん?」

義務的な朝のやり取りを延長するように、俺は言葉を付け足した。

 

「屋上でねェ、タツに羽繕いされてくるぅ~。」

ハルピュイアのミードが少し歩調を落とし、俺の顔を見下ろすように、首を曲げる。

 

「ん、仲睦まじくて良いこと。タっちゃんによろしく。」

 

「あ~い、じゃね~。」

今にも床から、離れんばかりという具合にミードの脚が軽やかに動いた。俺はそれを小さく見送りながら、歩調を元の具合に戻していく。

 

 亜人はいる、それはもう超常なんかじゃない。かつて人間だけだった地球の頂点種族も、今じゃあだいぶ増えた。まぁ、種族間のブラックジョークなんてものは絶えないけど、本格的な忌避なんてものはどこを探してもほとんどない…はずだ。まぁ、俺の周りじゃあ、見かけないわな。

 

 まずは、朝から亜人の友人を肯定してやる。ハルピュイア、獣人系なんてのは可愛いもんだ。まぁ、看過できないような種族も中にはいる…けど…。

 

「イコ~。」

うわ、出やがった。

 

 俺の胸の内の思案をどこからか汲み取ったようにサキュバスの大橋(おおはし)の声が後ろから掛かった。

 

 柔軟剤に体臭を混ぜ込んだような、少しキツくて、ドロリとした甘い香りが鼻をくすぐる。サキュバス特有のフェロモンが廊下に柔く満ちた。

 

「はぁ…。」

俺は、小さくため息をつくと、足を止めて振り返った。

 

「どはぁ…。」

大橋の容姿が目に入ると、またさらに大きなため息が漏れてしまう。

 

 仕立ての良い白いドクターコートと、毛玉の一つもないピンと張られたスラックス。

 

 ここまでは良い。カツカツと子気味良い音が鳴るヒールも許容範囲だ。揺れるハート形の尾も、小ぶりな黒い羽根も、短い角もさしたる問題じゃない。モードメイクは出来が良い。

 

 問題は……。

 

「…品性下劣ぅ…。」

 

 問題はドクターコートの中だ。服なんてものは無い。紐と破けたシャツが巻き付いているようで、局部をギリギリ隠している。

 

 それに、コイツが担任なのが未だに意味が分からない。

 

 教職者として絶対にありえない。ダメだ、すぐにでも教育委員会を呼ぼう。齢16のガキどもの情操教育に大変よろしくない。

 

「…令和っすよ?さァすがにサキュバスといえど…。」

 

「令和だからこそでしょ。人間の倫理感とか価値観に合わせる時代は終わったの。これからは、種族単位の価値観で各々が生きる多様性の時代でぇ~す。」

泡の纏った舌を口から覗かせながら、羽を小さく動かした。

 

「多様性……。まァた便利な言葉を……。」

多様性。他者間で働く赦しのハードルを著しく下げる令和の必需品だ。まぁ、こんな社会だから、多様性なんて言葉は一層の効力を持つ。魔法の言葉だよ。

 

「んで、なんすか?搾精魔力供給的なお願いすか?直吸いすか?やらせませんよ、ド痴女が。」

俺は、わざとらしく口元に手を当てて、一歩引いて見せた。

 

「違うっての。教師だからそんぐらいの線引きはしてますからァ。」

大橋は呆れたような声を上げた後に

 

「こっち。」

手を上下に動かした。

 

「【手】じゃねぇかよッ!この痴女ッ!!」

ダメだこの痴女…。なんとかしないと…。

 

「なぁにが線引きだ!平然とライン超えやがって!」

 

「落ち着いてって!ただの肩たたきだってェ。マッサージよ、マッサージ。生徒をねぎらう教師からのサプライズプレゼントだっての。……………………抜きアリの。」

 

「マッサージ(要相談)になっちゃうだろッ!ボケッ!」

落ち着けるわけがない。こんな朝からバカみたいなセクハラに突き合わされて。

 

そう…。俺はこんな世界に…。赦しを抱いてやらないといけない…。

 

「…あ~、朝からガキ揶揄うのオモロ~。…んじゃ、私、つまみ食いしてくるから。」

 

「オイッ!そりゃ……。」

 

「ん~、サキュバスと言ったら…ねぇ?あ、ハイコンテクスト過ぎて分かんないか。」

大橋はそう言うと、窓を勢い良く開けた。

 

「分かるよッ!回答が目の前に張り出されてんだよッ!」

 

「おほ。どう返せばいいか分かんないや。ま、HRまでには戻りま~す。」

そこからは秒読みだった。

 

 窓枠に足を掛けた大橋が、こちらを振り返り、仰け反り、倒れて、消えていく。

 

「…。」

俺は窓枠に肘を付けて、その様を眺めた。大橋は頭を下に向けて、足を張りながら垂直に堕ちていく。尾と羽が、伸びるように、縮むように、忙しなく風にはためく。

 

 まるで、地に上っていくような、そんな落下の様だった。

 

「………よいしょ……っとぉ!…しゃあ、喰うぞぉ!」

大橋は体を翻すと、拳を地に叩きつける三点着地で地面に小さなヒビを走らせた。それから、責任から逃れるように別棟へと駆けて行った。

 

 なんか……もう…もうさぁ……。

 

「…馬鹿だ。」

 

淫愚者(いんぐしゃ)と言ってあげて。ほら、イコ、淫愚者と言って。」

俺の呟きを、会話に仕立て上げるように、聞き慣れた声が掛かる。

 

「淫愚者ってなんだよ、公共の敵だよ、あんなのはよ。規範ある社会の敵(パブリック・エネミー)って言え。」

俺は窓枠から肘を離して、首を小さく後ろに動かした。

 

 目の端に移るのは、灰色の髪を指で弄ぶ女…元男の愁灯(しゅうひ)だった。男の頃の造語癖をそのままに、愁灯は数年前、整った女性の容姿を手に入れた。

 

 朝、起きたら、体が女になる。睡眠と直結した後天的変容…。総じて、花が開いたような可憐な容姿を手に入れることから、開花になぞらえて、女体化現象は【咲く】だなんて、動詞で説明できちまう。

 

 俺は窓を閉めると、愁灯の方へ向き直った。

 

「…だって、イコ、良く言うじゃない。くひッ…。」

愁灯は悪戯っぽく笑いながら、俺の胸を突く。

 

「…何をだよ。…あ、みぞおちやめれ…!ビックリしちゃうだろ!や~めれっ!」

 

「ほら、ポルノだとか、自慰とかってさ……。それになぞらえただけ……くひッ…。」

愁灯は執拗に俺の胸を狙う。

 

「いやぁ、たまに言うけどさァ、そういう意味じゃなくてぇ…。」

コイツ、なぁんにもわかってない。俺が言いたいポルノとか、自慰とかってのは…。

 

「都合の良い救済とか、物語とかそんな具合でしょ、イーちゃん?」

ここまで【不意に】なんて言葉が似合うシチュエーションがあるだろうか。音を殺して、近づいてきたクラスメイトの玲炉(れいろ)が俺の頬に人差し指をねじ込んだ。

 

「ぽひゅっ……。やめッ…。アベック揃って、俺をイジんじゃねぇ…。んべ…。」

 

「アベックて…。まぁ、だって、イーちゃんイジるの面白いし。ねぇ、愁灯?」

そう言うと玲炉は、愁灯の肩を掴んで自分の方に抱き寄せた。愁灯が玲炉の胸に顔を小さく沈ませると、その細い腕を背中に伸ばす。

 

 なんで、俺ぁ、友人たちのイチャつきを見せられてるんだろう。

 

「くひひひっ…。ホント、ホント。…あぁ、元彼の前で今彼に抱かれてるゥ…。ごめんねぇ……。私、この人のモノになっちゃった。BSSでNTRだよぉ…。」

くぐもった声で愁灯がバカみてぇな台詞を続ける。揺れる頭と揺蕩う灰色の髪は、高そうで上品ぶったシャンプーの香りを周りに広げた。

 

 でも誤解だ。俺はこの女体化娘を恋愛的に、異性として好きになった瞬間は一度だってない。付き合ったことなんてない。コイツらはお遊びとして、俺を敗北者の枠組みに当てはめてくる。

 

「あ、悪趣味アベックがよォ!その寝取られごっこみたいなのやめろっての!俺がテメェに恋慕の感情を抱いたことがあったかよ!?あ~良かったなぁ!このバカ女!貰ってくれる旦那がいてよぉ!!」

 

「ふふ、ごめんね、イーちゃん。仲良し三人組だったのに…ボク達…カップルになっちゃったよ。もう、戻れないね。あの頃みたいには……。」

玲炉が優越に浸ったように口角を上げながら、勝ち誇った風な顔でこちらを見てくる。

 

「オメェもノってんじゃねぇ!今でも三人は仲良しだろッ!」

 

「ホントかなぁ?」

「くひ…どうかな……?」

 

「キ―ッ!!!」

俺は、愁灯から玲炉を引きはがすと、そのまま玲炉に抱き着いた。

 

「だぁ!俺も混ぜろ!目の前で寝取られごっこされると、ちょっと寂しくなるだろ!」

俺は玲炉の平たい胸に頭を押し付けて、みぞおちをデコで押しつぶすようにグリグリと動かした。

 

「イーちゃん…。…もぉ…冗談だってばァ。あと、い、痛いってェ…。」

玲炉は、俺を突き放すことなく、柔く抱擁で返す。

 

「くひひ…。私も…抱き着かせろ…。…喰らえ、女体化抱擁…。」

俺の背中に、愁灯が飛びついた。

 

 

 そうそう、友情友情。性別が変わっても、消して変わることのない抱擁。

 

「これからも仲良しだよ、イーちゃん。」

「くひ、私達の結婚式、スピーチはイコだって決めてるもん。」

 

 二人の声が耳に届く。暖かい人情が、俺の達観を…………。

 

 あ、でもなんか…アレだ…。なんか…やめたくなってきた。

 

 こう……。ドラマに入るのは嫌というか…。

 

 人生の中の物語性にちょっと忌避が出来てきた。

 

 クサくなってきたというか…………。寒いっつうか……。

 

「やめやめぇ。あ~。ポルノしてきた。やめよ~っと。」

俺を挟む二人から逃げるため、俺はその場にしゃがみ込み、足の間を通って逃げた。立ち上がると、目の前には、間に大きな空白のあるハグをしている二人がいた。

 

「………でた…ポルノだ……。ポルノヘイト…。や~い!ポルノっ子~……!」

愁灯が、空白を潰すように一歩前に進んだ。三人のハグが、また二人のモノになる。

 

「アレでしょ。性別が変わっても、変わらない友情賛歌みたいなのに照れちゃったんでしょ。イーちゃん、クサいの嫌いだから。」

クソォ…。内心見透かしやがって…。んのやろぉ…。

 

「バカだねぇ……ひひひひ…。恥ずかしがっちゃって、友情も恋愛も人並に楽しめないんだ…。か、可哀想~。アレが弱者男性ってやつゥ…?冷笑ってやつゥ?あ~ッ!!」

俺を弱者男性呼ばわりするバカ女が、腕の間から目を覗かせた。

 

 アタマに来るゥ…!

 

「…る、るせぇ!…れ、恋愛は…友情は…愛なんてものはポルノだ!」

俺は恥ずかしくなって、言い負かそうとして二人に向かって言葉を続けた。

 

「あらら?」

「始まったねェ……。」

 

「……繁殖欲求だとか生存欲求に感情を付け足しただけの、ただの…都合の良いギミックだ!バーカッ!!」

俯きながら思想を吐いた。

 

「人間賛歌はカルトだ!人間が繁殖のために生きているっていう事実を恐れたから、付け足しただけの装飾品だ!!」

二人が、俺の言葉に少しでも思うところがあれば良いと、俺の考えに何か気付かされるようなものがあれば良いと、そんなことを思いながら、俺は顔を上げた。

 

「あ~!イーちゃんがムキになってるッ!」

「くひひひぃ…!!背伸びして難しい言葉使ってるゥ…!!」

でも、俺を待っていたのは、愉し気に指を指す二人だった。

 

「…くひひ。ネットで見つけた難しい言葉を継ぎ接ぎしただけ…。冷たいようでいて、感情論……。負けず嫌い……イコ。」

 

「イーちゃんも恋愛してみたら分かるのに。ほら、廊下でバカやってないで教室行くよ。」

二人は抱擁を解くと、俺に背中を向け始めた。並んで、手を繋ぎながら、同じ歩調で離れていく二人がもっと頭にキた。

 

「…ば、バカは、お、オメェらもだからァ!」

俺は二人の背中に向かって、声を上げて、二人の間に割り込んだ。

 

「かまちょ……。ふひひ…………。」

「イーちゃん、冷笑向いてないよ。」

「うるせぇっての。」

「はいはい。」

「『はいはい』じゃなくてぇ!」

 

 二人に挟まれながら、連行されるように俺は、廊下を揺られていった。

 

 いくら斜に構えても、メタ視点で達観に立っても、俺はいつもコイツらと同じ目線に立たせられる。

 

 もちろん、恋愛に否定的な俺が、こんな世の中じゃ少数派なのは分かってる。

 それでも、いや、だからこそか。

 

 こんな社会を、ポルノだって思わずにはいられなかった。

 

 俺は二人の間に挟まりながら、ズボンのポケットに手を伸ばす。

「…先週のガラテアは…と…。」

それからスマホを取り出しフェイスロックを解除して、指をグーグルのアイコンに伸ばした。検索欄に打ち込むのは、【東京都 ガラテア現象 先々週】の三単語。

 

「出た出た……。」

デフォルメ調のUIが画面一面に広がる。石像と抱き合う二頭身のキャラの横には、ゴシックのフォントで【8体】。そう並んでいた。

 

「気になってんの?ガラテア、欲しいんだぁ~?」

玲炉が鼻を鳴らして、俺の内心を見透かした気になっている。

 

「違うっての。神様がいんなら、蟻の巣の前に角砂糖を置くガキみたいだな、なァんて思って見てただけ。」

 

「くひひ……。また冷笑…変な言い回し、ポエマー…。」

 

「るせぇっての。それにガラテアなんて、召喚者の理想に沿っただけのただの鏡合わせの他人モドキだろ。自慰だよ。自慰。」

ガラテア現象。こいつもまた、俺からすればポルノみたいなもんだ。

 

 ギリシャ神話のピュグマリオンとガラテアが名前の元になってる。だが、こっちのガラテアにゃあ、彫刻なんてプロセスは必要ない。

 

 女体化と同じく、睡眠に反応するモンだ。目が覚めると【理想の伴侶(ごつごうてんかい)】が横にいるなんていう驚くほどに都合が良くて、反吐が出るほどトチ狂った超低確率の超常現象だ。辟易する。

 

 まぁ、世の中にはそんな超常現象が山のようにある。他者からの愛こそが救済だなんて、そんな世の中の構造が、繁殖を加速させる。

 

 ペットが獣人になる獣人化(じゅうじんか)現象。愛用品が人の姿を得る付喪神化(つくもがみか)現象。

 

 事象やモノに愛を拗らせたあげく、それに関連した超常の力を手に入れる偏愛者(へんあいしゃ)

 

 例を挙げればキリがない。

 

 愛は共通言語になって、物理的な形を成して俺達の前に現れる。でも、そんな気味の悪い救いの手だとかを、俺はどうにも受け入れる気にはなれない。

 

 

 まぁ、達観で上に立ちたいがために、わざとこういう視点を持っているのかもしれないけど。あぁ、自分すら分からなくなる。

 

「………神は、寝具を御所望…ねぇ。」

俺は、古い言葉を呟いた。じいちゃん世代がギリギリ使うような、世の中の構造を皮肉った格言だった。そんな皮肉を吐いたやつも、大抵は恋と性に吞まれていくらしい。

 

 あ、俺も言っちゃった。

 

「イコ……。古い言葉……。クヒ……。」

「手垢付き過ぎた格言って、一種の寒さを纏うよね。」

「…オメェら、後で覚えとけよ…。」

頼むから、神が、もしいるなら、俺に救いだなんてものを送ってくれるなよ。  

 

 多少、赦して、肯定してやってんだ。そんな願いぐらい、聞いてくれるだろ。

 

 

 

───────────────────────

 

 

 

 

 橙色に空が焼ける前の、辛うじて水色がかった17時の空を俺は教室から眺めていた。

 

 頬杖に使う手の甲と、肘に掛かる負荷が、どこか心地よい。窓から吹く風が、カーテンをすり抜けて俺の肌を撫でれば、それはもう完璧だ。

 

 ただ心地悪いものもある。そう、玲炉と愁灯だ。

 

 奴ら、俺がいるってのに、キスはするし、ハグもする。駄弁りの中にまたキスを挟む。

 

 だから俺は気まずさから逃げるために、空に残った水色の部分を探すように目を動かす。机の上の社会科の資料にも目を通す。

 

「…近代史…ガラテア現象……偏愛者への軍需ねぇ…。」

資料集に目を通しながら俺はボヤいた。白黒の写真には洗脳じみた情操教育で、亜人種を恋愛対象にさせられている子供たちが並んでいた。

 

 亜人種は人間と比べて、フィジカルが桁違いに、ずば抜けてる。だからか戦時中は、どこもかしこも亜人種の伴侶を召喚するガラテア現象を引き起こさせるために、ガキに歪んだ恋慕を叩き込んでいたらしい。あとは愛玩動物に無理やり獣人化現象を引き起こそうとしたとかそんな具合だ。

 

【その他にも趣味嗜好、個人個人のイデオロギーに合わせ、能力を振るった偏愛者が戦時中は多く存在した。】

マーカーを引いた一文を、俺は指でなぞった。

 

 周囲の闘争欲求を煽る()()の偏愛者、航空機を落としまくったっていう()()の偏愛者。

 空を泳ぐのは、()()の偏愛者。虚空から銃を召喚する()()()()()()の偏愛者。

 

 そして戦争は面白いぐらいに、倫理の形を変えちまう。俺は小さな枠にイラスト付きで並べられた超常兵器を指で押した。

 

 自身の脳幹を貫いて自殺することで、着弾地点に新しい自分を作り出す、小銃に子宮と精嚢を内蔵した転生銃スワンプ・クラップ。

 

 ガラテア召喚者の遺体を加工した、人造ガラテア召喚機。そして合成付喪神。

 

 他にもゴロゴロいやがる。ページの端から端までが全て戦争に直結していた。

 

 そして語彙の一つ一つに散りばめられた反戦のプロパガンダが、戦争への忌避を誘う。

 

 完璧だよ、文部科学省。ご丁寧にデフォルメ調のキャラクターと教育番組じみた平和主義的なセリフも添えやがって。これで立派な反戦ポルノの出来上がりだ。

 

「イーちゃん、まだ勉強してんの?偉いねぇ。」

「………イコ、お勉強はできるから…ひひ…。」

玲炉と愁灯とが、蕩けた目を少し整えて俺に向けた。恋人同士で通わせただらしない目が次第に友人に向けるものにゆっくりと成形されていく。

 

「あぁ、オメェらのガキクサい接吻見るよかよっぽど良いからな。」

俺は背中を逸らせてふんぞり返るように言った。

 

「クヒっ…夜はディープになるけどもね…。」

「そうだね、帰ったら大人のキスをするけど?」

 

「おうおう、キスでガキがデきねぇように、啄むようなキスでもしてろな。ガキども。」

これだからアベックはよ。

 

「てかイーちゃんさァ、こういう戦争の歴史とか見て『許さない』とか思うの?ほら、そういうのに敏感じゃないの。人の死とかさ。」

玲炉が少し前のめりになって、資料集を覗き込みながら問いかけた。

 

 何だコイツ、俺の皮肉をものともしねぇ。

 

 まぁいいや。俺は考えを整理するように小さく息を吐く。

「…変な質問…。ま、別に許さないなんてことは…ないな。そりゃ、人が死ぬのは良くねぇし、戦死者は慈しむもんだろうけど、ページめくるたびに、いちいちそんな感情湧かねぇよ。」

 

 それから資料集を閉じると、二人の方に向き直った。

「それによぉ、普通の日本人が反戦主義みたいな情緒的なもん駆り立てられるのなんて、言っちまえば八月半ばか、資料館に行った日だけだろ?」

 

「飛行機だって元は戦争の道具だったんだ。この令和に日本人が、旅客機眺めながら、『昔、人の命を奪いやがって。』なんて怨嗟の目で空を睨みつけてたら、それこそヤバいだろ。近所の名物ジジイになっちまうよ。……言いたいこと分かるか?」

 

「……要はァ…それはそれェ、これはこれェってこと………?」

愁灯が俺の机に顎を置いて、上目遣いでこちらを見つめる。

 

「大分要約しやがったな…。まぁ、ダイナマイトと同じだな。使用用途だよ。ま、これ以上話してたらメンドクセー奴らが絡んで来そうだし、やめんべ。」

 

「…じゃあ………次は別のベクトルでディープでアブない話でも………へへ…。」

愁灯が下卑た笑いを浮かべるので、俺は丸めた資料集で頭を軽く叩いた。

 

「ひぃ…イダイィ…。バイオレンスだぁ…。…怖いよぉ…。訴えようよォ…。」

頭を軽く押さえながら、ニヤニヤとした笑みをそのままに、愁灯が玲炉の元に向かった。

 

「知人男性に暴行を受けましたァ…。」

「ありゃりゃ…。こりゃ法廷だね。起訴だよ、起訴。」

玲炉がテキトーな事を言いながら、愁灯の灰色の髪を優しくなでると、俺に向き直って口を開いた。

 

「あ、そろそろボク達、帰るね。」

玲炉が愁灯の背にリュックを担がせて、細い腕を通させる。

 

「なんだぁ?まるで俺は、その『ボク達』の中に入ってねぇみたいな言いぐさだなぁ。」

 

「くひ…。ごめん、今日は二人っきりのデートの日…。月曜は3人で帰ろ……。」

愁灯は小さく手を合わせて、俺の前で横に振った。

 

「これだからアベックはよぉ…。」

俺は頬杖を突きながら、追い払うように手を払った。

 

「拗ねないでよぉ!ふふ、じゃあね、イーちゃん。」

「くひ…。バイバイ……。」

 

「おう、早く帰れや。」

 

「今度は法廷でね。」

 

「バカ言ってんじゃねぇよ。ブチ負かしてやるよ。」

小さく手を振る二人を、俺は同じような手の動きで追い払った。

 

「…………はぁ。」

二人の笑い声が廊下から消えると、俺は机に突っ伏した。

 

 別に。寂しいとか、疎外感とか、そんなんじゃない。

 気疲れだ、世の中への。生きづらさの負債が、金曜にドっと降りかかっただけだ。

 

 帰ろう。でも、18時ぐらいに着くと、風呂洗い頼まれるから、19時ぐらいに家に付くようにしよう。

 

「本屋で時間でも潰すかなぁ。」

机横に掛かったリュックを、フックから外して勢いよく担いだ。

 

「金曜…ねぇ。」

なんでもできる。そうだ、平日の鬱憤を晴らすみたいに財布の紐を緩ませるんだ。

 

 久々にゲームを買ってもいいし、普段買わないようなつまみを買ってもいい。俺は全能感を胸にいっぱい抱いて、ドアを開けた。

 

 この曜日だけは、足取りも心もどこか軽やかになる。俺だって金曜は大好きだ。

 

 空中廊下の窓越し、朝方の着地地点辺りで教頭から説教されてる大橋先生に一瞥を送って、階段に腰掛けて手を握り合うアベックを飛び越えて、シンとした正面玄関を通り過ぎて、開くのが遅い自動ドアに少し腹を立てて、俺はようやく校舎を後にした。

 

「はぁ…はぁ………はぁ…はしったり………ジャンプしたり…するんじゃなかったッ…うぅ…息苦しいィ…。」

金曜だからって調子乗っちゃったァ…。

 

「……あ…はぁ…か~えろ………。」

 

「じゃ、私も。」

その声は、俺の荒い息交じりの独り言を、そのままただの独り言にしてはくれなかった。会話という土台にさりげなく組み込んだ。

 

 毛と肉感と肉球のある獣の手が、俺の肩を掴む。

 

 俺は空を仰ぐみたいに顔を動かした。この人の顔を捉えるのに、左右に首を振り返らせる必要はない。俺の視界には、空を塞ぐみたいに先輩の上半身が拡がっていた。

 

三多(みった)先ぱ…、わ、マズル、めっちゃ濡れてますよ…?」

 

「一緒に帰る人いて、嬉しいから。」

先輩はそう呟くや否や、俺の頭頂部に鼻の先を付けた。

 

「…赤ちゃんのにおいする。好き。」

 

「…えぇ…。」

犬系の獣人族は、大抵、誰に対してもおしなべて一定の好感度で接する。だから恋慕と親愛の境が分からなくなるなんて話がある。

 

 まぁ、先輩が俺に抱いてるのは、親愛だ。後輩と先輩、特別な事なんてない。

 

「ま、行きますか。」

俺は濡れた頭部をハンカチで軽く拭く。

 

「うん。」

俺の言葉に先輩が頷くと、足を少し踏み出した。俺に合わせ、大きい歩幅を調節して、ペースを整えてくれている。

 

「てか、こんな時間まで良く残ってましたね。」

 

「……………大橋が、教頭に怒られてるの見てた。」

尾を規則正しく、そして強く激しく振りながら、俺を潤んだ目で見つめる。

 

「面白かったですか?」

 

「うん。」

相槌を打って揺れる髪。そこから覗く目が、ヤケに細く横に伸びている。

 

「そりゃいいや。俺もちゃんと見れば良かったっす。」

校舎の外構フェンスに沿った歩道のアスファルトはひび割れの一つもなければ、ゴミの類は見当たらなかった。

 

「他人がお説教されてるところは、娯楽。」

歩道に映る二人の影が時たま重なると、先輩はどこか嬉しそうに鼻を鳴らした。

 

「性格悪いっすね。」

 

「はは、イコが良く言う、ポルノもコレ?」

2歩分ほど前を歩いていた先輩が、さらに速度を落として、俺の隣にピタリと着いた。

 

「まぁ…俺の言うポルノの意味合いは都合よく消費されるものとかそんな感じなので…。」

 

「あ、すんません。」

先輩の手が触れそうになる。気まずさと申し訳なさから小さな謝罪をすると、俺はほんの少し車道側に寄った。

 

「へぇ…。」

俺の動きを見た先輩の目に、不機嫌さが混じったような気がした。糸くずの集まりみたいな不定形な翳りが躍るのが見えた。

 

 あ、やっぱり、手が触れそうになるのはダメだったかな。

 人懐っこい獣人とはいえ、令和だもんなァ。色々、気を付けないと。

 

「ごめん、先輩。」

 

「なにが?」

先輩が、腹を立てたような抑揚で問いかけると、少し足を速めた。

 

「まぁ、手を触りそうになったことすかね。」

 

「………。」

 

「そういう感じなんだ。」

 

「な、何がすか?」

 

「チッ…。」

先輩が舌打ちを打つと、俺を置いていかんばかりのスピードで歩道を駆け出した。

 

「………え!?ちょ!なんで!?」

先輩の背が離れていく。街路樹の葉が揺れて、枝が靡く。

 

 住宅街に向かう先輩の背が小さくなる。

 

「意味分かんねぇ………。」

なんだよ、勝手に走りやがって。棒きれでも見つけたのか?

 

 返事も悪態も返ってこない帰り道。会話を強要するような他人はいない。なら、せめて独りを楽しもう。そんなことを考えながら、ポケットの中のワイヤレスイヤホンに手を伸ばした時だった。

 

 先輩の輪郭が解けて、風景に溶け込んで、霞んでいくのが見えた。

 

「……あ…。」

俺はそんな先輩の様子に、玲炉と愁灯を重ねてしまった。

 

「…えっと………。」

二人は俺を裏切ったわけじゃない。絶対に二人が悪いわけじゃない。

 

 二人の間で関係性が変わっただけだ、密接になっただけだ。

 

 俺に明確な線引きをしたわけじゃない。俺は今だってアイツらが好きだ。

 

 でも、二人が付き合うって聞いた時の、なんだろ…喪失感みたいなのを思い出してしまった。

 

「……先輩…。」

正直、恋愛促進みたいな世の中の風潮は嫌いだけど、俺、別に人が嫌いなわけじゃない。

 

 罪を憎んで人を憎まずってわけじゃないけど、周囲の人間にまでヘイトが向いてるわけじゃない。

 

 だから、離れていく先輩は、そのままにはできなかった。絶対に追いかけなきゃって思った。お節介でも、俺が自分の事しか考えてないようでも。

 

 理由が何であれ。俺も駆けた。もうあんな喪失感は、懲り懲りだから。

 

「はぁ………あッ…脇腹……イダッ……。」

俺がいくら走っても、葉はさほど揺れないし、枝は動きもしない。

 

 いくら走っても距離は縮まらない。それでも走った。

 

 喉の奥から血の味がした。出不精の体が軋んだ。

 

 でも、それは足を止める理由にはならない。

 

 

 とはいえ、やはり。

 

「せんぱ……。先輩~ッ…。はぁ…。はぁ…。あ~、水…水ゥ…。頭から…はぁ…冷たい水…被りたいィ…。死ぬぅ……。」

ダメだぁ…。心とか気の持ちようじゃあ、どうにもならない体力の問題ってあるゥ…。

 

「でも……冷たい水…はぁ………はぁ………被ったら……被ったで……い、息が………。」

俺は地面に這いつくばって、アスファルトに頬を付けた。温い小岩が喉に当たる。でも、もっかいだ。ちょっと休んだら、立って、また走らなきゃ。

 

 

「…おい、もやし。」

冷たい声と共に、歪な日影が俺を覆った。

 

「…………先輩ィ…。」

 

「ほら、立ちなよ。見られたら恥ずい。」

差し出された太い手を見て、先輩の言葉を聞いて、俺は安堵からか、鼻の奥がツンと痛くなった。

 

「あんな馬鹿みたいに追っかけて。それこそポルノ。ドラマ入ってるってやつ?」

あ。そっか。言われてみればそうかも。

 

「でも、先輩がいなくなるの怖かったんで、そういうの頭になかったですワ。」

俺は先輩の手を取って、立ち上がった。

 

「バカだね。」

先輩はまた、潤んだ細い目を俺に向けると、ゆっくりと自分の元に俺を抱き寄せる。

 

「わッ…。もふもふっすね………。」

先輩の太い毛先が俺の体温を確かめるみたいに、ゆらゆらと動いている。

 

 そして毛の奥では心臓がハッキリと、速いテンポで、強く動いていた。自分の居場所と存在を知ら占めるみたいに。なんでだろ。やっぱ走ったからかな。

 

「……ねぇ……聞くね…なんで追いかけてくれたの?」

先輩が唾液の絡んだ疑問符を俺にぶつけた。望んだ答えを喜々として待っているような抑揚を孕んでた。

 

「…恥ずかしながら……昔のトラウマみたいなのと重なっちゃったもんで…へへ……。」

俺の言葉に、肌を撫でていた毛が次第に硬くなっていった。一本一本がピンと張られていって、俺の皮膚を刺すような硬度になっていく。

 

「私のしてることとか…意味…気付かないの?」

先輩の声が震えた。

 

「…とは言われましても…。」

なんだろう。目がやけに蕩けてるし、眠いのかなぁとは思ったけど。

 

「………あ、先輩かまちょすか?」

俺が見上げた先の先輩の顔には、もう面影なんてなかった。憎しみと、腹を空かせた獣を混ぜたような顔があった。

 

「な、なんすか…。その…顔…。」

 

「そっかそっか。…はは。はははは…。」

先輩はひとしきり笑った、酷く乾いた笑いを口から吐き捨てた。そして。

 

「やっぱさ、ダメだ、お前。」

そう耳元で呟いた。

 

「何が、ダメ……な……。」

俺の言葉を遮るように、腹に鈍い衝撃が拡がった。

 

 身体中の血が腹一点に集まるのと引き換えに、じわじわと痛覚が腹から身体中に巡っていくような感覚。先輩の拳は、俺の内臓に触れそうなほどに、体の内側に迫っていた。

 

 意識が全部痛みに向いて、頭が酷く軽くなる。

 

「なんで……です…。」

 

「……まだ分かんないんだ……。……私の気持ち…。」

顔を顰めてしまうほど、艶っぽくて甘えた声。でも、その声を聞いて反応する表情筋も、手も足も……今は……。

 

 

 

 

──────────────

 

 

 

 デジタル時計の18時39分の表示だけが、俺にも等しく情報を与えてくれた。

 

 部屋の内装も、床に落ちた毛も、両手を繋ぐ安い手錠も、俺が狼狽えて、戸惑うだけの困惑と恐怖を与える素材だった。

 

「なんか……テンプレ過ぎます……。」

 

「うるさい。なに?アンタはテンプレを否定したり、皮肉ったりすることで、自分が非凡っていうアピールをしたいキモい凡人なの?そうなの?そうなんでしょ?だから、私の監禁にも、そんな風に余裕かましたフリするんでしょ?そうなんでしょ?」

先輩はもう感情も言葉も取り繕わなくなっていた。生の怒りと不機嫌を、そして俺への情愛をダイレクトに表していた。その顔で。その体で。その手つきで。

 

「…ごめんなさい……。」

 

「謝らないで。まず食べて。」

それから先輩は、手に持ったスパムおにぎり…。スパムおにぎり!?

 

 まぁ…す、スパムおにぎりを一口大にちぎると、俺の口に押し込んだ。

 

「美味しい?」

先輩の甘い抑揚の問いかけが耳の中で響く。

 

「んぐ……むぐ……こういうシチュエーションで出すもんじゃないと、思いますゥ…。」

ちょっとしょっぱいけど、スパムも卵も厚めで美味しい…。マヨもカロリーハーフじゃなくて好き。

 

 てか、最近スパム、マジで高いよなぁ…。

 

「私はね、美味しいかどうか聞いてるの。どうなの?」

先輩が、手の骨をパキリと鳴らした。

 

「お、美味しいです…。」

 

「……だよね?だよね?だよね?だよね?ちゃんと美味しいよね?お母さんは、卵が甘めの方が良いって言ったけど、塩気あっても美味しいよね?これもね?ね?」

三多先輩の必死で、鬼気迫った問いかけと愉悦の顔に、息が詰まる。

 

「ヒッ…。」

 

「楽しいね。イコ。」

心底楽しそうな顔だった。瞼は瞳の光を覆い隠して、口角はほんの少し上がっていた。

 

 異常を、異常とも思ってもいない先輩の自然な顔を見て、俺は釣られていつものように自然に返してしまう。

 

「そんなにっすね…帰りたいです……。」

 

「………ねぇ。」

あ、まずい。精神を逆撫でしてしまった。

 

「さっき、私を追いかけてくれたじゃん。」

先輩が俺に距離を詰めると、頬を両手で包み込んだ。

 

「は、はひゅ…。」

 

「でも、さっき、ちゃあんとその理由を聞いて、ビックリしちゃった。昔の友達のトラウマに、私の事、重ねただけじゃん。ねぇ、結局、自分が一番可愛いんじゃん。」

俺は、さっき自分が先輩に漏らした感情と言葉を悔いた。先輩に分かって欲しくて、俺が追いかけた理由を知って欲しくて、吐露した思い。でも、それは先輩を刺激して、苦しめるものだったんだ。

 

「ちがッ…。あの…先輩がいなくなるのが、怖くてっ…。」

 

「私が喋ってるのに、なんで喋るの?やめて?舐めてるでしょ?舐めてるよね?ね?ねぇ?」

先輩がさらに俺に詰め寄った。黒く濁った眼は、照明の反射を赦さなかった。俺を捉えて離さなかった。

 

「……ごめんなさい。」

 

「うん。謝った後に、どうするか、ちゃんと改善点を出せるのが大人だよ?どうするの?先輩を何にするの?お嫁さんって言って?ほら…。お・よ・め・さ・んって。」

優しく諭す声色に、俺は甘えたくなった。このまま、この人の歪さを認められたら、俺はきっと楽になるってそう思った。

 

「……………………先輩を………先輩を……。」

 

「言って?ほら、頑張って…?」

床を叩く尾が激しく強く、速くなる。小さく部屋が揺れて、床が軋み、音を上げて、損傷を告げる。

 

 でも、それでも。

 

「………………………………。」

言えなかった。

 

 プライドか、矜持か、恐怖かは分からない。でも、声はどうにも出なかった。

 

「……ははは……。」

先輩が乾いた笑いを小さく漏らすと、俺の髪を掴み、強引に引っ張り上げた。

 

「……ッ…痛ッ…。」

 

「あのさアンタさ、ズレてんだよ。そもそもこういう状況でテンプレとか非凡とか気にする?普通、献立に突っ込む?なんで反抗的なの?何で素直に従えないの?ポルノって何?なんなの?ねぇ、なんなの?ねぇ?ねぇってば。寂しいだけのガキのクセに。弱いくせに、人間族のくせに。達観してる気になってるだけのもやしのくせに。」

先輩と俺の額が重なって、至近距離で威圧される。今にも俺を喰い殺しそうな気迫と、鈍く光る目に、萎縮と動悸が止まらない。

 

 やっと、ようやっと、こんな恐怖を味わってやっと気づけた。先輩のこれは愛憎だって。憎しみと恋慕が交互に覆い重なって、層みたいに蓄積していって、先輩の感情を作ってるんだ。

 

「フーっ…………ふふふ…意地悪でごめんね、好きだよ、イコ。大好きだよ……。ごめんね……意地悪しちゃった……。」

先輩は息を整えて、俺を強く抱きしめた。今、前面に出てきてるのは、優しい先輩だ。俺が離れないように、心の底から忌避しないように、優しい自分を振舞っている。俺に希望を持たせるみたいに。日常をなぞるみたいに。

 

「…………お風呂、入って来るね。…二人にとって、大切な日に、したいから…………。」

先輩は濡れたマズルをさっと撫でた後、濡れた指をそのまま俺の唇に押し当てた。

 

「子供の名前、二人で考えようね…………。ハスキー族と人間の子、きっと、きっと可愛いから。」

名残惜しそうに、唇から指を離すと、先輩は俺の額にキスを落とした。

 

 それから先輩はおもむろに立ち上がると、ドアノブに手をかける。

 

 振り返り、こちらを眺める先輩の顔には、歪みなんてなかった。狂気なんてなかった。

 

 健全で、自分の行いが正義だって信じてやまない、そんな真っすぐな笑みを浮かべていた。俺は、廊下に灯る照明の中に消えていく先輩の背を、見送ることしかできなかった。

 

 

 金具が擦れてドアが閉まる音は、俺に諦念を色濃く教え諭す。束の間の孤独と、ささやかで刹那的な平穏を、俺は動かない四肢で享受するしかなかった。

 

「責任も取れねぇくせに…妊娠をロマンスにしてんじゃねぇよ…。バカ犬…。」

俺は、ベッドの背もたれから滑るように離れると、近くの枕に向かって愚痴を吐いた。甘いだけが先輩の体臭じゃない。酸味もあるし、鼻に引っ掛かるクセがある。

 

「チャイルドマザーのCM…知らねぇのかよ…。」

 

「ア~、キモ……。産んだだけで親になんかなれねぇっつぅの。」

 

「帰りてぇ。」

 

「ダリィ………。」

 

「………。」

 

「………。」

本当に独りなんだ。今、俺の独りごとを会話に落とし込んでくれる人はいないんだ。

 

「………なんでこんなことになったんだろう。」

最悪だ、こんな文字通りのポルノに巻き込まれて。

 

「……くだらねぇ…。何が監禁……。クソみてぇなクリシェがよ…………。」

この恋愛社会のはぐれ者の自覚はあった。

 

「ヤンデレってのかな………。」

恋愛を肯定するプロモーションも、愛を促進するコマーシャルも、企業のわざとらしいプロパガンダも、嫌いだった。

 

「………ヤンデレ……はは…恋愛経験の乏しいオタクが愛情表現の最上級に使う属性というか………なんというか………。」

涙を誘うようなわざとらしい物語は全部消えて欲しかった。

 

「……でも。」

それでも俺は。

 

「俺、喜ぶべきなのかな…。」

こんな社会に忌避を感じる自分がおかしいのか、もう分からなくなる。

 

「………はは。」

乾いた笑いが漏れると、俺は自然と体を丸めた。

 

「…………。」

本当は。

 

「…………うっ…。」

俺は。

 

「…怖いよ………。…なんで……こんな……。」

怖かった。軽口を叩いてないとやってられなかった。非日常への恐怖もあった。

 

 でもなにより悔しかった。心が緩んだのか、孤独が俺の弱さを赦したのか、俺の目が涙を出した。それがほんの少し赦せなかった。そして鼻筋を伝って、シーツに小さなシミが出来ると、それがさらに俺の心を揺さぶった。

 

「…ずっ…………うぅ……。」

最悪だ。鼻まですすってしまった。でも、こんな状況でも、自尊心みたいなものは小さく胸に留まっていた。消えてくれることは無かった。

 

 恣意的なポルノ論と冷笑で、ハリボテの達観を得る学校の中の俺。

 

 そして、今、この場で惨めったらしく縮こまる俺。

 

 だというのに、傲慢なプライドが、叫ぶことも、何かに縋ることも赦してくれなかった。胸の奥にいる俺が、逃避を肯定してくれなかった。

 

「………早く俺……もう……折れちゃえば良いのに…。」

大きな諦めが、希望なんて粗い幻想を小さく飲み込んだ。

 

 カッコ悪い、ダサい、苦しい、帰りたい。

 怖くて、疲れて、寂しかった、そして何より、とても、眠かった。

 

 なぜだか、睡眠欲が俺を抱いて離さなかった。

 

「ごめんね…。先輩……。」

あぁ…俺…なんでこんなこと…呟いたんだろう……。

 

 

 

 

────────

 

 

 

「よぉ。おやすみ…。覆宗(おおむね) 伊誇(いこ)。ヤンデレ監禁なんて、またベタだね。ま、縁側のお姉ちゃんだなんて、今日の私もベタだけど。」

低い女の声で目が覚めた。

 

 何処か厳格な抑揚でもあるのに、表面だけをなぞるような軽薄な声でもあった。掴みどころを捉えても、耳や頭から零れていくような声色だった。

 

「んぇ?」

俺の頭は膝の上にあった。

 

 白いワンピースを着た女の膝上。女は傍らに置いた黒いリボンの巻かれた麦わら帽子の縁を指でなぞりながら、俺に微笑みを向けている。

 

 でも先輩のあんな顔を見てしまったら、目の前の女のこの顔が狂気を孕んでいるか、ただの慈しみかなんてのは分からなくなる。どっちだ?どっちなんだ?

 

 それになんだか自由に動けない。コイツもアレか?束縛系か?

 

「やっぱ人の子は皆、可愛いね。」

女は床の木目板に手を置くと、数回爪で模様を叩いた。

 

 それからだった、外の景色が流れるように変わっていく。青々とした葉が、赤く色付き、枯れていく。地面に敷かれた白の丸石だけが変わらずに、そこに佇んでいた。

 

 でも、女はそんな外の風景の変遷を気にも留めなかった。きっと今、起こった事象は、この女からすればなんてことないもので、明日の天気を調べるようなものだ。日常の中に含まれた、ちょっとした動作と等価値なんだ。

 

「驚かないの?」

女が俺の顔を覗き込んだ。

 

 とは言われてもなァ………。

 

「だってどうせ夢だし。なに?マジシャン?カルト?宗教だとしたらお断りなんだけど。あと、俺、中卒パパになるか、ならないかの瀬戸際なんだけど。早く帰して?」

なんか目の前の女の飄々とした感じが腹立つので、少し感じ悪く言葉を続けた。こっちはね、現世で襲われそうだっていうの。

 

「ん~、第一声それだと、流石に首絞めたくなるけどな。せめて、名前聞いて?あと、イコちゃんの苗字知ってるのもツっこんで?」

 

「……………アンタは?んで、俺の名前、知ってる理由は?」

首に伸びる右手を止めるために、俺は女の誘導に従った。

 

「よく言えました。(まじ)わり様とお呼び。そしてイコちゃんの真名を知りたる理由は神様だから。私はなんだって知ってるの。」

交わり様とかいう女が、俺の額を静かに撫でた。

 

「それとね、ここは夢のようで夢でないの。終着点であり、始点。思念と概念と物理的事象が重なる場所。まぁ……。無限だけど刹那的、そんな感じかな。」

 

 なんだコイツ?急に馬鹿みてぇなこと言いやがって。イメクラ?あ、そういうノリ?

「そういう設定ですか?本当にプレイやめて欲しい時の合言葉とか決めた方良いですか?セーフワードはチーズインハンバーグとかスか?」

 

「ガキッ…。この…。」

交わり様が短いため息を空気に混ぜると、呆れたように言葉を続ける。

 

「…ハァ…あのねぇ…、イコちゃんの話に戻すけど…瀬戸際どころじゃないよ。このままだったらねぇ、君も三多 多由那(たゆな)も、このまま高校中退ルート。大変な人生になっちゃうよ?」

交わり様は両の手で狐を作ると、鼻先に当たる三本の指を、互いに擦り合わせたり、ねじ込む様に合わせたりして、今から俺に訪れるであろう未来と逢瀬を皮肉った。

 

「まぁ、ガキの浅はかさから来るお早いオメデタも…私目線からすりゃあ…エッチで可愛いもんだとは思うけどね。」

 

「おいッ。」

なんだ、コイツ…。変な倫理観してやがんな。そもそも子供を授かる()()って、計画性と、お互いの理解と、責任能力と経済力があって初めてスるもんじゃないの?

 

「でもね、イコちゃんが嫌がったから、私が助けてあげるの。気まぐれな救済なんて、神の十八番でしょ。力自慢のガラテアなんてどう?スマホを付喪神にしよっか?」

交わり様は狐の手印を右手に戻すと、再度微笑みを向けた。

 

「…要らねぇよそんな…。降って湧いた助けなんて…。救済なんて…。それにそんな風に超常を都合よく使うなんてよ。」

ひでぇ夢だな。都合の良さっていう不快感が、胸やけみたいに俺を蝕む。気色が悪い。

 

「い~や、救うよ。だって蟻が、巣の前に置かれる角砂糖を『要らない。』だなんて突っぱねても、人間からしたら知ったこっちゃないでしょ?」

交わり様は、俺の胸に右手を置くと、心臓を胴の上から探るように動かした。ピアノでも弾くような軽妙な指使いで、前後左右に小さく動かしやがる。くすぐったいんだけど。

 

 でもアレ?

 

「あ?…それ…俺が学校で言ったヤツ…。なんで…?」

 

「ふふ……。だから言ったじゃない。」

 

「………あ、夢か。そりゃそうか。だったら俺がさっき言ったこと、夢の登場人物が言うよな。うん、俺の頭の中の夢だもんな。」

 

「お前マジッ…。そろそろ信じてってェ!」

交わり様は、俺の胸を強く叩いた後、跳ねらせるみたいに右手を離した。

 

「…イダッ…。」

でも、こんなにスムーズに会話が出来るし、自我みたいなもんがあっちにあるんだもんな。胸も痛いし…。まぁ、信じてやっても良いかも。

 

「…じゃあ聞くけどさ、ガラテア現象とか付喪神とか、全部アンタが考えたの?」

とりあえずコイツが神だと前提を置いて、簡単な質問を投げかけた。

 

 交わり様が自慢げに鼻を鳴らす。

「ふふん。信じる気になった?ふふ、まぁね、孤独に喘ぐ人の子を、少しでも減らしたかったもの。…結果として軍事利用されたりしたけど…、ま、想定内想定内。」

 

「割り切り良いのな。人間を祟るもんだと思ったわ。」

 

「しないよぉ~。結局戦後はベビーブームでパコパコ増えるんだからそこでトントン。パコトントンよ。それに私はアンタらに過干渉ではないしね。」

 

「こんなにガラテアだのなんだの送りつけるくせにか?」

 

「私が逐一回ってるわけじゃないんだよ?このところはオートマで救済してるもの。」

 

「チッ…。そんなに人間に恋愛させてぇかよ。このオキシトシンジャンキーがよ。」

 

 交わり様が歯を見せながら奇声を上げた。

「キィィ―ッ!!か、神たる私になんてことッ!天誅いくよ!?」

 

「ごめんってぇ。」

両手を見せて、降参の姿勢を見せると、交わり様は満足げな様子で鼻息を俺に吹きかけてきた。

 

「…やめっ…。変に涼しいッ!」

 

「ははッ!…でもまぁ…。私ね…誰かと添い遂げない人生だって、悪いもんじゃないと思うよ。」

交わり様は、俺から逃げるように視線を逸らせると庭の木に向かって目を向けた。

 

「ほ?」

意外だ。こんな恋愛と救済一辺倒の、ご都合主義ジャンキーがそんなこと言うなんて。

 

「この超常を考えた時、私はどうにも、…頭が恋愛一辺倒でさ…人は、愛し合えばそれで救われるなんて、そう思ってた。」

 

「…でも、恋愛文化を広げた結果、産まれるべきだった他の文化だとか、文明を潰してしまったんじゃないかなんて、たまに思っちゃうんだ…。」

交わり様は、口をか細く、ほんの少し動かした。

 

「あるべき孤独を、私が奪ったんじゃないかってさ…。」

 

「………………そういうの、功罪って言うのかな。」

思わず俺の口が開いた。

 

「…さぁね。まぁ、生物学的な目線で数が増えることを功だとしても、文化だとか社会学の目線で見たら私の罰はきっと数えきれないよ。」

超常の上位存在だっていうのに、この女は罪も罰も人間の尺度で考えすぎていた。自分を人の倫理の範疇の中で、審判して、問いただそうとしていた。

 

 この人は、自虐のために思い出を遡るのに、いくらの年月を頭の中で巡らすんだろう。

 

「はは…。」

口の隙間から漏れる孤独や後悔や苦悩は、齢16の俺が受け止めるには、あまりに重すぎて、スケールが大きくて、共感のために口を開こうとすると、こちらが押しつぶされそうになる。

 

 でも。

 

「……あのさ…アンタのしたこと、俺はちょっと莫迦だとは思うよ。」

俺は、思ったことをそのままに伝えるのが、この場での誠実だって思った。

 

「押しつけがましいというか…なんというか…。愛に酔ってるやつが多いし、それを共通言語にしてる…そんな具合。正直、あんまり好きじゃない。…俺の周りがそうなだけなのかもしれんけど。」

 

「そっか。」

俺の言葉に、言い訳も否定もなく、交わり様は小さく頷いた。

 

 でも。

 

 罪を憎んで人を憎まずってわけじゃないけど、俺の頭を膝の上に乗せてくれているこの人そのものを、酷く否定する気はなかった。

「でも、アンタ自身の事は、嫌いじゃないかな。」

 

「………お、お…お、おお~?が、ガキが…言うじゃないのッ!こ、このッ…!」

俺の言葉に、息を詰まらせたような顔を浮かべると、交わり様は歯切れ悪い言葉を続けた。

 

「おお、神もデレるのな。」

 

「…うるさいよ!」

 

「………。」

 

「……。」

俺達はほんの少し、沈黙を共有した。その沈黙に重苦しさはなかった。二人の間に距離は無かった。お互いの奥底を探るような嫌らしさもなかった。相手の機微が分かるまで、互いの壁が柔く解けるまで、ゆっくりと俺達は、その小さな時間を共にした。

 

 

 

「……ねぇ………。」

交わり様が口を開くと、白い糸が見えた。

 

「おん?」

 

「イコの言うポルノってさ、結局なんなの?」

 

「…ポルノ…。」

俺に張った根が無理やり掘り起こされるような気になった。

 

 心に踏み込むような粗野さはない、ただの疑問符なはずだ。

 

 でも、それでも口は堅くなる。目を背けたくなる。

 

「……言いたくねぇよ…。」

遊具の順を譲りたくない。そんなガキみたいな気分になる。

 

 この考えを外に漏らして、俺が脆くなるわけでも無い。何が変わるわけでも無い。漏らしちゃいけない秘匿性なんてものはない。

 

 ただ

「恥ずかしい…。」

それだけだった。

 

「あらら、照れてやんの。」

そう言うと、交わり様が俺の頬に手を当てた。

 

「あ!そうだ!私と旦那の初夜の話とかする!?それで秘密の等価交換ってことで…。あの頃は避妊具がなくてねぇ……。」

 

「やめろッ!人の秘密を聞いちゃったら、こっちにも秘密の説明義務が出来ちゃうだろッ!!押し付けんじゃねぇ!」

全く…恥がないのか。何年も生きてると…。

 

「……。」

 

「長くなるし…変かもしれんけど、良い?言いふらさない?」

まぁ良いさ。言ってやる。こんなアバズレの猥談聞くぐらいなら、ちょっと恥ずかしい思いをする方がまだ良いさ。

 

 それに、コイツにだったら、言ってもいいかもしれない。

 

「誰にも漏らさないよ。ゆっくり言いな。」

交わり様は、俺の頬から手を離して自然体の形に戻した。床に広げられた右手と、腹の側面に添えられた左手。そして、俺の言葉を待つ良く開かれた二重。

 

「ふぅ………。」

俺は大きく息を吐くと、言葉を紡いだ。

 

「………他人を…自分の人生の中で、都合よく消費することへの忌避…っていうのかな。」

 

「へぇ。」

 

「……昔さ…、小学生ぐらいかな…。ある有名人がさ、病気かなんかで亡くなった時さ…ネットも学校もなんもかんもすげぇ騒がしかったんだ。」

 

「俺もその人のコト…大ファンってわけじゃなかったけど…テレビでよく見てたからさ、亡くなった時はちょっとショックだったんだ。」

交わり様は言葉を差し込まず、同情もせず、次の言葉を待ってくれていた。

 

「…でも、テレビも訃報ばっかりで、ネットになんかは、その有名人が『天国から見守ってる。』だなんて、御涙ちょうだいな作品で溢れてさ。…クラスの先生も朝の時間にその有名人の話を引き合いに出して、命の尊さを…説いたりしてきてさ……。」

あの漫画は、人の目を引くための商業的な設計だったのかもしれない。テレビの編集だって倫理を扇動するためのただの編集だったのかもしれない。でも俺は、そこから叙情的なものを取り出して、受け取ってしまったんだ。

 

「………気持ち悪いってより………俺…すげぇ…怖かったんだ………。」

そうだ。怖かったんだ。人が、悪戯に簡単に消費されていく瞬間が。誰かの死が、誰かの正義に加工されていく、そんなグロテスクさが。

 

「………無理やり…感情を引き出される不快感みたいな…………。誰かの死をさ…自分の言葉に使ったり、思想に組み込んだり、作品みたいに使う流れが………。」

ポツリポツリと押し出す言葉を、合間に挟まる呼吸すらを、交わり様は、頷きを交えながら聞いてくれていた。

 

「………誰かを…自分の願望や理想だとか、物語の為に…正しくない形で、使いたくない、消費したくない…。」

息を混ぜ、整理を合間に挟み、頭に浮かんだ言葉を成形しながら、自分の考えをようやく言葉って言う形にした。体の外に出して、物理的なスタンスとして、俺の声に出来た。

 

「………でも…。」

でも、言い切った達成感なんてものは微塵もなかった。

 

 被害者意識を盾にして、()()を口にする俺の惨たらしさは、今、俺が一番分かっていた。

 

 だって、誰より、そんなポルノの中にいたのは、俺なんだから。

「…自分のトラウマと重ねて、先輩を視ようとしなかった俺も…ポルノを見てたんだ…。」

 

「俺も同類なんだよ…。俺も…。」

そうだ。俺は先輩を追いかけるようで、俺の中のトラウマを拭おうとしてたんだ。

 

 遠い背中を追いかけて、関係と形の変わった二人を重ねて、俺の【覆宗 伊誇】なんて物語の中で、先輩を消費しようとしたんだ。

 

「ダメだな…。人の嫌なところは赦せないのに…、自分だけ…俺、正義を語って……。」

あぁ、また目に涙が滲んだ。また泣きそうになる。顔を赤くして、俺は涙で自分を救おうとして…。

 

 そもそも、俺だって人の死から、こんな考えを組み立てたんだ。

 

 同罪だ。俺も、他の奴らと大して変わらないんだ。

 

「………いいよ…。俺ぁ…先輩の旦那になった方がきっと良いんだ…。帰る…。もう…イヤだ…。」

 

 

「…ダメ。…ダメだから。」

神の口から出たとは思えない、祈るようなか細い声がした。

 

「ぽひゅ……。」

空気が漏れる。急に両の側から頬が押しつぶされる。俺の頬を、交わり様が両の手で包んでいた。粉雪みたいな非力な冷たさを持った両の手だった。

 

「イコ、よく聞いて。」

抑揚に遊びと、余裕の隙間はなかった。情の温さ(ぬるさ)と、諭すような落ち着きが声の中に孕んでいた。

 

「…なんひゅか…?」

 

「さっきのアンタの考え方が正しいかどうかは後で良い。でもね。」

交わり様は大きく息を付いた。

 

「ひとまず月並みなことを言わせて。人はね、何かを消費しないと生きていけない獣なの。ご飯に、思い出に、そして自分より下の人間だとか、弱いものだとかね。」

 

「そんなん、バカでも知って…。」

 

「黙って聞きなさい。」

俺をぴしゃりと叱りつけると、交わり様は両の手の力を強めた。

 

「そしてね、何より、人は矛盾の化物だよ。他人の濁りは赦せないくせに、自分は清らかでいたいなんて、そんな人間はごまんといるの。」

そんなの分かってる。

 

 なんなんだ?『人は~。』『人間は~。』だなんて、交わり様は人間批判でもしたいのか?

 

『それでも優しさを捨てない人間は素晴らしい。』なんてお決まりのお為ごかしな、人間賛歌でもするつもりなのか?

 

 でも、俺は声には出さない。

 

 交わり様が俺の言葉を、目を見つめながら黙って聞いていてくれたから。

 

「白線を飛び越えた誰かを非難してる人間も、大抵グレーゾーンにいる。風刺画を描く絵描きも、誰かの風刺の範疇にいる。」

知ってるよ。分かってるよ。

 

「急な割込みに声を荒げたおっさんは次の日に、ペットボトルのゴミ箱に家庭ごみを捨ててたりする。」

誰だってそうだよ。人のミスは許せないくせに、自分のミスは笑ってごまかすやつは山ほどいるよ。

 

「隣人を守るために、遠い場所にいる人間を殺して…。自分の身内を守るためなら、その隣人まで殺して……。でも自分の家族には、何より深い愛を説いて……。穢いよ、人間ってそうだよ。」

そうだろうよ。人間なんてそんなもんだろうよ。

 

「……私はね、そういう人間の歪さの全部を肯定できるほど、できた神様じゃあないけどね。皆、殺しちゃおうなんて振りきれるほど、アンタらを見限ってないよ。」

 

「…矛盾ばっかの消費構造…。でもね」

 

「口に出した自分の考えの矛盾に気づいて、今、苦しんだイコは、自分を顧みれたイコはね、私はね、悪い子ではないと思う。」

 

 

「……あ…。」

喉から空気が漏れた。今まで交わり様が向けていた人類への言葉が、俺への言葉だって、今、ようやく分かったから。

 

 人間全体に向けられた習性や性への批判、批評が、最後に形を変えて、俺に向いたんだから。

 

「人は逃れられないの。意味から、物語から、消費構造から。」

 

「だったら、消費から逃れられないなら、『相手を都合よく、使っちゃったな。』なんて思ったら、その分、何かで返してあげたら良い。モノでも、愛でも、優しさでも。」

交わり様は、俺の頬を包む手の力を緩めた。

 

「10貰ったら、10返すようなぎこちない帳簿的なものでも最初は良い。9でも11でもいい。下手でも良い。その人、本人に返せなくても良い。足りないなんて思ったら、そこにリスペクトと親愛と、誠実さを加えてあげればいい。」

 

「………。」

それから、潤んだ目で、今にも涙を落としそうな顔を俺に向けながら、口を開いた。

 

「だからさ…いや…だからってわけじゃないけど。」

 

「…救いを跳ねのけないでよ。ポルノなんて言わないでよ。これ以上、自分を自分だけの視点で裁かないでよ。」

か細くしゃがれた声。声色を濁す涙。それらを他所に、交わり様はそれでもと言葉を続けた。

 

「嫌なら嫌ってハッキリ言うの。怖いなら、突っぱねるの。」

 

「……ただ襲われるなんて…イヤでしょ?」

 

「………自分の中の消費も、矛盾も、正義も赦してあげてよ。肯定してあげてよ。誰かを、自分の人生の何かにすることを、怖がらないで。」

 

「自分の人生の中に入れたい誰かを、貴方の人生の中に入りたい誰かを、否定しないであげてよ。」

 

 交わり様がそう言い切ると、俺の頬に涙が伝った。俺のじゃない。いや、正確に言えば、俺だけのモノじゃない。俺の目に溜まった涙が、落ちてきた涙と融けて混じった。

 

 二人の涙が床の木目に吸い込まれるように、静かに消えていった。

 

「………。」

 なんなんだよ。

 

 なんで、コイツは泣いてんだよ。どうして、俺なんかをなんでそんなに救いたいんだよ。

 

「………。」

 

「……。」

俺達はまた沈黙を共有した。重苦しくて、二人の距離は曖昧だった。でも、それでも俺達は、その時間を共にした。

 

 

「救われるのは、まだ怖い。」

俺の言葉に、交わり様が苦い顔を浮かべる。

 

「………。」

 

「でも。」

でも、だ。それでもだ。

 

「……アンタが泣いてんのは、釈然としない。」

交わり様の顔がピタリと固まった。

 

「それに、救いが嫌っていうなら、俺が解釈を変えればいい。」

妥協じゃない。自分を曲げるわけじゃない。

 

 誰かの救いを、思いを、受け取る余白を、俺が作ってやっただけだ。

 

「俺が、受け取るのは負債だ。枷だ。重いだけの木偶だ。望んでねぇのに勝手に来やがった人形だ。俺が嫌いなご都合主義…そうだろ?」

 

「………ずじゅ…分かった…。」

交わり様が苦い顔を解けさせると、鼻を吸い込んで、指先で涙を払った。

 

「……私は、私のルールでイコを救う。私のやりようでアンタを救う。恋愛に則って、法則に則って、イコにガラテアを与える。………ガラテアでいい?」

軽薄な調子に戻った交わり様が、俺に悪戯っぽい笑みを浮かべて、確認を入れる。

 

「分かった。」

俺は、こちらを眺める眼に対して、おもむろに手を伸ばした。

 

「本末転倒かもしれないけどね、それでも救ってやる。…獣人に負けないフィジカルを持った可愛い可愛い救いでね。」

交わり様は顔に浮かんだ笑みをそのままに、俺が伸ばした手を力強く手に取った。

 

「お節介だな。デウスエクスマキナかよ。」

「ふふ、そうかもね。私ってば、人の人生をかき乱す悪い神様だもの。」

じわりと手から体へと拡がる熱が、また俺の瞼を重くする。火照った体は、頬に出来た涙の跡の冷たさすら、暖かさで拭っていく。

 

「イコのガラテア…少し特殊にしておいたよ。」

 

「…えぇ…。いいよ、そんな気ィ使わんでも。」

 

「遠慮しないの。あと、もし呼ぶときは、薬指を強く噛んでね。」

 

「わぁってるよ。ガラテアの顕現方法なんてさ。」

 

「あとね、あの子たちは道具じゃないし、吐精のための人形じゃない。戦うためだけに産まれた兵器でもない。…優しくしてあげてね。」

切り離されそうになる俺の意識に、交わり様は穏やかな抑揚で、最後に導をそっと置いていった。

 

「最後に。…体に気を付けて。健康でね。人生楽しんで。」

交わり様は名残惜しそうに言葉を付け加えると、その手を俺の額の上に乗せた。

 

「……じゃあ俺も最後に。」

これから俺が言おうとする言葉が正しいのか、どう思われるのか、分からなかった。

 

「……ありがと。…また会いたい。…後でさ、なんか、奢ってやるよ。…返さなきゃだもんな…。」

でも、これだけは伝えたかった。

 

 この女は、戯曲の中でキャラクターを増やすぐらい容易に、俺の人生に新たな人物と配役を招き入れやがった。お節介で、節操がなくて、涙もろい若作りのクソババアだ。

 

 でも、この人を一時の、都合のいい神にしたくなかった。

 

 だから、双方向性っていうのを俺も提示してやった。お互いに施して、消費して、何かを共有する、そんな関係が、ずっと消えないように。

 

 縁が消えないように、そう伝えた。

 

「うん、じゃあね、イコ。」

 

「…そして、もう一度おやすみ。…さぁ…行ってらっしゃい。ピグマリオン。」

その囁くような声と共に、俺の額を流れる手は、俺の瞼を固く、重く閉ざした。

 

 

 

 

────────

 

 

 

 

 

「………あ、起きたぁ?」

粘ついた情欲を纏った声がした。

 

 起き抜けの俺を出迎えたのは三多先輩だった。淡い常夜灯を浴び、白塗りの天井を背にして、影の灯った顔で俺を待っていた。私服姿の先輩がいた。

 

 鼻を撫でるにおいに、体臭の類は無かった。獣の汗を消すためのボディソープと、繕った香水のにおいが、これから始めようとしている行為を知らしめるみたいに、辺りに漂った。

 

「………ねぇ…お風呂、入ってきたよ?…だから…。」

期待を孕んだ先輩の声が耳をくすぐる。先輩が、横になっている俺に覆いかぶさる。

 

「………。」

 

「イコ……?」

 

 ()()、だろ。

 

「…絶対イヤだ。」

思考が走る前に、俺の口から拒否が飛び出た。

 

「しない。そういうことは…。」

 

「……なんで?」

 

「イヤだから。」

手錠も依然外れてない。もちろん怖い。力も無いし、トリックなんてあるはずない。

 

 今の俺はベッドの上で横になってる非力なガキだ。

 

 でも、啖呵を切れる理由だけはあった。あのアバズレを信じてたから。

 

 さっきの出来事を、夢じゃないって。

 

 勇気を迸らせてくれる、その後ろ盾をまやかしじゃないって、信じたから。

 

 アイツがくれた救済を信じてるから。

 

「そっか。」

先輩は瞳孔の開いた目をこちらに向けると、スッと立ち上がった。

 

「じゃあ、無理やりにでも襲うしかないよね?私のモノになってくれないんだもんね?嫌なんだもんね?でも、大丈夫だよ。大丈夫。大丈夫。大丈夫。」

 

「気持ちよくなったら、子供が出来たら、責任が出来たら、大人になれるから。守ろうって思えたら、仕事なんて苦じゃないから。全部全部全部、全部、子供さえいたら、頑張れるから。パパとママになれるよ?大丈夫。大丈夫。全部。」

脈絡と根拠と抑揚の無い荒い言葉が、部屋を満たした。

 

 切ない息遣いと、香水で隠せない獣の臭いが顔を出す。

 

「先輩…。」

理由も、動機も、感情も、整理して、組み立てるのは後で良い。

 

 ただ今、俺はこの人を止めなきゃいけない。

 

 悪者にはしちゃいけない。そんな物語は絶対に赦さない。そう思った。

 

 だからやるんだ。

 

 唸り、背を曲げる先輩と、デジタル時計の19時12分の表示。

 

 床に落ちた毛と、両手を繋ぐ安い手錠。

 

 非日常なシチュエーションで、変わらない日常の象徴みたいにそこにある家具の配置。

 

「…信じてる。」

俺は呟きと共に、左手に目を移した。薬指を一周するのは、ギザギザと稲妻のような軌跡を描く歪な婚約指輪みたいな傷跡だった。

 

 俺は両の手を口の方に手繰り寄せると、薬指をピンと立てて、傷跡に前歯を当てた。

 

 恥が走る前に。

 

 創作物みたいだなんて嘲笑が沸き上がる前に。

 

 俺の冷笑が追い付かないうちに。

 

 俺が被害者になる前に。

 

 

「来いよッ…。ガラテアッ!…救えるもんなら、俺を救ってみろッ!!」

 

 

 俺の言葉と、超常の発生には空白も隙間も無かった。

 

 口に出した瞬間だった、周囲の空気が重いものに変わった。甘く、粘り気を帯びていった。

 

 

 追いついてくるこっぱずかしさと、ガラテアを窮地から脱するために使う自責。

 

 それでも俺は、もう戻れない。あとはやるだけだ。

 

「なんなの…?」

先輩の驚愕を他所に、部屋には更に非日常が塗り重なる。

 

 空気が湿り、琴の音まで流れ出す。軽快で節操無く、弦を移動する指が、下るような音階を弾き出すようだ。

 

「げほッ…ごほんッ…うぇっほんッ…。」

先輩でも、ましてや俺のモノでもない、痰を喉の奥に送るような年季の入った咳払いが部屋の中に反響した。

 

「…アッシこと、痴女が行かせてもらいやす。」

シーツの下からくぐもった女の声がした。獣の唸り声よか腹に響く。

 

「え?痴女?」

先輩が茫然とした様子で呟いた。

 

 ん?今なんて言った?

 

(しとね)のシワを重ねてりゃあ、次第に増えるは人の波。」

 

「寄せて引いては、軋む寝具。愛欲情欲比類なし。」

なるほど、俺のガラテアはこんな召喚口上まで付いてくるのか。チェンジで。

 

艶めか(なまめか)シティのネオンを後光に、プラトニックはひた隠し!!」

 

 ん?艶めか…?さっきからマジでなに?何言ってやがる?チェンジで。

 

 でも…まぁ…ヤツの声色に恥の一片も無い。キンキンとした高さと速度はあれど、勢いで誤魔化しているような嘘くささはない。…プライドとかないタイプなのか?

 

「さぁ、お立合い、お立ち台!」

その声と共に、シーツがぐるりと渦を巻く。見えない手が布を持ち上げるかのように、天井に向かって回転を絶やさずに昇っていく。

 

「夜空に轟く黄色い嬌声!さぁ!私の名前を呼んでご覧よッ!」

浮いたシーツが人のシルエットを作り出すと、影になった右手が俺の方向に指し伸ばされた。

 

「いや知らねぇよ……。」

自然と声が出た。

 

「………。」

あ、先輩が無言になってる。

 

「コールが無いなら私が叫ぼう!エロく大きく強かにッ!」

俺達の反応も予定調和だったのか、ヤツはセルフコールに即座に切り替えた。

 

 それから月明かりと、常夜灯に照らされたシーツの中のシルエットが、スタンダードな人間の形から離れていく。左右に見えた棘の先端が、薄い膜を伴いながら静かに伸びていくのを見て、翼が開かれていくのだと理解した。

 

「そうッ!我こそがッ!淫乱竜(いんらんりゅう)!スケベンズ・ドラゴン!その人だいッ!」

シーツが破られ、シルエットが実態になる。体が露になっていく。

 

 まず通常の純竜族から離れたフォルムが目を引く。

 

 その淫乱竜とやらには、爪が無ければ、牙も無い。150㎝程の華奢な体躯の人間族の女子の体に、局部を隠すような青い鱗が張り付いていた。言うなれば鱗ブラと鱗パンツだ。

 

 それにトカゲらしい顔つきじゃあない。人間の特性が色濃く出てる。顔立ちも肌の色も。ここまでは良いとしてだ。

 

 目が、アイマスクのように小さな翼で覆い隠されていた。顔の側面から生えた小さな翼が、目を覆うように反っている

 

「おとと、私のエロ顔魅せなきゃね。失礼失礼。失敬失敬。失禁失禁。少年誌の付録の如し秘密の花園を、そのマナコでじっと見つめてェ~ん?はぁ~い。キン肉マンのフェイスフラッシュ並の神々しさ~。」

痴女が申し訳無さそうに手を合わせると、顔に付いた翼は一人でに巻き取られていった。

 

「………マジでなんなの?」

先輩の困惑を他所に、俺のガラテアであろう亜人が赤い目をギラリと灯らせている。

 

 露になった縦の瞳孔は、俺を見据えて離さない。

 

 そして大きく開かれた瞳の上では、二重が綺麗に湾曲を描いている。

 

「旦那様ぁッ?貴方が旦那様ですよねぇ?それで、私にしますか?私にしますよねぇ?私にするしかないですよねぇ?おい~?襲うぞ~?中卒パパにするぞ~?もしもしぃ~~??」

なんだコイツ、先輩よりイカれてんじゃん。

 

「その、中卒パパにならないためにお前が来たんだろっ!?」

 

「ポンチンチッッッッ!!!!!」

 

「おま…この……だァ!もうっ!チェンジ!帰れ!痴女とか性とか…もう食傷気味なんだよォ!」

流石にクーリングオフとかできねぇかな…。俺の理想とは到底思えないけど…。

 

 それに、それにだろ。

 

「…それに…そういう…子供を授かる行為は…就職して!お金貯えて、iDeCoとかやって…知識付けて…お互いに相談して…好きを大事にしてっ…自分の行動に責任をもてるようになってからだからァッ!」

三多先輩と俺のパワーバランスが、コイツの介入で崩れたからか、さっき言えなかった台詞がスラスラ口から出てきた。もう恥とか、言葉のハードルとかはなかった。

 

 この無秩序痴女(むちつじょちじょ)状態の部屋に、どんな言葉を吐き散らかそうが、知ったこっちゃなかった。

 

「……へぇ…イコって…子供のコト…そ、そんな風に考えてたんだ……ふぅん…。」

目の端に移る先輩が頬を紅く染めて、顔を小さく逸らしてる。

 

 お…もしかして、いけるか?普通の先輩に戻るか?

 

「でも、それじゃダメなの。今なの。そのライフプランは10年早めて?イコ?」

あ、駄目だった。

 

 先輩はこちらを睨みつけながら、深い呼気を絶やさずに、重い足取りで向かってくる。

 

「あらぁ~?顕現して早々~旦那の誠実で丁寧な妊活観に私ってば惚れ惚れしちゃう~。やぁ~ん。煽情的ポルノ坊やへの劣情にぃ~、滋賀の飛び出し坊やが対抗してきたらどうしてくれるの?アンタ責任とれるの?隣の県の三重にも謝るべきなんじゃないの?」

ダメだ。頼みの綱だったはずのコイツも話になんねぇ、終わりか?

 

 あぁ、終わりだな。

 

 

「……でもまぁ…。」

痴女は青色の髪を躍らせながら、勢いよく俺に背を向けると、先輩に向かって呟いた。

 

「私のピグマリオンはぁ、そんじょそこらの有象無象にはぁ、あげられないなぁ。」

あぁ、コイツはやっぱり俺のガラテアなんだ。ちょっとした後悔と、諦念が湧いてくる。

 

 こいつに助けられた俺がこの後どうなるかなんて分からない。もっと窮地に堕ちるかもしれない。内面は俺の理想とは程遠い。外見はちょっと好きだけど。

 

 でも、俺の前で守るように立ってくれるガラテアを否定はできなかった。コイツの内心がなんであれだ。ほんの少し肯定してやっても良いように思える。

 

「……来なよ?可愛い…可愛い…べびちゃんハスキー?」

良い啖呵だ。嫌いじゃないね。

 

「……キモ…。」

先輩は背を曲げ体勢を低く取ると、片手を床に置いて、毛を逆立てた。

 

「一触即発、淫乱バトルだね。ここからは淫力の高い方が勝つよ。」

なんて、イカレタ妄言に俺はため息をつくと、目の前の痴女に情けない言葉を吐いた。

 

「………傷つけないように、なんとか頼むよ。」

俺の言葉にガラテアは言葉を返さず、右手で作ったサムズアップを背に乗せた。

 

「はは。」

俺はその背中に、手錠で不格好な両の手で作ったサムズアップを送ってやった。

 

 

 危機が迫る、力を貰う、ぽっと出の強い女に守られる。

 

 なんちゅーありふれた手垢まみれのクリシェだよ。クソテンプレートだよ。皮脂が集まって蛆でも湧いてんじゃねぇか?気色ワリィな、やってらんねぇよ。

 

「あ~…。」

それより俺がいっちゃんダサいなぁ、何にもできてねぇや。

 

 

 でも…やる。これから探してやるだけだ。俺に出来ることをやってやる。

 

 返せるもんは、返してやる。やってやる。

 





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