歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい   作:無異常世界

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第二十八話

雨の跡が、まだ町のあちこちに残っていた。

 

山沿いの作業場が崩れた日から、そう長くは経っていない。

 

朝倉燈子は昼休み、机の上へ置かれた新聞の切り抜きを見た。

 

「これ、昨日うちの父親が見てた」

 

長谷川亜希が言った。

 

地方欄の小さな記事だった。

 

山沿いの作業場で起きた崩落事故。

取り残された作業員は救助。

古い増築部分と、図面に残っていなかった空間が捜索を難しくした。

 

そこまでは、朝に家で読んだ記事とほとんど同じだった。

 

ただ、見出しが違う。

 

《古い点検口から救出 作業場崩落》

 

「昨日のは『複数経路から救出』だった」

 

燈子が言うと、亜希が顔を上げた。

 

「同じ事故?」

 

「たぶん」

 

「新聞ってそんなもんじゃない? 書く人違うし」

 

「まあね」

 

燈子は切り抜きを返した。

 

亜希はまだ記事を見ている。

 

「でもすごいね。床の下にいたんでしょ」

 

「うん」

 

「よく見つけたよね」

 

燈子は一瞬だけ黙った。

 

知っていることを、そのまま言うわけにはいかない。

 

壁の向こうに生きているものがいると分かった人がいた。

床の下にも反応があった。

その位置をもとに、昔の搬入口や点検口を探した。

 

記事には書いていない。

 

だからといって、記事が嘘というわけでもない。

 

「現場の人が昔の入口を覚えてたらしいよ」

 

燈子は、記事に書かれている範囲で答えた。

 

「へえ」

 

亜希が感心する。

 

「じゃあ、その人がいなかったら危なかったんだ」

 

「それだけでもないと思う」

 

「何で?」

 

「救助する人もいたし、図面見た人もいたし」

 

「そういう話?」

 

「そういう話」

 

亜希は少し笑った。

 

「燈子、こういう時だけ細かいよね」

 

「何が」

 

「誰が一番すごいか、みたいなの嫌いそう」

 

燈子は返事をしようとして、やめた。

 

嫌いなわけではない。

 

昨日の探索役を、燈子は普通に格好いいと思っている。

今でも思っている。

 

ただ、それだけであの日の全部を言ったことになるのは、何か違った。

 

「一番すごい人がいてもいいけど」

 

「けど?」

 

「それで他の人が消えるのは変じゃない?」

 

亜希は少し考えた。

 

「救助隊とか?」

 

「うん」

 

「じゃあ全員すごい」

 

「雑」

 

「細かいよりいいでしょ」

 

昼休み終了の予鈴が鳴った。

 

亜希は切り抜きを教科書へ挟んだ。

 

「これ、家で捨てるならちょうだい」

 

燈子が言った。

 

「何で?」

 

「昨日のと見比べたい」

 

「好きだねえ、事故記事」

 

「そこじゃない」

 

「じゃあ何」

 

燈子は答えず、次の授業の教科書を出した。

 

自分でも、まだうまく言えなかった。

 

同じ出来事なのに、少しずつ違う。

 

そのことが気になった。

 

* * *

 

作業場では、事故のあとに残った紙が増えていた。

 

修理の見積もり。

立入禁止の範囲。

崩れた場所の写真。

新しく書き直した図面。

救助の日に使った、雨で波打った古い図面。

 

赤鉛筆の丸は、そのまま残っている。

 

最初に壁の奥を示した丸。

次に床下を示した丸。

 

作業場の男は、机の上へ並べられた紙を見ながら言った。

 

「こっちは残すんですか」

 

向かいに座った記録をまとめる男が、赤い丸の図面を見た。

 

「残したいです」

 

「新しい図面に直したのに?」

 

「新しい方は、今の建物を使うために必要です」

 

「じゃあ古い方は」

 

「何が起きたか見るため」

 

作業場の男は椅子にもたれた。

 

「何が起きたって、崩れたんですよ」

 

「それだけなら新聞で足ります」

 

記録をまとめる男は、別の紙を出した。

 

救助側の活動記録の写しだった。

 

どこから入ったか。

どこを一度止めたか。

どの時点で別経路へ人を回したか。

 

探索役のことも、短く書かれている。

 

作業場の男はそこを読んだ。

 

「生体反応確認、ですか」

 

「そう書いてあります」

 

「何か、すごく普通だな」

 

「何て書いてほしいんです」

 

「いや……壁の向こうに人がいるって当てた、とか」

 

「誰かまでは当ててません」

 

「そうだけど」

 

「怪我も分からない。出し方も決めてない」

 

「それもそうだけど」

 

作業場の男は少し不満そうだった。

 

自分が現場で見たものと、紙に書かれているものが違って見えた。

 

紙の方が間違っているわけではない。

 

むしろ、一つずつは正確だった。

 

正確なのに、あの日の感じが薄い。

 

「俺たちは、床下のやつって呼んでます」

 

「床下?」

 

「事故全部じゃなくて、二人目を見つけた方」

 

「一人目は?」

 

「壁の奥」

 

「じゃあ『床下』で事故全部を指すわけじゃない」

 

「そう言われると、そうですね」

 

男は鉛筆で余白へ書いた。

 

現場内呼称――床下の件。

 

その横で手を止める。

 

「『壁の奥』も使います?」

 

「使う奴はいます」

 

「じゃあ、それも」

 

「両方書くんですか」

 

「使われてるなら」

 

「どっちが正式なんです」

 

「どっちも正式じゃないでしょう」

 

「ああ」

 

作業場の男は、そこで初めて笑った。

 

「それでいいのか」

 

「困ります?」

 

「いや。俺らも、その時によって呼び方違うから」

 

「なら、無理に一つへしない方が探しやすいです」

 

「探しやすい?」

 

「五年後に誰かが『床下の件』で問い合わせてきて、正式名が違うから見つかりません、は困るでしょう」

 

作業場の男は赤い丸の図面を見た。

 

事故の日。

 

探索役が場所を示した。

救助隊が経路を決めた。

自分が古い点検口を思い出した。

 

あの日、その全部に正式な名前などなかった。

 

「じゃあ、『探す人が来た日』でも出ます?」

 

半分冗談で言う。

 

記録をまとめる男は少し考えた。

 

「誰かが本当にそう呼んでるなら」

 

「そこまで書くの?」

 

「記録に残す価値があるかは別です」

 

「何でも残すわけじゃないんだ」

 

「何でも残したら、今度は必要なものが見つからなくなるので」

 

作業場の男は頷いた。

 

それは、妙に現場と似ていた。

 

全部を同じ重さで探せばいいわけではない。

けれど、反応がないから空だと決めてもいけない。

 

「面倒ですね」

 

「記録はだいたい面倒です」

 

「能力の方が楽そうだな」

 

「昨日来た人に言ってみてください」

 

「嫌ですよ」

 

二人で笑った。

 

* * *

 

救出された男の家では、事故の呼び方がもっと違った。

 

「下の穴のやつ」

 

本人はそう呼んでいた。

 

妻は嫌な顔をした。

 

「穴って言わないでよ」

 

「じゃあ何」

 

「事故」

 

「事故じゃ全部一緒だろ」

 

「全部一緒でいいの」

 

「俺はよくない」

 

男はまだ長く立っていると身体が痛んだ。

 

椅子へ座ったまま、湯呑みを持つ。

 

「俺がいたのは、下だ」

 

妻は返事をしなかった。

 

あの日の話をすると、二人の記憶は何度もずれた。

 

妻が覚えているのは、規制の前で待っていた時間だった。

 

誰が中にいるのか分からない。

名前を聞いても答えが来ない。

担架が出てきても、すぐには近づけない。

 

最後に、探索役へ頭を下げたことも覚えている。

 

夫が覚えているのは、暗いところで音を待っていた時間だった。

 

外で何が起きているかは知らなかった。

能力者が来たことも知らなかった。

 

遠くで何かを外す音がした。

声がした。

それから人が来た。

 

だから、妻が何度話しても、あの日の中心が少し違う。

 

「見つけてもらったから助かったのよ」

 

妻が言う。

 

夫は湯呑みを置いた。

 

「掘ってくれた人もいた」

 

「分かってる」

 

「入口覚えてた奴もいたんだろ」

 

「それも分かってる」

 

「じゃあ」

 

妻は少し強い声になった。

 

「でも私は、あの人が場所を言ったって聞いた時、初めてあなたが本当に中にいるって思えたの」

 

夫は黙った。

 

それは自分にはない記憶だった。

 

自分は下にいた。

 

妻は外にいた。

 

同じ事故でも、その時に見ていたものが違う。

 

「じゃあ、お前はそう覚えてればいい」

 

「何それ」

 

「俺は穴の中にいたって覚えてる」

 

妻はしばらく夫を見て、それから笑った。

 

「それはそうね」

 

「だろ」

 

「でも穴って言うのやめて」

 

「そこは譲らないのか」

 

「嫌だから」

 

夫も笑った。

 

二人の間でさえ、呼び方は一つにならなかった。

 

* * *

 

町では、もっと早く話が変わった。

 

作業場の近くにある店で、若い男が話していた。

 

「壁の向こうが全部分かる人が来たんだって」

 

「全部って何」

 

「人がどこにいるか」

 

「名前まで?」

 

「名前も分かるんじゃない?」

 

「じゃあ何で最初に全員見つけなかったんだよ」

 

「崩れてたからだろ」

 

「壁関係ないじゃん」

 

話は、その場で勝手に強くなったり弱くなったりした。

 

誰かが「透かして見えるらしい」と言う。

別の誰かが「いや、生き物だけだ」と言う。

「犬も分かるのか」

「知らない」

「死んでたら?」

「それは無理らしい」

「何で知ってるんだよ」

「知り合いが現場にいた」

「誰」

「知り合いの知り合い」

 

その頃には、最初の話をした人間が誰だったかも曖昧になっていた。

 

店の主人は黙って聞いていたが、とうとう口を挟んだ。

 

「壁を見たわけじゃないってよ」

 

全員が主人を見る。

 

「何で知ってんの」

 

「現場の人間が来たから」

 

「じゃあ何したの」

 

「人がいるって言った」

 

「どこに」

 

「壁の向こうと、床の下」

 

「それ壁の向こう分かってんじゃん」

 

主人は少し考えた。

 

「まあ、そうだな」

 

「やっぱ見えるんじゃん」

 

「見えるとは言ってない」

 

「同じじゃない?」

 

「違うだろ」

 

「何が」

 

説明しようとして、主人はやめた。

 

自分も現場にいたわけではない。

 

聞いた話を、さらにここで話しているだけだった。

 

「知らん。本人に聞け」

 

「誰なんだよ」

 

「それも知らん」

 

笑いが起きた。

 

その日のうちに、別の店では「壁の人」と呼ばれていた。

 

次の日には、「床の人」と言う者もいた。

 

どちらも本人が名乗った名前ではない。

 

一週間ほどすると、店先で小学生が二人、その話をしていた。

 

「壁を三枚越して見つけたんだって」

 

「三枚ってどこから出た」

 

店の主人が思わず口を挟む。

 

「兄ちゃんが言ってた」

 

「増えてるぞ、それ」

 

「じゃあ二枚?」

 

「枚数の話じゃない」

 

子どもは少し考えてから言った。

 

「でも壁の人なんでしょ」

 

主人は返事に詰まった。

 

もう、その呼び方だけなら否定する根拠もなかった。

 

* * *

 

土曜日。

 

燈子が次の確認で診療所へ行くと、受付の机の端に新しい紙束が置いてあった。

 

前に自分が受け取ったものと似ている。

 

その日の確認内容を、本人にも渡すための写しだった。

 

「増えたね」

 

燈子が言うと、受付の女が顔を上げた。

 

「何が?」

 

「これ」

 

紙束を指す。

 

「ああ。使う人が増えたから」

 

「みんなもらうの?」

 

「必要な人にはね」

 

燈子は一枚を見た。

 

前より少しだけ欄が増えている。

 

本人が確認したか。

次回までに気をつけること。

家族へ渡した内容と、本人へ渡した内容が同じか違うか。

 

全部が燈子の時にあったわけではない。

 

「これ、何て呼んでるの」

 

「紙」

 

「雑」

 

「じゃあ写し」

 

奥から別の職員が言った。

 

「こっちは『本人の紙』って言ってる」

 

受付の女が笑う。

 

「人によって違うよ」

 

「正式なのないの?」

 

「今のところ、別に困ってないから」

 

燈子は紙束を見た。

 

「この前、私が欲しいって言ったやつだよね」

 

「きっかけの一つはね」

 

「一つ?」

 

「同じこと言ってた人、前にもいたし。家族側から欲しいって話もあったし、渡した方が次の確認が早いって言う人もいた」

 

燈子は少し拍子抜けした。

 

自分が言ったから始まった。

 

そう思っていたわけではない。

 

でも、自分の喧嘩や不満が、そのまま一つの決まりになったわけでもないらしい。

 

受付の女が書類をめくる。

 

「ただ、あんたの時から増えたのは確か」

 

「じゃあ私の紙」

 

「それは嫌」

 

「何で」

 

「あとで新人が本当にそう呼び始めるから」

 

奥の職員が笑った。

 

「もう一人、そう呼んでるよ」

 

受付の女が顔をしかめた。

 

「誰」

 

「言わない」

 

燈子も笑った。

 

けれど、その話を聞きながら、朝から気になっていたことが少し繋がった。

 

一人が言ったこと。

一回起きたこと。

その時に必要だった言葉。

 

それが、別の人へ渡る時には少し形を変える。

 

間違いになることもある。

便利になることもある。

 

だから、最初の言葉へ全部を戻せばいいわけでもない。

 

「あんたの時の紙も、最初は何て書くか揉めたんだよ」

 

受付の女が言った。

 

「何を?」

 

「見出し。本人用、本人控え、次回確認用。みんな好き勝手言うから」

 

「今は?」

 

「まだ好き勝手言ってる」

 

「決まってないじゃん」

 

「困るところだけ決めたからいいの」

 

「何が困るところ?」

 

「誰の紙か分からなくなること。何をやった紙か分からなくなること。次に持ってきた時、前回とつながらないこと」

 

燈子は少し考えた。

 

「名前は?」

 

「呼びやすいように呼べばいい」

 

奥の職員が笑う。

 

「ただし『燈子の紙』は禁止だって」

 

「何で私」

 

「言い出す人がいるから」

 

受付の女が睨んだ。

 

「本当に定着したら面倒でしょ」

 

燈子は自分の写しを見た。

 

自分が欲しいと言った。

別の人も前から欲しいと言っていた。

家族側からも話があった。

渡した方が次の確認が早いという実務上の理由もあった。

 

一つの出来事から始まったわけではない。

一人の言葉だけでできたものでもない。

 

それなのに、呼びやすければ誰か一人の名前がつくこともある。

 

「変なの」

 

燈子が言う。

 

「世の中だいたいそんなもんでしょ」

 

「それでいいの?」

 

受付の女は紙束を揃えた。

 

「間違えたら困るところを、間違えなければね」

 

それだけ言って、次の人を呼んだ。

 

* * *

 

その日の確認が終わったあと、燈子は机の前で自分の記録の写しを見た。

 

今日は大きな変化なし。

混線しやすい条件は前回と同じ。

長く使った後は休む。

 

短い。

 

その紙だけを見れば、今日がどんな日だったかは分からない。

 

隣では別の能力者が、確認で思ったようにできなかったらしく笑っていた。

担当に「笑う前に休め」と言われて、まだ笑っている。

 

廊下では誰かが次の予定を確認している。

 

受付の机には、「本人の紙」と呼ばれたり、ただの「写し」と呼ばれたりする紙束がある。

 

山の作業場には、赤い丸のついた古い図面が残った。

 

新聞には、古い点検口から救助したと書かれた。

 

救助側の記録には、生体反応を確認して捜索区画を変えたと残った。

 

家族には、見つけてもらった日として残る。

 

現場の人間には、床下の件だったり、壁の奥の件だったりする。

 

町では、もう「壁の人」という話に変わり始めている。

 

どれも同じではない。

 

だからといって、全部が同じだけ正しいわけでもない。

 

燈子はそこだけは分かった。

 

人がいた場所。

どう見つけたか。

何が分からなかったか。

誰がどう救助したか。

 

間違えると次に困るところは、間違えない方がいい。

 

でも。

 

あの日を、待っていた家族が何と覚えるかまで、記録の言葉へ揃える必要はない。

 

現場の人が何と呼ぶかも。

町でどんな話になるかも。

 

全部が一枚の紙に収まる必要はない。

 

燈子は自分の写しを鞄へ入れた。

 

受付の女が言う。

 

「それ、なくさないでね」

 

「分かってる」

 

「次回持ってきて」

 

「分かってるって」

 

「前にも言ったから」

 

燈子は振り返った。

 

「私、なくしてないよ」

 

「あなたじゃない」

 

「じゃあ誰」

 

「言わない」

 

またそれだった。

 

燈子は笑って、玄関へ向かった。

 

外へ出る。

 

雨は降っていなかった。

 

帰り道、商店の前を通ると、知らない二人が山の事故の話をしていた。

 

「壁の向こうが見える人だって」

 

一人が言った。

 

燈子は足を止めなかった。

 

違う。

 

そう思う。

 

でも、振り返って訂正もしなかった。

 

その人が本当にできることは、別の紙に残っている。

 

誰かが勝手につけた呼び方も、もうこの町のどこかに残り始めている。

 

どちらか一つだけが、あの日そのものになるわけではない。

 

事故は終わった。

 

けれど、起きたことは、終わった形のまま保存されるわけではなかった。

 

人が覚える。

紙に書く。

別の人へ話す。

呼びやすい名前をつける。

間違いを直す。

直さずに残す。

 

そうやって、同じ一日が少しずつ違う形で先へ行く。

 

燈子は鞄の中の自分の紙を思い出した。

 

今日の自分について書かれた一枚。

 

それも、自分そのものではない。

 

ただ、次に必要になる自分の一部だった。

 

山の事故について残った紙も、たぶん同じなのだと思った。

 

一枚だけで全部にはならない。

 

だから、何枚も残る。

 

そして、その間に人の言葉が増えていく。

 

本当にあった出来事だからこそ。

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