歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい 作:無異常世界
文子に手を引かれた瞬間、澄江は文子の手の中へ落ちたような気がした。皮膚の下に、細い熱が走っている。親指の付け根より少し下には、砂より小さな硬いものが刺さっていた。その周りだけが赤く膨らみ、脈を打つたびに熱が広がる。
見えたわけではない。それでも、そこにあると分かった。
「澄江、早く」
文子がもう一度引いた。感覚が指から腕へ上がってきた。澄江は手を振りほどいた。文子が目を丸くする。
「何よ」
「手」
「手がどうしたの」
澄江は文子の手のひらを見た。汚れてはいるが、血は出ていない。親指の下にも何も見えなかった。
「何でもない」
「じゃあ来て。裏に猫がいるの」
文子はすぐに興味を戻し、教室の後ろの窓を指した。窓の外、校舎の裏手を白い尾が横切ったらしい。文子は朝からそれを澄江へ見せたくて待っていたのだ。澄江も、昨日なら一緒に走っていた。
だが今は、文子の手の中にあった熱が、自分の右手へ薄く残っている。皮膚をこすっても消えなかった。
「先に行って」
「見えなくなるでしょう」
「すぐ行くから」
文子は不満そうな顔をしたが、一人で教室を出た。澄江は少し遅れて廊下へ出た。校舎の裏へ回ると、白い猫はもう塀の上にいた。文子が声を落として呼ぶと、猫は一度だけこちらを見て、隣の家の屋根へ飛び移った。
「澄江が遅いから」
「猫は待ってくれないよ」
「だから急いでって言ったのに」
文子は口を尖らせたが、すぐに猫が消えた方へ背伸びした。いつもなら澄江の肩へ手を置くところだった。今は何もされていないのに、澄江は一歩離れた。文子が振り返る前に、教室へ戻る鐘が鳴った。
澄江は机の横へ立ったまま、自分の手を握ったり開いたりした。痛くはない。熱いのも自分ではない。それが余計に気持ち悪かった。
朝の授業が始まる頃には、残っていた感覚は消えた。澄江は、寝ぼけていたのだと思うことにした。ところが休み時間、文子が机の端へ手をついた時、小さく顔をしかめた。
「どうしたの」
「何が」
「手」
「別に」
文子は手のひらを見て、親指の下を爪で掻いた。何度か押した後、皮膚の下から細い木の屑が出てきた。
「あ、刺さってた」
文子はそれを爪先へ載せ、澄江へ見せた。朝、見えなかった場所だった。
「これ分かってたの?」
澄江は答えられなかった。文子は返事を待たず、木の屑を床へ落とした。
「机が古いからよ。昨日も刺さった子いたもの」
そう言って、いつものように澄江の肩へ腕を回そうとした。澄江は先に身を引いた。文子の腕が空を切る。
「何なの、さっきから」
「暑いから」
「昨日も暑かったでしょう」
「今日はもっと暑い」
文子は窓の外を見た。雲がかかり、昨日より日は弱かった。
「嘘」
澄江は机へ視線を落とした。文子へ触れるのが嫌なわけではない。一緒にいるのも、話すのも嫌ではない。ただ、次に触れた時、また文子の中へ落ちるのが怖かった。
何が見つかるか分からない。見つけたものが何なのかも分からない。自分の手なのに、触った後まで文子の熱が残る。それをどう言えばいいのか、澄江には分からなかった。
授業中、隣の席の子が落とした鉛筆を拾った時には、指が少し触れても何も起きなかった。紙を後ろへ回した時も、受け取った子の手はただの手だった。何も感じない相手もいる。それなら文子の手に木が刺さっていたから分かったのかもしれない。転んだ子や怪我をした人だけなら、見える傷を見て考えただけかもしれない。
そうやって普通の理由へ戻せそうになるたび、朝の硬い点が、見つける前から同じ場所にあったことを思い出した。やはり朝だけだったのかもしれない。そう思いかけた帰り際、廊下で走ってきた下級生とぶつかった。転びそうになった子の腕を掴む。
今度は、肘の少し下に鈍い熱があった。丸く、重く、皮膚よりずっと奥に沈んでいる。澄江は反射的に手を離した。下級生は壁へ肩をぶつけた。
「ごめん」
澄江が言うと、その子は何が起きたか分からない顔で腕をさすった。袖がめくれ、古い青痣が見えた。澄江は息を止めた。目で見る前から、あそこに何かあると分かっていた。
朝の木の屑だけではない。人へ触れた時、その人の中の、普通と違うところが入ってくる。そう考えた途端、廊下を歩く子どもたちの腕も、肩も、手も、全部が怖くなった。誰かに触れれば、また何か分かるかもしれない。
何もないかもしれない。どちらでも、試したくなかった。
* * *
校門を出ると、文子が道の端で待っていた。澄江は少し安心した。朝から機嫌を悪くしていても、帰る時には一緒にいる。それがいつもの文子だった。
「遅い」
「先生に呼ばれてた」
「何したの」
「何もしてない」
文子は澄江の横へ並び、すぐに手を伸ばした。いつもなら、腕を組むか、鞄を持とうとする。澄江は道の反対側へ一歩よけた。文子の顔から、待っていた時の不機嫌が消えた。
「私、何かした?」
「してない」
「じゃあ、何で避けるの」
「避けてない」
「朝から一回も触らせないじゃない」
道の向こうを自転車が通った。二人は端へ寄ったが、澄江は文子との間を空けたまま歩いた。
「暑いから」
「それ、さっきも言った」
「じゃあ、疲れてるから」
「私だけ?」
「文子だけじゃない」
言った後で、失敗したと思った。文子は足を止めた。
「誰にも触りたくないの?」
澄江も止まった。本当のことだった。だから、うなずいてしまった。文子の眉が寄る。
「変なの」
「うん」
「病気?」
「分からない」
「だったら、そう言えばいいでしょう」
「言いたくない」
「何で」
「分からないから」
文子は澄江の返事を一つずつ聞くほど、怒っていった。
「分からない、分からないって、そればっかり」
「本当に分からないんだもの」
「私が嫌になったなら、そう言いなさいよ」
「嫌じゃない」
「じゃあこっち見て」
文子が澄江の手首を掴んだ。袖口から出ていた皮膚へ、文子の指が直接触れた。その瞬間、文子の指から何かが押し寄せた。朝の手のひらとは違う。
胸の奥に、細く冷たい場所がある。息を吸うたびに少しだけ縮み、すぐ元へ戻る。異常なのか、ただ身体が動いているだけなのか、澄江には分からない。分からないものが、自分の胸の内側へ重なった。
「触らないで!」
澄江は文子の手を叩き落とした。声が、思っていたより大きく出た。道を歩いていた女が振り返る。文子は叩かれた手を胸へ引いた。
「そんなに嫌なら、もういい」
「文子」
「一人で帰れば」
文子は走っていった。澄江は追えなかった。追いつけば、また腕を掴むかもしれない。謝るために手を取るかもしれない。
そんなことを考えた自分が嫌だった。文子より、自分の手の方が大事なのかと思った。違うと言いたかった。だが今は、誰にも触りたくなかった。
* * *
家へ帰ると、和枝はまだ戻っていなかった。澄江は学校の紙を机へ置き、手を洗った。水が指の間を流れても、文子の胸にあった冷たい場所は消えなかった。自分の胸へ手を当てる。
自分の鼓動と、文子に触れた時の冷たさが重なり、どちらが残っているのか分からなくなった。手を離しても、すぐには消えなかった。夕方になり、和枝が店から戻ってきた。帳面を包んだ風呂敷と、預かった布を抱えている。
「ただいま。澄江、針箱を出して」
澄江は返事をして、棚の上の箱を取った。渡そうとして、手が止まった。和枝が箱と澄江を交互に見る。
「そこへ置いて」
澄江は机へ置いた。和枝は何も言わず、風呂敷をほどいた。今日中に仕上げるらしい布を広げ、ほつれた場所を確かめる。澄江も宿題の紙を開いたが、文字は少しも頭に入らなかった。
戸の外で足音が止まった。返事をする前に、文子が戸を開けた。
「澄江いる?」
「いるけど、今帰ったところでしょう」
和枝が言っても、文子はもう部屋へ入っていた。いつもなら澄江の横へ座る。今日は一人分空けて座った。
「話しに来た」
澄江は紙を伏せた。
「何」
「私が嫌いじゃないって、本当?」
和枝の針が止まった。澄江は、和枝に聞かれていることより、文子がここまで来たことの方が気になった。
「本当」
「じゃあ、明日も一緒に行く?」
「行く」
「手は」
文子が自分の手を膝へ置いた。澄江は少し迷ってから言った。
「今は、触ると疲れる」
「私だけ?」
「誰でも」
「いつまで」
「分からない」
文子はまた怒りそうな顔をした。しかし、今日は途中で止まった。
「じゃあ、分かったら言って」
「うん」
「あと、嫌なら叩く前に言って」
「ごめん」
「明日、先に行かないでよ」
「行かない」
文子は立ち上がった。澄江が見送ろうとすると、手で制した。
「そこにいて。触りたくないんでしょう」
意地悪のような言い方だったが、文子は少し笑っていた。澄江も、ほんの少しだけ笑えた。文子が帰ると、部屋は急に静かになった。和枝は針へ糸を通し直した。
「触ると疲れる、だけじゃないね」
澄江は黙った。
「文子には言えないこと?」
「言っても分からないと思う」
「私なら分かる?」
「分からないかも」
「じゃあ、一緒だ。話しな」
和枝は布を置いた。澄江へ近づかなかった。そのことに気づいて、澄江はようやく息を吐いた。
「人に触るとね」
声が震えた。
「中が分かるの」
和枝は笑わなかった。
「中って、腹の中?」
「全部じゃない。変なところだけ。熱いとか、硬いとか、冷たいとか。どこにあるかも分かる。でも、何なのかは分からない」
「今日から?」
「朝、文子の手を掴んだ時。木が刺さってた。見えなかったのに分かった」
「その後は」
「廊下で転びそうになった子。腕に熱い丸いのがあって、後から痣が見えた。文子に触られた時も、胸に冷たいところがあった」
言葉にすると、急に本当らしくなった。澄江は両手を膝の下へ隠した。
「私、変になったの?」
和枝はすぐには答えなかった。それが、分かったふりをされるよりましだった。
「お前の手が痛いの」
「痛くない」
「相手が痛いの」
「それも分からない。文子は普通だった」
「手を離したら消える?」
「少し残る」
「今も?」
澄江はうなずいた。和枝は自分の手を見た。店の帳面をつけ、布を裁ち、針を持つ手だった。いつもなら澄江の額へ当てて熱を確かめていたかもしれない。
だが、手は膝の上から動かなかった。
「試すのはやめよう」
澄江は顔を上げた。
「叔母さんに触れば、嘘じゃないって分かるかもしれない」
「嘘だと思ってない。何かは分からないと思ってるだけ」
和枝は、いつもの調子で言った。
「分からないから、明日、田代先生のところへ行く。学校へ遅れるって、私から話す」
「病気なの?」
「それを聞きに行くんだよ」
「先生に触らないと駄目?」
「嫌なら触らなくていい。触る必要があるなら、先に何をするか聞く」
和枝は立ち上がり、水を汲んだ。湯呑みを澄江の前へ置く時も、手渡しにはしなかった。
「今夜は誰にも触らなくていい」
明日のことは、明日、医者へ行ってから考える。学校へ何と話すかも、文子へどこまで言うかも、その後でいい。和枝はそう言って、縫いかけの布を取り上げた。今日中に終える仕事まで消えたわけではない。けれど、針を持つ前にもう一度、湯呑みを澄江の近くへ寄せた。
澄江は湯呑みを両手で持った。温かさは、自分の手と湯だけのものだった。和枝は手を出さなかった。それが、その日初めて、澄江にはありがたかった。