歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい   作:無異常世界

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第六話

新しい部屋で迎えた最初の朝、拓真は目を覚ましてから数秒、天井を見たまま動かなかった。

 

知らない木目だった。

 

それでようやく、一九四八年にいることを思い出す。

 

昨日までの宿ではない。

今日も帰ってきていい部屋だ。

 

壁の向こうで水を使う音がした。

外では誰かが戸を開ける。

少し遅れて、道を歩く足音が通り過ぎた。

 

拓真は身体を起こした。

 

「仕事」

 

声に出す。

 

今日は行く場所がある。

 

それだけで、最初の朝とはだいぶ違った。

 

* * *

 

仕事場へ着くと、前に手を入れた引き戸はまだ動いていた。

 

拓真が一度だけ目を向けると、年嵩の作業員が気づいた。

 

「気になるか」

 

「また引っ掛かってないかなと」

 

「今朝は平気だ」

 

「ならよかったです」

 

「でも替えは要るんだろ」

 

「たぶん。金具そのものが減ってたので」

 

「たぶんばっかりだな」

 

「見てないところまで断言すると怒られるんで」

 

「誰に」

 

拓真は少し考えた。

 

「前の仕事で」

 

嘘ではない。

 

作業員はそれ以上聞かなかった。

 

朝の荷が来る。

 

箱を下ろす。

積む。

数を確認する。

運ぶ。

 

何日か同じ仕事へ通っているうちに、最初より身体の使い方が分かってきた。

 

重いものは重い。

けれど、どこを持てば楽かは少し分かる。

誰が何を言う前に、邪魔になる空箱をどけることもできるようになった。

 

昼前。

 

「相良」

 

呼ばれた。

 

初めてだった。

 

拓真は一瞬だけ反応が遅れた。

 

「はい」

 

「そっち二つ、店まで持ってけ」

 

指された箱を見る。

 

「どの店ですか」

 

「道出て左。角の食料品屋。分からなきゃ聞け」

 

「分かりました」

 

二つをいっぺんに持とうとして、やめた。

 

一つずつの方がいい。

 

無理をして落としたら意味がない。

 

店までは遠くなかった。

 

表へ回ると、引き戸の前で女が箱を一つ抱えていた。

 

拓真より先に、その女が戸へ足をかける。

 

開かない。

 

もう一度。

 

途中までは動く。

そこから重くなる。

 

「すみません」

 

拓真が声をかけると、女が振り返った。

 

二十代くらい。

髪を邪魔にならないようまとめ、袖を上げている。

 

「荷です」

 

「ああ。裏へ回して」

 

「はい」

 

拓真は言われた通り裏へ運んだ。

 

一箱目を置く。

二箱目を取りに戻る。

 

女はまだ戸を動かしていた。

 

「前から重いんですか」

 

聞くと、女は手を止めた。

 

「昨日から。何で」

 

「仕事場の戸が似た感じだったので」

 

「戸を直す人?」

 

「本職ではないです」

 

「じゃあ何の人」

 

拓真は答えに詰まった。

 

今の自分に、それを一言で説明できる職業はなかった。

 

「今は、荷を運ぶ人です」

 

女が少しだけ眉を上げた。

 

「今は?」

 

「前は機械とか設備を見る仕事をしてました」

 

「見たら分かる?」

 

「見たら、分かるかもしれません」

 

女は笑わなかった。

 

「分からないかもしれない?」

 

「はい」

 

「じゃあ見て」

 

早かった。

 

拓真は戸の前へしゃがんだ。

 

「触っていいですか」

 

「いいよ」

 

まず何度か動かす。

 

重くなる位置は同じだった。

 

下を見る。

 

戸車そのものより、溝の方へ細かいものが噛んでいる。

一部は木片だった。

 

それを取る。

 

もう一度動かす。

 

軽くなった。

 

けれど、まだ途中で擦る。

 

「これだけじゃないですね」

 

「直る?」

 

「少し持ち上げてもらえますか」

 

女が反対側を持った。

 

拓真は戸の下を確認する。

 

片側がわずかに落ちている。

固定が緩んでいた。

 

借りた道具で締め直す。

 

「一回、お願いします」

 

女が戸を引いた。

 

今度は最後まで動いた。

 

「……軽い」

 

「しばらくは」

 

「しばらく?」

 

「減ってるところがあります。そこは替えた方がいいです」

 

「今日閉まればいい」

 

「なら大丈夫だと思います」

 

女は戸をもう一度開け閉めした。

 

拓真は道具を返した。

 

「荷、裏でいいんですよね」

 

「待って」

 

女が言った。

 

「名前」

 

「相良です。相良拓真」

 

「私は瀬尾和枝」

 

そこで初めて名乗った。

 

「店の人ですか」

 

「帳場。店は私のじゃない」

 

和枝は戸を指で押した。

 

「これ、いくら」

 

「いや、荷のついでなので」

 

「仕事で来たんでしょ」

 

「荷は仕事ですけど、戸は勝手に見ただけです」

 

「勝手に見たあと勝手に直したの?」

 

「触っていいか聞きました」

 

「そこはちゃんとしてるんだ」

 

少しだけ、口元が緩んだ。

 

拓真は迷った。

 

金を取るほどの作業でもない。

けれど、ここで何でもただにするのも違う気がした。

 

「じゃあ、次にまた何かあった時、見てから決めます」

 

「今回の分は」

 

「戸を開けて荷を入れやすくしたってことで」

 

和枝は拓真を見た。

 

「変な人」

 

「よく言われます」

 

「この町でも?」

 

「もう何回か」

 

「早いね」

 

今度は、少し笑った。

 

* * *

 

仕事場へ戻ると、遅いとは言われなかった。

 

代わりに。

 

「何してた」

 

と聞かれた。

 

「店の戸が引っ掛かってたので、見てました」

 

「お前、そういうの見つけるな」

 

「すみません」

 

「怒ってない。あそこの店なら前から重かった」

 

「そうなんですか」

 

「今度から荷持ってく時、お前行け」

 

「仕事増えてません?」

 

「増えたな」

 

笑われた。

 

拓真も笑った。

 

午後、箱の角へ袖を引っ掛けた。

 

小さく裂けた。

 

「うわ」

 

声が出た。

 

着られないほどではない。

けれど、このまま広がると困る。

 

二〇二六年なら、帰りに新しいものを買うという選択肢がすぐ浮かぶ。

 

今は違う。

 

縫えばいい。

 

問題は、自分がきれいに縫えないことだった。

 

仕事が終わった後、拓真は店の前を通った。

 

引き戸はまだ動いていた。

 

和枝が帳場にいる。

 

目が合った。

 

「まだ動いてます?」

 

「動いてる」

 

「よかったです」

 

それだけで帰ろうとすると、和枝が拓真の袖を見た。

 

「それ、どうしたの」

 

「ああ」

 

裂けたところを見せる。

 

「仕事で」

 

「そのまま着る気?」

 

「自分で縫おうかと」

 

「縫える?」

 

「穴を塞ぐくらいなら」

 

「見せて」

 

拓真は袖を差し出した。

 

和枝は少し触って、裏も見た。

 

「これ、適当に縫うと引っ張った時また裂けるよ」

 

「そんな気はしてました」

 

「直す?」

 

「お願いできますか」

 

「金は取る」

 

「もちろん」

 

返事が早かったせいか、和枝が少しだけ拓真を見る。

 

「明日持ってきな」

 

「明日もこれ着るんですが」

 

「じゃあ今脱いで」

 

「今?」

 

「中に着てるでしょ」

 

言われて、拓真は上着を脱いだ。

 

和枝は帳場の奥へ持っていく。

 

「少し待って」

 

拓真は店の端で待った。

 

人が入ってくる。

和枝は普通に客へ応じる。

品を渡す。

金を受け取る。

戻ってきたら、また針を持つ。

 

拓真の上着だけが特別な仕事ではない。

 

それが少しよかった。

 

「相良さん」

 

「はい」

 

「機械見る仕事してたって言ったね」

 

「はい」

 

「ミシンは?」

 

「足踏みですか」

 

「そう」

 

「見たことはあります。でも、直せるかは」

 

「見ないと分からない?」

 

「はい」

 

和枝が鼻で笑った。

 

「それ、便利な言葉だね」

 

「便利だから使ってるわけじゃないです」

 

「家のが滑る時がある。踏んでも針が遅れる」

 

拓真は少し考えた。

 

「帯かもしれませんけど、本当に見ないと」

 

「じゃあ見て」

 

「今日ですか」

 

「上着できるまでどうせ待つんでしょ」

 

「家、近いんですか」

 

「歩くよ」

 

和枝は針を止めた。

 

「勘違いしないで。仕事として」

 

「分かってます」

 

「本当に?」

 

「俺もその方が助かります」

 

和枝は少しだけ拓真を見た。

 

「じゃあ、店終わってから」

 

* * *

 

瀬尾家は、拓真が借りた部屋から遠くはなかった。

 

近い、と言えるほどでもない。

 

歩いている間、和枝は道を急いだ。

 

拓真に町を案内する気はないらしい。

 

「遅い」

 

一度言われた。

 

「すみません」

 

「仕事で歩いてる割に遅いね」

 

「道見てました」

 

「迷う?」

 

「まだ」

 

「何日いるの」

 

「数日です」

 

「本当に来たばっかりなんだ」

 

「はい」

 

「どこから」

 

来た。

 

拓真は少し笑った。

 

「遠くです」

 

和枝が横目で見る。

 

「それ、答えになってないよ」

 

「よく言われます」

 

「またそれ」

 

「すみません」

 

「謝るくらいなら言えばいいのに」

 

拓真は答えなかった。

 

和枝も追及しなかった。

 

信用したからではない。

 

聞いても言わないと判断しただけなのだろう。

 

家へ着く。

 

戸を開けると、布と糸と食事の匂いが混じっていた。

 

仕事をする家の匂いだった。

 

「そこ」

 

和枝が部屋の隅を指す。

 

足踏み式のミシンが置いてある。

 

「勝手に外さないでよ」

 

「外すなら先に言います」

 

拓真はしゃがんだ。

 

まず踏む。

 

一度目は普通だった。

 

もう一度。

 

足の動きに対して、針が少し遅れる。

 

「これですか」

 

「ひどい時はもっと」

 

帯を見る。

 

表面がかなり使い込まれている。

 

張りも少し緩い。

 

「たぶん、ここです」

 

「たぶん」

 

「まだ直してないので」

 

「はいはい」

 

拓真は笑った。

 

位置を確認する。

 

今あるもので調整できる範囲は限られていた。

 

「帯そのものは替えた方がいいです」

 

「すぐ手に入る?」

 

「それは俺より瀬尾さんの方が知ってると思います」

 

「役に立たないね」

 

「この辺の店は、まだ全然知らないので」

 

「数日だもんね」

 

「はい」

 

今はミシンだ。

 

「少し踏んでもらえますか」

 

和枝が座る。

 

拓真が横で動きを見る。

 

「もう少し」

 

踏む。

 

「止めてください」

 

調整する。

 

「もう一回」

 

何度か繰り返す。

 

動きは少し揃った。

 

「今のところは、これで」

 

和枝が布を一枚入れて試す。

 

針が進む。

 

「前よりいい」

 

「帯が傷んでるので、また滑ると思います」

 

「替えが見つかるまで持てばいい」

 

「もしまた滑ったら、ここ見てください」

 

拓真は調整した場所を示した。

 

「強く張りすぎると別のところに負担が出るので、少しずつ」

 

「どのくらい」

 

「今くらい」

 

「分かりにくい」

 

「ですよね」

 

拓真はもう一度、手順を見せた。

 

「ここがこのくらい動くなら一旦止める。これ以上なら少しだけ。音が変ならやめる」

 

「音?」

 

「擦る音とか。今までと違う音」

 

「分かった」

 

「本当に駄目なら、俺じゃなくてちゃんと直せる人に」

 

「その人を先に知りたいんだけど」

 

「そこは探します」

 

「じゃあ半分しか直ってないね」

 

「そうですね」

 

和枝は笑った。

 

その時。

 

襖が少し開いた。

 

「叔母さん」

 

子どもの声だった。

 

拓真が振り向く。

 

女の子が顔を出している。

 

手に紙を持っていた。

 

「何してるの?」

 

「ミシン見てもらってる」

 

「誰に」

 

女の子の目が拓真へ向く。

 

「店に荷を持ってきてる相良さん」

 

「店の人?」

 

「今は違う」

 

「今は荷を運んでます」

 

拓真が答えると、女の子は少し考えた。

 

「何屋さん?」

 

「何屋……」

 

また答えに困る。

 

和枝が先に言った。

 

「まだ決まってないんだって」

 

「仕事してるのに?」

 

「仕事はしてます」

 

「でも何屋さんか分からないの?」

 

「分からないです」

 

女の子は素直に言った。

 

「変なの」

 

拓真は笑った。

 

「俺もそう思う」

 

「澄江、宿題は」

 

「やった」

 

「見せて」

 

「今?」

 

「今」

 

女の子――澄江は不満そうな顔をした。

 

手に持っていた紙を和枝へ渡す。

 

和枝はざっと見た。

 

「ここ抜けてる」

 

「そこは先生がいいって言った」

 

「本当?」

 

「本当」

 

「明日聞くよ」

 

「何で叔母さんが聞くの」

 

「嘘ついてたら困るから」

 

「ついてない」

 

拓真はミシンの横で黙っていた。

 

何でもないやり取りだった。

 

叔母と姪。

学校の紙。

仕事帰りの家。

直りきっていないミシン。

 

それだけだった。

 

澄江が拓真の手元を覗いた。

 

「それ、直った?」

 

「一応」

 

「一応?」

 

「また壊れるかもしれない」

 

「直してないじゃん」

 

「今は動くようにした」

 

「同じじゃないの?」

 

「違うよ」

 

和枝が言った。

 

「直したふりして、また止まった方が困るでしょ」

 

澄江は納得していない顔でミシンを見た。

 

「じゃあ、いつ直るの」

 

「替えが見つかったら」

 

拓真が答える。

 

「どこにあるの」

 

「それをこれから探します」

 

「分からないの?」

 

「分からない」

 

「相良さん、分からないこと多いね」

 

「今日それ、何回目だろう」

 

澄江が笑った。

 

和枝も少し笑った。

 

拓真は、その笑いにつられた。

 

* * *

 

上着はその家で直してもらった。

 

和枝は拓真がミシンを見ている間に裂け目を整え、当て布をしていた。

 

「着てみて」

 

拓真は袖を通す。

 

腕を上げる。

 

引っ張られる感じはない。

 

「大丈夫そうです」

 

「そう」

 

「ありがとうございます」

 

「代金」

 

「はい」

 

拓真が財布を出す。

 

和枝が金額を言う。

 

拓真は払った。

 

「ミシンの分は」

 

「引く」

 

「全部でいいですよ」

 

「よくない」

 

和枝は即答した。

 

「私の仕事は私の仕事。あんたの仕事はあんたの仕事」

 

拓真は財布を持ったまま止まった。

 

「……はい」

 

「何」

 

「いや、分かりやすいなと思って」

 

「何が」

 

「こっち来てから、そういう方が助かること多いんで」

 

「また変なこと言ってる」

 

和枝は必要な分だけ受け取った。

 

澄江が横から覗く。

 

「叔母さん、お金増えた?」

 

「人の財布を見るんじゃない」

 

「叔母さんのだよ」

 

「私のも見るな」

 

「店のお金は見るじゃん」

 

「仕事だから」

 

「じゃあ私も仕事したら見ていい?」

 

「何の仕事」

 

澄江は少し考えた。

 

「まだ決まってない」

 

拓真は吹き出した。

 

和枝が澄江を見る。

 

「変なのがうつった」

 

「俺のせいですか」

 

「今日来たばっかりなのにね」

 

澄江は何がおかしいのか分からない顔をしていた。

 

* * *

 

帰る前。

 

和枝が紙包みを一つ持ってきた。

 

「これ、持ってって」

 

「何ですか」

 

「余ったもの」

 

拓真は反射的に断りかけた。

 

「いや、でも」

 

「ミシン見た分。全部金にしたくないなら、これでいいでしょ」

 

「さっき仕事は別って」

 

「別だから、私が決めるの」

 

筋が通っているような、通っていないような。

 

拓真は少し迷って受け取った。

 

「ありがとうございます」

 

「明日、店来る?」

 

「荷があれば」

 

「戸の金具、店の人が替えを探すって」

 

「見つかったら教えてください」

 

「それと」

 

和枝がミシンを見る。

 

「帯も、どこにあるか聞いておく」

 

「俺も仕事場で聞きます」

 

「じゃあ早い方」

 

「何がですか」

 

「見つけるの」

 

「競争なんです?」

 

「困ってるのはこっちだから、競争じゃない」

 

「じゃあ何ですか」

 

「早い方が助かるだけ」

 

「それはそうですね」

 

拓真は笑った。

 

戸口で靴を履く。

 

後ろから澄江が来た。

 

「相良さん」

 

「何」

 

「明日も来る?」

 

「店には行くかも」

 

「家は?」

 

「ミシンがまた止まったら」

 

「じゃあ止まったら来るんだ」

 

「止まらない方がいいだろ」

 

「そっか」

 

本気で今気づいたような顔をした。

 

「じゃあ、またね」

 

「また」

 

拓真は外へ出た。

 

暗くなり始めていた。

 

借りた部屋までの道を、今度は迷わなかった。

 

* * *

 

次の日。

 

食料品店へ荷を持っていくと、和枝は帳場にいた。

 

「帯、あった」

 

先に言われた。

 

「もう?」

 

「店のお客が扱ってるところ知ってた」

 

「早いですね」

 

「そっちは」

 

「仕事場の人に聞いたら、古いのならあるかもしれないって」

 

「負け」

 

「競争じゃないって言ってませんでした?」

 

「今決めた」

 

拓真は笑った。

 

店の戸の金具も、替えそのものではないが使えそうなものが見つかったらしい。

 

「今日見られる?」

 

「仕事終わってからなら」

 

「じゃあ来て」

 

「はい」

 

それだけの会話だった。

 

けれど。

 

昨日は、たまたま戸を見た。

 

今日は、来る前から用事がある。

 

一日で関係が大きく変わったわけではない。

 

和枝が拓真を信用したわけでもない。

拓真も和枝を何でも頼れる相手だと思っていない。

 

ただ。

 

互いに、相手へ頼めることが一つできた。

 

それが翌日にも残っていた。

 

* * *

 

数日後。

 

拓真はまた瀬尾家にいた。

 

新しい帯は、完全な新品ではなかった。

けれど、前のものより状態はいい。

 

交換して、張りを見る。

 

和枝が踏む。

 

針が素直についてくる。

 

「今度は?」

 

「前よりは大丈夫です」

 

「何日」

 

「それは分かりません」

 

「ほんとに言わないね」

 

「言えないので」

 

和枝は何度か試し縫いをした。

 

満足したらしい。

 

「これなら仕事止めなくて済む」

 

「よかったです」

 

拓真は道具を片づけた。

 

部屋の反対側では、澄江が床へ紙を広げていた。

 

何か書いている。

 

途中で戸が開いた。

 

「澄江」

 

同じくらいの年の女の子が顔を出した。

 

「文子」

 

澄江が立つ。

 

「行く?」

 

「宿題終わった」

 

「私は終わってない」

 

「じゃあ何で来たの」

 

「一緒にやる」

 

「遊ぶんでしょ」

 

「終わってから」

 

和枝が言った。

 

「外行くなら暗くなる前に戻りな」

 

「はーい」

 

「返事だけじゃなくて」

 

「分かってる」

 

二人は紙をまとめ始めた。

 

文子が拓真を見る。

 

「誰?」

 

澄江が答えた。

 

「ミシン直す人」

 

「違うよ」

 

拓真が言う。

 

「じゃあ何の人?」

 

澄江と文子が同時に聞いた。

 

拓真は少し黙った。

 

「今は、荷を運ぶ人」

 

澄江が言った。

 

「また今はって言った」

 

「そうだな」

 

文子は分からないまま、澄江について外へ出ていった。

 

戸が閉まる。

 

和枝が小さく息を吐く。

 

「うるさいのが二人になった」

 

「仲いいんですね」

 

「喧嘩もするよ」

 

「それでも来るんですか」

 

「来るね」

 

和枝は試し縫いした布をほどいた。

 

「子どもなんてそんなもんでしょ」

 

拓真は閉まった戸を見た。

 

澄江。

 

十歳。

 

学校へ行く。

友達が来る。

叔母に宿題を見られて嫌がる。

知らない男へ、何屋なのか聞く。

 

本当に、それだけだった。

 

その時点では。

 

拓真の計画とは何の関係もない。

 

「何」

 

和枝に聞かれた。

 

「いや」

 

「子ども苦手?」

 

「普通です」

 

「普通って何」

 

「また難しい質問しますね」

 

「答えが変なんだよ」

 

拓真は笑った。

 

* * *

 

片づけをしていると、机の端に小さな帳面が見えた。

 

開いていたのは一頁だけだった。

 

数字が並んでいる。

 

家の金とは少し分けて書かれているように見えた。

 

拓真は目を逸らした。

 

人の帳面を見るものではない。

 

和枝がその動きに気づいた。

 

「見た?」

 

「数字だけ」

 

「ならいい」

 

和枝は帳面を閉じた。

 

「店のですか」

 

「私の」

 

「内職の?」

 

「それも」

 

少し間があった。

 

「いつか自分の店やりたいから」

 

拓真は和枝を見る。

 

「洋裁の?」

 

「仕立て直しと繕い物。大きいのじゃなくていい」

 

「今の店は」

 

「人の店」

 

最初に名乗った時と同じ言い方だった。

 

「家のこともあるし、すぐじゃないけど」

 

和枝はそれだけ言った。

 

夢を語るような顔ではなかった。

 

数字を積み上げている人の顔だった。

 

「いいですね」

 

拓真が言うと、和枝が怪訝そうに見る。

 

「何が」

 

「自分の店」

 

「まだないよ」

 

「だからです」

 

「何それ」

 

「いや。これからできるものって、いいなと思って」

 

和枝は少し黙った。

 

「相良さん、たまに年寄りみたいなこと言うね」

 

「二十四です」

 

「聞いてない」

 

「すみません」

 

「謝ることでもない」

 

また変なやり取りになった。

 

けれど拓真は少し嬉しかった。

 

和枝には和枝の先がある。

 

自分がこの町へ来なかったとしても、たぶん欲しかったものがある。

思い通りになるかは分からない。

家の事情で遅れるかもしれない。

金が足りないかもしれない。

別のことを選ぶかもしれない。

 

その全部が、拓真には決められない。

 

決める必要もない。

 

むしろ。

 

それでいい。

 

* * *

 

部屋へ戻った夜。

 

拓真は手帳を開いた。

 

仕事場。

食料品店。

瀬尾和枝。

瀬尾澄江。

 

この数日で増えた名前を見た。

 

最初の夜には、一つもなかった。

 

拓真は別の頁を開く。

 

二〇二六年で書いた計画がある。

 

最初に置くもの。

 

人間や生物の身体、感覚、意識、自分という感覚。

そういうものに、今までは存在しなかった異常が定着できる余地。

 

完成した能力ではない。

誰か一人へ渡す力でもない。

 

そのための条件。

 

拓真はしばらく頁を見た。

 

昨日までなら。

 

この町で生活できる足場ができた。

なら次は、条件を置く。

 

それでよかった。

 

今も、やること自体は変わらない。

 

ただ。

 

瀬尾家を知ってしまった。

 

和枝がいる。

店で働き、家では縫い物をし、自分の店のために金を分けている。

 

澄江がいる。

学校へ行き、宿題をし、文子と遊び、知らない大人へ遠慮なく質問する。

 

だからこそ。

 

そこへ線を引きたくなかった。

 

この家を起点にしよう。

この子を最初にしよう。

この人たちならうまく育てるだろう。

 

そう考え始めた瞬間。

 

自分が欲しかった世界から離れる気がした。

 

拓真は計画の頁から手を離した。

 

瀬尾澄江の名前の横には、何も書かなかった。

 

能力候補。

観察対象。

適性。

 

そういう印は、一つも付けない。

 

代わりに、明日の予定を書く。

 

朝、仕事。

昼、店へ荷。

戸の金具を確認。

帰りに紙を買う。

 

少し考えてから、一行足した。

 

第一の条件を定着させる範囲を、瀬尾家とは切り離して考える。

 

書いて。

 

拓真はペンを止めた。

 

人間関係が先にできた。

 

自分の計画のためではなく。

寝床を探して。

仕事をして。

戸を直して。

服を縫ってもらって。

ミシンを見た結果として。

 

その先に、たまたま和枝と澄江がいた。

 

拓真は手帳を閉じた。

 

まだ、この世界には能力者はいない。

 

少なくとも、拓真が知る限りでは。

 

怪異もない。

裏の仕事もない。

秘密の名前もない。

 

それでも。

 

明日会う人間がいる。

頼まれている仕事がある。

直しきっていない戸がある。

少しずつ金を貯めている人がいる。

友達と遊びに行った子どもがいる。

 

超常が生まれる前から。

 

この町は、もう拓真の計画表よりずっと多くのことを勝手に続けていた。

 

その中へ何かを置くのなら。

 

誰かを選んで置くのではない。

 

拓真は布団へ横になった。

 

明日。

 

今度こそ、最初の条件を置く。

 

けれど、その前に。

 

朝の仕事へ遅れないように眠ることにした。

改稿前verだけ見て切られたら困るんですが、消した方が伸びると思いますかね?

  • 消した方が伸びる
  • 消さない方が伸びる
  • どっちでも良い
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