歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい   作:無異常世界

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第十三話

それから何日かして、診療所の戸が勢いよく開いた。

 

澄江は待合の端で、田代が前の患者の薬を包み終えるのを待っていた。

 

今日は何かを試す日ではない。

 

和枝が用事を済ませる間、学校の帰りに診療所へ寄っただけだった。

 

「先生」

 

入ってきた女は、息を切らしていた。

 

「広瀬さんが、起きられないって」

 

田代の手が止まった。

 

「いつからだ」

 

「昼過ぎから腹が痛いって言ってて。さっき急に、顔が真っ白になって」

 

田代は包みかけの薬を脇へ寄せた。

 

診察室から鞄を持ってくる。

 

「家か」

 

「はい」

 

「歩ける距離だな」

 

もう一人待っていた患者へ向き直る。

 

「すまん。戻るまで待てるか」

 

老人が手を振った。

 

「行ってやれ」

 

田代は頷いた。

 

それから、待合の隅にいる澄江を見た。

 

一瞬だけだった。

 

何も言わないまま、戸口へ向かう。

 

澄江は立ち上がった。

 

「先生」

 

田代が振り返る。

 

「私も行った方がいい?」

 

「行った方がいい、とは言わん」

 

「役に立つかもしれない?」

 

田代は少しだけ黙った。

 

「その可能性はある」

 

澄江は自分の手を見る。

 

今日は誰にも使っていない。

 

何かが残っている感じもない。

 

「行く」

 

「和枝さんは」

 

「すぐ戻るって言ってた」

 

「なら、先に話を残す」

 

田代は受付の紙へ短く書きつけた。

 

澄江が自分からついて行ったこと。

 

広瀬の家へ往診に出ること。

 

書き終えると、田代は澄江へ言った。

 

「触るかどうかは、向こうで決める」

 

「うん」

 

「先に俺が診る」

 

「分かってる」

 

前なら、その言い方に少し腹を立てたかもしれない。

 

今は、むしろそれでよかった。

 

* * *

 

広瀬は、奥の部屋に敷かれた布団へ横になっていた。

 

澄江は何度か町で見かけたことがある。

 

話したことはほとんどない。

 

いつもよりずっと小さく見えた。

 

顔色が悪い。

 

額には汗が浮いている。

 

田代は澄江を部屋の端へ残した。

 

「広瀬、聞こえるか」

 

「……先生」

 

「痛いのはどこだ」

 

広瀬が腹へ手を置く。

 

「この辺です」

 

「昼からずっとか」

 

「朝は、少し変だなってくらいで」

 

田代は質問を続けた。

 

いつから強くなったか。

 

何をしていたか。

 

吐いたか。

 

便はどうか。

 

前にも同じことがあったか。

 

澄江には、全部が何を確かめるための質問なのかは分からない。

 

田代は腹へ触れ、場所を変え、広瀬の顔を見る。

 

手首も取った。

 

胸にも耳を当てた。

 

途中で一度、時計を見る。

 

「さっきより悪くなってるか」

 

広瀬の妻が答えた。

 

「はい。先生を呼びに行く前より」

 

「立たせたか」

 

「立とうとして、無理でした」

 

田代は返事をしなかった。

 

もう一度、広瀬の腹へ手を置く。

 

澄江は、田代の顔が少し変わったのを見た。

 

驚いた顔ではない。

 

考えている時の顔だった。

 

田代がこちらを見る。

 

「澄江」

 

「うん」

 

「今から触るなら、知りたいのは病名じゃない」

 

「どこが変か?」

 

「そうだ。俺がもう一度確かめる場所を増やしたい」

 

澄江は広瀬を見る。

 

広瀬もこちらを見た。

 

苦しそうなのに、目だけははっきりしている。

 

田代が言う。

 

「嫌ならやらん」

 

広瀬の妻が澄江へ何か言いかけた。

 

その前に、広瀬が小さく手を上げた。

 

「俺から、頼みます」

 

声は弱かった。

 

「お願いします」

 

澄江はすぐには近づかなかった。

 

「一回だけ」

 

「はい」

 

「途中で嫌になったら離す」

 

「はい」

 

そこまで聞いてから、澄江は布団の横へ座った。

 

どこへ触れるか迷う。

 

腹へ直接触るのは嫌だった。

 

「手でいい?」

 

「いいよ」

 

広瀬が右手を出した。

 

澄江は手首へ指を置いた。

 

皮膚の温かさ。

 

骨。

 

脈打つ感覚。

 

その向こうから、別の身体が重なってくる。

 

最初はぼやけていた。

 

澄江は息を止めないようにした。

 

前に田代へ言われた。

 

無理に分かろうとすると、自分で形を作るかもしれない。

 

感じたものだけ言え。

 

腹。

 

広瀬が自分で押さえていた辺りとは、少し違う。

 

もっと奥。

 

一か所だけではない。

 

熱い、という感じとも少し違う。

 

広いところへ薄く違和感が重なり、その中に、強い場所がある。

 

澄江は眉を寄せた。

 

「先生」

 

「何だ」

 

「広い」

 

「どこが」

 

澄江は自分の腹の上で場所を示した。

 

「この辺。ここだけじゃなくて、奥に広がってる感じ」

 

田代は口を挟まない。

 

「一番変なのは?」

 

澄江は少し待った。

 

「こっち」

 

指をずらす。

 

「でも、固いのがあるっていうより……何か、合わない感じが強い」

 

「熱は」

 

「少し。前の人みたいに、そこだけ熱い感じじゃない」

 

「形は」

 

「分からない」

 

田代が頷く。

 

「もういい」

 

澄江はすぐに手を離した。

 

広瀬の身体の感覚が、自分の腹へ薄く残る。

 

一か所だけではない。

 

だから余計に気持ちが悪かった。

 

澄江は両手を膝へ置いた。

 

田代はもう広瀬を見ていた。

 

澄江が示した辺りへ触れる。

 

さっきとは違う順番で確かめる。

 

広瀬へ聞く。

 

「ここは」

 

「……痛いです」

 

「こっちは」

 

「そこも」

 

田代はまた手首を取った。

 

今度は長く数えている。

 

妻が不安そうに聞く。

 

「先生、何なんですか」

 

「まだ決めん」

 

「でも」

 

「決めてから動く必要はない」

 

田代は顔を上げた。

 

「ここで待たせるのをやめる」

 

広瀬の妻が息を呑む。

 

「病院へ?」

 

「設備のあるところで診てもらう。今からだ」

 

「この子が分かったからですか」

 

田代は首を振った。

 

「それだけじゃない」

 

広瀬の腹へ触れていた自分の手を上げる。

 

「朝からの変わり方。今の顔色。俺が診たこと。それと澄江が言った場所。全部合わせた」

 

「じゃあ、何が」

 

「向こうで確かめる」

 

田代は立ち上がった。

 

「車を出せる人を呼んでくれ。急いでほしい」

 

広瀬の妻が部屋を飛び出した。

 

田代は澄江へ向く。

 

「お前はもう触るな」

 

「うん」

 

「残ってるか」

 

「少し」

 

「和枝さんが来たら、一緒に帰れ」

 

澄江は驚いた。

 

「私、行かなくていいの」

 

「向こうで必要なのは俺じゃない医者と設備だ」

 

「先生は?」

 

「一緒に行く」

 

「じゃあ私も」

 

「お前が行っても、次に病名が分かるわけじゃない」

 

田代は広瀬を見る。

 

「もう観測点は増えた。ここから先は、別の仕事だ」

 

澄江は口を閉じた。

 

それなら、分かる。

 

自分の出番が終わったのだ。

 

能力が消えたからではない。

 

役に立たないからでもない。

 

今必要なことが別になった。

 

その方が、少し嬉しかった。

 

* * *

 

車が来るまでの時間が、澄江にはひどく長く感じられた。

 

実際には、そんなに長くなかったのかもしれない。

 

田代は何度も広瀬へ声をかけた。

 

広瀬の妻は持っていくものをまとめ、近所の男が戸口と道を空けた。

 

別の誰かが、運ばれる先へ先に連絡を頼まれて走った。

 

澄江は何もすることがなかった。

 

だから、余計によく見えた。

 

自分の手だけでは、人は運べない。

 

向こうの医者へ知らせることもできない。

 

車も出せない。

 

広瀬を布団から持ち上げる時、田代一人では足りなかった。

 

大人が二人増えた。

 

妻が戸を押さえた。

 

田代が頭の方へ回る。

 

誰かが「ゆっくり」と言った。

 

誰かが道の先を見に走った。

 

その全部の中に、さっき自分が触れたことも入っている。

 

それだけだった。

 

それだけなのに、抜いていいものでもない気がした。

 

車へ乗せる直前、田代が紙を広瀬の妻へ渡した。

 

左側には田代が診たこと。

 

右側には澄江が触れて言ったこと。

 

同じ紙だった。

 

でも、やっぱり欄は分かれていた。

 

「向こうでこれを見せろ」

 

「はい」

 

「澄江の話だけを先に読ませなくていい。全部渡せ」

 

「分かりました」

 

車が出る。

 

田代も乗った。

 

澄江は道の端に立ったまま、見えなくなるまで見送った。

 

「澄江」

 

後ろから声がした。

 

和枝だった。

 

いつの間にか来ていた。

 

澄江は振り返る。

 

「叔母さん」

 

「勝手について行ったって?」

 

「……うん」

 

「先生の紙、見た」

 

和枝は怒っているようには見えなかった。

 

「自分で行くって言ったの」

 

「言った」

 

「触るのも?」

 

「うん」

 

和枝はそれだけ聞いて、広瀬の家の方を見る。

 

「帰ろう」

 

「でも」

 

「ここにいても治せないでしょ」

 

田代と同じことを言われた。

 

澄江は少しだけむっとした。

 

「分かってる」

 

「なら帰る」

 

「先生、夜まで戻らないかも」

 

「だから何」

 

「結果、知りたい」

 

和枝が澄江を見る。

 

「私も知りたいよ」

 

それから、少しだけ声を落とした。

 

「だから待つの」

 

澄江はもう一度、車が消えた道を見た。

 

自分の腹には、まだ広瀬の違和感が少し残っていた。

 

それが薄くなる方が先か。

 

田代が戻る方が先か。

 

分からなかった。

 

* * *

 

田代が診療所へ戻ったのは、外が暗くなってからだった。

 

待合の明かりだけがついている。

 

戸を開けると、和枝が長椅子から立った。

 

その横で、澄江が眠そうな顔を上げる。

 

「帰れと言っただろ」

 

「一回帰りました」

 

和枝が答える。

 

「夕飯食べて、また来たんです」

 

「何で」

 

「この子が結果を聞くまで寝ないって」

 

澄江が立ち上がる。

 

「先生」

 

田代は鞄を机へ置いた。

 

顔に疲れが出ていた。

 

それでも先に言った。

 

「間に合った」

 

澄江は息を止めた。

 

「助かったの?」

 

「今のところはな」

 

「何だったの」

 

「そこは向こうの医者が診た話だ。細かいことを全部お前に教える必要はない」

 

前にも聞いた答えだった。

 

澄江は少しだけ口を尖らせる。

 

「またそれ」

 

「まただ」

 

田代は椅子へ座った。

 

「ただし、お前が言った場所は無駄じゃなかった」

 

「本当?」

 

「俺がもう一度見る理由になった。向こうへ急がせる判断の一つにもなった」

 

「それで助かった?」

 

田代はすぐには頷かなかった。

 

「それだけで助かったわけじゃない」

 

澄江の顔から少しだけ喜びが引く。

 

田代は続けた。

 

「だから、いいんだ」

 

「何が」

 

「お前が一人で助けたんじゃない」

 

田代は指を一本ずつ折った。

 

「広瀬本人が変だと言った。家の人が呼びに来た。俺が診た。お前が別の場所を出した。車を出した人がいた。向こうで診た人がいた。検査した人がいた。処置した人がいた」

 

最後まで折っても、指が足りなかった。

 

「どれか一つだけを正解にしてたら、遅れたかもしれん」

 

澄江は黙って聞いた。

 

自分がすごくなかった、と言われた気はしなかった。

 

むしろ逆だった。

 

その中に自分の手が本当に入っている。

 

ただし、全部ではない。

 

それが嬉しかった。

 

「じゃあ、役に立った?」

 

田代が頷く。

 

「役に立った」

 

今度は澄江も笑った。

 

和枝が横で息を吐く。

 

「よかった」

 

誰が、とは言わなかった。

 

広瀬が助かったことも。

 

澄江の手が役に立ったことも。

 

たぶん両方だった。

 

田代は机へ向き直った。

 

紙を出す。

 

書き始める。

 

澄江は覗き込まなかった。

 

今日は、紙より先に分かったことがある。

 

触れた時にだけ分かることがある。

 

医者にしか決められないことがある。

 

車を出す人にしかできないことがある。

 

向こうの設備でしかできないこともある。

 

一つずつは別なのに、同じ人を助ける時にはつながる。

 

それは、澄江が想像していたよりずっと大きかった。

 

* * *

 

広瀬が診療所へ顔を出したのは、それからしばらく後だった。

 

まだ動きはゆっくりだった。

 

妻が隣についている。

 

澄江は和枝と一緒に、診療所へ頼まれ物を届けに来ていた。

 

戸口で広瀬と目が合う。

 

「あ」

 

先に声を出したのは広瀬だった。

 

「澄江ちゃん」

 

澄江は少し緊張した。

 

元気そう、と言っていいのか分からない。

 

前に会った時より顔色はずっとよかった。

 

広瀬はゆっくり頭を下げた。

 

「ありがとう」

 

澄江はすぐに首を振った。

 

「私だけじゃないよ」

 

言ってから、自分でも田代みたいだと思った。

 

広瀬が少し笑う。

 

「先生にも、向こうの先生にも、車出してくれた人にも言った」

 

「じゃあいい」

 

「いいのか」

 

「私にも言ったなら」

 

広瀬はまた笑った。

 

田代が診察室から顔を出す。

 

「笑えるなら中へ入れ」

 

「先生、もう少し優しくできませんか」

 

「できるが、今日はしない」

 

広瀬が妻に支えられながら中へ入る。

 

澄江はその背中を見た。

 

歩いている。

 

話している。

 

笑っている。

 

前に触れた時、澄江の中へ入ってきたあの嫌な広がりは、もうない。

 

今は触っていないから、当然分からない。

 

それでも、助かったのだと目で見て分かった。

 

胸の奥が少し熱くなる。

 

能力を使ってよかったと思った。

 

その時だった。

 

「澄江ちゃん」

 

待合にいた女が呼んだ。

 

知らない人だった。

 

「広瀬さんを見つけたの、この子なんでしょう?」

 

澄江の笑いが止まる。

 

田代も聞こえたらしく、診察室から振り返った。

 

女は続ける。

 

「うちの母も、ずっと腹が悪いって言ってて。一度だけでいいから、触ってもらえない?」

 

その隣の男も顔を上げた。

 

「あの、俺も前から胸が」

 

「待て」

 

田代の声が飛んだ。

 

二人が黙る。

 

田代は診察室から出てきた。

 

「順番に診る。澄江に触らせるかどうかは、その後だ」

 

「でも、広瀬さんはそれで助かったって」

 

「それだけで助かったんじゃない」

 

田代は即答した。

 

前にも何度も言った言葉だった。

 

けれど、相手の顔は前と違った。

 

疑っている顔ではない。

 

期待している顔だった。

 

本当に役に立ったと知った人間の顔だった。

 

澄江は自分の手を見る。

 

広瀬が助かったのは嬉しい。

 

また誰かの役に立てるなら、それも嬉しい。

 

それでも。

 

さっきまで何でもなかった両手が、急に待合中から見られている気がした。

 

田代が澄江の名を呼びかける。

 

「澄江――」

 

そこで止まった。

 

田代自身も、一瞬だけ頼もうとしたのだと澄江には分かった。

 

助かった一人を見たのは、田代も同じだった。

 

田代は言い直した。

 

「今日は、どうする」

 

澄江はすぐには答えなかった。

 

広瀬が助かった前より。

 

役に立つと分かった前より。

 

同じ「一回だけ」が、少し重くなっていた。

 

改稿前verだけ見て切られたら困るんですが、消した方が伸びると思いますかね?

  • 消した方が伸びる
  • 消さない方が伸びる
  • どっちでも良い
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