歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい 作:無異常世界
新しい部屋で迎えた最初の朝、拓真は目を覚ましてから数秒、天井を見たまま動かなかった。
知らない木目だった。
それでようやく、一九四八年にいることを思い出す。
昨日までの宿ではない。
今日も帰ってきていい部屋だ。
壁の向こうで水を使う音がした。
外では誰かが戸を開ける。
少し遅れて、道を歩く足音が通り過ぎた。
拓真は身体を起こした。
「仕事」
声に出す。
今日は行く場所がある。
それだけで、最初の朝とはだいぶ違った。
* * *
仕事場へ着くと、前に手を入れた引き戸はまだ動いていた。
拓真が一度だけ目を向けると、年嵩の作業員が気づいた。
「気になるか」
「また引っ掛かってないかなと」
「今朝は平気だ」
「ならよかったです」
「でも替えは要るんだろ」
「たぶん。金具そのものが減ってたので」
「たぶんばっかりだな」
「見てないところまで断言すると怒られるんで」
「誰に」
拓真は少し考えた。
「前の仕事で」
嘘ではない。
作業員はそれ以上聞かなかった。
朝の荷が来る。
箱を下ろす。
積む。
数を確認する。
運ぶ。
何日か同じ仕事へ通っているうちに、最初より身体の使い方が分かってきた。
重いものは重い。
けれど、どこを持てば楽かは少し分かる。
誰が何を言う前に、邪魔になる空箱をどけることもできるようになった。
昼前。
「相良」
呼ばれた。
初めてだった。
拓真は一瞬だけ反応が遅れた。
「はい」
「そっち二つ、店まで持ってけ」
指された箱を見る。
「どの店ですか」
「道出て左。角の食料品屋。分からなきゃ聞け」
「分かりました」
二つをいっぺんに持とうとして、やめた。
一つずつの方がいい。
無理をして落としたら意味がない。
店までは遠くなかった。
表へ回ると、引き戸の前で女が箱を一つ抱えていた。
拓真より先に、その女が戸へ足をかける。
開かない。
もう一度。
途中までは動く。
そこから重くなる。
「すみません」
拓真が声をかけると、女が振り返った。
二十代くらい。
髪を邪魔にならないようまとめ、袖を上げている。
「荷です」
「ああ。裏へ回して」
「はい」
拓真は言われた通り裏へ運んだ。
一箱目を置く。
二箱目を取りに戻る。
女はまだ戸を動かしていた。
「前から重いんですか」
聞くと、女は手を止めた。
「昨日から。何で」
「仕事場の戸が似た感じだったので」
「戸を直す人?」
「本職ではないです」
「じゃあ何の人」
拓真は答えに詰まった。
今の自分に、それを一言で説明できる職業はなかった。
「今は、荷を運ぶ人です」
女が少しだけ眉を上げた。
「今は?」
「前は機械とか設備を見る仕事をしてました」
「見たら分かる?」
「見たら、分かるかもしれません」
女は笑わなかった。
「分からないかもしれない?」
「はい」
「じゃあ見て」
早かった。
拓真は戸の前へしゃがんだ。
「触っていいですか」
「いいよ」
まず何度か動かす。
重くなる位置は同じだった。
下を見る。
戸車そのものより、溝の方へ細かいものが噛んでいる。
一部は木片だった。
それを取る。
もう一度動かす。
軽くなった。
けれど、まだ途中で擦る。
「これだけじゃないですね」
「直る?」
「少し持ち上げてもらえますか」
女が反対側を持った。
拓真は戸の下を確認する。
片側がわずかに落ちている。
固定が緩んでいた。
借りた道具で締め直す。
「一回、お願いします」
女が戸を引いた。
今度は最後まで動いた。
「……軽い」
「しばらくは」
「しばらく?」
「減ってるところがあります。そこは替えた方がいいです」
「今日閉まればいい」
「なら大丈夫だと思います」
女は戸をもう一度開け閉めした。
拓真は道具を返した。
「荷、裏でいいんですよね」
「待って」
女が言った。
「名前」
「相良です。相良拓真」
「私は瀬尾和枝」
そこで初めて名乗った。
「店の人ですか」
「帳場。店は私のじゃない」
和枝は戸を指で押した。
「これ、いくら」
「いや、荷のついでなので」
「仕事で来たんでしょ」
「荷は仕事ですけど、戸は勝手に見ただけです」
「勝手に見たあと勝手に直したの?」
「触っていいか聞きました」
「そこはちゃんとしてるんだ」
少しだけ、口元が緩んだ。
拓真は迷った。
金を取るほどの作業でもない。
けれど、ここで何でもただにするのも違う気がした。
「じゃあ、次にまた何かあった時、見てから決めます」
「今回の分は」
「戸を開けて荷を入れやすくしたってことで」
和枝は拓真を見た。
「変な人」
「よく言われます」
「この町でも?」
「もう何回か」
「早いね」
今度は、少し笑った。
* * *
仕事場へ戻ると、遅いとは言われなかった。
代わりに。
「何してた」
と聞かれた。
「店の戸が引っ掛かってたので、見てました」
「お前、そういうの見つけるな」
「すみません」
「怒ってない。あそこの店なら前から重かった」
「そうなんですか」
「今度から荷持ってく時、お前行け」
「仕事増えてません?」
「増えたな」
笑われた。
拓真も笑った。
午後、箱の角へ袖を引っ掛けた。
小さく裂けた。
「うわ」
声が出た。
着られないほどではない。
けれど、このまま広がると困る。
二〇二六年なら、帰りに新しいものを買うという選択肢がすぐ浮かぶ。
今は違う。
縫えばいい。
問題は、自分がきれいに縫えないことだった。
仕事が終わった後、拓真は店の前を通った。
引き戸はまだ動いていた。
和枝が帳場にいる。
目が合った。
「まだ動いてます?」
「動いてる」
「よかったです」
それだけで帰ろうとすると、和枝が拓真の袖を見た。
「それ、どうしたの」
「ああ」
裂けたところを見せる。
「仕事で」
「そのまま着る気?」
「自分で縫おうかと」
「縫える?」
「穴を塞ぐくらいなら」
「見せて」
拓真は袖を差し出した。
和枝は少し触って、裏も見た。
「これ、適当に縫うと引っ張った時また裂けるよ」
「そんな気はしてました」
「直す?」
「お願いできますか」
「金は取る」
「もちろん」
返事が早かったせいか、和枝が少しだけ拓真を見る。
「明日持ってきな」
「明日もこれ着るんですが」
「じゃあ今脱いで」
「今?」
「中に着てるでしょ」
言われて、拓真は上着を脱いだ。
和枝は帳場の奥へ持っていく。
「少し待って」
拓真は店の端で待った。
人が入ってくる。
和枝は普通に客へ応じる。
品を渡す。
金を受け取る。
戻ってきたら、また針を持つ。
拓真の上着だけが特別な仕事ではない。
それが少しよかった。
「相良さん」
「はい」
「機械見る仕事してたって言ったね」
「はい」
「ミシンは?」
「足踏みですか」
「そう」
「見たことはあります。でも、直せるかは」
「見ないと分からない?」
「はい」
和枝が鼻で笑った。
「それ、便利な言葉だね」
「便利だから使ってるわけじゃないです」
「家のが滑る時がある。踏んでも針が遅れる」
拓真は少し考えた。
「帯かもしれませんけど、本当に見ないと」
「じゃあ見て」
「今日ですか」
「上着できるまでどうせ待つんでしょ」
「家、近いんですか」
「歩くよ」
和枝は針を止めた。
「勘違いしないで。仕事として」
「分かってます」
「本当に?」
「俺もその方が助かります」
和枝は少しだけ拓真を見た。
「じゃあ、店終わってから」
* * *
瀬尾家は、拓真が借りた部屋から遠くはなかった。
近い、と言えるほどでもない。
歩いている間、和枝は道を急いだ。
拓真に町を案内する気はないらしい。
「遅い」
一度言われた。
「すみません」
「仕事で歩いてる割に遅いね」
「道見てました」
「迷う?」
「まだ」
「何日いるの」
「数日です」
「本当に来たばっかりなんだ」
「はい」
「どこから」
来た。
拓真は少し笑った。
「遠くです」
和枝が横目で見る。
「それ、答えになってないよ」
「よく言われます」
「またそれ」
「すみません」
「謝るくらいなら言えばいいのに」
拓真は答えなかった。
和枝も追及しなかった。
信用したからではない。
聞いても言わないと判断しただけなのだろう。
家へ着く。
戸を開けると、布と糸と食事の匂いが混じっていた。
仕事をする家の匂いだった。
「そこ」
和枝が部屋の隅を指す。
足踏み式のミシンが置いてある。
「勝手に外さないでよ」
「外すなら先に言います」
拓真はしゃがんだ。
まず踏む。
一度目は普通だった。
もう一度。
足の動きに対して、針が少し遅れる。
「これですか」
「ひどい時はもっと」
帯を見る。
表面がかなり使い込まれている。
張りも少し緩い。
「たぶん、ここです」
「たぶん」
「まだ直してないので」
「はいはい」
拓真は笑った。
位置を確認する。
今あるもので調整できる範囲は限られていた。
「帯そのものは替えた方がいいです」
「すぐ手に入る?」
「それは俺より瀬尾さんの方が知ってると思います」
「役に立たないね」
「この辺の店は、まだ全然知らないので」
「数日だもんね」
「はい」
今はミシンだ。
「少し踏んでもらえますか」
和枝が座る。
拓真が横で動きを見る。
「もう少し」
踏む。
「止めてください」
調整する。
「もう一回」
何度か繰り返す。
動きは少し揃った。
「今のところは、これで」
和枝が布を一枚入れて試す。
針が進む。
「前よりいい」
「帯が傷んでるので、また滑ると思います」
「替えが見つかるまで持てばいい」
「もしまた滑ったら、ここ見てください」
拓真は調整した場所を示した。
「強く張りすぎると別のところに負担が出るので、少しずつ」
「どのくらい」
「今くらい」
「分かりにくい」
「ですよね」
拓真はもう一度、手順を見せた。
「ここがこのくらい動くなら一旦止める。これ以上なら少しだけ。音が変ならやめる」
「音?」
「擦る音とか。今までと違う音」
「分かった」
「本当に駄目なら、俺じゃなくてちゃんと直せる人に」
「その人を先に知りたいんだけど」
「そこは探します」
「じゃあ半分しか直ってないね」
「そうですね」
和枝は笑った。
その時。
襖が少し開いた。
「叔母さん」
子どもの声だった。
拓真が振り向く。
女の子が顔を出している。
手に紙を持っていた。
「何してるの?」
「ミシン見てもらってる」
「誰に」
女の子の目が拓真へ向く。
「店に荷を持ってきてる相良さん」
「店の人?」
「今は違う」
「今は荷を運んでます」
拓真が答えると、女の子は少し考えた。
「何屋さん?」
「何屋……」
また答えに困る。
和枝が先に言った。
「まだ決まってないんだって」
「仕事してるのに?」
「仕事はしてます」
「でも何屋さんか分からないの?」
「分からないです」
女の子は素直に言った。
「変なの」
拓真は笑った。
「俺もそう思う」
「澄江、宿題は」
「やった」
「見せて」
「今?」
「今」
女の子――澄江は不満そうな顔をした。
手に持っていた紙を和枝へ渡す。
和枝はざっと見た。
「ここ抜けてる」
「そこは先生がいいって言った」
「本当?」
「本当」
「明日聞くよ」
「何で叔母さんが聞くの」
「嘘ついてたら困るから」
「ついてない」
拓真はミシンの横で黙っていた。
何でもないやり取りだった。
叔母と姪。
学校の紙。
仕事帰りの家。
直りきっていないミシン。
それだけだった。
澄江が拓真の手元を覗いた。
「それ、直った?」
「一応」
「一応?」
「また壊れるかもしれない」
「直してないじゃん」
「今は動くようにした」
「同じじゃないの?」
「違うよ」
和枝が言った。
「直したふりして、また止まった方が困るでしょ」
澄江は納得していない顔でミシンを見た。
「じゃあ、いつ直るの」
「替えが見つかったら」
拓真が答える。
「どこにあるの」
「それをこれから探します」
「分からないの?」
「分からない」
「相良さん、分からないこと多いね」
「今日それ、何回目だろう」
澄江が笑った。
和枝も少し笑った。
拓真は、その笑いにつられた。
* * *
上着はその家で直してもらった。
和枝は拓真がミシンを見ている間に裂け目を整え、当て布をしていた。
「着てみて」
拓真は袖を通す。
腕を上げる。
引っ張られる感じはない。
「大丈夫そうです」
「そう」
「ありがとうございます」
「代金」
「はい」
拓真が財布を出す。
和枝が金額を言う。
拓真は払った。
「ミシンの分は」
「引く」
「全部でいいですよ」
「よくない」
和枝は即答した。
「私の仕事は私の仕事。あんたの仕事はあんたの仕事」
拓真は財布を持ったまま止まった。
「……はい」
「何」
「いや、分かりやすいなと思って」
「何が」
「こっち来てから、そういう方が助かること多いんで」
「また変なこと言ってる」
和枝は必要な分だけ受け取った。
澄江が横から覗く。
「叔母さん、お金増えた?」
「人の財布を見るんじゃない」
「叔母さんのだよ」
「私のも見るな」
「店のお金は見るじゃん」
「仕事だから」
「じゃあ私も仕事したら見ていい?」
「何の仕事」
澄江は少し考えた。
「まだ決まってない」
拓真は吹き出した。
和枝が澄江を見る。
「変なのがうつった」
「俺のせいですか」
「今日来たばっかりなのにね」
澄江は何がおかしいのか分からない顔をしていた。
* * *
帰る前。
和枝が紙包みを一つ持ってきた。
「これ、持ってって」
「何ですか」
「余ったもの」
拓真は反射的に断りかけた。
「いや、でも」
「ミシン見た分。全部金にしたくないなら、これでいいでしょ」
「さっき仕事は別って」
「別だから、私が決めるの」
筋が通っているような、通っていないような。
拓真は少し迷って受け取った。
「ありがとうございます」
「明日、店来る?」
「荷があれば」
「戸の金具、店の人が替えを探すって」
「見つかったら教えてください」
「それと」
和枝がミシンを見る。
「帯も、どこにあるか聞いておく」
「俺も仕事場で聞きます」
「じゃあ早い方」
「何がですか」
「見つけるの」
「競争なんです?」
「困ってるのはこっちだから、競争じゃない」
「じゃあ何ですか」
「早い方が助かるだけ」
「それはそうですね」
拓真は笑った。
戸口で靴を履く。
後ろから澄江が来た。
「相良さん」
「何」
「明日も来る?」
「店には行くかも」
「家は?」
「ミシンがまた止まったら」
「じゃあ止まったら来るんだ」
「止まらない方がいいだろ」
「そっか」
本気で今気づいたような顔をした。
「じゃあ、またね」
「また」
拓真は外へ出た。
暗くなり始めていた。
借りた部屋までの道を、今度は迷わなかった。
* * *
次の日。
食料品店へ荷を持っていくと、和枝は帳場にいた。
「帯、あった」
先に言われた。
「もう?」
「店のお客が扱ってるところ知ってた」
「早いですね」
「そっちは」
「仕事場の人に聞いたら、古いのならあるかもしれないって」
「負け」
「競争じゃないって言ってませんでした?」
「今決めた」
拓真は笑った。
店の戸の金具も、替えそのものではないが使えそうなものが見つかったらしい。
「今日見られる?」
「仕事終わってからなら」
「じゃあ来て」
「はい」
それだけの会話だった。
けれど。
昨日は、たまたま戸を見た。
今日は、来る前から用事がある。
一日で関係が大きく変わったわけではない。
和枝が拓真を信用したわけでもない。
拓真も和枝を何でも頼れる相手だと思っていない。
ただ。
互いに、相手へ頼めることが一つできた。
それが翌日にも残っていた。
* * *
数日後。
拓真はまた瀬尾家にいた。
新しい帯は、完全な新品ではなかった。
けれど、前のものより状態はいい。
交換して、張りを見る。
和枝が踏む。
針が素直についてくる。
「今度は?」
「前よりは大丈夫です」
「何日」
「それは分かりません」
「ほんとに言わないね」
「言えないので」
和枝は何度か試し縫いをした。
満足したらしい。
「これなら仕事止めなくて済む」
「よかったです」
拓真は道具を片づけた。
部屋の反対側では、澄江が床へ紙を広げていた。
何か書いている。
途中で戸が開いた。
「澄江」
同じくらいの年の女の子が顔を出した。
「文子」
澄江が立つ。
「行く?」
「宿題終わった」
「私は終わってない」
「じゃあ何で来たの」
「一緒にやる」
「遊ぶんでしょ」
「終わってから」
和枝が言った。
「外行くなら暗くなる前に戻りな」
「はーい」
「返事だけじゃなくて」
「分かってる」
二人は紙をまとめ始めた。
文子が拓真を見る。
「誰?」
澄江が答えた。
「ミシン直す人」
「違うよ」
拓真が言う。
「じゃあ何の人?」
澄江と文子が同時に聞いた。
拓真は少し黙った。
「今は、荷を運ぶ人」
澄江が言った。
「また今はって言った」
「そうだな」
文子は分からないまま、澄江について外へ出ていった。
戸が閉まる。
和枝が小さく息を吐く。
「うるさいのが二人になった」
「仲いいんですね」
「喧嘩もするよ」
「それでも来るんですか」
「来るね」
和枝は試し縫いした布をほどいた。
「子どもなんてそんなもんでしょ」
拓真は閉まった戸を見た。
澄江。
十歳。
学校へ行く。
友達が来る。
叔母に宿題を見られて嫌がる。
知らない男へ、何屋なのか聞く。
本当に、それだけだった。
その時点では。
拓真の計画とは何の関係もない。
「何」
和枝に聞かれた。
「いや」
「子ども苦手?」
「普通です」
「普通って何」
「また難しい質問しますね」
「答えが変なんだよ」
拓真は笑った。
* * *
片づけをしていると、机の端に小さな帳面が見えた。
開いていたのは一頁だけだった。
数字が並んでいる。
家の金とは少し分けて書かれているように見えた。
拓真は目を逸らした。
人の帳面を見るものではない。
和枝がその動きに気づいた。
「見た?」
「数字だけ」
「ならいい」
和枝は帳面を閉じた。
「店のですか」
「私の」
「内職の?」
「それも」
少し間があった。
「いつか自分の店やりたいから」
拓真は和枝を見る。
「洋裁の?」
「仕立て直しと繕い物。大きいのじゃなくていい」
「今の店は」
「人の店」
最初に名乗った時と同じ言い方だった。
「家のこともあるし、すぐじゃないけど」
和枝はそれだけ言った。
夢を語るような顔ではなかった。
数字を積み上げている人の顔だった。
「いいですね」
拓真が言うと、和枝が怪訝そうに見る。
「何が」
「自分の店」
「まだないよ」
「だからです」
「何それ」
「いや。これからできるものって、いいなと思って」
和枝は少し黙った。
「相良さん、たまに年寄りみたいなこと言うね」
「二十四です」
「聞いてない」
「すみません」
「謝ることでもない」
また変なやり取りになった。
けれど拓真は少し嬉しかった。
和枝には和枝の先がある。
自分がこの町へ来なかったとしても、たぶん欲しかったものがある。
思い通りになるかは分からない。
家の事情で遅れるかもしれない。
金が足りないかもしれない。
別のことを選ぶかもしれない。
その全部が、拓真には決められない。
決める必要もない。
むしろ。
それでいい。
* * *
部屋へ戻った夜。
拓真は手帳を開いた。
仕事場。
食料品店。
瀬尾和枝。
瀬尾澄江。
この数日で増えた名前を見た。
最初の夜には、一つもなかった。
拓真は別の頁を開く。
二〇二六年で書いた計画がある。
最初に置くもの。
人間や生物の身体、感覚、意識、自分という感覚。
そういうものに、今までは存在しなかった異常が定着できる余地。
完成した能力ではない。
誰か一人へ渡す力でもない。
そのための条件。
拓真はしばらく頁を見た。
昨日までなら。
この町で生活できる足場ができた。
なら次は、条件を置く。
それでよかった。
今も、やること自体は変わらない。
ただ。
瀬尾家を知ってしまった。
和枝がいる。
店で働き、家では縫い物をし、自分の店のために金を分けている。
澄江がいる。
学校へ行き、宿題をし、文子と遊び、知らない大人へ遠慮なく質問する。
だからこそ。
そこへ線を引きたくなかった。
この家を起点にしよう。
この子を最初にしよう。
この人たちならうまく育てるだろう。
そう考え始めた瞬間。
自分が欲しかった世界から離れる気がした。
拓真は計画の頁から手を離した。
瀬尾澄江の名前の横には、何も書かなかった。
能力候補。
観察対象。
適性。
そういう印は、一つも付けない。
代わりに、明日の予定を書く。
朝、仕事。
昼、店へ荷。
戸の金具を確認。
帰りに紙を買う。
少し考えてから、一行足した。
第一の条件を定着させる範囲を、瀬尾家とは切り離して考える。
書いて。
拓真はペンを止めた。
人間関係が先にできた。
自分の計画のためではなく。
寝床を探して。
仕事をして。
戸を直して。
服を縫ってもらって。
ミシンを見た結果として。
その先に、たまたま和枝と澄江がいた。
拓真は手帳を閉じた。
まだ、この世界には能力者はいない。
少なくとも、拓真が知る限りでは。
怪異もない。
裏の仕事もない。
秘密の名前もない。
それでも。
明日会う人間がいる。
頼まれている仕事がある。
直しきっていない戸がある。
少しずつ金を貯めている人がいる。
友達と遊びに行った子どもがいる。
超常が生まれる前から。
この町は、もう拓真の計画表よりずっと多くのことを勝手に続けていた。
その中へ何かを置くのなら。
誰かを選んで置くのではない。
拓真は布団へ横になった。
明日。
今度こそ、最初の条件を置く。
けれど、その前に。
朝の仕事へ遅れないように眠ることにした。
改稿前verだけ見て切られたら困るんですが、消した方が伸びると思いますかね?
-
消した方が伸びる
-
消さない方が伸びる
-
どっちでも良い