歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい   作:無異常世界

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第二十一話

最初に揉めていたのは、怪異の名前ではなかった。

 

土地の境だった。

 

「だから、杭はここだって言ってるだろ」

 

「昨日はそこじゃなかったでしょう」

 

「杭が動いたんじゃない。測ると合わんのだ」

 

「それを動いたって言うんじゃないんですか」

 

山際の細い道で、三人の男が言い合っていた。

 

一人は土地の持ち主。

一人は、その土地の一部を資材置き場として借りたい男。

もう一人は巻尺を持っている。

 

巻尺の男が、道端の石から斜面下の杭までをもう一度測った。

 

真っ直ぐ伸ばす。

 

途中で折れていない。

 

石も杭も動かしていない。

 

それでも、さっき書いた長さと合わなかった。

 

男は無言で巻尺を戻した。

 

「もう一回やるか」

 

土地の持ち主が言う。

 

「やってもいいけど、昼までこれやるんですか」

 

借りたい男が斜面を見上げた。

 

その先には、古い作業小屋がある。

 

小屋そのものは普通だった。

 

板壁。

トタン屋根。

片側だけ少し傾いている。

 

問題は、その小屋までの距離だった。

 

道から見れば近い。

歩いても近い。

 

けれど、測ろうとすると、どうしても数字が揃わない。

 

同じ二点を測っているはずなのに、行きと戻りで余り方が変わる。

 

何度やっても同じ数字になる、というほど親切でもない。

 

完全にばらばらになるわけでもない。

 

「境だけ決めたいんです」

 

借りたい男が言った。

 

「小屋は使える。下の道から荷も入れられる。だから借りたい。でも、借りた後で『そこはうちの山だ』って言われたら困る」

 

「言わんよ」

 

「今はそう言いますよ」

 

土地の持ち主が顔をしかめる。

 

「じゃあ、あんたはどうしたいんだ」

 

「測れるところで線を引きたい」

 

「そこだと小屋が半分こっちに残る」

 

「だから家賃を下げてください」

 

「結局それか」

 

少し離れた場所で、相良拓真はそのやり取りを聞いていた。

 

自分が見たかったものに、いきなり家賃の話が付いていた。

 

それが妙に嬉しかった。

 

* * *

 

拓真が物や場所にも普通ではない状態が残れる余地を置いた時、使ったのは人の住んでいない閉じた区画だった。

 

まず危なくない条件で確かめた。

 

測った距離が合わない。

置いた物の向きが、見る側によって一致しない。

 

そういう、小さくても普通ではあり得ない現象から始めた。

 

そこで何か一つの怪異を完成させたわけではない。

 

その後に何がどこで生まれるかも、拓真には選べなかった。

 

だから、時間を進めた。

 

人の住む場所へ何かが出るなら、出た後を見たかった。

 

紹介をいくつか辿り、ようやく聞いた地名が余り谷だった。

 

来る前は、もっと分かりやすいものを想像していた。

 

立入禁止の山。

誰も近づかない祠。

夜だけ道が変わる場所。

 

実際に最初に見たのは、土地の貸し借りで揉める三人だった。

 

「相良さん?」

 

後ろから声がした。

 

振り返ると、寺崎綾子が道を上がってきていた。

 

地域資料館で働いていると聞いている。

手には鞄と、紙を挟んだ板を持っていた。

 

「はい」

 

「早かったですね」

 

「道、迷いましたけど」

 

「それは普通に道が分かりにくいだけです」

 

「普通に?」

 

寺崎は笑った。

 

「何でもこっちのせいにしない方がいいですよ」

 

こっち、と言って斜面の方を指した。

 

「今のは?」

 

「今のは、たぶん普通じゃないです」

 

「たぶん」

 

「私が決めることでもないので」

 

寺崎は三人の方へ歩いていった。

 

土地の持ち主がすぐに気づく。

 

「寺崎さん、ちょうどいい」

 

「何がですか」

 

「昔の境、資料館にないか」

 

「地図ならあります」

 

借りたい男が言う。

 

「それで決められます?」

 

「昔の地図に、今の異常まで合わせてくれる力はありません」

 

「駄目じゃないですか」

 

「何年前にどこを境として扱っていたかは分かります」

 

寺崎は巻尺の男が書いた数字を見る。

 

「今日の測定と一緒に残せます」

 

土地の持ち主が言う。

 

「残したら土地が伸びなくなるのか」

 

「それは知りません」

 

「役に立たんなあ」

 

「後で『昔から全部こうだった』って言い始める人が出た時には役に立ちます」

 

土地の持ち主が黙った。

 

借りたい男が笑った。

 

「それ、たぶんこの人です」

 

「お前な」

 

拓真も笑った。

 

怪異を見に来たはずなのに、まだ誰も怪異の説明をしていなかった。

 

それでも、もう十分に普通ではなかった。

 

* * *

 

昼前、拓真は余り谷の中を歩いた。

 

寺崎が案内役というわけではない。

彼女にも自分の用事があり、そのついでに同じ方向へ行くだけだった。

 

谷の入口に小さな店がある。

 

食料品。

日用品。

農具の消耗品。

新聞。

奥には酒瓶の箱が積んであった。

 

店の前へ小型のトラックが止まっている。

 

荷台から箱を降ろしていた男が、寺崎を見るなり言った。

 

「上へ行くなら、これ一つ持ってってくれない?」

 

「嫌です」

 

「まだ何も言ってないだろ」

 

「見れば分かります」

 

木箱だった。

 

「重くない」

 

「それを言う人の荷物は重いんです」

 

男が拓真を見る。

 

「そっちの人は?」

 

「見に来た人です」

 

「何を」

 

寺崎が少し考える。

 

「谷を」

 

男は拓真を上から下まで見た。

 

「じゃあ持てるな」

 

「何でですか」

 

「見るだけなら手が空いてる」

 

拓真は木箱を持たされた。

 

本当に、持てないほどではなかった。

 

「どこまでですか」

 

「上の分かれまで。そこから受け取る人が来る」

 

「トラックで行かないんですか」

 

「今日は行かない」

 

「道が変だから?」

 

男は首を振った。

 

「荷が少ないから」

 

また普通の理由だった。

 

「上の道が面倒なのもあるけどな」

 

最後にそれだけ足した。

 

店の横には、荷札を挟んだ板があった。

 

行き先と箱の数が書いてある。

 

一番上の何件かだけ、行き先の横へ別の印が付いていた。

 

拓真が見る。

 

「それ、何ですか」

 

店の男が答える。

 

「上で渡すやつ」

 

「家まで行かない?」

 

「行ける日は行く。行かん日は上で渡す」

 

「どうやって決めるんです」

 

「荷と天気と人」

 

「道は?」

 

「道も」

 

寺崎が横から言った。

 

「一番大事そうなのを最後に言いますね」

 

「毎日同じじゃないからな」

 

男は当然のように答えた。

 

「変な道だからって、荷物まで勝手に家へ着いてくれるわけじゃない」

 

拓真は木箱を抱え直した。

 

それも、少し嬉しかった。

 

* * *

 

上の分かれまでの道は、途中までは何も起きなかった。

 

舗装されていない。

左右に木がある。

ところどころに家が見える。

 

人が住んでいる。

 

洗濯物が干してある。

畑に人がいる。

犬が吠える。

 

子どもが自転車で二人を追い越していった。

 

そのうち一人が寺崎に声をかける。

 

「今日、奥行くの?」

 

「行かない」

 

「何で」

 

「仕事じゃないから」

 

「資料館って仕事じゃないの?」

 

「何でも資料館の仕事にはならないの」

 

子どもは納得していない顔のまま走っていった。

 

拓真が聞く。

 

「奥って?」

 

寺崎は少し先を見た。

 

「別の場所です」

 

「変な?」

 

「変かどうかで言えば」

 

「変なんですね」

 

「今はそっちを見に行く日じゃありません」

 

拓真はそれ以上聞かなかった。

 

少し進むと、道が二つに分かれた。

 

右は斜面に沿って上がる。

左は一度下ってから回り込む。

 

寺崎は迷わず左へ行った。

 

拓真は右を見る。

 

「上の分かれって、右じゃないんですか」

 

「名前だけなら右です」

 

「じゃあ何で左へ」

 

「箱持ってるから」

 

「箱?」

 

「右、歩く距離が合わないことがあるので」

 

拓真は足を止めた。

 

「それ、先に言ってくださいよ」

 

寺崎も止まる。

 

「だから左に来たじゃないですか」

 

「見たいです」

 

「箱置いてからにしてください」

 

「少しくらい」

 

「少しくらいで済むか分からない道を、荷物持って試す必要あります?」

 

拓真は黙った。

 

正しい。

 

寺崎が歩き出す。

 

「見に来た人って、本当にそっちから見るんですね」

 

「そっち?」

 

「何が変か」

 

「普通そこじゃないですか」

 

「住んでる側は、まず通れるかです」

 

拓真は右の道をもう一度見た。

 

見た目には、左より近い。

 

木々の間から、目的地らしい屋根まで見えている。

 

それでも二人は遠回りした。

 

十分ほど歩く。

 

左の道は普通だった。

 

普通だから使う。

 

それだけだった。

 

分かれの先で、年配の女が待っていた。

 

「遅かったね」

 

寺崎が答える。

 

「下から回ったので」

 

「箱あるならそうしな」

 

拓真から木箱を受け取る。

 

「いくらですか」

 

拓真が思わず聞いた。

 

女が首を傾げる。

 

「何が」

 

「配達」

 

「店で払ってるよ」

 

「上で受け取るのと家まで来てもらうので違うんですか」

 

「そりゃ違うよ」

 

「道が変だから?」

 

女は笑った。

 

「人が歩くからだよ」

 

寺崎が横で吹き出した。

 

拓真も笑うしかなかった。

 

怪異があっても、人件費は人件費だった。

 

* * *

 

箱を渡した後、拓真は右の道へ戻った。

 

今度は何も持っていない。

 

寺崎も付き合った。

 

「仕事は?」

 

「この辺の聞き取りも用事のうちです」

 

「じゃあ俺は?」

 

「話を増やす人」

 

「役に立ってない」

 

「まだ分かりません」

 

二人で右の道へ入る。

 

拓真は歩数を数えなかった。

 

最初から数字を取りに来たわけではない。

 

ただ、さっき屋根が見えていた。

 

近く見えた。

 

普通に歩けば、すぐ着く距離に感じた。

 

曲がり角を一つ過ぎる。

 

まだ着かない。

 

もう一つ。

 

まだ同じ屋根が、木の間に見えている。

 

近づいているはずだった。

 

けれど、見え方がほとんど変わらない。

 

拓真は止まった。

 

寺崎も止まる。

 

「これ」

 

「はい」

 

「いつからですか」

 

「分かりません」

 

「記録は?」

 

「はっきりしたものは最近です」

 

「最近?」

 

「昔の地図に道はあります。でも、距離がおかしいとは書いてない」

 

「じゃあ、最近できた?」

 

「そうかもしれないし、書かなかっただけかもしれない」

 

寺崎は道端の木へ付けられた古い針金を見る。

 

そこに、色の褪せた布切れが残っていた。

 

「これは?」

 

「目印にした跡だと思います」

 

「いつの?」

 

「それを調べてます」

 

拓真はしゃがんだ。

 

触らない。

 

見るだけにする。

 

「祟りとか、そういう話はないんですか」

 

寺崎が少し嫌そうな顔をした。

 

「あります」

 

「あるんだ」

 

「でも、古い話だと思わないでください」

 

「違う?」

 

「少なくとも私が確認した範囲では、今みたいな言い方は新しいです」

 

「今みたいな?」

 

「『昔から右の道へ入るなと言われていた』って話」

 

寺崎は道を振り返った。

 

「昔から道は使ってます。入るな、になったのはもっと後です」

 

「何かあった?」

 

「何かはあります」

 

「それを調べてる」

 

「はい」

 

「地元の人は昔からって言う」

 

「言う人もいます」

 

寺崎は少し笑った。

 

「五年続いたら、子どもには昔からですから」

 

拓真はその言葉を聞いて、道を見る。

 

自分にとっては、ほんの少し前に置いた余地だった。

 

ここに住む子どもにとっては、生まれた時から変な道がある。

 

それだけで意味が違う。

 

「戻りましょう」

 

寺崎が言った。

 

「もう?」

 

「今日は道の奥まで行く用事じゃないです」

 

「もう少し見たいです」

 

「一人でどうぞ、とは言いません」

 

「危ない?」

 

「知らないからです」

 

その言い方は、拓真にもよく分かった。

 

分からないことと、安全なことは同じではない。

 

二人は来た道を戻った。

 

帰りは、思ったより早く分かれへ出た。

 

拓真は足を止めた。

 

「やっぱり合ってない」

 

寺崎は驚かなかった。

 

「だから箱持って通らないんです」

 

* * *

 

午後、谷の店へ戻ると、人が増えていた。

 

畑帰りの者。

材木を扱う者。

車を直しに来た者。

寺崎へ昔の写真を見せに来た者。

 

店の奥では、誰かが伝票を数えている。

 

外では、午前中の土地の話がまだ続いていた。

 

借りたい男が、今度は紙へ線を引いている。

 

「ここからこっちは借りる。上の斜面は借りない」

 

土地の持ち主が言う。

 

「小屋の裏が使えんだろ」

 

「使えないところまで金払う気はないです」

 

「道はうちのを使うんだぞ」

 

「下の道の手入れ、半分出しますよ」

 

「半分?」

 

「俺の荷だけ通るわけじゃないでしょう」

 

「三分の二」

 

「半分」

 

「間取って六割」

 

「それ、間ですか」

 

寺崎が拓真へ小声で言った。

 

「午前より進んでますね」

 

「何がですか」

 

「怪異の解明じゃなくて、話が」

 

拓真は笑った。

 

結局、二人はその場で完全には決めなかった。

 

ただ、測っても揃わない斜面を境界の基準に使わないこと。

荷を通す下道の手入れを、借りる側も一部負担すること。

 

そこまでは決まった。

 

原因は分からない。

 

土地は普通に貸される。

 

変な場所だけが切り離されるわけでもない。

 

その隣の小屋は使われる。

 

人が働く。

 

金が動く。

 

道を直す。

 

拓真は、午前中よりもそのことの方が気になっていた。

 

店の男が伝票を持って出てくる。

 

「相良さん」

 

「はい」

 

「寺崎さんから、変なこと詳しいって聞いたんだけど」

 

寺崎がすぐ言った。

 

「私はそこまで言ってません」

 

「じゃあ誰だっけ」

 

男は気にせず続ける。

 

「上の道、何でああなるか分かる?」

 

拓真は少し迷った。

 

自分が置いたもののことを、どこまで言うか。

 

根元のことなら知っている。

 

物や場所に、普通ではない状態が残れるようにした。

 

けれど、あの道がなぜあの形になったのかは知らない。

 

誰が最初に気づいたのかも。

何をきっかけに安定したのかも。

 

「分からないです」

 

男が拍子抜けした顔をする。

 

「詳しいんじゃないの?」

 

「こういうものがあり得るってことは知ってます」

 

「じゃあ、右から入ると長くなる理由は?」

 

「それは分からない」

 

「短くなる時あるのは?」

 

「それも」

 

「雨の日どうなる?」

 

「知らないです」

 

男は寺崎を見る。

 

「役に立たんな」

 

午前中にも聞いた言葉だった。

 

拓真は笑った。

 

「すみません」

 

「まあいいや」

 

男は伝票を畳んだ。

 

「知ってることあったら、そのうち教えて」

 

「はい」

 

「でも道閉めろとかは簡単に言わないでくれよ」

 

拓真は顔を上げた。

 

男は店先の方を見る。

 

「上にも家あるし、畑もある。遠回りすりゃいいって言う奴は、毎日歩かないから言える」

 

少し離れたところから別の男が口を挟んだ。

 

「俺は閉めた方がいいと思うけどな」

 

「お前は荷を運ばんだろ」

 

「事故起きてからじゃ遅い」

 

「だから使い方決めてるんだろ」

 

「決まってないから揉めてるんだよ」

 

店の男が舌打ちした。

 

寺崎は止めなかった。

 

拓真も止めなかった。

 

どちらが正しいか、今の自分には決められない。

 

それより、二人とも道を知っている。

 

片方は使う理由がある。

片方は閉めたい理由がある。

 

怪異の存在を信じるかどうかで揉めているわけではない。

 

存在する前提で、その後を揉めている。

 

拓真が昔から見たかったのは、たぶんこういうところまで含んでいた。

 

* * *

 

夕方、寺崎は一軒の家で古い帳面を見せてもらっていた。

 

拓真も横に座っている。

 

家の主人が、汚れた紙を指で押さえた。

 

「この頃はまだ上の道、普通に荷車通してた」

 

寺崎が日付を見る。

 

「その後に止めた?」

 

「止めたっていうか、荷が多い時は下から回るようになった」

 

「誰が決めました」

 

「誰だろうな」

 

「寄り合い?」

 

「いや。最初は店の親父じゃないか。壊れ物持ってって、着くの遅れて揉めたとか」

 

「壊れたんですか」

 

「知らん」

 

寺崎が顔を上げる。

 

「知らないんですか」

 

「俺は見てない」

 

「じゃあ、そう聞いた」

 

「そう」

 

寺崎は帳面の端へ小さく書いた。

 

伝聞。

 

拓真が覗く。

 

「分けるんですね」

 

「何を」

 

「見たのと、聞いたの」

 

「分けないと、明日には全部見たことになります」

 

家の主人が笑う。

 

「寺崎さんは細かいな」

 

「後で困るの私なので」

 

「祟りって書いとけば楽なのに」

 

「嫌です」

 

即答だった。

 

「祟りだと困ることある?」

 

拓真が聞く。

 

寺崎は帳面を閉じた。

 

「あります」

 

「たとえば?」

 

「『祟りだから近づくな』だけ残ったら、どこが危ないのか消えます」

 

主人が頷く。

 

「上の道全部じゃないしな」

 

「逆に『昔話だから嘘だ』だけ残っても困る」

 

「本当に変だから」

 

「はい」

 

寺崎は鞄へ帳面の写しをしまう。

 

「昔話にするのも、全部理屈のつく事故にするのも、どっちも雑です」

 

拓真は少しだけ黙った。

 

自分は根元を知っている。

 

それでも、この道について寺崎より知っているわけではなかった。

 

いつから地元の人が荷を避けたのか。

誰が目印を付けたのか。

どの家が困ったのか。

何を普通の道として使い続けたのか。

 

それは、その土地で起きたことだった。

 

* * *

 

日が落ちる頃、拓真は谷の入口へ戻った。

 

店の明かりがついている。

 

少し上には家の窓が見える。

 

遠くで車の音がした。

 

犬が鳴く。

 

誰かが店の前で代金を数えている。

 

午前中に土地を借りようとしていた男は、まだ持ち主と話していた。

 

今度は家賃ではなく、下道へ砂利を入れる時期で揉めている。

 

寺崎が隣で言った。

 

「明日もいるんですか」

 

「いるつもりです」

 

「じゃあ、朝は少し早いですよ」

 

「何かあるんですか」

 

寺崎は谷の奥を見た。

 

昼に子どもが聞いていた方角だった。

 

「奥の場所のことで、人が集まります」

 

「さっき言ってたところ?」

 

「はい」

 

「見に行く?」

 

「見ます」

 

「俺も行っていいですか」

 

寺崎はすぐには答えなかった。

 

「見物なら、やめた方がいいです」

 

拓真は少し驚いた。

 

「厳しいですね」

 

「住んでる人は、見世物にしてないので」

 

その言葉に腹は立たなかった。

 

むしろ、そうだと思った。

 

拓真は今日一日、自分が何度も異常の方だけを先に見ようとしていたことを思い出した。

 

土地の境を測れない。

 

近く見える道の距離が合わない。

 

それだけなら、怪談の舞台にもできる。

 

けれど余り谷では、その隣で土地を貸す話がある。

 

荷物を運ぶ人がいる。

 

配達の値段が変わる。

 

道を直す金を誰が出すかで揉める。

 

子どもが通る。

 

古い話と新しい手順が混ざる。

 

危ないから閉めたい人がいる。

 

使わなければ暮らせない人もいる。

 

誰も、拓真のためにそこで暮らしているわけではない。

 

「手伝えることがあるなら、手伝います」

 

拓真が言った。

 

寺崎がこちらを見る。

 

「何ができるか分からないですよ」

 

「今日も箱運びました」

 

「それは助かりました」

 

「じゃあ、それくらいから」

 

寺崎は少し笑った。

 

「朝、店の前で」

 

「分かりました」

 

拓真は手帳を出した。

 

日付の下へ短く書く。

 

余り谷。

 

奥の場所。

 

話を聞く。

 

書いてから、谷をもう一度見た。

 

自分が欲しかったのは、怪異が一つ置いてある場所ではなかった。

 

怪異のある土地で、人が勝手に暮らしていることだった。

 

普通の仕事と、普通ではない道が同じ一日に入っている。

 

原因を知らない人間が、自分の都合で使い、避け、記録し、金を払い、揉めている。

 

余り谷は、もう拓真が確かめるためだけの異常地点ではなかった。

 

明日もここでは、人の都合で一日が始まる。

 

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