歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい   作:無異常世界

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第二十六話

一九八八年。

 

朝倉燈子は、黒板より先に教師がこちらを見たのが分かった。

 

視線そのものが見えるわけではない。

背中に目があるわけでもない。

 

誰かの注意が誰へ向いたか。

その向きだけが、身体のどこでもない場所へ引っかかる。

 

今は、教壇の前にいる教師から、窓際の後ろから二番目。

つまり自分だ。

 

燈子は机の下で回していた鉛筆を止めた。

一拍遅れて教師が言う。

 

「朝倉」

 

「はい」

 

「続き」

 

教科書を開く。

ページは合っている。

隣の長谷川亜希が、笑いをこらえるように口元を押さえた。

 

燈子は指定された行を読み上げた。

読み終えると、教師の注意は前の席へ移る。

 

そこでようやく息を吐いた。

 

休み時間になった途端、亜希が椅子ごと寄ってきた。

 

「絶対、分かってたでしょ」

 

「何が」

 

「当てられるの」

 

「先生ずっとこっち見てたじゃん」

 

「私はノート見てた」

 

「じゃあ勘」

 

「またそれ」

 

亜希は机の上へ小さな紙を置いた。

放課後に寄る店の名前と、上映時間が書いてある。

 

「今日は逃げないでよ」

 

「何から」

 

「家庭の事情」

 

燈子は紙をつまんだ。

 

「家庭の事情って便利だよね」

 

「便利なのはそっちでしょ。こっちは何も分かんないんだから」

 

「ごもっとも」

 

先週も約束を一度ずらした。

その前も、帰りに急に呼ばれて途中で別れた。

亜希には、親戚だとか、病院だとか、家の用事だとか、その時々で嘘ではない範囲の言葉を使っている。

 

全部、本当ではあった。

全部を言っていないだけだ。

 

教室の前を別の教師が通る。

その注意が一瞬、室内へ滑った。

燈子は反射的に分かった。

 

亜希が眉を上げる。

 

「今も何か分かった顔した」

 

「顔で分かるなら能力いらないね」

 

「何の能力」

 

「勘の」

 

「はいはい」

 

亜希は疑いもしなかった。

 

それでいい。

 

燈子は自分の力を嫌っていない。

むしろ、かなり好きだった。

 

目を向けていない相手が、自分を見た瞬間に分かる。

二人が互いを気にした時、その向きが重なる。

混んだ場所ではうるさくなるし、使い続ければ頭の奥が鈍くなる。

それでも、うまく拾えた時は気持ちがいい。

 

ほんの短い間なら、向いてきた注意を少しだけ横へずらすこともできる。

 

できるからといって、学校で好き放題使う気はない。

試験中にやったら面倒どころでは済まない。

友達へ何でも使いたいとも思わない。

 

ただ、自分だけが持っている感覚を、格好悪いと思う理由もなかった。

 

チャイムが鳴る。

 

亜希が自分の席へ戻りながら言った。

 

「四時半ね」

 

「分かってる」

 

「今度こそ」

 

燈子は紙を筆箱へ入れた。

 

その時は、本当に行くつもりだった。

 

* * *

 

昼休みの終わり、担任に呼ばれた。

 

「朝倉、職員室に連絡が来てる」

 

嫌な予感がした。

 

受話器を取ると、父の誠司だった。

 

『今日、帰りに寄る日だっただろ』

 

「来週じゃなかった?」

 

『先方から昨日連絡があった。時間が空いたから今日に変えられるって』

 

「変えられる、って誰が」

 

『お母さんとも話した』

 

「私とは?」

 

電話の向こうで、一瞬だけ間が空いた。

 

『学校が終わってからなら大丈夫だと思って』

 

「大丈夫じゃない」

 

『予定があったのか』

 

「あるよ」

 

『じゃあ、終わってから合流できないか』

 

燈子は時計を見た。

無理だと思った。

 

「何時まで?」

 

『検査自体は長くないはずだ。ただ、前回の記録も確認するって』

 

また記録。

 

燈子は受話器のコードを指へ巻いた。

 

「その記録、私も見られる?」

 

『それは向こうで聞いてくれ』

 

「お父さんは見た?」

 

『必要な説明は受けた』

 

「私の記録なのに?」

 

『燈子』

 

声が少しだけ固くなる。

 

怒っているのではない。

父は分からないことが増えると、予定と手順の話を始める。

それを燈子は知っていた。

 

『今日は能力使用後の状態確認もある。行かない、で済ませる話じゃないだろ』

 

「行かないとは言ってない」

 

『なら――』

 

「勝手に今日へ動かしたことに怒ってるの」

 

今度は、父が黙った。

 

燈子は受話器を持ち直した。

 

「行く。終わったら電話する」

 

『分かった』

 

「でも次は先に聞いて」

 

『分かった』

 

同じ返事だった。

今度は少しだけ、父親の声に戻っていた。

 

電話を切る。

 

教室へ戻ると、亜希は燈子の顔を見ただけで分かったらしい。

 

「家庭の事情?」

 

「家庭の事情」

 

「今日も?」

 

「今日も」

 

亜希は露骨に嫌な顔をした。

 

それを責められたとは思わなかった。

 

「先に言ってよ」

 

「私も今知った」

 

「ほんとに?」

 

「ほんと」

 

亜希は筆箱を閉じた。

 

「じゃあ、怒る相手違うか」

 

「私には怒っていいよ。二回目だし」

 

「じゃあちょっとだけ怒る」

 

「どうぞ」

 

「朝倉の家、予定変更多すぎ」

 

「それは私もそう思う」

 

少し間が空いた。

 

亜希が上映時間を書いた紙を指で叩く。

 

「来週までやってるから」

 

「行く」

 

「今度は前日に確認して」

 

「誰に」

 

「家庭の事情に」

 

燈子は笑った。

 

本当のことを言えないのは、いつも少しだけ申し訳ない。

 

それでも、能力を持っていることまで嫌になったことはなかった。

嫌なのは、こういう時だった。

 

自分のことなのに、自分より先に予定が決まる。

自分の力なのに、自分より先に記録が読まれる。

危ないから、と言われれば全部が間違いではないだけに、余計に腹が立つ。

 

* * *

 

放課後、燈子は電車を乗り継いだ。

 

降りた駅は、学校の最寄りより少し古かった。

改札を出て、商店街を抜ける。

表から見れば普通の診療所が並ぶ一角に、その建物はある。

 

初めて来た場所ではない。

母に連れられて、子供の頃から何度も来ている。

 

受付の女が顔を上げた。

 

「朝倉さん。今日は一人?」

 

「母が後から来ます」

 

「分かった。先にこれだけ」

 

紙を一枚渡される。

 

名前。

体調。

最近、力を使ったか。

使ったなら、その後に何か変わったことがあったか。

 

細かい欄は昔より増えている気がする。

 

燈子は椅子へ座った。

 

待合には小学生くらいの男の子と、その母親らしい人がいた。

少し離れて、二十代くらいの男が雑誌を読んでいる。

壁には一般向けの健康ポスター。

その横だけ、ここへ来る人間にしか意味のない注意書きがある。

 

大人数の中で感覚が混ざった時は、無理に追わない。

使用後に違和感が残る場合は、自分の判断だけで帰らない。

 

昔から言い回しが固い。

 

燈子は紙へ鉛筆を走らせた。

 

最近使った。

授業中に一度。

今朝も一度。

 

書きかけて止まる。

 

どこまでを「使った」にするか。

ただ向きを感じたことまで使用に数えるのか。

意識して注意をずらした時だけなのか。

 

昔から聞いているのに、そこは人によって少し違う。

 

燈子は受付へ持っていった。

 

「これ、感じただけの時も書きます?」

 

女は紙を見る。

 

「意識して拾ったなら、一応」

 

「一応って」

 

「後で担当に聞いて」

 

「人によって違いますよね」

 

「違うから聞くの」

 

言い方は素っ気ないが、誤魔化してはいない。

燈子は席へ戻り、二つに分けて書いた。

 

感じただけ。

ずらした。

 

自分にはその方が分かりやすい。

 

少しして、母の怜子が入ってきた。

 

「間に合った」

 

「別に来なくてもよかったのに」

 

「そう言うと思った」

 

怜子は隣へ座る。

市立図書館の仕事帰りだった。

鞄からハンカチを出し、額を押さえる。

 

「お父さんから聞いた?」

 

「聞いた」

 

「怒った?」

 

「ちょっと」

 

「ちょっとじゃない顔してる」

 

「予定変えたことには怒ってる」

 

「ごめん。私も先に聞けばよかった」

 

母がそう言うと、燈子は少しだけ言いにくくなる。

 

「検査が嫌なわけじゃないから」

 

「分かってる」

 

「能力も嫌いじゃない」

 

「それも知ってる」

 

怜子は笑った。

 

「小さい頃、できた時だけ何回も見せに来たじゃない」

 

「それは言わなくていい」

 

「格好よかったんでしょう」

 

「今も格好いいよ」

 

即答すると、怜子は少し驚いてから笑った。

 

燈子も笑う。

 

そこは、親子で揉めるところではなかった。

 

怜子自身も能力者だ。

燈子ほど広く人と人の向きを拾えるわけではない。

自分へ向いた注意を、近いところで感じ取る。

 

母にとって、この場所は面倒なだけの場所ではない。

若い頃、ここにつながる人たちに助けられたことがある。

検査や記録を、燈子より信用している理由もそこにある。

 

だから、単純に「古いからやめろ」と言えば済む話ではない。

 

名前を呼ばれた。

 

「朝倉燈子さん」

 

燈子は立った。

怜子も立とうとする。

 

「一人で行く」

 

「分かった」

 

母は座り直した。

 

それだけで、少し気分がよくなった。

 

* * *

 

検査室には三人いた。

 

担当の男。

記録を取る女。

もう一人は、壁際の椅子に座っている。

 

何度か会ったことのある人たちだ。

 

「学校帰りに悪いね」

 

「本当に」

 

燈子が言うと、担当の男が苦笑した。

 

「予定の変更はこっちの都合でもある。そこは悪かった」

 

「じゃあ次から私にも連絡してください」

 

「学校へ?」

 

「家にでもいいです。私に伝わるように」

 

男は記録の女を見る。

 

「それは後で話そう」

 

「後にしないでください」

 

「分かった。後で必ず」

 

今度は流さなかった。

燈子もそれ以上は言わなかった。

 

机の上には、いつもの札と紙がある。

正式な検査機械が一台ですべてを判定するような場所ではない。

人が座り、距離を変え、合図をし、本人が何を感じたかを答える。

 

その途中に脈を測ったり、休ませたり、普通の確認も挟まる。

 

燈子は椅子へ座った。

 

「まず、今どこまで拾えるか」

 

担当の男が言う。

 

「目は開けたまま?」

 

「最初は」

 

壁際の女が記録係を見る。

記録係は担当の男を見る。

担当の男は燈子を見る。

 

三つの注意が、別の人間へ伸びる。

 

燈子には、それが分かった。

 

「壁際の人から、記録の人」

 

記録係が顔を上げる。

 

「記録の人から、先生」

 

担当の男が頷いた。

 

「先生から、私」

 

「正解」

 

「じゃあ変える」

 

三人が、合図なしに向きを入れ替える。

 

燈子の中で、一本。

次にもう一本。

 

「今は?」

 

燈子は順に答えた。

 

一度だけ、二人の注意が同じ人物へ重なる。

大人数ほどではないが、少し拾いにくくなる。

 

「そこまででいい。じゃあ、ずらせる?」

 

燈子は一度、息を整えた。

 

担当の男から自分へ向いている注意を拾う。

その向きへ、自分から軽く触れるような感覚を重ねる。

 

押す。

 

強くではない。

少しだけ横へ。

 

担当の男の目が、燈子から、その横に置かれた鞄へ移った。

 

ほんの短い変化だった。

 

「今」

 

燈子が言う。

 

担当の男は自分の視線に気づき、頷いた。

 

「鞄へ行った」

 

記録係が書く。

 

燈子は、少しだけ口元が上がるのを止められなかった。

 

何度やっても、成功した時は気持ちがいい。

 

担当の男がそれを見ていた。

 

「好きだね」

 

「何が」

 

「今の顔」

 

「成功したら嬉しいでしょ」

 

「まあね」

 

「能力者が能力使えて嬉しがったら駄目なんですか」

 

「誰も言ってない」

 

記録係まで笑った。

 

その後、もう一度試した。

今度はうまくずれない。

二人の注意が近いところで重なって、燈子の方が先に混線した。

 

「やめる」

 

自分から言った。

 

担当の男もすぐ頷く。

 

「そこで止めよう」

 

燈子は椅子の背へ身体を預けた。

頭の奥が少し重い。

 

水を渡される。

 

「前より早く止めたね」

 

「前、帰りの電車で最悪だったから」

 

「それは良い学習」

 

「記録に書いてあります?」

 

「あると思う」

 

「思う?」

 

「今持ってるのは今日の分だから」

 

燈子は水を一口飲んだ。

 

「じゃあ、その前の見せてください」

 

担当の男の手が止まった。

 

「本人分?」

 

「私のです」

 

「今日すぐ全部は出せない」

 

「何で」

 

「今の扱いだと、昔の分をその場で本人へ渡す形になってない」

 

「私のことを書いてるのに?」

 

「そういう運用が先に残った」

 

「残ってるなら、今もでしょ」

 

男は否定しなかった。

 

燈子はコップを机へ置いた。

 

「じゃあ、今日の分は?」

 

「今日の分?」

 

「私が今、どこまでできて、どこで止めたか。帰ってから見たいです」

 

記録係が紙を見る。

 

「それなら、写しは作れる」

 

担当の男が少し考えた。

 

「全部の欄は無理だよ」

 

「全部じゃなくていいです。私が次に使う時に必要なところ」

 

「どこまでが必要だと思う?」

 

聞き返された。

 

燈子は少し考えた。

 

「何をやったか。どこで止めたか。終わった後どうなったか」

 

「他には」

 

「次、気をつけること」

 

「それは口でも言う」

 

「忘れるから紙でも」

 

担当の男は記録係を見た。

 

「今まで渡してなかった?」

 

「家族には説明しています」

 

「本人には」

 

「その場で」

 

燈子は思わず言った。

 

「だから、それが変じゃない?」

 

二人の注意が同時に自分へ向いた。

 

能力を使わなくても分かるくらい、空気が変わった。

 

燈子は続けた。

 

「危ないから記録するんですよね」

 

「そうだね」

 

「次に私が自分で止めるためにも使うんですよね」

 

「それもある」

 

「じゃあ私が持ってないのおかしくないですか」

 

担当の男は、すぐには答えなかった。

 

燈子は別に、記録を捨てろと言っているわけではない。

親へ何も知らせるなとも思っていない。

自分の能力が他人へ向けて使える以上、好きにさせろだけでは済まないことも分かっている。

 

ただ、危険だから残した紙なら、危険を持っている本人にも使わせてほしい。

 

「昔は」

 

担当の男が言いかけた。

 

燈子は眉を上げた。

 

男がそこで口を閉じ、少し笑った。

 

「いや。昔の話を正解みたいに出すのはやめよう」

 

記録係が言う。

 

「本人へ渡す前提で作ってないのは本当です。家族や支援側で持って、必要な時に確認する形が先にできたから」

 

「それで助かった人もいる」

 

担当の男が付け足した。

 

燈子は頷いた。

 

「知ってます。母がそうだから」

 

「うん」

 

「でも私は、生まれた時からこれあるし」

 

自分の手を見た。

何かが見えるわけではない。

力は手から出るものでもない。

 

「ずっと誰かに管理してもらってから使うわけじゃないです」

 

学校でも。

駅でも。

家でも。

勝手に感覚は入ってくる。

使うかどうかを決めるのは、その場の自分だ。

 

「だったら、私が見る紙も要ると思う」

 

今度は、誰もすぐに反論しなかった。

 

* * *

 

部屋を出ると、待合が少し騒がしかった。

 

さっきいた小学生の母親が立っている。

受付の女も席を離れていた。

 

「どうしたんですか」

 

怜子が立っていた。

 

「男の子がいないって」

 

燈子は廊下を見る。

 

「帰った?」

 

「お母さんは待ってると思ってたみたい」

 

小学生の母親が、別の職員へ言っている。

 

「さっきまでここにいたんです。本当に」

 

「お手洗いは」

 

「見ました」

 

「外は?」

 

「まだ」

 

受付の女が入口を見る。

 

その瞬間、燈子の中へいくつかの向きが重なった。

 

母親から入口。

受付から廊下。

職員から母親。

 

誰も、同じところを見ていない。

 

それ自体は普通だ。

 

ただ、燈子は待合へ来た時のことを思い出した。

男の子は母親の隣に座っていた。

途中、一度だけ立った。

 

その時、母親は受付の紙を見ていた。

受付の女は電話へ注意を向けていた。

 

誰も男の子を見ていなかった。

 

「いついなくなったか、分かってないんですか」

 

燈子が聞いた。

 

母親が振り返る。

 

「え?」

 

「最後に見たの、いつですか」

 

「さっき……」

 

答えが曖昧だった。

 

職員が言う。

 

「朝倉さん、今はこっちで探すから」

 

「私、外見ます」

 

「検査の後だろ」

 

「走らないです」

 

怜子が娘を見る。

 

「頭は?」

 

「重いけど、もう使わない」

 

「なら私も行く」

 

二人で玄関を出た。

 

商店街の方。

駅の方。

裏の細い道。

 

子供が一人で行きそうな場所はいくつもある。

 

燈子は能力で男の子を探せない。

誰がどこにいるかを知る力ではない。

考えていることも読めない。

 

だから、普通に見る。

 

角を一つ曲がる。

 

自転車屋の前に男がいる。

店の中へ注意を向けている。

 

その先。

 

買い物袋を持った女の注意が、道路の反対側にいる誰かへ何度も戻っている。

 

燈子はその向きを追った。

 

細い階段の下に、小さな靴が見えた。

 

男の子がしゃがんでいた。

自動販売機の下を覗いている。

 

「いた」

 

怜子が息を吐いた。

 

燈子は走らなかった。

本当に走るほどではない距離だった。

 

「何してるの」

 

男の子が顔を上げる。

 

「十円落ちた」

 

「それでここまで来たの?」

 

「転がった」

 

「お母さん探してるよ」

 

「すぐ戻るつもりだった」

 

子供らしい答えだった。

 

怜子が自動販売機の下を見る。

 

「十円は?」

 

「ない」

 

燈子も覗く。

 

奥に光るものがある。

 

「あるじゃん」

 

「取れない」

 

怜子がため息をついた。

 

「戻ってから大人に言いなさい」

 

「怒られる?」

 

「今は心配されてる」

 

男の子は立った。

 

燈子はその背を見ながら、少しだけ変な気持ちになった。

 

さっきまで部屋の中では、自分が危ない側だった。

記録される側。

止められる側。

 

今は、ただ一人の高校生として、迷った子供を連れて戻っている。

 

能力は最後の場所を見つけたわけではない。

知らない人の注意が何度も向いていた方向を、燈子が見ただけだ。

 

それでも、役には立った。

 

格好いい、と少し思った。

 

同時に、これを「能力で発見」とだけ書かれたら嫌だとも思った。

自動販売機の横を見たのは自分だ。

走らないと決めたのも自分だ。

 

建物へ戻ると、母親が男の子を抱きしめた。

その後すぐ、叱った。

 

「勝手に出たら駄目でしょ!」

 

「十円が」

 

「十円じゃない!」

 

泣きそうな顔で怒っている。

 

受付の女が椅子へ座り直し、机の上の札を見た。

 

燈子もそれを見る。

 

この場所には、部屋へ入った人と戻った人を確認するための古いやり方が残っている。

誰がどこへ入っているか。

終わったか。

戻ったか。

 

現場ではもっと厳しく使うと聞いている。

ここでは検査室へ人を通す時に形だけ残っていた。

 

けれど、待合から勝手に出た子供には使われなかった。

 

「これ」

 

燈子が机を指した。

 

受付の女が顔を上げる。

 

「何?」

 

「部屋に入った人は戻ったか見るのに、待ってる人は見ないんですね」

 

「待合は出入りするから」

 

「じゃあ、子供だけでも」

 

母親がこちらを見る。

 

燈子は少し言葉を選んだ。

 

「ずっと見張るって意味じゃなくて。帰る時、自分で声かけるとか」

 

担当の男も検査室から出てきていた。

 

「昔の戻り確認を、待合に広げる?」

 

「昔のままじゃなくて」

 

燈子は言った。

 

「本人がやればいいんじゃないですか」

 

「本人?」

 

「来た時に、自分でいるって言う。帰る時に、自分で帰るって言う。子供なら親と一緒に」

 

受付の女が考える。

 

「全員?」

 

「全員にしたら受付が死ぬでしょ」

 

少し笑いが起きた。

 

「検査で待たせる人とか、途中で勝手に帰ったら困る人だけ」

 

担当の男が札を見る。

 

「今は職員側で動かしてる」

 

「だから、本人は知らないじゃないですか」

 

さっきの記録と同じだった。

 

誰かが守るために作った手順。

それで助かった人がいる。

だから残っている。

 

でも、残った後の使い方まで、最初の形でなければならない理由はない。

 

「自分が戻り確認の対象だって知ってたら、勝手に出る前に思い出すかもしれないし」

 

男の子が小さく言った。

 

「十円だったから」

 

母親がまた睨む。

 

「十円でも」

 

燈子は笑いそうになるのをこらえた。

 

受付の女が鉛筆を取った。

 

「今日から全部変える話にはしないよ」

 

「それでいいです」

 

「でも、次に子供を待たせる時は、本人にも一言言う」

 

「はい」

 

「あなたの写しもね」

 

記録係が奥から声を掛けた。

 

燈子は振り返った。

 

「できたんですか」

 

「今日の分だけ」

 

「それでいいです」

 

紙を受け取る。

 

自分がやったこと。

止めたところ。

終わった後の状態。

 

全部ではない。

昔の記録もない。

 

それでも、自分が次に使える紙だった。

 

* * *

 

外へ出る頃には、約束していた映画は始まっていた。

 

燈子は公衆電話から亜希の家へ掛けた。

本人はまだ帰っていなかった。

 

仕方なく家へ向かう。

 

怜子と並んで歩く。

 

「昔からあるやり方って、全部嫌い?」

 

母が聞いた。

 

「嫌いじゃない」

 

「今日、だいぶ文句言ってたけど」

 

「古いから嫌なんじゃないよ」

 

燈子は手に持った紙を折った。

 

「今も使うなら、今の人が使える形にすればいいじゃん」

 

怜子は少し黙った。

 

「私の頃はね」

 

「うん」

 

「そういうことを言えるところまで行く前に、分からないことの方が多かった」

 

燈子は母を見る。

 

怜子は前を向いていた。

 

「だから、決めてもらえること自体が助かった時もある」

 

「知ってる」

 

「うん」

 

「だから捨てろって言ってない」

 

「それも分かってる」

 

駅の階段を下りる。

人が増える。

 

向きが増える。

 

子供を見失わないように追う母親。

友人を見つけて手を上げる学生。

切符を落とした客へ声を掛ける駅員。

ホームの端で連れを探している男。

 

燈子が拾おうとしなくても、近い人間同士の向きはいくつか引っかかる。

 

母の世代には、これが何なのか分からない時期があった。

助けてくれる場所があるだけで違った。

 

燈子には、最初から場所がある。

検査の日がある。

危ない使い方があると知っている。

誰かが記録を取ることも知っている。

 

その代わり、それを誰が決めたのか、普段は考えない。

 

生まれた時からあったからだ。

 

「お母さん」

 

「何?」

 

「昔の人が決めたことって、昔の人しか変えちゃ駄目なの?」

 

怜子は一瞬、変な顔をした。

 

「そんなわけないでしょ」

 

「じゃあいいや」

 

「何が」

 

「別に」

 

燈子は笑った。

 

ホームへ下りる。

電車を待つ人の列へ並ぶ。

 

少し離れたところで、小学生くらいの子が母親の袖を引いている。

母親の注意が時刻表から子供へ戻る。

 

それが分かった。

 

燈子は何もしなかった。

 

分かることと、手を出すことは別だった。

 

そこも、昔から教えられてきた。

 

たぶん、悪くない教えだと思う。

 

だから残す。

 

残したまま、自分が使える形へ変える。

 

* * *

 

その夜、父の誠司は食卓へ紙を持ってきた。

 

「今日の連絡、次から本人にも先に通すよう頼んだ」

 

燈子は味噌汁を飲みながら顔を上げた。

 

「本当に?」

 

「可能な範囲で、だ」

 

「すぐ条件つける」

 

「学校に直接、能力の用件で電話するわけにもいかないだろ」

 

「それはそう」

 

「家に連絡が来たら、お前へ確認してから返す」

 

「うん」

 

「ただし緊急時は別」

 

「はいはい」

 

「はいは一回」

 

怜子が笑った。

 

燈子は鞄から今日の写しを出した。

 

「これ、私が持つから」

 

誠司が紙を見る。

 

「原本は?」

 

「向こう」

 

「家でも写しを取るか」

 

「また増やすの?」

 

「なくしたら困る」

 

「私がなくしたら私が困るの」

 

「家族も困る」

 

「じゃあ一枚だけ」

 

「一枚でいい」

 

結局、家でも写しを取ることになった。

 

燈子は少し不満だったが、嫌ではなかった。

 

全部を自分一人で持つことが自由だとも思わない。

父が心配する理由も知っている。

 

ただ、自分の手元にも残る。

 

それが今までと違った。

 

食後、部屋へ戻る。

 

机の上には教科書とノート。

筆箱の中には、亜希が書いた上映時間の紙がまだある。

 

燈子はその横へ、今日の検査の写しを置いた。

 

学校の予定。

映画の予定。

能力の記録。

 

同じ机の上にある。

 

どれか一つだけが、本当の自分の生活というわけではない。

 

電話が鳴った。

 

階下から父の声。

 

「燈子、長谷川さん」

 

慌てて降りる。

受話器を取る。

 

『今帰った』

 

亜希だった。

 

「ごめん」

 

『ほんとだよ』

 

「来週行こう」

 

『今度は大丈夫?』

 

燈子は一瞬だけ、今日もらった紙を思い出した。

 

「たぶん」

 

『たぶん?』

 

「いや。前日に確認する」

 

『家庭の事情に?』

 

「家庭の事情に」

 

亜希が笑った。

 

『じゃあ許す』

 

「ありがと」

 

受話器を置く。

 

二階へ戻る前、廊下の鏡に自分が映った。

 

何も特別には見えない。

制服を着た高校生がいるだけだ。

 

それでよかった。

 

能力があることも。

それを格好いいと思うことも。

検査が面倒なことも。

友達との約束を潰されて腹が立つことも。

 

全部、同じ一日の中にあった。

 

燈子は階段を上がった。

 

机の上で、二枚の紙が並んでいる。

 

一枚は、映画の上映時間。

もう一枚は、自分の能力をどこで止めたか。

 

どちらも、自分が次に使うためのものだった。

 

翌週。

診療所の受付では、子供を待たせる時だけ、職員が本人にも帰る時に声を掛けるよう伝えるようになった。

大きな制度変更ではない。

正式な名前もない。

 

燈子が受け取った検査の写しも、全国の決まりになったわけではなかった。

 

ただ、次に来た若い能力者が、帰り際に一枚の紙を受け取った。

 

「これ、何ですか」

 

「今日やったことの写し。次、自分で見る用」

 

受付の女が答えた。

 

相手は少し不思議そうに受け取り、鞄へ入れた。

 

その人は、なぜそれが始まったか知らなかった。

 

知らなくても使えた。

 

古い手順は消えなかった。

 

ただ、守る側だけが持っていたものの一部が、守られる側の手にも渡った。

 

それを最初から普通だと思う人間が、また一人増えた。

 

ここまででちゃんと面白いですか?

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  • 面白い寄りの面白くない
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