歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい   作:無異常世界

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第二十二話

翌朝、寺崎綾子が店の前へ着いた時には、もう「閉める」と「閉めない」が始まっていた。

 

「だから、奥だけ止めりゃいいだろ」

 

「奥だけって、どこから奥だ」

 

「昨日あいつが出てきた辺りからだよ」

 

「出てきた所を入口にするな。入った所は別だって言ってるだろ」

 

朝の店先に、男が何人か集まっていた。

 

荷を扱う店の男。

材木を扱う男。

昨日、土地の境で揉めていた持ち主もいる。

その横で、片足を庇うように立っている男がいた。

 

大怪我ではない。

ズボンの膝が破れ、脛に乾いた泥が残っている。

 

それでも、昨日の夕方に奥へ入り、予定していた場所とは違う斜面から戻ってきた本人だった。

 

寺崎は挨拶より先に鞄を開いた。

 

「もう一回、最初から聞いていいですか」

 

片足を庇っている男が嫌そうな顔をした。

 

「昨日も話したぞ」

 

「昨日は暗かったので」

 

「明るいと話が変わるのか」

 

「変わったら困るから聞くんです」

 

店の男が笑った。

 

「寺崎さんに捕まったな」

 

「誰が最初に見たんですか」

 

「俺」

 

「何を」

 

「谷」

 

「谷があった、だけじゃなくて」

 

男は眉を寄せた。

 

「面倒だな」

 

「後で『山が割れた』になるよりましです」

 

その言い方で、男も諦めたらしい。

 

「上の作業道を見に行った。いつもの分かれを右へ入った。途中までは同じだった」

 

寺崎は板に紙を挟み、鉛筆を置く。

 

「途中までは」

 

「沢を一つ越えて、次の尾根へ上がる手前で、下が開いてた」

 

「崩れた?」

 

「違う」

 

男は少し黙った。

 

「下があった」

 

「もう少し」

 

「だから、谷だよ。斜面が下へ落ちてて、水が流れてる。向こうにも斜面がある。木も生えてる」

 

「昨日までは?」

 

「ない」

 

「昨日まで毎日見てた?」

 

「毎日じゃない」

 

寺崎はそこで書き分けた。

 

昨日、本人が直接確認。

それ以前は本人の記憶。

 

男が覗き込む。

 

「疑ってるのか」

 

「分けてるだけです」

 

「で、降りた」

 

「何でですか」

 

「向こうへ抜けられそうだったから」

 

横から材木を扱う男が口を挟んだ。

 

「ほら。使えるなら使えばいいんだよ」

 

「昨日、戻ってくる場所を間違えた人に言います?」

 

寺崎が返すと、片足を庇っている男が顔をしかめた。

 

「間違えたんじゃない。戻ったら違う所だった」

 

「そこが一番大事です」

 

「俺には同じだよ」

 

「私には違います」

 

寺崎は書いた。

 

入った場所と、出た場所が一致しない。

 

ただし、本人の記憶と地形確認のみ。

再確認前。

 

そこへ、坂の下から相良拓真が上がってきた。

昨日より早い。

手には水筒と、店で借りたらしい小さな布袋を持っている。

 

「おはようございます」

 

店の男が先に言った。

 

「ちょうどいい。荷物持ち」

 

「またですか」

 

「昨日できたから今日もできる」

 

「能力みたいに言わないでください」

 

寺崎は少し笑った。

 

「見物じゃないって言いましたよね」

 

「はい」

 

「じゃあ、今日は聞いたことを勝手に決まった話みたいに言わないでください」

 

「分かりました」

 

拓真は集まっている顔を見た。

 

「何かあったんですか」

 

片足を庇っている男が、自分の脛を指した。

 

「山に道を増やされた」

 

寺崎はすぐに言う。

 

「それは本人の言い方です」

 

「細かいなあ」

 

「大事です」

 

拓真は笑わなかった。

 

「見に行くんですか」

 

「その話を今してます」

 

そこでまた、閉めるか閉めないかが始まった。

 

* * *

 

閉めたい側の理由は、単純だった。

 

分からないから危ない。

昨日は足を滑らせただけで済んだ。

次もそうとは限らない。

奥の作業道を丸ごと止めて、近づかなければいい。

 

使いたい側の理由も、単純だった。

 

そこを使わないと遠回りになる。

山の上には手を入れている場所がある。

材木もある。

水を見に行くこともある。

毎回下から回っていては仕事にならない。

 

「だいたい、変なのは昨日からじゃないだろ」

 

土地の持ち主が言った。

 

「上の道は前から長さが合わん。なのに今まで使ってた」

 

「合わないのと、谷が増えるのは別だ」

 

「同じ山だ」

 

「同じ山だから全部同じだって言うのが一番危ないんですよ」

 

寺崎が言うと、二人ともこちらを見た。

 

「昨日の分かれ道と、今日見に行く場所が同じ現象かどうか、まだ分かりません」

 

「じゃあ、何なら分かるんだ」

 

「見たもの」

 

寺崎は板を持ち上げた。

 

「それを増やしに行きます」

 

材木を扱う男が鼻で笑う。

 

「紙が増えるだけじゃないか」

 

「紙が増えたら山が戻るとは言ってません」

 

「じゃあ俺は、使えるか見たい」

 

「私は、どこまで危ないか見たい」

 

店の男が言う。

 

「俺は荷をどこまで上げていいか分かればいい」

 

土地の持ち主が続けた。

 

「俺は、全部立入禁止にされるのは困る」

 

片足を庇っている男は、少し考えてから言った。

 

「俺は昨日の俺が嘘つきにならなきゃ何でもいい」

 

最後に拓真へ視線が集まった。

 

「相良さんは?」

 

寺崎が聞く。

 

拓真はすぐに答えなかった。

 

「手伝うって言ったので、手伝います」

 

「見たいんじゃなく?」

 

「見たいです」

 

「正直ですね」

 

「でも、それで決める側じゃないので」

 

寺崎は少しだけ拓真を見た。

 

昨日より、その答えは早かった。

 

「じゃあ、持ってください」

 

紙を挟んだ予備の板を渡す。

 

拓真が受け取った。

 

「これですか」

 

「それです」

 

「もっと山っぽい物ないんですか」

 

「ありますよ」

 

寺崎は店の脇を指した。

 

巻尺。

杭。

縄。

水筒。

簡単な救急道具。

 

拓真は板を抱え直した。

 

「紙でいいです」

 

* * *

 

奥へ向かう前に、一度、山の外側から形を見た。

 

道が少し開けた場所からなら、向かいの斜面と尾根が見える。

昨日の巻尺の男も来ていた。

今日は長い巻尺のほかに、方位を見る道具と、折り畳んだ地図を持っている。

 

「先にこっちを残す」

 

男は地図を板へ留めた。

 

寺崎は、見える尾根を指で追った。

 

一つ。

その奥に、少し低い鞍部。

次の尾根。

その下へ沢筋。

 

何度見ても、山は普通の幅に収まっている。

 

当然だった。

外から見れば、昨日までと同じ山だった。

 

片足を庇っている男が、少し上を指した。

 

「俺が入ったのは、あの辺だ」

 

「外から谷は見えない?」

 

拓真が聞く。

 

「見えたら昨日も降りてない」

 

「昨日、降りた理由それなんですか」

 

「見えない谷が中にあったら、見に行くだろ」

 

寺崎が振り返る。

 

「相良さんみたいな人ですね」

 

「俺は一応止められました」

 

「一応?」

 

「止められました」

 

地図の上では、奥の作業道は山腹を回り、次の尾根へ抜ける。

 

巻尺の男が鉛筆で線をなぞった。

 

「ここからここまで。外から見た幅なら、この間にもう一本谷が入る余裕はない」

 

材木を扱う男が言う。

 

「地図が古いんじゃないか」

 

「昨日の測り直しも合わん」

 

「じゃあ測り方が悪い」

 

「それを確かめに行くんだろ」

 

誰も、最初から怪異だと決めてはいなかった。

 

寺崎はそのことに少し安心した。

 

何でも霊の話へ持っていく人間ばかりではない。

何でも測れば終わると思っている人間ばかりでもない。

 

分からないから、見に行く。

危ないから、止める準備もしておく。

使いたいから、使えるかも確かめる。

 

その全部が同じ道を上がっていく。

 

* * *

 

途中までは、昨日と同じだった。

 

家が減る。

畑が消える。

舗装が終わる。

車の音が遠くなる。

 

分かれ道には、昨日見た古い針金が残っていた。

色の褪せた布切れもある。

 

寺崎は触らず、その位置だけを紙へ書いた。

 

昨日は右へ入らなかった。

今日は、その先へ進む。

 

片足を庇っている男は入口までで止まった。

 

「俺は行かんぞ」

 

「昨日行ったから?」

 

拓真が聞く。

 

「昨日行ったからだよ」

 

それで十分だった。

 

代わりに、山仕事に慣れた年長の男が先へ入る。

巻尺の男。

寺崎。

拓真。

材木を扱う男。

 

誰が何人入るかで少し揉めたが、結局、店の男は入口側に残った。

 

「何かあったら?」

 

拓真が聞く。

 

「何かあったら戻ってこい」

 

「戻れなかったら」

 

「それを今から困りに行くんだよ」

 

年長の男が言った。

 

冗談のようだったが、誰も笑わなかった。

 

右の道へ入る。

 

最初は普通だった。

 

土。

木の根。

踏まれて固くなった場所。

斜面を横切る細い道。

 

巻尺の男が時々止まり、距離を残す。

寺崎は曲がりと目印を書く。

 

拓真は板を持ち、言われた数字を書き写した。

 

「ここまでは?」

 

「合う」

 

「普通?」

 

「普通って書くな」

 

「書いてません」

 

「今、書こうとしただろ」

 

拓真は鉛筆を止めた。

 

「見てました?」

 

「顔で分かります」

 

少しだけ空気が緩んだ。

 

その先で、年長の男が止まった。

 

誰も何も言わないうちに、寺崎にも分かった。

 

道の左側。

 

昨日までなら、斜面がそのまま上へ続いていたはずの場所が、下へ落ちている。

 

崩落ではなかった。

 

崩れた土砂がない。

切れた木の根もない。

新しい地肌もない。

 

そこには最初からそうだったように、谷があった。

 

斜面が下へ降りる。

底に細い水が流れている。

向こう側にも斜面が立ち上がっている。

 

木が生えていた。

 

若い木だけではない。

人の腕では回らない太さの幹もある。

苔がついている。

根元には去年のものか今年のものか分からない落ち葉が溜まっている。

 

鳥の声がした。

 

水の匂いがした。

 

風が、下から上がってきた。

 

幻のようには見えなかった。

 

むしろ、普通の山より普通に山だった。

 

「……これか」

 

材木を扱う男が最初に声を出した。

 

年長の男は返事をしない。

 

巻尺の男は地図を開いた。

 

拓真は、しばらく何も言わなかった。

 

寺崎はその顔を横から見た。

 

昨日、谷を見に来たと言っていた時より、ずっと静かだった。

 

「相良さん」

 

「はい」

 

「板」

 

「あ」

 

拓真が差し出す。

 

寺崎は書いた。

 

左斜面に谷状地形。

水流あり。

対岸斜面あり。

樹木あり。

 

書いてから、手が止まる。

 

谷状地形。

 

目の前にあるものを、その程度の言葉へ押し込めるのが妙だった。

 

しかし「あり得ない谷」と書けば、次の人は何があり得なかったのか分からなくなる。

 

「降りるぞ」

 

材木を扱う男が言った。

 

「待って」

 

寺崎と年長の男が、ほぼ同時に止めた。

 

男が振り返る。

 

「何だよ。昨日は降りて戻ってきたんだろ」

 

「昨日は戻る場所が変わった」

 

年長の男が言う。

 

「だから確かめるんだろ」

 

「確かめるのと、先に入るのは別だ」

 

「ここから向こうへ抜けられたら、上の道より楽だぞ」

 

使う気なのだ。

 

寺崎には少し呆れたが、理解できないわけではなかった。

 

山に余分な道が一本できた。

危ない。

 

同時に、道として使えるなら便利だと思う人間もいる。

 

怪異だから、人間の欲が消えるわけではない。

 

「先に測ります」

 

巻尺の男が言った。

 

「ここから底まで全部は無理でも、入口の向きは取れる」

 

「それで何が分かる」

 

「少なくとも、地図のどこへ線を引けばいいか分からないことは分かる」

 

「役に立たんな」

 

「昨日も聞いたな、それ」

 

拓真が少し笑った。

 

* * *

 

谷の縁に沿って歩いた。

 

降りない。

まず上から追う。

 

それだけでも、おかしかった。

 

外から見た山の形なら、とっくに斜面の端へ出ていなければならない。

 

巻尺を伸ばす。

巻き取る。

向きを見る。

地図へ線を引く。

 

また進む。

 

地図の紙の上では、線が山の外へ出た。

 

現実では、まだ木の間だった。

 

巻尺の男が立ち止まった。

 

「もう一回」

 

誰も文句を言わなかった。

 

戻る。

同じ所から測る。

 

さっきと大きくは違わない。

 

男は地図を裏返した。

裏に、もっと大きく描き直す。

 

外から見た尾根。

入口。

今歩いた線。

 

紙の上で重ならない。

 

「向き、間違ってない?」

 

寺崎が聞く。

 

「だったら楽なんだけどな」

 

男は方位を見る道具を渡した。

 

寺崎も確かめる。

 

拓真も見る。

 

誰が見ても、針は同じ方を指した。

 

「磁石が変なら?」

 

拓真が言う。

 

「じゃあ外へ戻って同じ物で見る」

 

「それで外では合ったら」

 

「もっと嫌になる」

 

巻尺の男は真顔だった。

 

材木を扱う男が谷を覗き込む。

 

「でも、あるんだよな」

 

「見れば」

 

「下へ降りたら土地として使えるんじゃないか」

 

「その考えまだ残ってたんですか」

 

寺崎が言う。

 

「木がある」

 

「所有者も境も分からない木です」

 

「山の中だろ」

 

土地の話になりかけて、寺崎は少し頭が痛くなった。

 

怪異を見た直後でも、人はそこへ値段をつけようとする。

 

それ自体は、たぶん異常ではない。

 

年長の男が、谷底の方を見たまま言った。

 

「昨日の印、あれじゃないか」

 

少し先の木の幹に、新しい傷があった。

 

片足を庇っていた男が昨日付けたと言っていた印と、形が合う。

 

近づいて見る。

 

削れた木の皮はまだ新しい。

 

その下に、靴跡も残っていた。

 

雨で消えかけてもいない。

 

「昨日の人、ここまで来たんですね」

 

拓真が言う。

 

「少なくとも、この傷を本人が付けたなら」

 

寺崎は答えた。

 

「本人に聞けば分かるだろ」

 

材木を扱う男が言う。

 

「聞いた話と、今見てる物は分けます」

 

「またそれか」

 

「またです」

 

年長の男が谷の向こうを指した。

 

「ここから先は行かん」

 

「何で」

 

「帰る」

 

「まだ何も分かってないぞ」

 

「分かった」

 

「何が」

 

「今日はここを荷道にしない」

 

材木を扱う男が顔をしかめる。

 

「それだけ?」

 

「今日必要なのはそれだ」

 

その言葉で、寺崎は紙から顔を上げた。

 

原因は分からない。

どこまで続くかも分からない。

昨日と同じ場所に明日もあるかも分からない。

 

それでも、今日ここへ荷を入れないことは決められる。

 

「戻りましょう」

 

寺崎が言った。

 

今回は、拓真も「もう少し」と言わなかった。

 

* * *

 

戻り始めてすぐ、別の問題が出た。

 

早かった。

 

寺崎は最初、歩く速度のせいだと思った。

 

下りが少ない。

荷物もない。

さっきより道を知っている。

 

だから早い。

 

そう考えた。

 

だが、地図の男が止まった。

 

「待て」

 

前に、昨日の分かれ道が見えていた。

 

寺崎も足を止める。

 

「もう?」

 

「もうだ」

 

拓真が後ろを見る。

 

谷の縁からここまで、来る時にはいくつも曲がった。

小さな沢も越えた。

 

戻りは、その半分も歩いた感覚がない。

 

「同じ道ですよね」

 

「たぶんな」

 

「たぶん?」

 

「同じ所を踏んだつもりだ」

 

巻尺の男が、来る時の記録を見る。

 

今いる場所を見る。

 

測る。

 

途中でやめた。

 

「合わん」

 

材木を扱う男が言う。

 

「短くなるなら便利じゃないか」

 

年長の男が振り返った。

 

「お前、一人で使え」

 

「だから使える日だけだよ」

 

「使える日を誰が決める」

 

「今みたいに見りゃいいだろ」

 

「今みたいに見て、戻りが違ったんだ」

 

男は黙った。

 

寺崎は分かれへ出てから、外側で方位を確かめた。

 

針は普通だった。

 

昨日の巻尺の男が、低い声で言う。

 

「中だけおかしいのか、それともこっちの距離まで巻き込んでるのか、これじゃ分からん」

 

拓真が聞く。

 

「測り続けたら分かりますか」

 

「分かることは増える」

 

「原因は?」

 

「知らん」

 

男は地図を畳んだ。

 

「でも、知らんままでも今日は帰れる」

 

その言葉が、寺崎には残った。

 

* * *

 

店へ戻ると、待っていた人間が一斉に話しかけてきた。

 

「どうだった」

 

「谷は?」

 

「本当にあったのか」

 

「向こうへ抜けるのか」

 

「閉めるのか」

 

「使えるのか」

 

寺崎は全部へ一度に答えなかった。

 

板を店先の台へ置く。

地図の男も紙を広げる。

 

まず、見たものだけを話した。

 

谷があった。

水があった。

木があった。

昨日付けられた可能性の高い新しい傷があった。

外から見た山の幅と、中で測った線が同じ紙へ収まらない。

戻りは行きと距離感が合わなかった。

 

「じゃあ祟りだ」

 

誰かが言った。

 

寺崎は顔を上げた。

 

「それは今、増やさないでください」

 

「実家が神社なのに冷たいな」

 

「実家が神社だから言ってます」

 

少し笑いが起きた。

 

「祟りって言った瞬間、祟った理由を誰かが作り始めますから」

 

「昔、何かあったんじゃないのか」

 

「何かあったかもしれません。でも、今日見た谷と同じ原因かは分かりません」

 

「じゃあ何て呼ぶ」

 

「谷でいいです」

 

「谷はいっぱいある」

 

「だから場所と日付を書きます」

 

材木を扱う男が、地図を指した。

 

「で、使えるのか」

 

年長の男が先に答えた。

 

「今日は使わん」

 

「今日は、だろ」

 

「明日は明日見ろ」

 

「毎朝見に行くのか」

 

「仕事で上がる奴が見る」

 

閉めたい男が割り込む。

 

「だから全部止めればいいだろ。何でわざわざ毎日危ない所を確かめる」

 

土地の持ち主が返す。

 

「全部って、どこまでだ。家まで下りろって言うのか」

 

「奥の道だよ」

 

「奥の道は一本じゃない」

 

「じゃあ変な所全部」

 

「変かどうか誰が決める」

 

また同じ所へ戻りそうになった。

 

寺崎は口を挟まず、しばらく聞いた。

 

誰も完全に間違ってはいなかった。

 

閉めたい人間は、昨日怪我が出たことを見ている。

使いたい人間は、今日も仕事がある。

避けたい人間は、危ない時だけ別の道へ回ればいいと思っている。

土地の持ち主は、自分の土地全体を一言で危険地帯にされたくない。

 

全部を一つの答えへ押し込む方が無理だった。

 

店の男が、店先の荷札板を叩いた。

 

「じゃあ、配達だけ決めよう」

 

皆がそちらを見る。

 

「俺は今日、上へ箱を入れない。受け渡しは下でやる」

 

材木を扱う男が言う。

 

「材木は?」

 

「知らん。お前の仕事だ」

 

「冷たいな」

 

「俺が決めたら、事故った時にお前が俺のせいにするだろ」

 

「する」

 

「ほらな」

 

今度は少し大きく笑いが起きた。

 

その笑いが消えてから、年長の男が言った。

 

「山仕事は、奥へ入る前に一回見る」

 

「何を見る」

 

寺崎が聞く。

 

「沢の数」

 

「外から?」

 

「外から見える所で。入ってから増えてたら戻る」

 

「昨日みたいに、中で初めて出たら?」

 

「その時も戻る」

 

材木を扱う男が不満そうに言う。

 

「毎回戻ってたら仕事にならん」

 

「毎回谷が増えるのか?」

 

「知らん」

 

「じゃあ、増えない日は仕事しろ」

 

「増えた日だけ休めって?」

 

「別の所やれ」

 

「簡単に言うな」

 

「簡単じゃないから今決めてる」

 

寺崎は鉛筆を動かした。

 

奥へ入る前に、外から見える沢筋を確認。

中で数・位置が合わない場合は、荷を入れず戻る。

 

書いたところで、閉めたい男が言った。

 

「一人で行くな、も入れろ」

 

「昨日は一人だったからな」

 

片足を庇っている男が嫌そうに顔を背けた。

 

「分かったよ」

 

「『一人で行くな』だと、どこまで?」

 

寺崎が聞く。

 

「奥」

 

「また奥ですか」

 

「寺崎さん、そこは察してくれ」

 

「察したことは後でズレます」

 

結局、入口にしている分かれから先、と書いた。

 

次に、店の男が言った。

 

「戻る時の印は?」

 

昨日の色褪せた布の話が出る。

 

「新しく付け直すか」

 

「中へ付けるのはやめた方がいい」

 

巻尺の男が言った。

 

「位置そのものが当てにならないなら、印を信用しすぎる」

 

「じゃあ何も付けない?」

 

「外の分かれだけでいい」

 

「それじゃ中で迷う」

 

「中の印は『帰れる保証』じゃなくて、『ここを通った記録』にするならいい」

 

寺崎はその言葉をそのまま書いた。

 

印は帰路保証ではない。

 

土地の持ち主が紙を覗く。

 

「そんなのまで書くのか」

 

「後で印だけ残ったら、『ここを辿れば帰れる』って話になるかもしれないので」

 

「誰がそんな勘違いする」

 

寺崎は返事をしなかった。

 

五年続けば、子どもには昔からになる。

昨日、自分でそう言ったばかりだった。

 

* * *

 

昼前には、決まったことより、決まらなかったことの方が多かった。

 

山を封鎖するか。

しない。

 

では安全か。

分からない。

 

余分な谷を使うか。

今日は使わない。

 

今後も使わないか。

決めない。

 

原因を調べるか。

調べる人間は調べる。

 

誰が責任者か。

一人にはしない。

 

寺崎は最後の一つを書いたところで、紙を見直した。

 

ずいぶん頼りない。

 

しかし、嘘は少なかった。

 

「これ、資料館に持っていくんですか」

 

拓真が聞いた。

 

「写しは」

 

「元は?」

 

「ここに置いた方が使うでしょう」

 

店の男が顔を上げる。

 

「うち?」

 

「嫌ですか」

 

「紙増えるの嫌なんだけど」

 

「荷札の横なら見ますよね」

 

「勝手に仕事増やすなよ」

 

そう言いながらも、店の男は紙を受け取った。

 

壁へ貼るのではなく、荷札板の裏へ挟む。

 

「貼らないんですか」

 

拓真が聞く。

 

「貼ったら客まで読むだろ」

 

「読まれたら困る?」

 

「説明が面倒」

 

「そこ?」

 

「そこだよ」

 

店の男は当然のように答えた。

 

裏側の秘密を守る、という大きな言葉ではなかった。

 

知らない人間へ一から説明するのが面倒。

変な場所目当てで来られるのも困る。

仕事に関係する人間だけ分かればいい。

 

そんな理由で、紙は板の裏へ入った。

 

寺崎はそれでいいと思った。

 

使う場所に記録がある方が、資料館の棚に一枚増えるより役に立つ。

 

「寺崎さん」

 

片足を庇っている男が呼んだ。

 

「昨日の俺の話、嘘じゃなかっただろ」

 

「嘘とは書いてません」

 

「疑ってた」

 

「確認してなかっただけです」

 

「今は?」

 

寺崎は紙を見る。

 

昨日の伝聞の横に、今日の直接確認が増えている。

 

「今日見た分は、見たって書けます」

 

男は少し満足そうに頷いた。

 

それで良かったらしい。

 

* * *

 

午後、店へ荷を取りに来た若い男が、板の裏の紙を読まされた。

 

店の男が面倒そうに言う。

 

「上へ行くなら、先に外から沢見ろ」

 

「何で」

 

「増えてたら戻れ」

 

「沢が?」

 

「そう」

 

「増えるの?」

 

「今日は増えた」

 

若い男は寺崎を見る。

 

「何それ」

 

「そのままです」

 

「祟り?」

 

寺崎が口を開く前に、店の男が言った。

 

「そういうのはいいから、見てから行け」

 

朝、自分で「説明が面倒」と言っていた男だった。

 

若い男はまだ納得していない顔をしていたが、荷を持つ前に山の見える方へ出ていった。

 

寺崎は少し驚いた。

 

決まりというほど立派なものではない。

誰かが正式に承認したわけでもない。

名前もない。

 

朝、怪我をした男がいて。

仕事を止めたくない男がいて。

全部閉めたい男がいて。

土地を危険地帯にされたくない持ち主がいて。

記録を残したい自分がいた。

 

揉めた結果、今日だけ使える手順が一つできた。

 

その日の午後には、別の人間がもう使っている。

 

拓真が隣で、山の方を見ていた。

 

寺崎は聞いた。

 

「何ですか」

 

「いや」

 

「また見物ですか」

 

「今はこっち見てました」

 

「こっち?」

 

拓真は、店の荷札板を指した。

 

「それ」

 

「紙?」

 

「朝はなかったですよね」

 

「朝作ったので」

 

「こうやって増えるんだなって」

 

寺崎は少し眉を寄せた。

 

「勝手に生えたみたいに言わないでください」

 

「違う?」

 

「揉めて作ったんです」

 

拓真は一瞬黙ってから、笑った。

 

「それがいいんですよ」

 

寺崎には、何がそこまで嬉しいのか分からなかった。

 

ただ、昨日までなかった谷が山の中にある。

 

その谷の原因は、まだ誰にも分からない。

 

分からないまま、今日の配達は下で止まり、山仕事の人間は入る前に沢筋を見ることになった。

 

怪異は、怪談の中だけに残らなかった。

 

人が避けた道に。

止めた荷に。

折り直した地図に。

店の板の裏へ挟まれた一枚の紙に。

 

直接、生活の形を変えていた。

 

寺崎は自分の写しの右上へ日付を書いた。

 

その下へ、あとから一行だけ足した。

 

本日より、上道利用前に外側から沢筋を確認。

 

昔からの作法ではない。

 

今日、ここにいた人間が、明日も暮らすために決めたことだった。

 

ここまででちゃんと面白いですか?

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  • 面白い寄りの面白くない
  • どちらでもない
  • 面白くない寄りの面白い
  • 面白くない寄りの面白くない
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