歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい 作:無異常世界
休み時間の終わりを知らせる声が、校庭の向こうから聞こえた。
澄江は教室へ戻ろうとしていた。
その少し前を、下の学年の子が走っている。
先生に急かされたわけでもないのに、友達を追い越そうとして足をもつれさせた。
「あっ」
土の上へ手をつく。
膝も擦ったらしい。
澄江は近くにいた。
考えるより先に、その子の腕を取った。
「大丈夫?」
触れた瞬間。
手のひらの奥へ、知らない感覚が入ってきた。
熱い。
けれど、触れている皮膚が熱いのではない。
肘の少し下。
見えない場所に、小さく熱を持ったところがある。
そこだけ周りより硬く、押し込まれたような嫌な感じが重なっている。
澄江は息を止めた。
何かが見えたわけではない。
腕の中が透けたわけでもない。
それなのに。
ここだ、と分かった。
「痛い」
子どもが言った。
澄江は慌てて手を離した。
「どこ?」
「ここ」
子どもは、さっき澄江が感じたところに近い場所を押さえた。
袖をまくる。
土がついている。
少し赤い。
それだけだった。
転んだのだから、痛い場所くらい分かる。
偶然だ。
澄江はそう思った。
「水で洗った方がいいよ」
「うん」
別の子が駆け寄ってきた。
二人で水場の方へ行く。
澄江はその場に残った。
右の手のひらを見る。
何もついていない。
なのに、さっきの熱い場所だけが、まだ手の中に薄く残っていた。
自分の腕ではない。
それは分かる。
分かることの方が、気持ち悪かった。
「澄江?」
呼ばれて振り向く。
文子が教室の戸口から顔を出していた。
「何してるの。先生来るよ」
「今行く」
澄江は手を握った。
残っていた感覚は、それで消えなかった。
* * *
授業が始まると、さっきのことを考えている暇はなくなった。
黒板の字を書き写す。
先生に当てられる。
文子が隣で答えを間違えて、後ろの子に笑われる。
いつもと同じだった。
澄江も途中までは、いつもと同じように笑った。
その時、文子が机の下で澄江の袖を引いた。
「笑ったでしょ」
「笑ってない」
「笑った」
「後ろが笑ったんじゃん」
文子がもう一度引く。
指が、袖口から出ていた澄江の手首へ触れた。
また来た。
今度は、さっきより細い。
右手の人差し指。
指先に近いところへ、針の先みたいな硬さが一つある。
その周りだけが熱を持っている。
小さい。
小さいのに、どこにあるのかだけは妙にはっきりしていた。
澄江は手を引いた。
「何」
文子が小声で聞く。
「指」
「指?」
「右の、人差し指」
「何が?」
澄江は答えられなかった。
何があるのかは分からない。
ただ、変だと感じる。
文子は自分の指を見た。
「別に何も――あ」
爪の横をつまむ。
小さな木の屑が刺さっていた。
机の縁を触った時に入ったらしい。
「いつ刺さったんだろ」
文子が爪で抜こうとする。
澄江は、その指から目を離せなかった。
見える前に分かった。
転んだ子の時は、痛いと言われる前だった。
今は、文子自身が気づく前だった。
二回。
二回とも、人へ触った時だった。
「澄江?」
「何でもない」
「何でもない顔じゃない」
先生がこちらを見た。
文子は口を閉じた。
澄江も前を向く。
授業は続く。
それでも右手には、文子の指にあった小さな熱が残っていた。
さっき転んだ子の腕の感覚と重なる。
どちらも自分のものではない。
なのに、自分の手の中から出ていかない。
澄江は机の下で、右手を左手で包んだ。
温めても冷ましてもいない。
ただ、そこにあるのを隠したかった。
* * *
昼になる頃には、触れないようにすることばかり考えていた。
朝に転んだ子が、廊下の向こうを歩いていった。
まくった袖の下に、薄い色が出ている。
場所は、朝に澄江の手へ入ってきた熱さとほとんど同じだった。
澄江は呼び止めなかった。
廊下ですれ違う時は端へ寄る。
教科書を渡す時は机へ置く。
水場では、後ろの子が近づけば一歩ずれる。
誰かに触れれば、また来るかもしれない。
来ないかもしれない。
どちらなのか確かめるために、触りたいとは思わなかった。
文子はすぐ気づいた。
「何でそっち座るの」
昼休み、いつもの場所へ行くと、澄江は文子一人分を空けて座った。
「狭いから」
「いつももっと近いじゃん」
「今日は暑い」
「昨日も暑かった」
文子が寄ってくる。
澄江はまた少しずれた。
文子の眉が動いた。
「私、何かした?」
「してない」
「じゃあ何で逃げるの」
「逃げてない」
「逃げてる」
即答された。
澄江は膝の上の弁当へ目を落とした。
本当のことを言えばいいのかもしれない。
人に触ると、身体の中の変なところが分かる。
そう言って。
文子が信じなければ、変なことを言うなと笑われる。
信じたら。
今までみたいに、手を引いたり、背中を押したり、腕を組んだりしなくなるかもしれない。
どちらも嫌だった。
「ちょっと疲れてるだけ」
「朝は普通だったじゃん」
「今は疲れたの」
「ふうん」
納得していない声だった。
それでも文子は、それ以上聞かなかった。
代わりに、澄江の弁当から一つ取ろうと手を伸ばす。
澄江は反射的に弁当を引いた。
文子の手が空中で止まった。
「……それも駄目?」
「違う」
「何が違うの」
答えられない。
文子は自分の弁当に戻った。
その後、二人の間では、いつもより食べる音だけが大きかった。
* * *
放課後。
文子は先に校門を出なかった。
澄江が教室を出るまで、道の端で待っていた。
それを見て、少し安心した。
まだ怒っていない。
そう思ったのは、文子が歩き出すまでだった。
「朝から一回も触らせないじゃん」
いきなり言われた。
澄江は足を止めかけた。
「数えてたの?」
「数えてないよ。分かるよ、それくらい」
「別に文子だけじゃない」
「誰にも?」
「うん」
言ってから、しまったと思った。
文子が横から顔を覗き込む。
「何で?」
「だから、疲れてるから」
「触られると疲れるの?」
「……今は」
「何それ」
文子の声が少し大きくなる。
道の向こうを自転車が通った。
二人で端へ寄る。
いつもなら、その時にどちらかが相手の腕を引く。
今日はしない。
それが余計に目立った。
「私が嫌なら、そう言えばいいじゃん」
「嫌じゃない」
「じゃあ何で」
「言えない」
「何で言えないの」
「分からないから」
「またそれ」
文子が立ち止まった。
澄江も止まる。
「分からないって言えば何でも終わると思ってる?」
「本当に分からないの」
「私には分からなくていいってこと?」
「違う」
「じゃあ、こっち見て」
文子が澄江の手首を掴んだ。
その瞬間。
文子の指先にあった細い硬さ。
その周りの熱。
昼より少し強くなっている。
さらに、膝の横。
朝には知らなかった、小さく鈍い違和感が重なる。
今日どこかへぶつけたのか。
何なのかは分からない。
分からないのに、場所だけが勝手に入ってくる。
二つの感覚が一度に手の内側へ押しつけられた。
さっきまで残っていたものまで戻ってくる。
澄江は腕を振り払った。
「触らないで!」
文子の手を叩く音がした。
近くを歩いていた女が振り返る。
澄江自身も驚いた。
言うつもりだったのは、もっと小さい声だった。
文子は叩かれた手を胸の前へ引いた。
「……そんなに嫌だったんだ」
「違う」
「何が違うの」
「文子が嫌なんじゃない」
「じゃあ何が嫌なの」
澄江は言葉を探した。
触ると分かる。
中の変なところが。
でも、何なのかは分からない。
手を離しても残る。
その全部を、道の真ん中で言える気がしなかった。
「今は、触られるのが嫌」
文子の顔が固まった。
「同じじゃん」
「違うよ」
「何が」
「だから……」
続かなかった。
文子は先に歩き出した。
「一人で帰れば」
「文子」
呼んでも止まらない。
澄江は追いかけられなかった。
追いつけば、腕を掴むかもしれない。
謝る時に手へ触れるかもしれない。
そんなことまで考えてしまった自分が嫌だった。
文子より、自分の手を気にしているみたいだった。
違う。
文子が嫌になったわけではない。
むしろ、明日も一緒に学校へ行きたかった。
ただ今は。
誰にも触りたくなかった。
* * *
一人で帰る道は、いつもより狭く感じた。
前から人が来れば端へ寄る。
小さな子が走ってくれば止まる。
荷を運ぶ男の横を通る時は、肩が当たらないよう塀側へ避けた。
誰にも触れなければ、新しい感覚は入ってこない。
それだけで少し楽だった。
家へ着く。
和枝はまだ戻っていなかった。
澄江は学校の紙を置いた。
水を汲む。
言われていた掃除をする。
米を確かめる。
いつも通りに動けば、今日のこともいつも通りの中へ戻るような気がした。
戻らなかった。
右手にはまだ、文子の指先の小さな熱が残っている。
自分の指をつまむ。
何も刺さっていない。
手を洗う。
水は冷たい。
それでも、残っている場所だけは水とは関係なく熱かった。
自分のものではない感覚が、自分の手にいる。
澄江は手拭いで強く拭いた。
消えない。
「何なの」
声に出しても、答えはなかった。
戸が開いた。
澄江は肩を跳ねさせた。
「ただいま」
和枝だった。
帳面を包んだ風呂敷と、布の包みを抱えている。
「おかえり」
「何、その顔」
「何でもない」
「文子ちゃんと喧嘩した?」
澄江は思わず顔を上げた。
和枝がため息をつく。
「分かりやすいね」
「まだ何も言ってない」
「言ってるのと同じ顔してる」
和枝は荷を下ろした。
澄江の横を通る時、いつものように頭へ手を伸ばしかける。
澄江は身を引いた。
和枝の手が途中で止まった。
二人とも黙る。
「……今日はそれも駄目?」
和枝が聞いた。
責める声ではなかった。
澄江は頷いた。
「うん」
「分かった」
それだけ言って、和枝は手を下ろした。
台所へ行く。
火を起こす。
包みを開ける。
今日買ってきたものを並べる。
「手、洗ってきな」
「もう洗った」
「じゃあ、そっちの皿出して」
いつもと同じだった。
何があったのか、すぐ聞かれない。
澄江は皿を出した。
和枝は手渡しにせず、台の上へ置いたものを澄江に取らせた。
それに気づく。
気づいたら、少しだけ息がしやすくなった。
「文子と喧嘩した」
澄江から言った。
和枝は鍋の中を見たまま答える。
「やっぱり」
「笑わないで」
「笑ってないよ」
「私が悪いかもしれない」
「何したの」
「手、叩いた」
和枝の顔がこちらを向いた。
「何で」
澄江は黙った。
言わなければならない。
でも、どう言えばいいのか分からない。
その時、戸が叩かれた。
二人で振り向く。
返事をするより先に、聞き慣れた声がした。
「澄江、いる?」
文子だった。
澄江は立ったまま動けなかった。
和枝が戸を開ける。
文子は紙を一枚持っていた。
「これ、机の下に落ちてた」
学校でもらった紙だった。
澄江は自分の置いたものを見る。
一枚足りない。
「ありがとう」
文子は紙を差し出しかけた。
途中で止める。
和枝を見る。
「そこ置いていいですか」
「いいよ」
文子は入口の近くへ紙を置いた。
帰るかと思った。
帰らなかった。
「私、何かした?」
昼と同じことを聞かれた。
今度は、逃げる場所がなかった。
「してない」
「じゃあ、私が嫌いになった?」
「なってない」
「本当?」
「本当」
文子は澄江の手を見た。
触ろうとはしなかった。
「じゃあ何で、触るなって言うの」
澄江は唇を噛んだ。
全部は言えない。
自分でも全部は分からない。
でも、何も言わなければ、文子の中では自分が嫌われたままになる。
「触ると、変な感じがするの」
「どこが?」
「手」
「痛いの?」
「痛いのとは違う」
「じゃあ何」
「分からない」
文子が少しむっとした。
澄江は先に続けた。
「本当に分からない。でも、文子だけじゃない。誰に触っても、今は嫌なの」
「私のせいじゃない?」
「違う」
「じゃあ、明日も一緒に行く?」
「行く」
今度はすぐ言えた。
文子の顔から、少しだけ力が抜けた。
「なら先に行かないでよ」
「行かない」
「あと」
「何」
「嫌なら、叩く前に言って」
澄江は俯いた。
「ごめん」
「痛かったからね」
「ごめん」
「二回言ったから、もういい」
文子は立ち上がる。
和枝が聞いた。
「もう帰るの」
「うん。遅いと怒られる」
戸口まで行って、振り返る。
「澄江」
「何」
「明日は、こっちから触らない」
「……うん」
「その代わり、急に逃げないで」
「分かった」
「じゃあ明日」
「明日」
文子は帰った。
戸が閉まる。
澄江はしばらく、置かれた学校の紙を見ていた。
和枝が火の方へ戻る。
「嫌いじゃないって言えてよかったね」
「聞いてたの」
「ここ私の家でもあるんだけど」
「そうだけど」
「で」
和枝が鍋の蓋を置いた。
「触ると、何が変なの」
今度は逃げられなかった。
* * *
食事の前に全部話すつもりはなかった。
でも、話し始めると途中で止めにくかった。
朝、転んだ子の腕に触れたこと。
見えないのに、熱い場所と硬い感じが分かったこと。
文子の指へ木の屑が刺さっているのを、見る前に変だと思ったこと。
手を離しても、感覚が残ること。
何度か重なると、どれが誰のものだったか分からなくなりそうで気持ち悪かったこと。
和枝は途中で口を挟まなかった。
全部聞いてから、自分の右手を見た。
「それで、私からも逃げたの」
「うん」
「私にも何かあると思った?」
「分からない」
「触れば分かる?」
「何か変なら」
言ってから、澄江は自分で嫌になった。
試したいように聞こえた。
和枝もそう思ったらしい。
手を出さなかった。
「じゃあ、今は試さなくていい」
澄江は顔を上げた。
「でも、私が嘘じゃないって」
「嘘だって決めてないよ」
「信じるの?」
「まだ何だか分からない」
和枝は即答した。
「疲れてるのかもしれない。見たことを後からそう思ってるだけかもしれない。何か病気なのかもしれない」
「病気?」
澄江の声が少し上がる。
「だから、まだ分からないって言ってる」
和枝はそこで一度止めた。
「怖い?」
澄江はすぐには答えられなかった。
怖い。
でも、何が怖いのか一つではない。
自分の身体が変になったのかもしれない。
人に触れば、知らなくていいことまで分かるのかもしれない。
文子に嫌われるかもしれない。
和枝に変な子だと思われるかもしれない。
「……触るのが嫌」
結局、そこだけ言った。
和枝は頷いた。
「じゃあ今日は触らなくていい」
「でも」
「今日は、ね」
和枝は澄江の言葉を遮らなかった。
「明日のことまで今決めない。学校へは行くんでしょう」
「行く」
「文子ちゃんとも行く」
「うん」
「なら、それはそのまま」
和枝は食事の支度へ戻った。
「それと、身体のことは私一人で大丈夫って決めない」
澄江の肩が強張る。
「誰かに言うの?」
「田代先生」
「嫌」
「何が嫌」
「変な子だって言われる」
「先生が言うかどうかもまだ分からない」
「みんなに話されたら?」
「それは先に話す。勝手に広めないでって」
「でも」
和枝が手を止める。
「澄江」
いつもより少し低い声だった。
「私が怖いから黙るのと、あんたを守るのは同じじゃない」
澄江は何も言えなかった。
「何が起きてるか分からないなら、分かる人に身体を見てもらう。触る必要があるなら先に聞く。嫌なことを勝手にさせない。それでいい」
和枝はそこまで言ってから、少し考えた。
「明日、学校へ行く前に寄れるか聞いてみる」
澄江は不安だった。
でも、今夜のうちに近所中へ話されるわけではない。
誰かを呼んで、次々触れと言われるわけでもない。
それだけで、思っていたよりましだった。
「叔母さん」
「何」
「一回だけなら」
「何が」
「手」
澄江は和枝の右手を見る。
「触ってみてもいい」
和枝はすぐには出さなかった。
「澄江が確かめたいの?」
「うん」
「私が頼んだからじゃなく?」
「頼んでないじゃん」
「そうだね」
それでようやく、和枝は手を出した。
掌を上にする。
「嫌になったら離すんだよ」
澄江は頷いた。
指先だけを重ねる。
何もない。
最初の一瞬はそう思った。
次に。
親指の付け根。
そこから手首の内側へ続く辺りに、重い違和感がある。
熱いというより、使いすぎた場所だけが鈍く残っている感じだった。
さらに少し上。
右の腕の付け根に近いところへ、硬く張ったような感覚がある。
見えない。
病名も分からない。
ただ、そこに他と違う場所がある。
澄江はすぐ手を離した。
「ここ」
自分の親指の付け根を指す。
「それと、ここからこの辺」
手首。
腕の付け根。
和枝の顔から、少しだけ表情が消えた。
「痛い?」
「……縫い物した日はね」
「今日も?」
「今日は帳面も長かったから」
「見てないよ、私」
「見てないね」
和枝は自分の手を握る。
澄江は、言ってから怖くなった。
当たった。
偶然かもしれない。
二回も三回も偶然が続くことはある。
でも。
さっきまで和枝が何とも言っていなかった場所を、触れた瞬間に感じた。
「叔母さん」
「うん」
「私、変になった?」
和枝はすぐ答えなかった。
その間が長く感じた。
「変わったのかもしれない」
ようやく言った。
「でも、それが何なのかは明日まで分からない」
「元に戻る?」
「それも分からない」
澄江は俯いた。
和枝が手を伸ばしかける。
途中で止めた。
代わりに、湯呑みへ茶を注ぐ。
澄江の前へ置く。
「今日はもう誰にも触らなくていい」
「叔母さんにも?」
「私にも」
「でも、手、痛いんでしょ」
「痛いなら休ませる」
和枝は右手を左手で包んだ。
「毎回あんたに触ってもらわないと自分の手が分からないわけじゃないよ」
澄江は湯呑みを両手で持った。
温かい。
今度は、自分の手と湯の温かさだけだった。
それが、今日はとても分かりやすかった。
* * *
夜。
布団に入っても、澄江はなかなか眠れなかった。
手を胸の上へ出してみる。
暗くて、形はよく見えない。
文子の指先の熱は、もうかなり薄くなっていた。
転んだ子の腕の感覚はほとんど残っていない。
和枝の手首の重さだけが、最後に触れたせいか少しだけある。
時間が経てば消えるらしい。
それも、まだ一日しか分からないことだった。
明日起きたら、全部なくなっているかもしれない。
澄江は、それを少し望んだ。
文子といつも通り歩ける。
誰かにぶつからないよう気をつけなくていい。
人の身体の変なところを、勝手に知らなくていい。
その方が楽だった。
でも。
今日、自分が感じたものまで全部嘘だったことにはしたくなかった。
分からない。
だから明日、田代のところへ行く。
和枝が決めたからだけではない。
自分でも、何が起きたのか知りたかった。
ただし。
誰かに触り続けて確かめたいわけではなかった。
澄江は両手を布団の中へ入れた。
戸の向こうでは、和枝がまだ何か縫っているらしい。
布が動く音がする。
しばらくして止まる。
また動く。
今日も仕事は残っている。
明日も学校がある。
文子は迎えに来る。
田代のところへも行く。
その全部の中へ、今日から一つだけ、今までなかったものが混じった。
それがこの町で最初だったのかは、誰にも分からない。
拓真にも分からない。
けれど、澄江の手に起きたことは、もう「何もない」ではなかった。
誰かに選ばれたわけでもない。
何かになるよう教えられたわけでもない。
普通に学校へ行って。
友達と喧嘩して。
家へ帰った一日の中で。
本物は、拓真の目の届かないところに生まれていた。
改稿前verだけ見て切られたら困るんですが、消した方が伸びると思いますかね?
-
消した方が伸びる
-
消さない方が伸びる
-
どっちでも良い