歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい   作:無異常世界

26 / 27
第十九話

その能力者が最初にしたのは、鉄の塊へ触れることではなかった。

 

「全員、そこから退いて」

 

怒鳴ったのは現場の人間だった。

 

能力者ではない。

 

荷下ろしを見ていた責任者が、横倒しになった鋼製の架台と、その脇へ倒れ込んだ作業員を見ながら手を振っていた。

 

「吊りは止めろ! 巻くな!」

 

天井側で止まったままのフックから、太い吊り具が斜めに張っている。

 

架台は完全には落ちていなかった。

 

一方の角が床へ食い込み、もう一方が低く浮いている。

 

その下から、作業員の脚だけが見えた。

 

「意識あるか!」

 

「ある!」

 

下から返事が来た。

 

「脚、抜けるか!」

 

「無理だ!」

 

責任者が舌打ちする。

 

クレーンで持ち上げ直すには、吊り具の掛かり方が悪い。

 

そのまま巻けば、架台が起きる前に横へ振れるかもしれない。

 

人が挟まっている今、それはやれない。

 

誰かが言った。

 

「あの人、まだいる!」

 

入口の方から、一人が走ってきた。

 

作業服。

 

手には何も持っていない。

 

能力者は床へ膝をつき、架台の下を覗いた。

 

「どこが挟まってる」

 

「右脚。膝より下だ」

 

「架台そのもの?」

 

「たぶん。板は噛んでない」

 

「たぶんじゃ困る」

 

責任者は腹を立てなかった。

 

自分も同じことを言うからだ。

 

二人で反対側へ回る。

 

倒れた架台の下へ木片が一つ入り、床には外れた金具が散っている。

 

能力者が架台へ手を伸ばした。

 

その直前で止めた。

 

「これ、まだつながってる」

 

吊り具を指す。

 

責任者が言う。

 

「外せるか」

 

「張ってる」

 

「少し戻せば緩む」

 

「戻すな。今の角度変わる」

 

下から声がした。

 

「早くしてくれ!」

 

責任者がしゃがむ。

 

「分かってる。今抜く」

 

能力者はもう一度、架台の周りを見る。

 

床。

 

吊り具。

 

倒れた位置。

 

移した先。

 

「こっちを空けて」

 

架台の横を指した。

 

「そこ全部。木も金具もどける。人も入らない」

 

若い作業員が聞いた。

 

「持ち上げるんじゃないのか」

 

「横へずらす」

 

「どれくらい」

 

能力者は一歩だけ横へ動いた。

 

「これだけでいい」

 

「もっと離した方が安全だろ」

 

「遠くするほどきつい」

 

それ以上は言わなかった。

 

責任者も聞かなかった。

 

今必要なのは理屈ではなく、どこを空けるかだった。

 

「聞いたな! そっち全部どけろ!」

 

人が動いた。

 

木片を蹴らずに拾う。

 

金具を寄せる。

 

工具箱を持って離れる。

 

架台の横に、何もない床が一本分だけできた。

 

能力者が見る。

 

首を振る。

 

「まだ」

 

「何が」

 

「吊り」

 

太い吊り具が、架台から斜め上へ伸びている。

 

能力者は言った。

 

「これが付いたままじゃ動かさない」

 

「でも外すには荷がかかってる」

 

「だから先に荷を逃がす」

 

責任者が天井側を見る。

 

クレーンで持ち上げるのではない。

 

架台の位置を変えない程度に、張力だけを抜く。

 

「ほんの少しだ。合図するまで動かすな!」

 

操作側から返事が飛ぶ。

 

ゆっくり。

 

吊り具の張りがわずかに変わる。

 

責任者が手を上げた。

 

「止め!」

 

止まる。

 

能力者が手で確かめる。

 

「これなら外せる」

 

二人がかりで金具を外す。

 

吊り具が架台から離れた。

 

能力者は、今度こそ鋼材へ掌を置いた。

 

その場の全員が、動きを止めた。

 

* * *

 

何か光ると思っていた者がいた。

 

大きな音がすると思っていた者もいた。

 

実際には、どちらもなかった。

 

能力者が架台へ手を当てる。

 

移す先を見る。

 

一度だけ息を整えた。

 

「人、入ってないな」

 

「いない」

 

「下の人、手を出すな」

 

「分かった!」

 

「行く」

 

能力者の肩が動いた。

 

押したようにも見えた。

 

けれど、押して動く重さではなかった。

 

鋼製の架台が、床を滑らなかった。

 

傾かなかった。

 

持ち上がりもしなかった。

 

そこにあったものが、一挙動の後には横へ移っていた。

 

さっきまで架台の角が食い込んでいた床に、錆と粉塵の跡だけが残る。

 

移った先で、架台が自分の重さを床へ預ける。

 

その時になって初めて、低い金属音がした。

 

誰も声を出さなかった。

 

一拍遅れて、責任者が怒鳴る。

 

「引き出せ!」

 

二人が倒れていた作業員の脇へ入る。

 

脚を挟んでいたものはもうない。

 

身体を引く。

 

別の人間が支える。

 

「触るな、立たせるな!」

 

「分かってる!」

 

「担架!」

 

ようやく現場がまた動き始めた。

 

若い作業員だけが、横へ移った架台を見ていた。

 

床に引きずった跡がない。

 

数人で押してもびくともしなかったものが、ほんの一瞬で位置を変えている。

 

「……今の、何だよ」

 

誰に聞いたのか、自分でも分かっていなかった。

 

能力者は答えなかった。

 

架台から手を離した後、その場ですぐ次の物へ向かわなかった。

 

責任者が近づく。

 

「もう一回いけるか」

 

能力者は首を振った。

 

「今すぐは無理」

 

「どれくらい待つ」

 

「分からない。あれだけ重いと、続けてはやらない」

 

責任者は一度だけ架台を見た。

 

「分かった。二回目は当てにしない」

 

その返事が早かったので、能力者の方が少し意外そうな顔をした。

 

「いいのか」

 

「今、一回で人が抜けた」

 

責任者は言った。

 

「それ以上を勝手に足す方がまずい」

 

能力者は何も言わなかった。

 

少しして、短く頷いた。

 

* * *

 

挟まれていた作業員が運ばれた後も、荷下ろしは再開されなかった。

 

事故が起きた以上、何がずれたのかを見なければならない。

 

外れた吊り具。

 

架台の掛け方。

 

床の位置。

 

合図の順番。

 

能力者が来たから、それらが消えるわけではない。

 

若い作業員は、移された架台の横へしゃがみ込んだ。

 

「本当に飛んだみたいだった」

 

近くにいた先輩が言う。

 

「飛んではないだろ」

 

「でも滑ってないですよ」

 

「だからって飛んだことにはならん」

 

「じゃあ何ですか」

 

「知らん」

 

先輩は即答した。

 

「知らんけど、あれができる」

 

それで十分だった。

 

能力者は責任者と、倒れた架台の元の位置を見ていた。

 

若い作業員が近づく。

 

「これ、何でも動かせるんですか」

 

責任者が横目で見る。

 

「今聞くことか」

 

「気になるじゃないですか」

 

能力者は嫌な顔をしなかった。

 

少し考えて、近くの設備を指した。

 

「じゃあ、あれ」

 

据え付けられた機械だった。

 

床へ固定され、横から管が伸びている。

 

「無理」

 

若い作業員が驚く。

 

「さっきのより小さいですよ」

 

「つながってる」

 

「管を外せば?」

 

「固定も外して、全部一つの物として動く状態にして、移す先も空いてるなら考える」

 

「考える?」

 

「重さと距離次第」

 

先輩が笑った。

 

「何でもじゃないじゃねえか」

 

若い作業員は反対に言った。

 

「でも、さっきの動かしたんですよ」

 

「それはそうだな」

 

二人とも架台を見る。

 

能力者は少し困ったように言った。

 

「何でもできないからって、できた方まで小さくするなよ」

 

若い作業員が笑った。

 

「いや、小さく見えないです」

 

先輩も頷く。

 

「全然見えん」

 

能力者はそれ以上何も言わなかった。

 

* * *

 

午後になって、事故の確認が続いた。

 

架台はそのままの位置へ置かれていた。

 

戻すのは後だ。

 

能力者にもう一度動かしてもらえば早い、と言う者もいた。

 

責任者は却下した。

 

「戻すだけなら吊り直す」

 

「でも、あの人なら一発でしょう」

 

「一発でやる必要がない」

 

「早いじゃないですか」

 

責任者は外した吊り具を持ち上げた。

 

「人が挟まってた時と、今を同じにするな」

 

それで終わった。

 

能力者も反対しなかった。

 

吊り直すため、架台の周りへ人が集まる。

 

今度は掛け方を確認する。

 

張りを見る。

 

合図を決める。

 

人を退かせる。

 

ゆっくり持ち上げる。

 

さっきの一挙動とは比べものにならないほど遅い。

 

けれど、今はそれでいい。

 

若い作業員は少し離れた場所から見ていた。

 

能力者も隣にいる。

 

「使わないんですね」

 

若い作業員が言った。

 

「使わなくていいから」

 

「もったいなくないですか」

 

「何が」

 

「あんなことできるのに」

 

能力者は少し考えた。

 

「できるから、使う時を選ぶんだろ」

 

「俺なら何でも動かしたくなるな」

 

「すぐ動けなくなる」

 

「それでも」

 

「管がつながったままなら動かさない。壊すかもしれない」

 

「それは分かりました」

 

「壁の向こうへ逃がせるわけでもない」

 

「それも」

 

「遠くへ飛ばせるわけでもない」

 

若い作業員は笑った。

 

「何でできない話ばっかりするんですか」

 

能力者も少し笑った。

 

「できる話だけ聞くと、次に無茶言われるから」

 

「じゃあ、できる話は?」

 

能力者は吊り上がっていく架台を見た。

 

「さっき見ただろ」

 

それで若い作業員は黙った。

 

見た。

 

目の前で見た。

 

何人でもすぐには動かせない鋼材が、人一人の手で横へ消えるように移った。

 

その下から、挟まれていた人間を引き出した。

 

できないことを十個並べても、あの一回は消えない。

 

むしろ境目があるから、何をしたのかがはっきりした。

 

* * *

 

夕方、架台は正しい位置へ戻された。

 

今度はクレーンで。

 

能力者は最後まで手を出さなかった。

 

責任者が事故の紙をまとめているところへ、能力者が来た。

 

「俺のこと、どう書く」

 

「そのまま」

 

「そのままって」

 

「人が挟まれた。吊りを外した。横を空けた。お前が架台を移した。人を出した」

 

能力者は少し黙った。

 

責任者は紙へ目を戻した。

 

「何ができたかは書く」

 

能力者が笑う。

 

「雑だな」

 

「今日必要なのはそこだろ」

 

「まあな」

 

責任者は鉛筆を止めた。

 

「一つだけ聞く」

 

「何」

 

「さっき、吊りが付いたままなら動かさないって言ったな」

 

「言った」

 

「あれ、やろうと思えばできたのか」

 

能力者の表情が少し変わった。

 

「つながったままなら、一つの物として動かせる状態じゃない」

 

「無理にやったら?」

 

「どうなるか分からない。だからやらない」

 

責任者は頷いた。

 

それ以上聞かなかった。

 

できるかもしれないことと、やっていいことは違う。

 

今日それを間違えなかったから、人を抜けた。

 

責任者は紙の端へ一行だけ足した。

 

《移動前に接続物と移動先を確認》

 

能力者が覗き込む。

 

「俺専用?」

 

「今日のところは」

 

「次も呼ぶ気か」

 

「必要なら」

 

「毎回いると思うなよ」

 

「分かってる」

 

責任者は言った。

 

「だから吊るやり方も残す」

 

能力者は少しだけ笑った。

 

「それならいい」

 

外では、さっきの若い作業員たちがまだ架台の跡を見ていた。

 

床に残っているのは、落ちた時の傷と、最初に食い込んだ跡だけだった。

 

横へ移った時の長い擦り傷はない。

 

それが一番、妙だった。

 

能力者が帰ろうとすると、若い作業員が声をかけた。

 

「また来るんですか」

 

「事故がなければ来ない方がいいだろ」

 

「それはそうですけど」

 

「何」

 

若い作業員は少し迷った。

 

「今日の、すごかったです」

 

能力者は一度だけ振り返った。

 

「知ってる」

 

その返事だけは、妙に迷いがなかった。

 

若い作業員が笑う。

 

能力者も笑った。

 

さっきまで何人もが囲んでいた鋼製の架台は、もう普通に吊り直され、決められた位置へ置かれている。

 

けれど、その日の現場にいた人間は知った。

 

重いから人では動かせない。

 

吊るしかない。

 

時間がかかる。

 

そういう普通の選択肢の横に、別の一つが本当にある。

 

触れた一つの鉄の塊を、短い直線の先へ、一挙動で位置ごと変えてしまう人間がいる。

 

何でもできるわけではない。

 

だからといって、今見たものが少しも普通になるわけではなかった。

ここまででちゃんと面白いですか?

  • 面白い寄りの面白い
  • 面白い寄りの面白くない
  • どちらでもない
  • 面白くない寄りの面白い
  • 面白くない寄りの面白くない
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。