歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい 作:無異常世界
機械室に入った瞬間、外の熱気が一度だけ薄れた。
涼しいわけではない。
空調機そのものが熱を吐き、送風機の低い唸りが床を通して靴底へ伝わってくる。
ただ、七月の直射日光がない。それだけで相良拓真には十分だった。
「もう一回、回してもらえますか」
制御盤の前にいた大野真吾が手を上げた。
「はいよ」
送風機が立ち上がる。回転数が上がるにつれ、
一定だった音へ、わずかに金属の擦れるような響きが混じった。
拓真は点検口の前へしゃがみ、ライトを差し込んだ。
「ベルトじゃないな」
「じゃあ軸?」
「そこまで行ってない。たぶん固定」
停止を頼み、回転が落ち切るまで待つ。惰性で回る羽根へ手を近づけない。
カバーを外し、わずかに遊びの出ていた固定部を締め直す。
再起動。
さっきまで周期的に混じっていた音が消えた。拓真は点検票へ書き込んだ。
異常音あり。固定部増し締め。運転確認、異常なし。
たったそれだけだった。
原因があり、調べ、手を入れれば結果が変わる。
原因がすぐ分からないことはある。それでも、原因そのものが存在しないわけではない。
拓真が毎日触れている世界は、だいたいそういうふうにできていた。
昼休み、真吾がコンビニのパンを片手にスマートフォンを差し出した。
「これ、今朝から回ってるやつ」
画面には、夜の地下駐車場が映っていた。柱の陰から白い人影が現れ、撮影者が声を上げた直後、照明が明滅する。
次の瞬間には人影が消えている。
再生時間は二十七秒。
「幽霊?」
「らしい。お前こういうの好きだろ」
拓真は受け取り、二回見た。三回目は十二秒付近で止め、指で少し戻す。
「ここ、切れてる」
「どこ」
「人が出る直前。照明のノイズまで一緒に飛んでる」
「圧縮じゃなく?」
「それだけじゃない。防犯カメラっぽく見せてるけど、手前の柱に画角合わせてる。最初から撮る場所を決めてる」
真吾は自分のスマートフォンを覗き込み、眉を寄せた。
「夢がないなあ」
「本物なら本物でいいんだよ」
投稿元を辿ると、三年前から特殊効果の短い映像を上げているアカウントへ行き着いた。
元動画には、試作、と書かれていた。
「はい、解散」
「毎回ちゃんと潰すのな」
「潰れないやつが見たいから」
真吾は笑い、パンの袋を丸めた。
拓真は画面を返した。
本物なら、どれほどよかったかと思う。
怖いかどうかは、その後の話だ。
能力者でも、怪異でも、異常な場所でもいい。
表向きの社会とは別に、本当に何十年も続いてきた何かがあり、そこでは知らない人間が働き、失敗し、隠し、次の世代へ渡している。
作り話ではなく。
誰かが信じているだけでもなく。
こちらが知らなくても、勝手に存在し続けている世界の裏側。
拓真が欲しかったのは、そういうものだった。
帰宅すると、母の美和が台所から声をかけた。
「手、洗って。もうすぐご飯」
「分かった」
父の孝志は居間でニュースを見ていた。妹はまだ帰っていない。
食卓へ着くと、山中で撮影された発光現象が取り上げられていた。
遠方の人工光が低い雲へ反射した可能性。湿度。露出。撮影機器の特性。
孝志がテレビを見たまま言った。
「好きそうだな」
「もう説明ついてる」
「つかなかったら?」
「現地まで行くかも」
美和が味噌汁を置きながら笑った。
「昔からそういうの好きね」
「一個くらいあってもよくない?」
「何が」
「本物の能力者とか。変な場所とか。一般人の知らない組織とか」
孝志がようやくテレビから目を離した。
「実際にあったら、面倒しか増えないだろ」
「それはそう」
「点検先で幽霊が出たらどうする」
「作業中止。触らず上に連絡」
「そこは現実的なんだな」
「仕事だから」
美和が呆れたように笑う。
誰も本気にしていない。
拓真も、今の世界にそんなものが本当にあるとは思っていなかった。
怪奇映像を見れば編集を疑う。陰謀論を聞けば証拠を探す。
調べた末に通常の原因へ戻るなら、それを認める。
そのたびに少しだけ残念だった。
世界は、見える範囲だけで完結している。
仕事へ行き、家へ帰り、眠り、また次の日になる。
その生活を嫌っているわけではない。家族も仕事も手放したいとは思わない。
ただ、それだけしかないことが、昔からどうしようもなく物足りなかった。
その夜、零時を少し回った頃だった。
充電器へ差そうとしたスマートフォンを持ったまま、拓真は動きを止めた。
過去へ行ける。
誰かに教えられたわけではない。声が聞こえたわけでも、頭の中へ文章が浮かんだわけでもない。
右手を上げようと思えば、上げ方を考えなくても分かる。
それと同じように、過去の時刻を指定し、自分をそこへ移せると分かった。
「……は?」
声に出しても感覚は消えない。拓真はベッドへ腰を下ろした。
疲労。寝不足。思い込み。まずはそこから疑った。
一分後を意識する。何も掴めない。
明日の朝。反応はない。
未来という方向だけ、手を伸ばす先が存在しない。
では、一分前は。
意識を向けた瞬間、確かに届く感覚があった。
拓真は実行しかけて止めた。
一分前の自分は、この部屋にいる。
本当に身体ごと移るなら、そいつはどうなる。
消えるのか。
上書きされるのか。
同じ場所へ重なって死ぬのか。
それとも、二人になるのか。
確かめるにしても、自室でやることではない。
拓真はスマートフォンのメモを開いた。時点移動らしき感覚。
未試験。
未来方向は反応なし。
自己が存在する過去への移動は、屋外で安全条件を作って確認。
入力を終えたところで、別の感覚に気づいた。
時点を掴むのとは違う。
世界の側へ、何かを置ける。
炎を出す人間を一人作る、といった感覚ではなかった。
幽霊を出す。怪物を置く。秘密組織を一夜で生やす。
そういう完成した結果ではない。
もっと根元に近い。
生命や意識に、今までは成立しなかった性質が残れる余地。
物や場所が、通常ではない状態を保てる余地。
人と人の関係や、名前や記録や役割へ、普通の因果だけではないものが結びつける余地。
具体的に何が生まれるかは分からない。誰に起きるかも選べない。
それでも、今の世界には存在しないものが、起きた後にただの勘違いや偶然へ戻らず、本物として残れるようにできる。
拓真はしばらく画面を見つめた後、メモへ大きく付け足した。
未試験。
人を直接選ばない。完成品を作る感覚ではない。
眠気は完全に消えていた。金を稼ぐ。事故を避ける。投資をする。知っている事件を変える。
時間を動かせるなら、できることはいくらでもある。
それでも最初に浮かんだのは、昼間まで考えていたことだった。
能力者がいる世界。人間では説明できない場所がある世界。誰にも知られず、本当に何十年も異常を扱ってきた人間がいる世界。
自分が見ていない間にも、そこにいる者が勝手に働き、揉め、失敗し、積み重ねていく世界。
「……できるのか」
まだ一度も試していないのに、期待を込めた声が出た。
同時に、危険も浮かんだ。犯罪に使う者は出る。事故も起こる。誰かが死ぬかもしれない。
歴史へ手を入れれば、家族の人生も変わり得る。
何もしなければ、昨日までと同じ世界が続く。
安全で、説明がつき、少なくとも自分が新しい危険を持ち込むことはない。
「じゃあ、やめるか」
拓真は小さく口にした。
答えは、考える前から出ていた。
「無理だな」
人類のためではない。正義でもない。
自分だけ特別になりたいからでもない。
本当に世界を変えられる可能性があると知っていて、それを抱えたまま何もせず一生を終える方が、拓真には無理だった。
なら、雑にはやらない。自分の家系へ近づかない。
大きな政治事件へ触れない。戦争の勝敗を変えない。完成した人間を作らない。
最初は薄く、狭く。
起きたものを、自分の見たい形へ無理に増幅しない。危険なら止まる。
メモへ並べると、歴史を変える計画というより、設備点検の作業手順に見えた。
「何やってんだ、俺」
笑いは出たが、消去はしなかった。
最初の年代は、一九四八年に決めた。
古代まで行く必要はない。
戦後の日本なら社会も記録も医療も人の移動もある。長い年月があれば、自分が完成品を置かなくても、その後を生きる人間が何かを育てられる。
ただし、その前に、時点移動そのものを確認しなければならない。
一九四八年行きは、短時間試験が成功した場合だけ。
そこから一週間、拓真は普段どおり仕事へ行った。
ブレーカー。ポンプ。排水。警報履歴。
昨日までと同じ理屈で機械が動いていることに、妙な安心を覚えた。
夜は一九四八年の生活を調べた。
服装。現金。衛生用品。救急用品。地図。最低限の工具。
飛べなければ、無駄な買い物をしただけで済む。
飛べた時に何も用意していない方がまずい。
当時の物価を知っていても、身元の分からない若者が長く暮らせるとは限らない。配給も住宅事情も地域で違う。古い言い回しを真似しすぎれば、かえって芝居がかる。
完全に溶け込むことは諦めた。
少し変わった地方出身者くらいで済ませる。
分からないことは聞く。
未来の資料を読んだだけで、その時代を知ったつもりにならない。
現場へ行く前の資料は必要だが、資料だけで現場を知ったことにはならない。
仕事で覚えたことと同じだった。
短時間試験の日、拓真は人の少ない河川敷を選んだ。
夜。
天気は安定。増水の気配なし。周囲に人影がないことを何度も確認する。
地面へ二本の目印を置いた。
上流側をA。
十五メートル離れた下流側をB。
Aには、一九四八年用の荷物をまとめたバッグを置いた。財布や予備品もそちらへ残す。
持つのはスマートフォン一台だけ。
Aに立ち、ストップウォッチを起動する。
そこから三十秒かけてBまで歩く。
三十秒前のBには、自分はいない。
少なくとも、移動した身体が現地の自分と同じ位置へ重なる危険は下げられる。
表示が三十秒を越えた。
拓真はBで周囲を見た。
Aのバッグ。川面。堤防の街灯。遠くを走る車。
全部、今までどおりだった。
「三十秒前」
時点を掴む。
胃が強く持ち上がった。
耳の奥が詰まり、足元だけが一瞬なくなる。
光も音もなかった。
次の瞬間も、川は同じ方向へ流れていた。
ただし、Aに人がいた。
自分だった。
十五メートル先で、スマートフォンを見下ろしている。
向こうが顔を上げた。
目が合った。
拓真は声を出せなかった。
向こうも同じだった。
数秒後、Aの自分が先に口を開いた。
「……俺?」
自分の声で問われる。
それだけで、見間違いではないことが分かった。
「たぶん」
「成功した?」
「した。思ってたより面倒な方で」
Aの自分が慎重に近づいてくる。
「何秒」
「三十」
互いのスマートフォンを並べた。
同じ機種。
同じ色。
ケースの同じ場所に、同じ細い傷がある。
だが表示は違った。
拓真が持ち込んだ端末には、三十秒後まで進んだストップウォッチの履歴が残っている。
Aにいた自分の端末は、まだその時刻へ達していない。
未来側で進んだ端末は、その状態のまま来た。
一方で、三十秒前から存在していた同じ端末も消えていない。
人間だけではない。
「二台ある」
Aの自分が言った。
「あるな」
「俺も二人いる」
「そっちの方が困る」
二人で距離を取り、元の送出時刻を待った。
十秒。
二十秒。
三十秒。
何も起きない。
Aにいた自分は消えなかった。
突然どこかへ引かれることもない。
同じ位置から過去へ飛ぶこともなかった。
拓真が未来側で行った移動は、こちらの自分へ強制されない。
それでも、越境してきた拓真の到着が取り消されることもない。
二人は、そのまま河川敷に立っていた。
拓真は、そこでようやく言葉にできた。
「巻き戻したんじゃない」
Aの自分が頷く。
「過去に一人増えた」
「こっちの俺が、同じ移動をやり直す必要もないらしい」
それ以上は分からない。
なぜそうなるのか。
元いた未来がどうなったのか。
どこまで同じことが続くのか。
今の観測だけで決められる話ではない。
「もう一回、試す?」
Aの自分が聞いた。
拓真は即答した。
「やらない」
「だよな」
「次が三人で済む保証もない」
二人とも、同じ結論へ同じ速さで着いた。
追加試験は打ち切る。
分からないから回数を増やすのではなく、危険が分かったから止める。
視線が、Aに置いたバッグへ向いた。
一九四八年用の荷物だった。
問題は、どちらが行くか。
しばらく沈黙した後、Aの自分がバッグを持ち上げた。
「お前が行け」
「いいのか」
「もう向こうから来たのはそっちだろ。俺まで飛んで人数を増やす方が嫌だ」
拓真も同じことを考えていた。
この時点までの生活にそのまま続いているのは、向こうだ。
家族も、仕事も、明日の予定も、今持っている身分も、Aにいた自分へつながっている。
三十秒後から来た自分は、すでに一人分余分だった。
気分のいい理解ではない。
それでも、役割を決めるには十分だった。
「じゃあ、行く」
「何十年もいなくなるんだよな」
「俺の側では、そこまで長くないと思う」
「こっちは?」
拓真は答えかけて止まった。
一九四八年へ行けば、目の前の自分がその後どうなるかも分からない。
このまま家へ帰るのか。
世界がどう変わるのか。
そもそも同じ未来へ続くのか。
「分からない」
「正直でよろしい」
自分の声で言われ、拓真は少しだけ笑った。
バッグを受け取る。
肩へ食い込む重さが現実だった。
未来の機械を山ほど運ぶつもりはない。持てる量だけ。
壊れた時に扱えない物へ頼りすぎない。現地で暮らすための最低限。
河川敷の向こうには、二〇二六年の街の明かりがある。
家族がいる。
職場がある。
能力者はいない。
怪異もいない。
本物の秘密組織もない。
少なくとも、今までは。
拓真はバッグの持ち手を握り直した。
怖さはある。
たった三十秒で、自分が二人になったばかりだ。
それでも、その先に自分の知らない歴史が本当に生まれるかもしれない。
自分がいなくても続く何かを、世界へ置けるかもしれない。
その願いの方が、怖さよりわずかに強かった。
「一九四八年」
時点を掴む。
足元の感覚が消えた。
聞き慣れた街の音が、一度に遠ざかった。
プロットはとりあえず完成しています