歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい   作:無異常世界

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第三十話

一九九二年。

 

拓真は、今度は先に連絡した。

 

診療所の受付へ行く前に、瀬尾澄江を通した。

 

日時を決めた。

何を相談したいかも、短く書いた。

 

人と人の間。

名前。

役割。

約束。

記録。

 

物でも身体でもないものに、異常が成立できる余地を置きたい。

 

そう伝えた。

 

返事は、翌日に来た。

 

来ていい。

ただし、試験をするなら相良拓真一人で決めないこと。

参加者を先に決めること。

途中でやめられる形にすること。

 

最後に、澄江の字で一行あった。

 

今度はちゃんと来訪者から始めてください。

 

拓真は、少し笑った。

 

* * *

 

試験の日。

 

場所は、診療所とは別に用意された小さな試験室だった。

 

拓真が最初に渡されたのは、能力の説明ではなかった。

 

一枚の紙だった。

 

「読んでください」

 

記録を担当する女が言った。

 

拓真は上から読む。

 

今日確認すること。

確認しないこと。

途中で中止できること。

中止した場合、その時点から先を成立扱いにしないこと。

記録の写しを誰が持つか。

 

一番下に、署名欄がある。

 

拓真は自分の名前を書こうとして、横を見る。

 

「俺もですか」

 

「参加するなら」

 

「条件を置く側でも?」

 

「条件を置く側だから、外れる理由あります?」

 

「ないです」

 

相良拓真。

 

書いた。

 

その向かいで、朝倉怜子も紙を読んでいた。

 

「燈子にも同じの?」

 

怜子が聞く。

 

「同じです。今日の成立手順には入ります。ただし、能力は成立条件に入れません。観測に使う回だけ別紙も付けます」

 

「本人は文句言いそう」

 

「もう言われました」

 

少し離れた椅子から声がした。

 

「聞こえてますけど」

 

朝倉燈子がいた。

 

診療所で会った時より、少し時間が経っている。

 

拓真がそちらを見ると、燈子は二枚の紙を持ち上げた。

 

「参加の分と観測の分。能力は勝手に使わない。使う時は先に言う。終わったら私の感覚も私が書く」

 

「ちゃんとしてる」

 

「相良さんに言われたくない」

 

「何でですか」

 

「前に会った日に検査始めかけたから」

 

「始めてないです」

 

「顔が始めてた」

 

怜子が笑った。

 

記録担当の女は笑わなかった。

 

「今日は、朝倉燈子さんの能力を新しい条件の一部にはしません」

 

「分かってます」

 

拓真が答える。

 

「観測に使った回と、使わない回を分けます」

 

「はい」

 

「あと、成立したら何でも第三領域のせいにしない」

 

「はい」

 

「失敗したら、相良さんの説明に合わせて記録を書き直さない」

 

「はい」

 

燈子が横から言った。

 

「今日、相良さん『はい』ばっかりですね」

 

「来訪者なので」

 

「便利な言葉覚えた」

 

「最近覚えました」

 

澄江が部屋の入口で笑った。

 

「本当に成長したね」

 

「それ、前も言われた気がします」

 

「前より遅い成長だけど」

 

「褒めてないですよね」

 

「褒めてる」

 

そこで話は終わった。

 

記録担当の女が、机の上に三種類の紙を並べたからだ。

 

* * *

 

試験室は広くなかった。

 

床に、離れた位置へ印が付けてある。

 

机が三つ。

互いの手元は衝立で見えない。

 

机の上には、小さな札が何枚か置かれていた。

 

どれも同じ大きさ。

表には意味のない簡単な記号がある。

 

「この記号、何て呼びます?」

 

拓真が聞いた。

 

「まだ決めてません」

 

記録担当の女が答える。

 

「呼び方が必要なら、今日だけの呼び方を決めます」

 

怜子が札を一枚見た。

 

丸の中に短い線がある。

 

「輪でいいんじゃない」

 

燈子が言う。

 

「形そのまま」

 

「今日だけなら分かればいいでしょ」

 

記録担当の女が紙へ書く。

 

仮称、輪。

 

その横に、今日の試験だけで使用、と足した。

 

拓真はそれを見ていた。

 

名前を付けた瞬間に、もっと何かが起きるのではないか。

 

そういう期待がないわけではない。

 

けれど、紙の上の札は何も変わらない。

 

当然だった。

 

まだ世界の側に、その種類の余地を置いていない。

 

それに、完成した技法を作るつもりもない。

 

今日決めた「輪」という呼び方が、何十年後にも残る必要はなかった。

 

「相良さん」

 

記録担当の女が呼ぶ。

 

「はい」

 

「考え込む前に、手順確認」

 

「すみません」

 

紙へ戻る。

 

三人が別々の位置へ立つ。

 

一人が札を読む。

一人が返す。

一人が残す。

 

役割名も、その場で付けた。

 

読む側。

返す側。

残す側。

 

格好よくはなかった。

 

燈子が言った。

 

「もっと名前ないんですか」

 

「今は要らない」

 

記録担当の女が答える。

 

「成立するか分からないものに先に名前だけ増やさない」

 

「それはそう」

 

「相良さんは?」

 

「俺も賛成です」

 

燈子が驚いた顔をした。

 

「本当に成長してる」

 

「何でみんな同じこと言うんですか」

 

* * *

 

最初は、何も起きなかった。

 

三人が、それぞれ最初に決めた位置へ戻る。

 

同じ札を「輪」と呼ぶ。

 

役割を声に出す。

 

決めた順番で札を動かす。

 

結果はばらばらだった。

 

読む側が選んだ札。

返す側が選んだ札。

残す側が最後に指した札。

 

一致しない。

 

二回目も。

 

三回目も。

 

記録担当の女は、そのたび紙へ線を引いた。

 

「不成立」

 

拓真が言う。

 

「今のところは」

 

「はい」

 

「原因は?」

 

「分かりません」

 

「それでいいです」

 

言われる前に答えた。

 

燈子が小さく笑った。

 

四回目。

 

位置を一つだけ変えた。

 

五回目。

 

呼び方を変えた。

 

六回目。

 

役割を声に出さず、紙だけで共有した。

 

全部、ばらばらだった。

 

試験室には、紙をめくる音と鉛筆の音しかない。

 

拓真がやろうとしていることだけを言葉にすれば、大きい。

 

人と人。

人と場所。

名前。

役割。

契約。

記録。

記憶。

 

そういうものが、ただの説明ではなく、現象の条件になれる世界を作る。

 

だが、目の前でやっていることは地味だった。

 

床の印へ立つ。

札を読む。

同じ言葉を使う。

順番を守る。

失敗したら書く。

 

その地味さを、拓真は嫌だと思わなかった。

 

大きな結果だけ欲しいなら、もっと完成したものを押し込めばいい。

 

それでは、自分がいなくなった後に誰も使い方を変えられない。

 

誰かが別の名前を付ける余地もない。

 

違う土地で違う手順になる余地もない。

 

だから、置くのは完成品ではない。

 

世界が、関係そのものを条件として受け取れる余地だけ。

 

拓真は、そこで能力を使った。

 

音はしなかった。

 

光も出なかった。

 

床の印も。

札も。

人の顔も。

 

何一つ、見た目には変わらなかった。

 

記録担当の女が拓真を見る。

 

「終わりました?」

 

「たぶん」

 

「たぶんは記録に困る」

 

「俺がした操作は終わりました。成立したかは、まだ分かりません」

 

「それなら書けます」

 

紙へ書いた。

 

相良による操作終了。

現象成立は未確認。

 

拓真はその一行を見た。

 

自分が世界へ根本条件を置いた瞬間より、その下に何が書かれるかの方が気になった。

 

* * *

 

七回目。

 

三人が元の位置へ戻る。

 

「輪」

 

呼び方をそろえる。

 

読む側。

返す側。

残す側。

 

役割を確認する。

 

札を裏返す。

 

それぞれの机で、見えないように並べ替える。

 

記録担当が合図する。

 

「始めてください」

 

読む側が一枚を選んだ。

 

返す側が、その人の声だけを聞いて一枚を選ぶ。

 

残す側は二人を見ず、最後に一枚を指す。

 

三枚が、机の中央へ出された。

 

同じ記号だった。

 

誰もすぐには話さなかった。

 

記録担当の女が先に動く。

 

「札の準備記録」

 

別の机にいた職員が紙を持ってくる。

 

「別です。配置も別」

 

「見えてた可能性」

 

「衝立そのまま。鏡面なし」

 

「声で誘導した可能性」

 

「読む文は固定。自由発言なし」

 

拓真は三枚の札を見た。

 

同じ。

 

偶然でも起こる。

 

それだけなら。

 

「もう一回」

 

燈子が言った。

 

「朝倉さんが決めない」

 

記録担当の女が返す。

 

「分かってる。言っただけ」

 

怜子が笑う。

 

「私も、もう一回やりたい」

 

「体調は?」

 

「平気」

 

「他の二人は?」

 

二人とも続けると答えた。

 

八回目。

 

一致。

 

九回目。

 

一致。

 

十回目。

 

位置を一人だけ半歩ずらした。

 

不一致。

 

十一回目。

 

位置を戻した。

役割の一つを、声に出さず紙だけで確認した。

 

不一致。

 

十二回目。

 

声に戻す。

 

一致。

 

記録担当の女が、そこで鉛筆を置いた。

 

「休憩します」

 

「まだできます」

 

拓真が言う。

 

「相良さんに聞いてない」

 

「はい」

 

参加者へ一人ずつ確認する。

 

一人が水を飲みたいと言った。

 

そこで終わった。

 

誰も、「一回だけ」と続けなかった。

 

成立しているかもしれない現象を、人数が一人欠けたまま試すこともしなかった。

 

紙には、休憩、と書かれた。

 

能力の話より先に、その一文字が残った。

 

* * *

 

廊下へ出ると、燈子が自動販売機の前にいた。

 

拓真が近づく。

 

「どうでした?」

 

「何が」

 

「見てて」

 

「格好いい」

 

「本当ですか」

 

「札を三枚出したら同じでした、だけ見ると地味」

 

「はい」

 

「でも、さっきまで合わなかったのに、条件そろえたら急に合い始めたのは好き」

 

「分かります」

 

「すごい嬉しそう」

 

「はい」

 

「また世界増やしたんですか」

 

拓真は、少し考えた。

 

「増やせたかもしれないです」

 

「また増やすの?」

 

呆れた声だった。

 

けれど、嫌そうではない。

 

拓真は笑った。

 

「欲しかったので」

 

「能力者と怪異だけじゃ足りない?」

 

「足りないです」

 

「欲張り」

 

「そうですね」

 

燈子は飲み物を一口飲んだ。

 

「私のは使わないの?」

 

「次の確認で、観測だけお願いしたいです」

 

「何見るの」

 

「三人が互いに見てなくても、注意がどこへ向いてるか。分かる範囲で」

 

「私が分からないところまで説明に使わないなら」

 

「使いません」

 

「じゃあいいです」

 

その返事も、記録担当の女が後から紙へ書いた。

 

* * *

 

休憩の終わり際。

 

別の電話が鳴った。

 

今回の試験とは関係のない電話だった。

 

記録担当の女が受ける。

 

最初は普通に相槌を打っていた。

 

途中から、机の端にある古い連絡帳を引き寄せた。

 

「その場所、前にも入ったことあります?」

 

少し聞く。

 

「帰りの手順は」

 

また聞く。

 

「分かりました。今、分かる人を探します」

 

電話を切る。

 

澄江が聞いた。

 

「どこ?」

 

「建物の中で、戻った廊下が合わないらしいです。まだ人は奥へ入れてない」

 

「止めてる?」

 

「止めてる」

 

「なら先にそれ」

 

記録担当の女は連絡帳をめくった。

 

一つ目の番号へかける。

 

出ない。

 

二つ目。

 

出た。

 

短く事情を話す。

 

しばらく聞いた後、女の手が止まった。

 

「入口側だけ?」

 

相手が何か言う。

 

「奥の引き継ぎは誰が」

 

また聞く。

 

「その人は今」

 

声が少し低くなる。

 

「分かりました。ありがとうございます」

 

切る。

 

三つ目へかける。

 

今度はすぐつながった。

 

だが、結果は似ていた。

 

「補助しかしてない」

 

記録担当の女が復唱した。

 

「全部を教えられる人ではない?」

 

少し聞く。

 

「はい。分かりました」

 

切った。

 

机の上に、古い紙が一束出された。

 

拓真は、遠くからでも見覚えのある種類だと思った。

 

異常な建物や、戻り方が一定しない場所で使われてきた、帰路のための古い手順。

 

ただし、紙に残っているのは全部ではなかった。

 

注意書き。

途中の図。

誰かが後から足した短い文。

 

どこまでが共通で、どこからが現場ごとの工夫なのかも分からない。

 

「相良さん」

 

澄江が呼んだ。

 

拓真は近づいた。

 

「これ、知ってる?」

 

紙を見る。

 

似たものは見たことがある。

 

昔の現場で、人を帰すために使っていたやり方。

 

けれど、この紙と同じ手順を自分が実行したことはない。

誰から誰へ教えたのかも知らない。

今、電話の向こうにいる人が、どこまで同じものを指しているのかも分からない。

 

「似たやり方は知ってます」

 

拓真が言う。

 

記録担当の女が鉛筆を持つ。

 

「教えられます?」

 

拓真は一度、紙を見た。

 

昔なら。

 

自分が知っていることを全部出せば、役に立てると思ったかもしれない。

 

「この手順そのものは、教えられません」

 

「理由は?」

 

「俺が実施者じゃない。似た現場を見たことがあるだけです」

 

「成立条件は?」

 

「分からない」

 

「失敗条件」

 

「分からない」

 

「今残ってる紙の抜けを埋められる?」

 

拓真は首を振った。

 

「無理です」

 

記録担当の女は、そのまま書いた。

 

相良、類似手順の観察経験あり。

当該手順の実施・指導経験なし。

欠落補完不可。

 

拓真は、その三行を見た。

 

少し悔しかった。

 

本当に、少しだけ。

 

自分が世界の始まりに近いところを知っている。

それでも、途中で人間が作った一つの技法を知らない。

 

しかも、その技法はいま、知っている人間が減っている。

 

世界は、自分の知らないところで増えただけではない。

 

自分の知らないところで、失うこともある。

 

「別の方法にします」

 

記録担当の女が言った。

 

「今日は奥へ入れない。現場図と通常の測量からやり直す。古い手順は、使える扱いにしない」

 

澄江が頷く。

 

「紙は捨てないで」

 

「もちろん」

 

「使えない、とも書かないで」

 

「確認できない、にします」

 

拓真は、余り谷の店で見た紙を思い出した。

 

使えない、ではなく。

試していない。

分からない。

 

同じだった。

 

ただ、今度は紙の向こうに、かつて使えたかもしれない技法がある。

 

その違いは大きかった。

 

* * *

 

午後の試験が再開した。

 

記録担当の女は、最初に一つ変えた。

 

「さっきの手順、誰が考えたことにします?」

 

拓真が聞き返す。

 

「何がですか」

 

「位置を決める。呼び方をそろえる。役割を声に出す。順番を確認する」

 

「今日、ここで作ったんじゃないですか」

 

「組み合わせは今日です」

 

女は、午前の記録をめくった。

 

「でも、似たことは前からどこにでもあります」

 

病院での復唱。

工場の引き継ぎ。

山での人数確認。

異常地点での退路確認。

 

呼び方をそろえる。

誰が何をするか決める。

戻ったか確認する。

紙に残す。

 

超常でなくても、人間はずっとやってきた。

 

「相良さんが今日、全部発明したことにしたら、後で困る」

 

拓真は、すぐ頷いた。

 

「それはやめましょう」

 

「異議なし?」

 

「ないです」

 

「何か残したい名前とか」

 

「ないです」

 

燈子が横から言った。

 

「珍しい」

 

「俺、そんなに名前つけたがります?」

 

「ちょっと」

 

「ちょっとなんだ」

 

「かなり、って言うと怒りそうだから」

 

「怒らないです」

 

「じゃあかなり」

 

怜子が笑った。

 

記録担当の女は、紙に一行足した。

 

今回の共有手順は既存の複数実務の要素を流用。

特定個人による完成技法として扱わない。

 

拓真は、その文を見ていた。

 

自分がしたことは消えない。

 

世界の根本に、新しい余地を置いた。

 

それは事実だ。

 

でも、目の前の手順まで全部自分のものではない。

 

むしろ、その方がよかった。

 

人間がすでにやっていたことへ、世界の側が少し遅れて追いつく。

 

今までただの確認だったものが、条件の組み方によって本当に現象へ触れ始める。

 

そうなれば、その先は自分が決めなくていい。

 

* * *

 

午後の一回目。

 

成立。

 

二回目。

 

成立。

 

三回目。

 

呼び方だけ変える。

 

不成立。

 

四回目。

 

元へ戻す。

 

成立。

 

五回目。

 

読む側と返す側の位置だけ入れ替える。

 

不成立。

 

六回目。

 

位置を戻す。

役割を言い直す。

 

成立。

 

記録担当の女は、成功の数だけを数えなかった。

 

失敗した時の条件も同じ大きさで残した。

 

その次だけ、燈子が自分の能力を観測に使った。

 

同じ手順の参加者である怜子と拓真にも、先に確認した。

燈子が分かるのは、誰が誰へ注意を向けているかという方向だけ。

考えている内容は読めない。

視界の代わりにもならない。

 

「使います」

 

燈子が言った。

 

三人が頷く。

 

試験が始まる。

 

札は見えない。

 

互いの手も見えない。

 

声だけが順番に出る。

 

「読む側、確認」

 

「返す側、確認」

 

「残す側、確認」

 

一瞬、燈子の表情が変わった。

 

「何かあります?」

 

記録担当が聞く。

 

「待って」

 

燈子は目を閉じなかった。

 

ただ、三人の間を見る。

 

「みんな、相手を見てない」

 

「はい」

 

「でも、注意の向きが、いつもより一か所に寄る感じがする」

 

「一か所?」

 

「場所って意味じゃない」

 

「じゃあ何」

 

「分からない」

 

記録担当の女は、そのまま書いた。

 

注意方向に通常時と異なる収束感。

燈子本人、空間的位置としては説明不能。

 

「それだけ?」

 

燈子が聞く。

 

「それだけ」

 

「何か仮説書かないの」

 

「今はあなたが分からないって言ったから」

 

「そういうの好き」

 

結果は一致した。

 

次の回では、燈子は能力を使わず、同じ三人のまま手順を繰り返した。

 

それでも成立した。

 

拓真は、そこを一番長く見た。

 

朝倉燈子の能力が、第三領域の型になったわけではない。

 

少なくとも、彼女の個別能力を使うことは成立条件ではなかった。

 

誰か一人の能力形式を、完成した型として世界へ押し込んだわけでもない。

 

まだ小さい。

 

札が合うだけだ。

 

誰かの記憶を書き換えるわけでもない。

契約で人を縛るわけでもない。

名前一つで世界を動かすわけでもない。

 

でも、ないものではなかった。

 

「もう一回、条件崩します」

 

記録担当の女が言った。

 

拓真は笑った。

 

「お願いします」

 

最後の確認が終わったところで、記録担当の女が三人を見る。

 

「続けますか」

 

怜子は燈子を見た。

 

燈子が時計を見てから言った。

 

「私は、今日はここでやめます」

 

「分かりました。では終了です」

 

拓真が口を開きかけた。

 

記録担当の女が先に見る。

 

「一回だけ、もなしです」

 

「言ってません」

 

「顔が言ってました」

 

燈子が笑った。

 

役割の確認も、呼称の読み上げも、そこで終わった。

 

撤回後の回は作られなかった。

 

* * *

 

夕方。

 

試験は終わった。

 

最後の結果を、誰も大げさに呼ばなかった。

 

成功。

不成功。

保留。

観測あり。

観測なし。

 

紙が増えた。

 

参加者の感想も別に書かれた。

 

「何か変な感じは?」

 

「ない」

 

「頭痛」

 

「ない」

 

「同じ札を選ぶって分かってた?」

 

「分からない」

 

「選ばされてる感じは?」

 

「ない」

 

その答えも、全部そのまま残る。

 

拓真の手帳にも、今日の結果が増えた。

 

だが、彼の手帳だけが原本になるわけではなかった。

 

記録担当の女が、紙を何部かに分けている。

 

「これは参加者用」

 

「これはこっち」

 

「相良さんのは写し」

 

「俺、写しなんですね」

 

「嫌ですか」

 

「全然」

 

本当に嫌ではなかった。

 

むしろ少し嬉しかった。

 

自分の手帳の外に、同じ出来事が残る。

 

自分がなくしても、誰かが持っている。

 

誰かが違う読み方をしても、その違いごと残る。

 

記録担当の女は、最後に二つの束を机へ置いた。

 

片方は今日の試験。

 

新しい紙。

成立した条件。

成立しなかった条件。

撤回と休憩。

観測。

分からなかったこと。

 

もう片方は、午後に電話で探した古い帰路手順の紙だった。

 

色も違う。

紙の厚さも違う。

端が傷んでいるものもある。

 

「こっちは?」

 

拓真が聞く。

 

「未確認の束に戻します」

 

「今日の現場では使わない」

 

「使わない」

 

「捨てない」

 

「捨てない」

 

「復元できたことにしない」

 

「しない」

 

女は古い束へ一枚足した。

 

現時点で完全手順を指導できる者を確認できず。

複数証言は部分的に一致するが、全工程の再現不可。

現場使用は保留。

 

拓真は、新しい束と古い束を見比べた。

 

「今日、新しいのを増やしたのに」

 

「はい」

 

「同じ日に、減ってる」

 

記録担当の女は、少し考えた。

 

「今日減ったわけじゃないです」

 

「え?」

 

「前から減ってた。今日、こっちが気づいただけ」

 

拓真は黙った。

 

澄江が横から言う。

 

「逆もあるよ」

 

「逆?」

 

「相良さんがいなくても、増えてたでしょう」

 

余り谷。

診療所の紙。

燈子の能力。

拓真が知らなかった呼び方。

 

いくつも浮かんだ。

 

「そうですね」

 

今度は、すぐ答えた。

 

* * *

 

帰る前。

 

燈子が廊下で待っていた。

 

「相良さん」

 

「何ですか」

 

「結局、嬉しいんですか。残念なんですか」

 

「何が?」

 

「今日」

 

拓真は考えた。

 

新しいものは、本当に増えた。

 

条件がそろえば、ただの合図や役割や呼び方が、現象の成立へ関わる。

 

それは、ずっと欲しかったものだった。

 

能力者だけが超常の入口になるしかない世界では、なくなるかもしれない。

 

怪異に遭遇した人だけが触れる世界でも、なくなるかもしれない。

 

人が一緒に決めた位置。

呼んだ名前。

引き受けた役割。

残した記録。

 

そういうもの自体が、いつか技法や儀式や禁忌へ育つかもしれない。

 

けれど同じ日。

 

昔の誰かが作り、誰かを帰すために使った手順は、もう全部を教えられる人が見つからなかった。

 

どちらも本物だった。

 

「両方です」

 

拓真が答えた。

 

燈子が眉を寄せる。

 

「ずるい答え」

 

「でも本当に」

 

「新しいのができたのは嬉しい」

 

「はい」

 

「昔のがなくなるのは嫌」

 

「はい」

 

「じゃあ、全部残せばいいじゃん」

 

拓真は、すぐには答えなかった。

 

燈子も、自分で言ってから少し考えた。

 

「……無理か」

 

「たぶん」

 

「人もいなくなるし」

 

「はい」

 

「紙があっても、全部じゃないこともある」

 

「今日みたいに」

 

燈子は廊下の向こうを見た。

 

「嫌ですね」

 

「嫌です」

 

「でも、そういうのも格好いいと思ってるでしょ」

 

拓真は言葉に詰まった。

 

燈子が笑う。

 

「顔に出てる」

 

「そんなに分かります?」

 

「能力使わなくても」

 

拓真も笑った。

 

失われた技法。

残った断片。

誰も完全には知らない昔のやり方。

 

そういうものを、自分は昔から格好いいと思っていた。

 

けれど、実際に目の前で失われ始めると、格好いいだけでは済まない。

 

使えないと困る人がいる。

 

知っていた人が現場を離れる。

紙が足りない。

名前すら一定しない。

 

それでも。

 

全部が完全保存され、いつでも主人公が答えを出せる世界より。

 

人間が覚え、忘れ、残し損ね、別の方法を作る世界の方が、自分が欲しかったものに近い。

 

「格好いいとは思います」

 

拓真は認めた。

 

「ほら」

 

「でも、なくなっていいとは思わないです」

 

「それなら分かる」

 

燈子は先に歩き出した。

 

「私、帰ります」

 

「今日は友達?」

 

「今日は家」

 

「そうですか」

 

「何その反応」

 

「いや、予定あるんだなって」

 

「ありますよ。普通に」

 

「ですよね」

 

燈子は少しだけ振り返った。

 

「次、私を勝手に条件に入れないでくださいね」

 

「入れません」

 

「観測は?」

 

「お願いする時は聞きます」

 

「ならいいです」

 

そのまま帰っていった。

 

* * *

 

拓真も、最後に退出の紙へ名前を書いた。

 

来訪者。

 

その欄は、前と同じだった。

 

手帳を開く。

 

今日のページには、成功した条件が並んでいる。

 

位置。

仮の呼び方。

役割。

順序。

成立。

不成立。

 

その下へ、一行書く。

 

第三の余地、成立を確認。

 

少し考えて、次を足した。

 

今日の手順は、俺一人の発明ではない。

 

さらに下。

 

古い帰路手順、完全継承者を確認できず。

欠落を推測で埋めない。

 

新しいものと、失われつつあるものが、同じページに並んだ。

 

拓真はしばらく見ていた。

 

一方には、今日初めて成立したものがある。

 

もう一方には、かつて成立していたのに、今は人から人へ渡せなくなり始めたものがある。

 

世界の裏側は増えていた。

 

同時に、失うことも覚え始めていた。

 

ここまででちゃんと面白いですか?

  • 面白い寄りの面白い
  • 面白い寄りの面白くない
  • どちらでもない
  • 面白くない寄りの面白い
  • 面白くない寄りの面白くない
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