歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい   作:無異常世界

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第五話

足の裏へ、地面の硬さが戻った。

 

拓真はその場で膝をついた。

 

吐くほどではない。

けれど、胃と頭だけがまだ移動の途中に置き去りにされたような気持ち悪さが残っている。

 

目を閉じる。

一度、息を吸う。

土の匂いがした。

 

川の音は、もう聞こえなかった。

 

拓真はゆっくり顔を上げた。

 

暗い。

 

けれど、二〇二六年の夜とは違う。

街灯が並んでいない。

遠くまで均一に明るくもない。

家らしい影がいくつか見えるが、その向こうは黒いままだった。

 

拓真は立ち上がらず、まず自分の身体を確かめた。

 

手。

足。

腰。

頭。

 

痛みはない。

服もある。

 

背中のリュックを下ろす。

留め具を開けた。

 

紙の地図。

着替え。

衛生用品。

救急用品。

小さな工具。

現金。

スマートフォン。

 

持ってきたものは、少なくとも見える範囲では全部ある。

 

「……着いた?」

 

声に出してみる。

 

返事はない。

 

当たり前だった。

 

拓真は、さっきまで向かいに立っていたもう一人の自分を思い出した。

 

二〇二六年。

河川敷。

川。

街灯。

 

それが、もうどこにもない。

 

代わりにあるのは、知らない土の道と、暗い家並みだった。

 

一九四八年。

 

自分で選んだ。

届く感覚もあった。

 

けれど、能力が自分へ年号を表示してくれるわけではない。

本当に狙った時点へ来たかは、現地のものを見て確かめるしかなかった。

 

拓真はしばらく動かなかった。

 

怖い。

 

それは普通にあった。

 

同時に。

 

笑いそうになるくらい、嬉しかった。

 

本当に来た。

 

教科書でも、映像でも、再現でもない。

自分が生まれるよりずっと前の時間へ、自分の身体で立っている。

 

その実感に浸れたのは、たぶん一分もなかった。

 

腹が鳴った。

 

拓真は無言で自分の腹を見た。

 

第四話で、もう一人の自分に言った言葉を思い出す。

 

超能力者でも腹減るだろ。

 

「……減るな」

 

歴史を変えに来た人間でも、腹は減る。

 

そして今夜寝る場所もない。

 

拓真は立ち上がった。

 

* * *

 

明るくなるまで、拓真は大きく動かなかった。

 

地図は持っている。

けれど、それは二〇二六年から見た地図だった。

 

道の位置が似ている場所はある。

川や地形の大きな形も、目印にはなる。

 

ただ、紙の上にある道が今も同じ幅で通れるとは限らない。

建物は違う。

店も違う。

駅へ向かう道さえ、現地で確かめなければ分からない。

 

明るくなって最初に見つけた人へ、拓真は道を聞いた。

 

畑の脇を歩いていた年配の男だった。

 

「すみません」

 

男が足を止める。

 

拓真は一瞬だけ迷った。

 

言葉遣い。

 

二〇二六年のままでいいのか。

昔の言葉を真似した方がいいのか。

 

考えて、やめた。

 

下手に真似した方が不自然だ。

遠くから来た人間なら、話し方が違ってもおかしくない。

 

「駅は、どちらですか」

 

男は拓真を上から下まで見た。

 

「駅?」

 

「はい」

 

「あっちだよ。道なりに行って、大きい道へ出たら右」

 

「ありがとうございます」

 

「どこから来た」

 

来た。

 

一番困る質問が、最初から来た。

 

拓真は嘘を作りかけて止めた。

 

具体的に言えば、次の質問が来る。

知らない土地の名前を使えば、話が続かない。

 

「遠くからです」

 

男の眉が少し動いた。

 

「仕事か」

 

「探すつもりです」

 

「そうか」

 

それ以上は聞かれなかった。

 

男はまた歩き出した。

 

拓真は、その背中が離れてから息を吐いた。

 

会話一つでこれだった。

 

住所も。

出身も。

仕事も。

知人も。

 

自分には、ここで説明できる過去がない。

 

能力ならある。

 

けれど、道を聞く役には立たなかった。

 

拓真は教えられた方角へ歩き始めた。

 

* * *

 

駅前まで来ると、人が増えた。

 

拓真はすぐに安心しなかった。

 

人が増えれば、こちらを見る目も増える。

 

準備した服は、形だけなら大きく外していないはずだった。

写真や資料を見た。

古い服も探した。

現代のロゴや目立つ金具は避けた。

 

それでも、実際に歩いている人間の中へ入ると違いが見える。

 

生地のくたびれ方。

袖の直し方。

靴の汚れ。

荷物の持ち方。

 

拓真の服は、妙に整いすぎていた。

 

新品だから変、という単純な話でもない。

 

自分だけが、写真の中から服装の形だけを抜き出して着てきたように見える。

 

「資料と現地は違う、か」

 

小さく呟く。

 

当然だった。

 

二〇二六年で昔の写真を何百枚見ても、その町で今日着る服を選んでいる人間の感覚までは手に入らない。

 

駅の近くに新聞が見えた。

 

拓真は立ち止まる。

 

大きく書かれた年号を確認する。

 

昭和二十三年。

 

指先が少し冷たくなった。

 

一九四八年。

 

合っている。

 

今度こそ、声には出さなかった。

 

新聞の文字をもう一度見る。

 

本当に来た。

 

確認できた瞬間、喜びより先に別のものが来た。

 

今日の宿を取らないといけない。

 

手元の現金が本当に使えるかも、まだ一度も試していない。

 

拓真は駅前を見回した。

 

歴史は合っていた。

 

生活は、まだ何一つ合っていなかった。

 

* * *

 

最初に入った店では、買わなかった。

 

欲しいものがなかったからではない。

 

金を出すのが怖かった。

 

財布の中には、来る前に使える可能性を確認した現金がある。

 

資料上は通用するはずだ。

 

けれど。

 

店の人間が受け取るまで、拓真にとってはただの知識だった。

 

棚の前で迷っていると、店の女が言った。

 

「何を探してるの」

 

「あ、すみません」

 

拓真は一番無難そうなものを選んだ。

 

金を出す。

 

女は特に怪しまず受け取った。

 

釣りが返ってくる。

 

それだけだった。

 

拓真は店を出てから、手の中の硬貨をしばらく見た。

 

「通った」

 

一つ減った。

 

不安が消えたわけではない。

 

使える。

 

だからこそ、残りが有限だと分かる。

 

二〇二六年なら、足りなくなれば口座から下ろす。

カードを使う。

給料日を待つ。

家に帰る。

 

ここには、そのどれもない。

 

財布の中身が、そのまま自分の持っている信用のほとんどだった。

 

拓真は金額を数え直すのを途中でやめた。

 

数えたところで増えない。

 

先に寝床だ。

 

店で宿を聞いた。

 

「泊まるところですか」

 

「この辺で」

 

女は少し考え、道順を教えた。

 

また、人に聞いた。

 

それでいい。

 

拓真はそう思うことにした。

 

未来から来たのに、何も知らない。

 

その事実を隠すために、知っているふりをする方が危ない。

 

* * *

 

教えられた宿は、小さかった。

 

中へ入ると、帳場にいた男が拓真を見た。

 

「泊まり?」

 

「はい」

 

「何日」

 

ここでも詰まった。

 

何日いる。

 

本当なら、一九四八年へ来た目的は一晩で終わらない。

 

けれど、何か月も、と答えればその理由がいる。

 

「まず、一晩で」

 

男は頷いた。

 

名前を聞かれる。

 

「相良拓真です」

 

本名を言った。

 

別名を決めていない。

必要もないのに、その場しのぎで一つ作る気もなかった。

 

どこから来たのか。

何をしているのか。

 

また聞かれる。

 

「仕事を探しています」

 

「ここで?」

 

「できれば」

 

男は拓真を見た。

 

「知り合いは」

 

「いません」

 

「家は」

 

「まだ、ありません」

 

男の顔が、はっきり渋くなった。

 

拓真も、それが当然だと思った。

 

自分が二〇二六年で宿を貸す側でも、同じ反応をする。

 

名前はある。

金もある。

 

それだけだ。

 

この町で、誰も自分を知らない。

昨日どこで寝たかを確かめてくれる人間もいない。

明日どこへ行くかを知っている人間もいない。

 

「先に払えます」

 

拓真が言うと、男は少し考えた。

 

「一晩だけなら」

 

「お願いします」

 

部屋が決まった。

 

狭い。

 

けれど、扉が閉まる。

荷物を置ける。

横になれる。

 

拓真はリュックを壁際へ置いた。

 

その瞬間、妙な安心感があった。

 

一九四八年で初めて、自分の荷物を地面以外へ置いた。

 

それだけで、身体の力が少し抜けた。

 

スマートフォンは出さなかった。

 

電波があるはずもない。

時計と記録には使える。

写真も撮れる。

 

けれど、人前で見せる理由は一つもない。

 

電源を切る。

リュックの一番奥へ戻した。

 

代わりに紙の手帳を出した。

 

最初に書いたのは、歴史改変の計画ではなかった。

 

宿の場所。

駅までの道。

財布の残り。

 

書いてから、拓真は少し笑った。

 

「こうなるか」

 

世界の裏側を生やすための最初の記録が、帰り道だった。

 

* * *

 

食事は、金があれば好きな時に買えるわけではなかった。

 

その日の夕方、拓真はそれをすぐ思い知った。

 

宿の男に聞いた場所へ行く。

 

一軒目は、もう出せるものがないと言われた。

 

「終わり?」

 

「終わり」

 

時間は、二〇二六年の感覚ではまだ早い。

 

けれど、拓真の感覚で店の都合が変わるわけではない。

 

二軒目でようやく食べられた。

 

豪華でも何でもない。

 

温かい汁と、腹に入るものが少し。

 

それでも、一口目で力が抜けた。

 

うまい、と思った。

 

味そのものより、今日の食事が決まったことへの安心の方が大きかった。

 

隣の客が店の人へ何かを頼む。

店の人が笑って断る。

別の客が入ってきて、もう遅いと言われる。

 

拓真は黙って聞いていた。

 

資料には、制度や物価は書いてあった。

 

けれど。

 

この店で、今日、この時間に、何が残っているかは書いていない。

 

当たり前だ。

 

その当たり前が、妙に重かった。

 

食べ終えて宿へ戻る途中、拓真は道を一本間違えた。

 

紙の地図を見ても、暗くなると目印が減る。

 

電柱へ貼られた表示。

店の看板。

昼間見た角。

 

一つずつ戻る。

 

スマートフォンを開いて現在地を出すことはできない。

 

やっと宿の灯りが見えた時、拓真は本気でほっとした。

 

部屋へ戻る。

 

靴を脱ぐ。

 

汚れていた。

 

準備した時には気にならなかった服の新しさも、半日歩けば少しだけ馴染んだ。

 

「一日目」

 

誰に言うでもなく呟く。

 

まだ、何も変えていない。

 

能力者もいない。

怪異もない。

秘密組織もない。

 

あるのは、知らない町で食事をして、道に迷って、宿へ戻ってきた自分だけだった。

 

その夜は、考える前に眠った。

 

* * *

 

翌朝。

 

拓真は、宿を出る前に男へ聞いた。

 

「仕事を探すなら、どの辺へ行けばいいですか」

 

男は拓真を見た。

 

「何ができる」

 

「機械とか、道具の修理なら多少」

 

「多少って」

 

「見ないと分かりません」

 

男が少し笑った。

 

「大きいこと言わないんだな」

 

「言って直せなかったら困るので」

 

「駅の方へ行け。荷の出入りがある。人手が足りなきゃ使ってもらえるかもしれん」

 

「ありがとうございます」

 

「修理は知らん」

 

「十分です」

 

外へ出る。

 

昨日より、駅までの道が短く感じた。

 

知っているからだ。

 

たった一度歩いただけで、町が少し変わる。

 

本当は町が変わったわけではない。

 

自分の中に道ができただけだった。

 

駅の近くで、人を使っていそうな場所を探す。

 

最初の二か所では断られた。

 

一つは、人が足りている。

もう一つは、どこの誰か分からない人間を入れたくないという顔をされた。

 

三か所目で、朝から荷が増えていた。

 

「働きたいんですが」

 

拓真が言うと、年嵩の男が手を止めた。

 

「何できる」

 

昨日と同じ質問だった。

 

「荷運びなら。あと、壊れた道具は見れば分かるものもあります」

 

「名前」

 

「相良拓真です」

 

「前は」

 

ここで言える職歴がない。

 

二〇二六年の設備保守会社です、とは言えない。

 

「機械を見る仕事をしてました」

 

嘘ではない。

 

「どこで」

 

「遠くです」

 

男がじっと見る。

 

拓真も視線を逸らさなかった。

 

「今日は運べりゃいい」

 

「はい」

 

「使えなかったら昼で終わり」

 

「分かりました」

 

採用、と呼べるほどのものではなかった。

 

それでも、仕事になった。

 

* * *

 

荷物は重かった。

 

最初の一時間で、拓真は自分の考えが甘かったと分かった。

 

設備の点検で身体を使うことはある。

工具も運ぶ。

狭い場所へ入る。

 

けれど、同じ荷を何度も運ぶ仕事とは違う。

 

持ち方を間違えると腕だけが先に疲れる。

 

隣で運んでいた男が言った。

 

「そこ持つな。下」

 

「下?」

 

「そう。腹へ寄せろ」

 

言われた通りにする。

 

さっきより楽だった。

 

「ありがとうございます」

 

「兄ちゃん、こういうの初めてか」

 

「これは」

 

「見りゃ分かる」

 

笑われた。

 

拓真も笑うしかなかった。

 

未来人の知識は、木箱の持ち方を教えてくれなかった。

 

午前が終わる頃には、手のひらが痛かった。

 

昼に座ると、立ちたくなくなる。

 

それでも。

 

嫌ではなかった。

 

ここで初めて、自分の労働と引き換えに金を受け取れるかもしれない。

 

二〇二六年から持ってきた財布の中身ではない。

 

この時代で、自分が朝から動いた分だ。

 

その違いは思っていたより大きかった。

 

午後。

 

倉庫の引き戸が途中で止まった。

 

何人かが力をかける。

 

動かない。

 

「またか」

 

誰かが言った。

 

拓真は荷を置いて見た。

 

戸そのものが歪んでいるようには見えない。

 

下を見る。

 

「すみません」

 

「何だ」

 

「見てもいいですか」

 

朝の男が振り返った。

 

「直せるのか」

 

「分かりません。見れば」

 

「またそれか」

 

「直せるって言って直らない方が困るでしょう」

 

男が鼻で笑った。

 

「見ろ」

 

拓真はしゃがんだ。

 

工具を勝手に出さない。

まず触れるところを見る。

 

戸を少し戻してもらう。

 

音が違う。

 

同じ位置で引っかかる。

 

下の金具へ細かいゴミが噛んでいる。

それだけではない。

固定が緩み、片側がわずかに下がっていた。

 

「持ち上げてもらえますか」

 

「どれくらい」

 

「少しでいいです」

 

二人に手を借りる。

 

拓真は位置を戻し、締められるところを締めた。

 

完全ではない。

金具自体がかなり傷んでいる。

 

「これで一回動かしてください」

 

戸が動く。

 

途中で音はしたが、止まらなかった。

 

「直った?」

 

「今日は動きます」

 

「今日は?」

 

「金具が減ってます。替えないと、また来ると思います」

 

朝の男が下を覗き込んだ。

 

「分かるのか」

 

「こういうのは」

 

二〇二六年の機械室を思い出した。

 

固定部の遊び。

異常音。

増し締め。

 

時代が違っても。

 

緩むものは緩む。

擦れるものは擦れる。

壊れたものは、理由があって動かなくなる。

 

その部分だけは、拓真が知っている世界と同じだった。

 

「明日も来い」

 

男が言った。

 

「人手ですか」

 

「それもある。向こうの台車も見てくれ」

 

「直るかは見ないと」

 

「分かったよ」

 

今度は、周りも笑った。

 

拓真も少し笑った。

 

初めて、この町で明日の予定ができた。

 

* * *

 

仕事が一日できても、生活ができたわけではなかった。

 

宿へ戻ると、帳場の男に呼ばれた。

 

「仕事、見つかったのか」

 

「今日だけですけど、明日も来いとは言われました」

 

「そうか」

 

少しだけ顔が柔らかくなる。

 

けれど、続いた言葉は別だった。

 

「ここ、ずっとは無理だからな」

 

「はい」

 

拓真は予想していた。

 

一晩だけ、と言われて入った。

金を払えば何日でも住める場所ではない。

 

「あと何日くらいなら」

 

男は答えた。

 

長くはなかった。

 

部屋へ戻り、拓真は手帳を開いた。

 

仕事。

明日もある。

 

寝床。

期限ができた。

 

一つ埋まると、一つ増える。

 

「ゲームだったら、依頼一覧みたいで楽なんだけどな」

 

言ってから、少し笑う。

 

実際には一覧になっていない。

 

誰に聞けば部屋があるのかも分からない。

どこで働けば信用ができるのかも分からない。

食事は何時までに行けばいいのか。

服はどこまで直せば目立たないのか。

身体を洗う場所はどこか。

洗った服をどこへ干すのか。

 

一つずつ、人へ聞くしかない。

 

その日の夜、拓真は宿の男へ風呂のことを聞いた。

 

翌朝は、仕事場で飯を食べられる場所を聞いた。

 

昼には、服の袖口を見た同僚に「それ、妙に新しいな」と言われた。

 

「やっぱり分かります?」

 

「分かるよ」

 

「古い方がいいですか」

 

「古けりゃいいってもんでもない」

 

「ですよね」

 

「何だお前」

 

笑われた。

 

その男に、古着を扱っているところを教えてもらった。

 

行ってみる。

 

買えるものは多くなかった。

 

それでも、今着ているものへ足せる一着を選ぶ。

 

自分だけで資料を見て準備した時より、町の中で浮かなくなった気がした。

 

たぶん気がしただけだ。

 

それでも十分だった。

 

二日目。

 

拓真は昨日より早く食事へ行った。

 

昨日断られた店で、今日は食べられた。

 

三日目。

 

駅への近道を教わった。

 

歩いてみると、二〇二六年の地図では分からない細い道だった。

 

同じ日。

 

仕事場で、いつまで宿にいるのかと聞かれた。

 

「あと少しです」

 

「次あるのか」

 

「探してます」

 

「ないのかよ」

 

「ないです」

 

「よく来たな、お前」

 

それは本当にそうだった。

 

拓真にも反論できなかった。

 

* * *

 

数日目の夕方。

 

仕事が終わっても、拓真はすぐ帰らなかった。

 

年嵩の作業員が道具を片づけているのを待つ。

 

今は、ただ同じ場所で何日か働いただけの相手だった。

 

「すみません」

 

「何だ」

 

「この辺で、部屋を借りられそうなところ、知りませんか」

 

「宿は」

 

「もう長くはいられなくて」

 

「金は」

 

「払えます。でも、知り合いがいません」

 

男は手を止めた。

 

「そりゃそうだろ。お前、来たばっかりじゃないか」

 

「はい」

 

「どこから来たんだ、本当に」

 

拓真は苦笑した。

 

「遠くからです」

 

「それしか言わんな」

 

「すみません」

 

男はしばらく拓真を見た。

 

断られると思った。

 

その方が普通だ。

 

けれど。

 

「一つ、聞いてやる」

 

「え」

 

「空いてる部屋があるかだけだ。貸すかどうかは向こうが決める」

 

「お願いします」

 

「礼言うのは決まってからにしろ」

 

「はい」

 

男は歩き出した。

 

拓真もついていく。

 

向かった先は、駅から少し離れた場所だった。

 

大きな家ではない。

新しくもない。

 

男が声をかける。

 

中から出てきた人と話す。

 

拓真は途中から呼ばれた。

 

名前。

仕事。

どれくらいいるつもりか。

 

また同じことを聞かれる。

 

今度は、少し答えられることが増えていた。

 

「相良拓真です」

 

「仕事は」

 

「あそこの荷の出入りのところで。今は日ごとですけど、明日も行きます」

 

作業員が横から言った。

 

「何日か来てる。逃げずに来た」

 

それだけだった。

 

それだけで、昨日までとは違った。

 

自分で自分を説明する以外に、自分を知っている人間が一人いる。

 

部屋を見せてもらった。

 

狭かった。

 

壁もきれいではない。

共同で使う水場がある。

時間によって気をつけることもいくつか言われた。

 

拓真は全部聞いた。

 

「ここでお願いします」

 

「まだ決めてない」

 

「あ、すみません」

 

作業員が横で笑った。

 

少し話が続いた。

 

金を払うこと。

勝手に人を入れないこと。

迷惑をかければ出てもらうこと。

 

当然の話だった。

 

最後に。

 

「まあ、しばらくなら」

 

そう言われた。

 

拓真は頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

今度は言ってよかった。

 

* * *

 

その夜。

 

拓真は、最初の夜とは違う部屋にいた。

 

リュックを壁際へ置く。

 

最初の宿より狭い。

 

けれど。

 

明日もここへ戻っていい。

 

その違いは大きかった。

 

手を洗う場所が分かる。

食事を取りやすい時間が分かる。

駅への道が分かる。

仕事場まで歩ける。

 

仕事場には、自分の顔を覚えている人がいる。

 

困れば何でも助けてくれる、という意味ではない。

 

むしろ逆だった。

 

荷を運べなければ仕事は終わる。

約束した時間に来なければ信用を失う。

部屋で迷惑をかければ追い出される。

 

だから。

 

少しだけ、生活だった。

 

拓真は手帳を開いた。

 

最初の夜に書いた字を見る。

 

宿の場所。

駅までの道。

財布の残り。

 

その下には、この数日で増えた文字がある。

 

人から聞いた道。

店へ行く時間。

仕事場で気をつけること。

部屋へ戻る道順。

 

未来から持ってきた知識ではない。

 

一九四八年で、自分が聞いて、歩いて、失敗して覚えたものだった。

 

拓真はペンを止めた。

 

本当は。

 

ここへ来たのは、こんなことをするためではない。

 

能力者が生まれる余地を作る。

怪異が成立する余地を作る。

人と名前と役割の間に、今までなかった何かが生まれる余地を作る。

 

それが目的だ。

 

まだ一つも手をつけていない。

 

何日か経った。

 

そう考えれば、遅い。

 

けれど。

 

拓真は、すぐに能力を使おうとは思わなかった。

 

今日、自分が部屋を借りられたのは、未来人だからではない。

 

金を持っていたからだけでもない。

 

何日か、仕事へ行った。

分からないことを聞いた。

直せるものだけ直した。

それを見ていた人間が、空いている部屋を一つ聞いてくれた。

 

そこまで全部飛ばして。

 

能力だけ置いて。

 

あとは未来から眺める。

 

それでは、自分が欲しかったものと少し違う気がした。

 

人間の生活の中で勝手に育つ世界が欲しいなら。

 

まず、その生活がどういうものか、自分も知らないままではいられない。

 

「……暮らしてるな、俺」

 

小さく言う。

 

笑いは起きなかった。

 

誰もいない。

 

もう一人の自分もいない。

 

壁の向こうで、人が歩く音がした。

どこかで水を使う音がする。

外から、短い話し声が聞こえた。

 

拓真は布団へ横になった。

 

明日は朝に起きる。

仕事場へ行く。

 

その後のことは、まだ分からない。

 

一九四八年は、もう地図の上の行き先ではなかった。

 

明日起きた時にも、自分が生活を続ける場所になっていた。

改稿前verだけ見て切られたら困るんですが、消した方が伸びると思いますかね?

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