歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい 作:無異常世界
「今日は、しない」
澄江はそう答えた。
待合の女が、すぐには意味を飲み込めなかったような顔をした。
「え?」
「今日は、もう誰にも触らない」
さっきよりはっきり言う。
胸が悪いと言った男も、澄江を見ていた。
田代は一度だけ澄江の顔を見た。
それから、何でもないことのように頷いた。
「分かった」
女が慌てて口を開く。
「でも先生、母はずっと腹が悪いって言ってるんです。広瀬さんの時みたいに、一度見てもらえれば」
「なら、母親を連れてこい」
田代は遮った。
「俺が診る」
「その後で、この子にも?」
「今日はやらんと言った」
「明日は?」
「明日の澄江に聞け」
女はまだ納得していなかった。
「何もなければ安心できると思ったんです」
今度は澄江が言った。
「私が何も分からなくても、大丈夫って意味じゃないよ」
女の視線が戻る。
澄江は自分の両手を膝の上へ置いた。
「分からない時もあるから」
「でも広瀬さんは」
「広瀬さんも、私だけで助かったんじゃない」
前なら、田代に教えられた言葉を繰り返している気がしたかもしれない。
今は違った。
広瀬が歩いて、笑って、礼を言ったところを自分の目で見た。
その上で言えた。
田代が男の方へ向いた。
「胸が悪いって言ったな。こっちへ来い」
「え、でも」
「澄江に触らせる前に診ると言っただろ」
男は少し気まずそうに立ち上がった。
田代は診察室へ入れた。
女はしばらく澄江を見ていたが、やがて小さく頭を下げた。
「じゃあ、母を連れてきます」
「うん」
「その時、澄江ちゃんがいいって言ったら」
澄江は返事を急がなかった。
「その時に決める」
女はようやく戸口へ向かった。
外へ出る前に一度振り返ったが、今度は何も言わなかった。
待合が少し静かになる。
和枝が横で長く息を吐いた。
「疲れた?」
「まだ平気」
「手じゃなくて」
言われて、澄江は少し考えた。
「そっちは、ちょっと」
和枝が苦笑する。
「帰る?」
澄江は診察室の方を見た。
中では、田代が男へいつから痛むのか聞いている。
澄江の話は、もうしていなかった。
「先生に一個だけ聞いてから」
「何を」
「さっきのこと」
「さっき?」
澄江は答えなかった。
田代が自分の名を呼びかけて、途中で止めた時のことだった。
* * *
最後の患者が帰る頃には、窓の外が少し暗くなっていた。
田代は机の上を片づけながら、澄江と和枝がまだいることに気づいた。
「帰ったんじゃなかったのか」
「澄江が聞くことあるって」
和枝が言う。
田代は澄江を見る。
「何だ」
澄江は椅子へ座ったまま聞いた。
「さっき、私に頼もうとした?」
田代の手が止まった。
「何を」
「待合の人に」
「……した」
和枝が田代を見る。
田代は誤魔化さなかった。
「一瞬な」
「私が嫌って言う前に?」
「言う前だ」
「何でやめたの」
田代は机の端に積んでいた紙を揃えた。
「頼む理由より先に、お前が今日どうするかを聞くべきだと思ったからだ」
澄江は自分の指を見た。
「先生も、やってほしかったんだ」
「そりゃ思う」
田代はあっさり答えた。
「広瀬が助かった後だ。俺だって、前より使いたくなる」
和枝が小さく笑った。
「正直ですね」
「嘘をついてどうする」
田代は椅子へ座る。
「役に立つものがある。使えば何か見落としを減らせるかもしれん。そう思えば使いたくなる」
「じゃあ、使った方がいいじゃん」
澄江が言う。
田代は首を振った。
「毎回それで決めたら、お前が嫌だと言う場所がなくなる」
「でも、嫌って言って誰かが悪くなったら?」
その言葉は、待合で断ってからずっと胸の奥に残っていた。
広瀬が助かった。
だから、次に断った相手が助からなかったら。
その二つを、自分が勝手につなげてしまう。
田代はすぐには答えなかった。
机の上の診察票を一枚開く。
さっき胸が悪いと言っていた男の紙だった。
「こいつは、お前に触らせなかった」
「うん」
「だから診なかったか?」
「診た」
「必要なら外へ送る。薬を出す。家で見るなら何を見ればいいか言う。俺が分からなければ分からんと言う」
田代は紙を指で叩いた。
「お前が休んだら、全部止まる診療所にする気はない」
澄江は黙った。
少し安心した。
同時に、少しだけ寂しい気もした。
自分がいなくてもいい、と言われたようにも聞こえたからだ。
田代はその顔を見たのか、続けた。
「必要な時はある」
澄江が顔を上げる。
「でも、必要な時があることと、いつでも使うことは別だ」
「難しい」
「俺も今決めてる途中だ」
田代は机の引き出しから、新しい紙を何枚か出した。
それまで使っていた診察票と同じ大きさだった。
ただ、線の引き方が少し違う。
左側に、いつもの診察を書く場所。
右側に、澄江が触れた時の所見を書く場所。
下には、経過と結果を書く欄がある。
澄江は身を乗り出した。
「また増えた」
「増やした」
「私のところ、広くない?」
「毎回長く書くとは限らん」
「何も分からなかったら?」
「何も分からなかったと書く」
「触らなかったら?」
田代はそこで止まった。
鉛筆の先が紙の上に浮く。
「空ける」
「忘れたみたいにならない?」
「ならん」
「何で」
「診察の方は埋まってるからだ」
田代は左の欄を指した。
「お前が触らなかったからって、診察が途中になるわけじゃない」
澄江はしばらく紙を見ていた。
それは、思っていたより大事なことのように感じた。
右側が空いていてもいい。
空いているから、失敗ではない。
田代は別の小さな紙を出した。
「こっちは、お前の方だ」
「私?」
「何人に使ったか。残った感じがあるか。疲れたか。今日はやらないと言ったか」
澄江の眉が寄る。
「嫌って言ったことも書くの?」
「患者の紙には書かん」
田代はすぐ答えた。
「お前の身体の話だから、こっちだ」
和枝が田代を見る。
「誰でも見られるところには置かないでください」
「分かってる」
「分かってるって言う人が、一番先に忘れるんです」
「お前は俺を何だと思っとる」
「医者」
「ならもう少し信用しろ」
「医者だから確認してるんです」
二人が言い合う。
澄江は少し笑った。
それから、小さな紙へ目を戻した。
「今日は、やらないって書くの?」
「書いてもいい」
「何で?」
「昨日まで平気だったのに、今日だけ嫌だったのかもしれん。使いすぎた後だから嫌なのかもしれん。何も関係なく嫌なだけかもしれん」
「最後のも?」
「最後のも」
「理由なくても?」
田代は頷いた。
「理由がないと断れん決まりにしたら、理由を作るようになる」
澄江は鉛筆を受け取った。
今日の日付の横へ、自分で書く。
今日はしない。
書いた後、少し考えて、その下へ足した。
理由は、聞かない。
和枝が覗き込む。
「具合が悪そうなら聞くよ」
「それはいい」
「じゃあ書き方が違う」
「叔母さん細かい」
「さっきまで先生に細かく聞いてたの誰」
澄江は一度消して、書き直した。
使いたくない理由は、言わなくてもいい。
田代はその字を見た。
「それなら分かる」
紙はまだ余白だらけだった。
それでよかった。
最初から全部決めるつもりは、三人ともなかった。
* * *
次の日の朝、澄江は目を覚ました時から、自分の手を気にしていた。
何か残っているわけではない。
頭も重くない。
よく眠れた。
それでも、昨日の待合の視線を思い出すと、今日は誰にも使いたくなかった。
朝飯を食べ終えたところで、和枝が聞く。
「今日は?」
澄江は少し迷った。
「休む」
和枝は味噌汁の椀を持ったまま頷いた。
「分かった」
「一日?」
「一日って言ったなら一日」
「まだ言ってない」
「じゃあ今決めな」
澄江は笑った。
「一日」
「はい」
それだけだった。
特別な理由は聞かれなかった。
学校へ行く支度をしていると、文子が来た。
戸を開けた瞬間、いつものように上がり込む。
「今日、早いじゃん」
「まだ出てないから早くない」
「私より先に支度終わってる」
文子は澄江の鞄を持ち上げた。
その拍子に指先が少し触れた。
澄江は反射的に手を引きかけたが、何も探さなかった。
ただの触れ方だった。
文子が気づく。
「今日どうする日?」
「休み」
「何の?」
「手の」
文子は一拍置いてから頷いた。
「じゃあ川行ける?」
「学校終わってからなら」
「休みなのに学校は行くの?」
「学校まで休まないよ」
「分かりにくい」
「私も」
二人は笑った。
家を出る直前、戸が叩かれた。
和枝が出る。
昨日の待合にいた女ではなかった。
近所の男だった。
「朝から悪い。瀬尾さん、澄江ちゃん今日いるか」
澄江は靴を履く手を止めた。
和枝が答える。
「いますけど、今日は休みです」
男は戸口で固まった。
「休み?」
「能力を使わない日」
和枝は言ってから、自分でも少し変な言い方だと思ったらしい。
眉を寄せた。
男は澄江を見た。
「具合悪いのか」
「悪くないよ」
澄江が答える。
「でも今日は使わない」
「うちの親父がな、昨夜から背中が痛いって」
和枝はすぐに言った。
「田代先生のところへ連れてってください」
「澄江ちゃんが一回だけ見てからでも」
「今日はしません」
今度は澄江が言った。
男は困った顔をした。
「そうか」
少し間を置いてから、頭を掻く。
「じゃあ先生んとこ連れてく」
それで終わった。
怒鳴られなかった。
責められもしなかった。
それでも澄江の胸には少し残った。
男が角を曲がるまで見送る。
文子が横から顔を覗き込んだ。
「行かないの?」
「今日は休みって決めた」
「なら行かないんじゃないの」
「そうだけど」
「じゃあ早く。遅れる」
文子は先に歩き出した。
澄江も追う。
学校へ着く頃には、さっきの男のことを考える時間は減っていた。
授業がある。
作文の続きがある。
昼には文子と弁当を食べる。
休み時間には、同じ組の子と石を蹴って遊んだ。
誰かと肩が当たるたびに、能力が勝手に消えたわけではないことは分かる。
感じようとすれば、何か入ってくるかもしれない。
それでも今日は探さなかった。
使わないと決めたのは、能力がなくなったのとは違った。
あるまま使わない。
その方が、前より少し難しかった。
* * *
同じ頃。
田代の診療所へ、朝の男が父親を連れてきていた。
老人は自分で歩いて入ってきたが、座る時に顔をしかめた。
「澄江ちゃんは?」
息子が先に聞く。
田代は診察道具を出しながら答えた。
「今日は休みだ」
「家にはいるって」
「学校だろう」
「呼べば来るんじゃ」
「呼ばん」
田代は老人へ向き直った。
「痛いのは背中か」
話を聞く。
いつからか。
何をしていた時か。
熱はあるか。
食べられるか。
息をすると変わるか。
歩くとどうか。
田代はいつも通り診た。
何度か聞き直し、表情を見て、脈を取り、胸と腹も確かめる。
息子はその間も落ち着かなかった。
「先生、やっぱり澄江ちゃんに」
「黙って待て」
田代の声が少し強くなった。
老人の方が息子を睨んだ。
「先生が診てるだろうが」
息子が口を閉じる。
田代は診察を続けた。
澄江がいれば、別の観測点が一つ増えたかもしれない。
その考えは何度も浮かんだ。
広瀬の時を知っているからこそ、浮かぶ。
だが、今朝の澄江は休みだ。
そこへ「今回だけ」を持ち込めば、次も同じになる。
田代は老人へ聞いた。
「昨日より悪いか」
「夜よりは、今の方が重い」
「横になっても変わらん?」
「変わらん」
田代はしばらく考えた。
「今日は家で見ない」
息子が顔を上げる。
「病院へ?」
「設備のあるところで一度診てもらえ」
「澄江ちゃんに見てもらってからじゃ駄目ですか」
田代は首を振った。
「呼ぶ時間があるなら、その分早く行け」
それで話は終わった。
田代は紙を書く。
通常診察の欄だけが埋まる。
接触時所見の欄は空いたままだった。
空いていても、送る判断はできた。
田代はその空欄を見た。
昨日、澄江に言った言葉を思い出す。
診察の方は埋まっている。
自分で言った以上、その通りにしなければならなかった。
老人たちを送り出した後、田代は小さな紙を一枚取り出した。
澄江側の記録だった。
今日。
本人希望により使用なし。
そこまで書いて、田代は「本人希望により」を消した。
少し考える。
使用なし。
さらに見て、もう一度消した。
最後に書いたのは短かった。
休み。
その横へ、診療は通常通り継続、とだけ足した。
患者の具合と、澄江が休んだことを一つの理由へ混ぜたくなかった。
* * *
放課後、澄江と文子は川へ寄った。
前に白い猫を探した場所だった。
今日は猫はいなかった。
文子は拾った枝で水面を叩き、澄江にしぶきを飛ばした。
「やめてよ」
「避ければいいじゃん」
「鞄濡れる」
「じゃあ置けば」
「泥つく」
言い合いながら、二人で少し上流へ歩く。
途中で文子が転びかけた。
澄江は反射的に腕を掴んだ。
文子も澄江の肩へ手を置く。
数秒だけ、皮膚が触れた。
身体の奥へ意識を向ければ、何か感じたかもしれない。
澄江は向けなかった。
文子が体勢を立て直す。
「今のは休みじゃないの?」
「転びそうだったから掴んだだけ」
「触ったじゃん」
「触るの禁止じゃない」
「ますます分かりにくい」
「私もそう思う」
文子は笑った。
澄江も笑った。
能力を使わない日でも、友達を掴む手は使える。
家へ帰れば、糸を渡す手も。
飯を食べる手も。
宿題を書く手も使う。
誰かの身体の中を探るためだけの手ではない。
分かっていたはずのことが、今日は少しはっきりした。
* * *
翌日、澄江は学校が終わってから診療所へ行った。
和枝も少し遅れて来た。
田代は二人を見るなり、机の小さな紙を出した。
「昨日は休み」
澄江が読む。
「それだけ?」
「何を足す」
「誰か来た?」
田代は一瞬黙った。
澄江はすぐ気づいた。
「来たんだ」
「来た」
「何で言わないの」
「患者の話を全部お前に教える必要はない」
「またそれ」
「まただ」
田代は診察票を一枚出した。
名前のところは澄江から見えないように折る。
「ただ、これだけは見せる」
通常診察の欄には何行も書かれている。
接触時所見の欄は、何も書かれていなかった。
下の経過には、設備のあるところへ送ったことだけが書かれている。
澄江は空欄を見る。
「私、いなかったのに送ったんだ」
「そうだ」
「大丈夫だった?」
「向こうで診てもらってる。今ここで細かいことは言わん」
「呼ぼうと思わなかった?」
田代は少しだけ口を曲げた。
「思った」
澄江は驚いた。
「でも呼ばなかった」
「休みと言っただろ」
「もし、私がいたら早く分かったかもしれないのに」
「かもしれん」
「じゃあ」
「だからって、休みをなくすのか」
澄江は答えられなかった。
田代は責めるようには言わなかった。
紙を机へ戻す。
「昨日、お前がいなかったせいで何もできなかった、にはしなかった」
澄江は空欄をもう一度見る。
右側は空いている。
でも左側と下は埋まっている。
本当に抜けていなかった。
「ちょっと悔しい」
澄江は言った。
和枝が横で顔を上げる。
田代も少し意外そうだった。
「何が」
「役に立てたかもしれないのに」
田代は笑わなかった。
「そう思うなら、使える日に使え」
「休んだのに?」
「休んだから今日使えるなら、それでいいだろ」
澄江は自分の手を開いた。
昨日は一日、誰の身体も探さなかった。
今日は何も残っていない。
頭も軽い。
「今日、誰かいる?」
田代はすぐには答えなかった。
「いる」
「何を知りたいの」
その聞き方に、田代の目が少し変わった。
「先に俺が診た。本人が痛いと言う場所と、触って気になる場所が少しずれてる。急ぐかどうかをお前に決めさせる気はない。もう一度見る場所を増やしたい」
澄江は頷いた。
「一人だけ」
和枝が聞く。
「それでいい?」
「うん」
田代は診察室の戸を開けた。
入ってきたのは、澄江の知らない女だった。
昨日までのように、最初から澄江の手へ期待した顔ではなかった。
田代が先に説明していたらしい。
「嫌ならやめる。何も分からないこともある。病名は決めない」
女が自分から言った。
澄江は少し驚いて、田代を見る。
「先生が言った」
女が苦笑した。
「三回くらい」
「二回だ」
田代が訂正する。
澄江は少し笑った。
それから女へ聞いた。
「手首でいい?」
「はい」
触れる。
皮膚の温かさ。
脈。
その向こうへ、薄い違和感が一つ重なった。
すぐには形にしない。
感じた場所だけを探す。
「こっち」
自分の身体の上で位置を示す。
「少し熱い。固いっていうより、周りと違う感じ」
田代が聞く。
「広いか」
「広くない」
「動く感じは」
「分からない」
「もういい」
澄江は手を離した。
女の感覚が薄く残る。
昨日休んだから何でも鮮明になった、というほどではなかった。
それでも、今はもう一人続けたいとは思わない。
田代は女へ向き直り、通常の診察を続けた。
澄江が示した場所も確かめる。
痛む場所も聞き直す。
終わるまで、澄江には何も求めなかった。
女が帰った後、田代が紙へ書く。
左に通常診察。
右に接触時所見。
下に、その後の判断。
「もう一人いるが」
田代が言った。
澄江は首を振った。
「今日はこれで終わり」
「分かった」
それだけだった。
次の患者は普通に呼ばれた。
田代は澄江へ頼まなかった。
和枝も聞かなかった。
澄江は長椅子へ座り、鞄から宿題を出した。
診察室では、田代が別の人の話を聞いている。
机の上には、右側が空いた昨日の紙と、今日の右側が一度だけ埋まった紙が並んでいた。
どちらも、同じ診療所の記録だった。
使った日。
使わなかった日。
役に立った日。
何も分からなかった日。
それを一つの正解へ揃えずに、残していく。
澄江は鉛筆を動かした。
宿題の文字を書きながら、少しだけ手を開く。
今日はもう終わりだ。
明日は、まだ決めていない。
改稿前verだけ見て切られたら困るんですが、消した方が伸びると思いますかね?
-
消した方が伸びる
-
消さない方が伸びる
-
どっちでも良い