歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい 作:無異常世界
その能力者が最初にしたのは、鉄の塊へ触れることではなかった。
「全員、そこから退いて」
怒鳴ったのは現場の人間だった。
能力者ではない。
荷下ろしを見ていた責任者が、横倒しになった鋼製の架台と、その脇へ倒れ込んだ作業員を見ながら手を振っていた。
「吊りは止めろ! 巻くな!」
天井側で止まったままのフックから、太い吊り具が斜めに張っている。
架台は完全には落ちていなかった。
一方の角が床へ食い込み、もう一方が低く浮いている。
その下から、作業員の脚だけが見えた。
「意識あるか!」
「ある!」
下から返事が来た。
「脚、抜けるか!」
「無理だ!」
責任者が舌打ちする。
クレーンで持ち上げ直すには、吊り具の掛かり方が悪い。
そのまま巻けば、架台が起きる前に横へ振れるかもしれない。
人が挟まっている今、それはやれない。
誰かが言った。
「あの人、まだいる!」
入口の方から、一人が走ってきた。
作業服。
手には何も持っていない。
能力者は床へ膝をつき、架台の下を覗いた。
「どこが挟まってる」
「右脚。膝より下だ」
「架台そのもの?」
「たぶん。板は噛んでない」
「たぶんじゃ困る」
責任者は腹を立てなかった。
自分も同じことを言うからだ。
二人で反対側へ回る。
倒れた架台の下へ木片が一つ入り、床には外れた金具が散っている。
能力者が架台へ手を伸ばした。
その直前で止めた。
「これ、まだつながってる」
吊り具を指す。
責任者が言う。
「外せるか」
「張ってる」
「少し戻せば緩む」
「戻すな。今の角度変わる」
下から声がした。
「早くしてくれ!」
責任者がしゃがむ。
「分かってる。今抜く」
能力者はもう一度、架台の周りを見る。
床。
吊り具。
倒れた位置。
移した先。
「こっちを空けて」
架台の横を指した。
「そこ全部。木も金具もどける。人も入らない」
若い作業員が聞いた。
「持ち上げるんじゃないのか」
「横へずらす」
「どれくらい」
能力者は一歩だけ横へ動いた。
「これだけでいい」
「もっと離した方が安全だろ」
「遠くするほどきつい」
それ以上は言わなかった。
責任者も聞かなかった。
今必要なのは理屈ではなく、どこを空けるかだった。
「聞いたな! そっち全部どけろ!」
人が動いた。
木片を蹴らずに拾う。
金具を寄せる。
工具箱を持って離れる。
架台の横に、何もない床が一本分だけできた。
能力者が見る。
首を振る。
「まだ」
「何が」
「吊り」
太い吊り具が、架台から斜め上へ伸びている。
能力者は言った。
「これが付いたままじゃ動かさない」
「でも外すには荷がかかってる」
「だから先に荷を逃がす」
責任者が天井側を見る。
クレーンで持ち上げるのではない。
架台の位置を変えない程度に、張力だけを抜く。
「ほんの少しだ。合図するまで動かすな!」
操作側から返事が飛ぶ。
ゆっくり。
吊り具の張りがわずかに変わる。
責任者が手を上げた。
「止め!」
止まる。
能力者が手で確かめる。
「これなら外せる」
二人がかりで金具を外す。
吊り具が架台から離れた。
能力者は、今度こそ鋼材へ掌を置いた。
その場の全員が、動きを止めた。
* * *
何か光ると思っていた者がいた。
大きな音がすると思っていた者もいた。
実際には、どちらもなかった。
能力者が架台へ手を当てる。
移す先を見る。
一度だけ息を整えた。
「人、入ってないな」
「いない」
「下の人、手を出すな」
「分かった!」
「行く」
能力者の肩が動いた。
押したようにも見えた。
けれど、押して動く重さではなかった。
鋼製の架台が、床を滑らなかった。
傾かなかった。
持ち上がりもしなかった。
そこにあったものが、一挙動の後には横へ移っていた。
さっきまで架台の角が食い込んでいた床に、錆と粉塵の跡だけが残る。
移った先で、架台が自分の重さを床へ預ける。
その時になって初めて、低い金属音がした。
誰も声を出さなかった。
一拍遅れて、責任者が怒鳴る。
「引き出せ!」
二人が倒れていた作業員の脇へ入る。
脚を挟んでいたものはもうない。
身体を引く。
別の人間が支える。
「触るな、立たせるな!」
「分かってる!」
「担架!」
ようやく現場がまた動き始めた。
若い作業員だけが、横へ移った架台を見ていた。
床に引きずった跡がない。
数人で押してもびくともしなかったものが、ほんの一瞬で位置を変えている。
「……今の、何だよ」
誰に聞いたのか、自分でも分かっていなかった。
能力者は答えなかった。
架台から手を離した後、その場ですぐ次の物へ向かわなかった。
責任者が近づく。
「もう一回いけるか」
能力者は首を振った。
「今すぐは無理」
「どれくらい待つ」
「分からない。あれだけ重いと、続けてはやらない」
責任者は一度だけ架台を見た。
「分かった。二回目は当てにしない」
その返事が早かったので、能力者の方が少し意外そうな顔をした。
「いいのか」
「今、一回で人が抜けた」
責任者は言った。
「それ以上を勝手に足す方がまずい」
能力者は何も言わなかった。
少しして、短く頷いた。
* * *
挟まれていた作業員が運ばれた後も、荷下ろしは再開されなかった。
事故が起きた以上、何がずれたのかを見なければならない。
外れた吊り具。
架台の掛け方。
床の位置。
合図の順番。
能力者が来たから、それらが消えるわけではない。
若い作業員は、移された架台の横へしゃがみ込んだ。
「本当に飛んだみたいだった」
近くにいた先輩が言う。
「飛んではないだろ」
「でも滑ってないですよ」
「だからって飛んだことにはならん」
「じゃあ何ですか」
「知らん」
先輩は即答した。
「知らんけど、あれができる」
それで十分だった。
能力者は責任者と、倒れた架台の元の位置を見ていた。
若い作業員が近づく。
「これ、何でも動かせるんですか」
責任者が横目で見る。
「今聞くことか」
「気になるじゃないですか」
能力者は嫌な顔をしなかった。
少し考えて、近くの設備を指した。
「じゃあ、あれ」
据え付けられた機械だった。
床へ固定され、横から管が伸びている。
「無理」
若い作業員が驚く。
「さっきのより小さいですよ」
「つながってる」
「管を外せば?」
「固定も外して、全部一つの物として動く状態にして、移す先も空いてるなら考える」
「考える?」
「重さと距離次第」
先輩が笑った。
「何でもじゃないじゃねえか」
若い作業員は反対に言った。
「でも、さっきの動かしたんですよ」
「それはそうだな」
二人とも架台を見る。
能力者は少し困ったように言った。
「何でもできないからって、できた方まで小さくするなよ」
若い作業員が笑った。
「いや、小さく見えないです」
先輩も頷く。
「全然見えん」
能力者はそれ以上何も言わなかった。
* * *
午後になって、事故の確認が続いた。
架台はそのままの位置へ置かれていた。
戻すのは後だ。
能力者にもう一度動かしてもらえば早い、と言う者もいた。
責任者は却下した。
「戻すだけなら吊り直す」
「でも、あの人なら一発でしょう」
「一発でやる必要がない」
「早いじゃないですか」
責任者は外した吊り具を持ち上げた。
「人が挟まってた時と、今を同じにするな」
それで終わった。
能力者も反対しなかった。
吊り直すため、架台の周りへ人が集まる。
今度は掛け方を確認する。
張りを見る。
合図を決める。
人を退かせる。
ゆっくり持ち上げる。
さっきの一挙動とは比べものにならないほど遅い。
けれど、今はそれでいい。
若い作業員は少し離れた場所から見ていた。
能力者も隣にいる。
「使わないんですね」
若い作業員が言った。
「使わなくていいから」
「もったいなくないですか」
「何が」
「あんなことできるのに」
能力者は少し考えた。
「できるから、使う時を選ぶんだろ」
「俺なら何でも動かしたくなるな」
「すぐ動けなくなる」
「それでも」
「管がつながったままなら動かさない。壊すかもしれない」
「それは分かりました」
「壁の向こうへ逃がせるわけでもない」
「それも」
「遠くへ飛ばせるわけでもない」
若い作業員は笑った。
「何でできない話ばっかりするんですか」
能力者も少し笑った。
「できる話だけ聞くと、次に無茶言われるから」
「じゃあ、できる話は?」
能力者は吊り上がっていく架台を見た。
「さっき見ただろ」
それで若い作業員は黙った。
見た。
目の前で見た。
何人でもすぐには動かせない鋼材が、人一人の手で横へ消えるように移った。
その下から、挟まれていた人間を引き出した。
できないことを十個並べても、あの一回は消えない。
むしろ境目があるから、何をしたのかがはっきりした。
* * *
夕方、架台は正しい位置へ戻された。
今度はクレーンで。
能力者は最後まで手を出さなかった。
責任者が事故の紙をまとめているところへ、能力者が来た。
「俺のこと、どう書く」
「そのまま」
「そのままって」
「人が挟まれた。吊りを外した。横を空けた。お前が架台を移した。人を出した」
能力者は少し黙った。
責任者は紙へ目を戻した。
「何ができたかは書く」
能力者が笑う。
「雑だな」
「今日必要なのはそこだろ」
「まあな」
責任者は鉛筆を止めた。
「一つだけ聞く」
「何」
「さっき、吊りが付いたままなら動かさないって言ったな」
「言った」
「あれ、やろうと思えばできたのか」
能力者の表情が少し変わった。
「つながったままなら、一つの物として動かせる状態じゃない」
「無理にやったら?」
「どうなるか分からない。だからやらない」
責任者は頷いた。
それ以上聞かなかった。
できるかもしれないことと、やっていいことは違う。
今日それを間違えなかったから、人を抜けた。
責任者は紙の端へ一行だけ足した。
《移動前に接続物と移動先を確認》
能力者が覗き込む。
「俺専用?」
「今日のところは」
「次も呼ぶ気か」
「必要なら」
「毎回いると思うなよ」
「分かってる」
責任者は言った。
「だから吊るやり方も残す」
能力者は少しだけ笑った。
「それならいい」
外では、さっきの若い作業員たちがまだ架台の跡を見ていた。
床に残っているのは、落ちた時の傷と、最初に食い込んだ跡だけだった。
横へ移った時の長い擦り傷はない。
それが一番、妙だった。
能力者が帰ろうとすると、若い作業員が声をかけた。
「また来るんですか」
「事故がなければ来ない方がいいだろ」
「それはそうですけど」
「何」
若い作業員は少し迷った。
「今日の、すごかったです」
能力者は一度だけ振り返った。
「知ってる」
その返事だけは、妙に迷いがなかった。
若い作業員が笑う。
能力者も笑った。
さっきまで何人もが囲んでいた鋼製の架台は、もう普通に吊り直され、決められた位置へ置かれている。
けれど、その日の現場にいた人間は知った。
重いから人では動かせない。
吊るしかない。
時間がかかる。
そういう普通の選択肢の横に、別の一つが本当にある。
触れた一つの鉄の塊を、短い直線の先へ、一挙動で位置ごと変えてしまう人間がいる。
何でもできるわけではない。
だからといって、今見たものが少しも普通になるわけではなかった。
ここまででちゃんと面白いですか?
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どちらでもない
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