歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい 作:無異常世界
一九九二年。
拓真は、今度は先に連絡した。
診療所の受付へ行く前に、瀬尾澄江を通した。
日時を決めた。
何を相談したいかも、短く書いた。
人と人の間。
名前。
役割。
約束。
記録。
物でも身体でもないものに、異常が成立できる余地を置きたい。
そう伝えた。
返事は、翌日に来た。
来ていい。
ただし、試験をするなら相良拓真一人で決めないこと。
参加者を先に決めること。
途中でやめられる形にすること。
最後に、澄江の字で一行あった。
今度はちゃんと来訪者から始めてください。
拓真は、少し笑った。
* * *
試験の日。
場所は、診療所とは別に用意された小さな試験室だった。
拓真が最初に渡されたのは、能力の説明ではなかった。
一枚の紙だった。
「読んでください」
記録を担当する女が言った。
拓真は上から読む。
今日確認すること。
確認しないこと。
途中で中止できること。
中止した場合、その時点から先を成立扱いにしないこと。
記録の写しを誰が持つか。
一番下に、署名欄がある。
拓真は自分の名前を書こうとして、横を見る。
「俺もですか」
「参加するなら」
「条件を置く側でも?」
「条件を置く側だから、外れる理由あります?」
「ないです」
相良拓真。
書いた。
その向かいで、朝倉怜子も紙を読んでいた。
「燈子にも同じの?」
怜子が聞く。
「同じです。今日の成立手順には入ります。ただし、能力は成立条件に入れません。観測に使う回だけ別紙も付けます」
「本人は文句言いそう」
「もう言われました」
少し離れた椅子から声がした。
「聞こえてますけど」
朝倉燈子がいた。
診療所で会った時より、少し時間が経っている。
拓真がそちらを見ると、燈子は二枚の紙を持ち上げた。
「参加の分と観測の分。能力は勝手に使わない。使う時は先に言う。終わったら私の感覚も私が書く」
「ちゃんとしてる」
「相良さんに言われたくない」
「何でですか」
「前に会った日に検査始めかけたから」
「始めてないです」
「顔が始めてた」
怜子が笑った。
記録担当の女は笑わなかった。
「今日は、朝倉燈子さんの能力を新しい条件の一部にはしません」
「分かってます」
拓真が答える。
「観測に使った回と、使わない回を分けます」
「はい」
「あと、成立したら何でも第三領域のせいにしない」
「はい」
「失敗したら、相良さんの説明に合わせて記録を書き直さない」
「はい」
燈子が横から言った。
「今日、相良さん『はい』ばっかりですね」
「来訪者なので」
「便利な言葉覚えた」
「最近覚えました」
澄江が部屋の入口で笑った。
「本当に成長したね」
「それ、前も言われた気がします」
「前より遅い成長だけど」
「褒めてないですよね」
「褒めてる」
そこで話は終わった。
記録担当の女が、机の上に三種類の紙を並べたからだ。
* * *
試験室は広くなかった。
床に、離れた位置へ印が付けてある。
机が三つ。
互いの手元は衝立で見えない。
机の上には、小さな札が何枚か置かれていた。
どれも同じ大きさ。
表には意味のない簡単な記号がある。
「この記号、何て呼びます?」
拓真が聞いた。
「まだ決めてません」
記録担当の女が答える。
「呼び方が必要なら、今日だけの呼び方を決めます」
怜子が札を一枚見た。
丸の中に短い線がある。
「輪でいいんじゃない」
燈子が言う。
「形そのまま」
「今日だけなら分かればいいでしょ」
記録担当の女が紙へ書く。
仮称、輪。
その横に、今日の試験だけで使用、と足した。
拓真はそれを見ていた。
名前を付けた瞬間に、もっと何かが起きるのではないか。
そういう期待がないわけではない。
けれど、紙の上の札は何も変わらない。
当然だった。
まだ世界の側に、その種類の余地を置いていない。
それに、完成した技法を作るつもりもない。
今日決めた「輪」という呼び方が、何十年後にも残る必要はなかった。
「相良さん」
記録担当の女が呼ぶ。
「はい」
「考え込む前に、手順確認」
「すみません」
紙へ戻る。
三人が別々の位置へ立つ。
一人が札を読む。
一人が返す。
一人が残す。
役割名も、その場で付けた。
読む側。
返す側。
残す側。
格好よくはなかった。
燈子が言った。
「もっと名前ないんですか」
「今は要らない」
記録担当の女が答える。
「成立するか分からないものに先に名前だけ増やさない」
「それはそう」
「相良さんは?」
「俺も賛成です」
燈子が驚いた顔をした。
「本当に成長してる」
「何でみんな同じこと言うんですか」
* * *
最初は、何も起きなかった。
三人が、それぞれ最初に決めた位置へ戻る。
同じ札を「輪」と呼ぶ。
役割を声に出す。
決めた順番で札を動かす。
結果はばらばらだった。
読む側が選んだ札。
返す側が選んだ札。
残す側が最後に指した札。
一致しない。
二回目も。
三回目も。
記録担当の女は、そのたび紙へ線を引いた。
「不成立」
拓真が言う。
「今のところは」
「はい」
「原因は?」
「分かりません」
「それでいいです」
言われる前に答えた。
燈子が小さく笑った。
四回目。
位置を一つだけ変えた。
五回目。
呼び方を変えた。
六回目。
役割を声に出さず、紙だけで共有した。
全部、ばらばらだった。
試験室には、紙をめくる音と鉛筆の音しかない。
拓真がやろうとしていることだけを言葉にすれば、大きい。
人と人。
人と場所。
名前。
役割。
契約。
記録。
記憶。
そういうものが、ただの説明ではなく、現象の条件になれる世界を作る。
だが、目の前でやっていることは地味だった。
床の印へ立つ。
札を読む。
同じ言葉を使う。
順番を守る。
失敗したら書く。
その地味さを、拓真は嫌だと思わなかった。
大きな結果だけ欲しいなら、もっと完成したものを押し込めばいい。
それでは、自分がいなくなった後に誰も使い方を変えられない。
誰かが別の名前を付ける余地もない。
違う土地で違う手順になる余地もない。
だから、置くのは完成品ではない。
世界が、関係そのものを条件として受け取れる余地だけ。
拓真は、そこで能力を使った。
音はしなかった。
光も出なかった。
床の印も。
札も。
人の顔も。
何一つ、見た目には変わらなかった。
記録担当の女が拓真を見る。
「終わりました?」
「たぶん」
「たぶんは記録に困る」
「俺がした操作は終わりました。成立したかは、まだ分かりません」
「それなら書けます」
紙へ書いた。
相良による操作終了。
現象成立は未確認。
拓真はその一行を見た。
自分が世界へ根本条件を置いた瞬間より、その下に何が書かれるかの方が気になった。
* * *
七回目。
三人が元の位置へ戻る。
「輪」
呼び方をそろえる。
読む側。
返す側。
残す側。
役割を確認する。
札を裏返す。
それぞれの机で、見えないように並べ替える。
記録担当が合図する。
「始めてください」
読む側が一枚を選んだ。
返す側が、その人の声だけを聞いて一枚を選ぶ。
残す側は二人を見ず、最後に一枚を指す。
三枚が、机の中央へ出された。
同じ記号だった。
誰もすぐには話さなかった。
記録担当の女が先に動く。
「札の準備記録」
別の机にいた職員が紙を持ってくる。
「別です。配置も別」
「見えてた可能性」
「衝立そのまま。鏡面なし」
「声で誘導した可能性」
「読む文は固定。自由発言なし」
拓真は三枚の札を見た。
同じ。
偶然でも起こる。
それだけなら。
「もう一回」
燈子が言った。
「朝倉さんが決めない」
記録担当の女が返す。
「分かってる。言っただけ」
怜子が笑う。
「私も、もう一回やりたい」
「体調は?」
「平気」
「他の二人は?」
二人とも続けると答えた。
八回目。
一致。
九回目。
一致。
十回目。
位置を一人だけ半歩ずらした。
不一致。
十一回目。
位置を戻した。
役割の一つを、声に出さず紙だけで確認した。
不一致。
十二回目。
声に戻す。
一致。
記録担当の女が、そこで鉛筆を置いた。
「休憩します」
「まだできます」
拓真が言う。
「相良さんに聞いてない」
「はい」
参加者へ一人ずつ確認する。
一人が水を飲みたいと言った。
そこで終わった。
誰も、「一回だけ」と続けなかった。
成立しているかもしれない現象を、人数が一人欠けたまま試すこともしなかった。
紙には、休憩、と書かれた。
能力の話より先に、その一文字が残った。
* * *
廊下へ出ると、燈子が自動販売機の前にいた。
拓真が近づく。
「どうでした?」
「何が」
「見てて」
「格好いい」
「本当ですか」
「札を三枚出したら同じでした、だけ見ると地味」
「はい」
「でも、さっきまで合わなかったのに、条件そろえたら急に合い始めたのは好き」
「分かります」
「すごい嬉しそう」
「はい」
「また世界増やしたんですか」
拓真は、少し考えた。
「増やせたかもしれないです」
「また増やすの?」
呆れた声だった。
けれど、嫌そうではない。
拓真は笑った。
「欲しかったので」
「能力者と怪異だけじゃ足りない?」
「足りないです」
「欲張り」
「そうですね」
燈子は飲み物を一口飲んだ。
「私のは使わないの?」
「次の確認で、観測だけお願いしたいです」
「何見るの」
「三人が互いに見てなくても、注意がどこへ向いてるか。分かる範囲で」
「私が分からないところまで説明に使わないなら」
「使いません」
「じゃあいいです」
その返事も、記録担当の女が後から紙へ書いた。
* * *
休憩の終わり際。
別の電話が鳴った。
今回の試験とは関係のない電話だった。
記録担当の女が受ける。
最初は普通に相槌を打っていた。
途中から、机の端にある古い連絡帳を引き寄せた。
「その場所、前にも入ったことあります?」
少し聞く。
「帰りの手順は」
また聞く。
「分かりました。今、分かる人を探します」
電話を切る。
澄江が聞いた。
「どこ?」
「建物の中で、戻った廊下が合わないらしいです。まだ人は奥へ入れてない」
「止めてる?」
「止めてる」
「なら先にそれ」
記録担当の女は連絡帳をめくった。
一つ目の番号へかける。
出ない。
二つ目。
出た。
短く事情を話す。
しばらく聞いた後、女の手が止まった。
「入口側だけ?」
相手が何か言う。
「奥の引き継ぎは誰が」
また聞く。
「その人は今」
声が少し低くなる。
「分かりました。ありがとうございます」
切る。
三つ目へかける。
今度はすぐつながった。
だが、結果は似ていた。
「補助しかしてない」
記録担当の女が復唱した。
「全部を教えられる人ではない?」
少し聞く。
「はい。分かりました」
切った。
机の上に、古い紙が一束出された。
拓真は、遠くからでも見覚えのある種類だと思った。
異常な建物や、戻り方が一定しない場所で使われてきた、帰路のための古い手順。
ただし、紙に残っているのは全部ではなかった。
注意書き。
途中の図。
誰かが後から足した短い文。
どこまでが共通で、どこからが現場ごとの工夫なのかも分からない。
「相良さん」
澄江が呼んだ。
拓真は近づいた。
「これ、知ってる?」
紙を見る。
似たものは見たことがある。
昔の現場で、人を帰すために使っていたやり方。
けれど、この紙と同じ手順を自分が実行したことはない。
誰から誰へ教えたのかも知らない。
今、電話の向こうにいる人が、どこまで同じものを指しているのかも分からない。
「似たやり方は知ってます」
拓真が言う。
記録担当の女が鉛筆を持つ。
「教えられます?」
拓真は一度、紙を見た。
昔なら。
自分が知っていることを全部出せば、役に立てると思ったかもしれない。
「この手順そのものは、教えられません」
「理由は?」
「俺が実施者じゃない。似た現場を見たことがあるだけです」
「成立条件は?」
「分からない」
「失敗条件」
「分からない」
「今残ってる紙の抜けを埋められる?」
拓真は首を振った。
「無理です」
記録担当の女は、そのまま書いた。
相良、類似手順の観察経験あり。
当該手順の実施・指導経験なし。
欠落補完不可。
拓真は、その三行を見た。
少し悔しかった。
本当に、少しだけ。
自分が世界の始まりに近いところを知っている。
それでも、途中で人間が作った一つの技法を知らない。
しかも、その技法はいま、知っている人間が減っている。
世界は、自分の知らないところで増えただけではない。
自分の知らないところで、失うこともある。
「別の方法にします」
記録担当の女が言った。
「今日は奥へ入れない。現場図と通常の測量からやり直す。古い手順は、使える扱いにしない」
澄江が頷く。
「紙は捨てないで」
「もちろん」
「使えない、とも書かないで」
「確認できない、にします」
拓真は、余り谷の店で見た紙を思い出した。
使えない、ではなく。
試していない。
分からない。
同じだった。
ただ、今度は紙の向こうに、かつて使えたかもしれない技法がある。
その違いは大きかった。
* * *
午後の試験が再開した。
記録担当の女は、最初に一つ変えた。
「さっきの手順、誰が考えたことにします?」
拓真が聞き返す。
「何がですか」
「位置を決める。呼び方をそろえる。役割を声に出す。順番を確認する」
「今日、ここで作ったんじゃないですか」
「組み合わせは今日です」
女は、午前の記録をめくった。
「でも、似たことは前からどこにでもあります」
病院での復唱。
工場の引き継ぎ。
山での人数確認。
異常地点での退路確認。
呼び方をそろえる。
誰が何をするか決める。
戻ったか確認する。
紙に残す。
超常でなくても、人間はずっとやってきた。
「相良さんが今日、全部発明したことにしたら、後で困る」
拓真は、すぐ頷いた。
「それはやめましょう」
「異議なし?」
「ないです」
「何か残したい名前とか」
「ないです」
燈子が横から言った。
「珍しい」
「俺、そんなに名前つけたがります?」
「ちょっと」
「ちょっとなんだ」
「かなり、って言うと怒りそうだから」
「怒らないです」
「じゃあかなり」
怜子が笑った。
記録担当の女は、紙に一行足した。
今回の共有手順は既存の複数実務の要素を流用。
特定個人による完成技法として扱わない。
拓真は、その文を見ていた。
自分がしたことは消えない。
世界の根本に、新しい余地を置いた。
それは事実だ。
でも、目の前の手順まで全部自分のものではない。
むしろ、その方がよかった。
人間がすでにやっていたことへ、世界の側が少し遅れて追いつく。
今までただの確認だったものが、条件の組み方によって本当に現象へ触れ始める。
そうなれば、その先は自分が決めなくていい。
* * *
午後の一回目。
成立。
二回目。
成立。
三回目。
呼び方だけ変える。
不成立。
四回目。
元へ戻す。
成立。
五回目。
読む側と返す側の位置だけ入れ替える。
不成立。
六回目。
位置を戻す。
役割を言い直す。
成立。
記録担当の女は、成功の数だけを数えなかった。
失敗した時の条件も同じ大きさで残した。
その次だけ、燈子が自分の能力を観測に使った。
同じ手順の参加者である怜子と拓真にも、先に確認した。
燈子が分かるのは、誰が誰へ注意を向けているかという方向だけ。
考えている内容は読めない。
視界の代わりにもならない。
「使います」
燈子が言った。
三人が頷く。
試験が始まる。
札は見えない。
互いの手も見えない。
声だけが順番に出る。
「読む側、確認」
「返す側、確認」
「残す側、確認」
一瞬、燈子の表情が変わった。
「何かあります?」
記録担当が聞く。
「待って」
燈子は目を閉じなかった。
ただ、三人の間を見る。
「みんな、相手を見てない」
「はい」
「でも、注意の向きが、いつもより一か所に寄る感じがする」
「一か所?」
「場所って意味じゃない」
「じゃあ何」
「分からない」
記録担当の女は、そのまま書いた。
注意方向に通常時と異なる収束感。
燈子本人、空間的位置としては説明不能。
「それだけ?」
燈子が聞く。
「それだけ」
「何か仮説書かないの」
「今はあなたが分からないって言ったから」
「そういうの好き」
結果は一致した。
次の回では、燈子は能力を使わず、同じ三人のまま手順を繰り返した。
それでも成立した。
拓真は、そこを一番長く見た。
朝倉燈子の能力が、第三領域の型になったわけではない。
少なくとも、彼女の個別能力を使うことは成立条件ではなかった。
誰か一人の能力形式を、完成した型として世界へ押し込んだわけでもない。
まだ小さい。
札が合うだけだ。
誰かの記憶を書き換えるわけでもない。
契約で人を縛るわけでもない。
名前一つで世界を動かすわけでもない。
でも、ないものではなかった。
「もう一回、条件崩します」
記録担当の女が言った。
拓真は笑った。
「お願いします」
最後の確認が終わったところで、記録担当の女が三人を見る。
「続けますか」
怜子は燈子を見た。
燈子が時計を見てから言った。
「私は、今日はここでやめます」
「分かりました。では終了です」
拓真が口を開きかけた。
記録担当の女が先に見る。
「一回だけ、もなしです」
「言ってません」
「顔が言ってました」
燈子が笑った。
役割の確認も、呼称の読み上げも、そこで終わった。
撤回後の回は作られなかった。
* * *
夕方。
試験は終わった。
最後の結果を、誰も大げさに呼ばなかった。
成功。
不成功。
保留。
観測あり。
観測なし。
紙が増えた。
参加者の感想も別に書かれた。
「何か変な感じは?」
「ない」
「頭痛」
「ない」
「同じ札を選ぶって分かってた?」
「分からない」
「選ばされてる感じは?」
「ない」
その答えも、全部そのまま残る。
拓真の手帳にも、今日の結果が増えた。
だが、彼の手帳だけが原本になるわけではなかった。
記録担当の女が、紙を何部かに分けている。
「これは参加者用」
「これはこっち」
「相良さんのは写し」
「俺、写しなんですね」
「嫌ですか」
「全然」
本当に嫌ではなかった。
むしろ少し嬉しかった。
自分の手帳の外に、同じ出来事が残る。
自分がなくしても、誰かが持っている。
誰かが違う読み方をしても、その違いごと残る。
記録担当の女は、最後に二つの束を机へ置いた。
片方は今日の試験。
新しい紙。
成立した条件。
成立しなかった条件。
撤回と休憩。
観測。
分からなかったこと。
もう片方は、午後に電話で探した古い帰路手順の紙だった。
色も違う。
紙の厚さも違う。
端が傷んでいるものもある。
「こっちは?」
拓真が聞く。
「未確認の束に戻します」
「今日の現場では使わない」
「使わない」
「捨てない」
「捨てない」
「復元できたことにしない」
「しない」
女は古い束へ一枚足した。
現時点で完全手順を指導できる者を確認できず。
複数証言は部分的に一致するが、全工程の再現不可。
現場使用は保留。
拓真は、新しい束と古い束を見比べた。
「今日、新しいのを増やしたのに」
「はい」
「同じ日に、減ってる」
記録担当の女は、少し考えた。
「今日減ったわけじゃないです」
「え?」
「前から減ってた。今日、こっちが気づいただけ」
拓真は黙った。
澄江が横から言う。
「逆もあるよ」
「逆?」
「相良さんがいなくても、増えてたでしょう」
余り谷。
診療所の紙。
燈子の能力。
拓真が知らなかった呼び方。
いくつも浮かんだ。
「そうですね」
今度は、すぐ答えた。
* * *
帰る前。
燈子が廊下で待っていた。
「相良さん」
「何ですか」
「結局、嬉しいんですか。残念なんですか」
「何が?」
「今日」
拓真は考えた。
新しいものは、本当に増えた。
条件がそろえば、ただの合図や役割や呼び方が、現象の成立へ関わる。
それは、ずっと欲しかったものだった。
能力者だけが超常の入口になるしかない世界では、なくなるかもしれない。
怪異に遭遇した人だけが触れる世界でも、なくなるかもしれない。
人が一緒に決めた位置。
呼んだ名前。
引き受けた役割。
残した記録。
そういうもの自体が、いつか技法や儀式や禁忌へ育つかもしれない。
けれど同じ日。
昔の誰かが作り、誰かを帰すために使った手順は、もう全部を教えられる人が見つからなかった。
どちらも本物だった。
「両方です」
拓真が答えた。
燈子が眉を寄せる。
「ずるい答え」
「でも本当に」
「新しいのができたのは嬉しい」
「はい」
「昔のがなくなるのは嫌」
「はい」
「じゃあ、全部残せばいいじゃん」
拓真は、すぐには答えなかった。
燈子も、自分で言ってから少し考えた。
「……無理か」
「たぶん」
「人もいなくなるし」
「はい」
「紙があっても、全部じゃないこともある」
「今日みたいに」
燈子は廊下の向こうを見た。
「嫌ですね」
「嫌です」
「でも、そういうのも格好いいと思ってるでしょ」
拓真は言葉に詰まった。
燈子が笑う。
「顔に出てる」
「そんなに分かります?」
「能力使わなくても」
拓真も笑った。
失われた技法。
残った断片。
誰も完全には知らない昔のやり方。
そういうものを、自分は昔から格好いいと思っていた。
けれど、実際に目の前で失われ始めると、格好いいだけでは済まない。
使えないと困る人がいる。
知っていた人が現場を離れる。
紙が足りない。
名前すら一定しない。
それでも。
全部が完全保存され、いつでも主人公が答えを出せる世界より。
人間が覚え、忘れ、残し損ね、別の方法を作る世界の方が、自分が欲しかったものに近い。
「格好いいとは思います」
拓真は認めた。
「ほら」
「でも、なくなっていいとは思わないです」
「それなら分かる」
燈子は先に歩き出した。
「私、帰ります」
「今日は友達?」
「今日は家」
「そうですか」
「何その反応」
「いや、予定あるんだなって」
「ありますよ。普通に」
「ですよね」
燈子は少しだけ振り返った。
「次、私を勝手に条件に入れないでくださいね」
「入れません」
「観測は?」
「お願いする時は聞きます」
「ならいいです」
そのまま帰っていった。
* * *
拓真も、最後に退出の紙へ名前を書いた。
来訪者。
その欄は、前と同じだった。
手帳を開く。
今日のページには、成功した条件が並んでいる。
位置。
仮の呼び方。
役割。
順序。
成立。
不成立。
その下へ、一行書く。
第三の余地、成立を確認。
少し考えて、次を足した。
今日の手順は、俺一人の発明ではない。
さらに下。
古い帰路手順、完全継承者を確認できず。
欠落を推測で埋めない。
新しいものと、失われつつあるものが、同じページに並んだ。
拓真はしばらく見ていた。
一方には、今日初めて成立したものがある。
もう一方には、かつて成立していたのに、今は人から人へ渡せなくなり始めたものがある。
世界の裏側は増えていた。
同時に、失うことも覚え始めていた。
ここまででちゃんと面白いですか?
-
面白い寄りの面白い
-
面白い寄りの面白くない
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どちらでもない
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面白くない寄りの面白い
-
面白くない寄りの面白くない