歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい   作:無異常世界

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第三十一話

机の上に、古い紙が三つの束に分けられていた。

 

同じ手順の記録だと言われている。

 

けれど、重ねても同じにはならなかった。

 

一枚目には、人の立ち位置らしい丸が並んでいる。

二枚目には、通路の角と矢印。

三枚目には、途中から読めなくなった文章。

 

複写された時期も違う。

書いた人間も違う。

 

端に残った走り書きだけが、妙に似ていた。

 

戻る。

残す。

一つ前。

確認。

 

記録を預かった女は、鉛筆の先でその四つを囲んだ。

 

「ここだけなら、何枚か重なります」

 

向かいに座っていた現場担当の男が、古い図を持ち上げた。

 

「重なるって、手順が分かったって意味?」

 

「そこまでは言ってません」

 

「じゃあ何が分かった」

 

「同じ言葉が残ってる」

 

「それだけ?」

 

「それだけです」

 

男は紙を戻した。

 

「厳しいな」

 

「厳しくしないと、こっちが続きを作ったのか、昔からあったのか分からなくなるので」

 

机の横には、別の紙が置いてある。

 

聞き取り記録。

 

昔、その帰路手順を見たことがあるという人。

一度だけ補助に入ったという人。

自分では使っていないが、使った人間から教わったという人。

 

証言は、少しずつ違っていた。

 

灯りが重要だったと言う人がいる。

人の位置が重要だったと言う人もいる。

声を絶やすなと教わったという人もいた。

 

全員が同じことを言うわけではない。

 

むしろ、一人の中でも話すたびに順番が少し変わることがあった。

 

「もう一人、連絡ついたんだろ」

 

「今日の午後に電話です」

 

「その人が全部知ってたら?」

 

女は少し考えた。

 

「全部知ってるって、どう確認します?」

 

男が黙った。

 

「記録と一致する?」

 

「記録が欠けてます」

 

「他の証言と一致する?」

 

「証言同士が一致してません」

 

「実際にやって戻れたら?」

 

「それが一番近いです。でも、一回戻れたから昔の手順だったとは言えません」

 

男は椅子の背へ寄りかかった。

 

「面倒だな」

 

「だから、今まで未確認の束だったんでしょう」

 

古い紙の一番上には、前の担当者が書いた一文が残っている。

 

完全手順の再現不可。

現場使用は保留。

 

それを消す理由は、まだなかった。

 

* * *

 

午後。

 

電話の向こうの老人は、最初から機嫌が悪かった。

 

『何で今さらそんなもの調べる』

 

「使いたいからです」

 

女が答える。

 

『使うな』

 

「理由を聞いてもいいですか」

 

『分からんからだよ』

 

女は、横の男と目を合わせた。

 

「分からない?」

 

『俺が教わった時には、もう前と同じじゃなかった』

 

「前というのは?」

 

『俺より上の連中だ。あの頃だって、やり方が二つあった』

 

「どちらが正しいんですか」

 

少し間があった。

 

『知らん』

 

「知らない?」

 

『知らんものは知らん。戻れりゃ使った。戻れなくなりそうなら止めた。後から聞けば、あっちは違う、こっちも違うって話ばっかりだ』

 

男が口元を押さえた。

 

女は笑わなかった。

 

「では、あなたが実際にやった範囲だけ教えてください」

 

『さっきからそう言ってるだろ』

 

「はい」

 

『昔の偉い先生の話とかはいらんのか』

 

「先生本人から確認できるなら聞きたいです」

 

『死んでる』

 

「なら、あなたが見たことをお願いします」

 

電話の向こうで、老人が小さく息を吐いた。

 

それから話し始めた。

 

何人かで入ったこと。

途中で人が残ったこと。

奥へ行く者が、後ろを完全に切らないようにしていたこと。

戻る時に、行きと同じ順番では動かなかったこと。

 

ただし、どこで誰が残るか。

誰が誰を見ていたか。

何を合図に動いたか。

そこへ来ると、老人の記憶も曖昧になった。

 

「図にできますか」

 

『無理だな』

 

「なぜ?」

 

『建物が違う』

 

「それでも、配置だけなら」

 

『そういう覚え方してねえんだよ』

 

男が小声で言った。

 

「どういう覚え方だよ」

 

電話越しに聞こえたらしい。

 

『人だよ』

 

老人が言った。

 

『あいつがあそこに立ってる。次は俺がここ。奥のやつが戻ってきたら、そいつが動く。そんな感じだ。図面見て覚えたんじゃない』

 

女は、そのまま書いた。

 

人の組み合わせで記憶していた可能性。

 

断定はしない。

 

「交代した時は?」

 

『うまくいかんことがあった』

 

「手順を知らない人が入ったから?」

 

『それもある。知ってても合わんことはあった』

 

「何が合わなかったんでしょう」

 

『だから分からん』

 

女は、もう一度書いた。

 

不明。

 

電話を切ったあと、男が言った。

 

「結局、増えたの『分からない』だけじゃない?」

 

「増えましたね」

 

「嬉しそうに言うなよ」

 

「嬉しくはないです」

 

女は聞き取り記録を古い束へ重ねた。

 

「でも、復元できてないことは前より分かりました」

 

男はしばらく紙を見ていた。

 

「じゃあ、使えないまま?」

 

「昔の手順は」

 

「昔の、は?」

 

女は机の端にある新しい用紙へ目を移した。

 

まだ何も書かれていない。

 

「今のやり方を作るのは、別です」

 

* * *

 

数日後。

 

閉鎖中の建物の一角に、立入範囲が決められた。

 

奥まで入る試験ではない。

 

過去にも、戻った時に位置関係が合わなくなることがあると記録された場所だった。

 

普段は封じている。

今回は、入口から近い範囲だけを使う。

 

現場担当の男は、床へ新しい印を付けようとして止められた。

 

「固定物を増やしすぎないで」

 

「何で?」

 

「印そのものが条件になるかもしれないから」

 

「前はそんな話なかっただろ」

 

「前の記録がないから分からない」

 

「またそれか」

 

「またそれです」

 

結局、使うものは、もともとある壁の継ぎ目、扉、柱の位置と、取り外せる小さな札にした。

 

札も、一種類ではない。

 

入口側の記録。

中で持つ記録。

外から確認する記録。

 

一つの紙へ全部まとめなかった。

 

「何で分ける」

 

別の実務者が聞いた。

 

女が答える。

 

「一人が間違えた時、全部同じ間違いにならないように」

 

「昔のやり方?」

 

「違います」

 

「古い紙にあった?」

 

「ないです」

 

「じゃあ、今決めた?」

 

「はい」

 

相手は少し意外そうな顔をした。

 

「いいのか、それ」

 

「何がですか」

 

「昔の手順を調べてるんだろ」

 

「調べてます」

 

「なのに、勝手に変えていいのか」

 

女は古い束を指した。

 

「変える元が、ありません」

 

誰もすぐには返さなかった。

 

「分からないところを、昔もこうだったことにして埋める方が勝手です」

 

現場担当の男が笑った。

 

「それ、電話のじいさんに言ったら怒るぞ」

 

「言いません」

 

「言わないのか」

 

「聞かれたら言います」

 

* * *

 

最初の試験は、入口から最初の曲がりまでだった。

 

入る者が、現在位置を声に出す。

外側が、自分の記録へ書く。

中側も、別の紙へ書く。

 

前へ進む。

 

戻る。

 

何も起きない。

 

二回目。

 

同じ。

 

三回目。

 

曲がった先で、男が止まった。

 

「待って」

 

無線の向こうで声がする。

 

「何」

 

「今、どこって記録してる?」

 

入口側が答えた。

 

「最初の曲がりを越えたところ」

 

「こっちは?」

 

別の位置から返事が来る。

 

「同じ」

 

「見えてるものは?」

 

外側の記録係が、決めた順番で確認する。

 

「壁の継ぎ目。扉。柱」

 

男が黙った。

 

「どうした」

 

「扉がない」

 

誰も動かなかった。

 

女は時計を見た。

 

「前進中止」

 

「まだ近い」

 

「中止」

 

「戻る?」

 

「いったん、その位置で確認」

 

男が息を吐く音が無線から聞こえた。

 

「了解」

 

中側の紙には、そこに扉があると書かれている。

外側の紙にもある。

 

男の目の前にはない。

 

見落とし。

立ち位置の違い。

光の当たり方。

 

普通の理由はいくつもある。

 

だから、すぐに異常だとは決めない。

 

けれど、進んでもいい理由にもならない。

 

「一つ前の確認へ戻す」

 

女が言った。

 

「入口側、そのまま」

 

「そのまま」

 

「中側も位置を動かさない」

 

「了解」

 

「奥側だけ戻る」

 

男が一歩下がった。

 

無線越しに靴音がする。

 

もう一歩。

 

「扉、見えた」

 

女は紙へ書く。

 

出現ではない。

 

見える位置へ戻った。

 

そのまま、男を入口まで戻した。

 

試験は終了。

 

誰も奥へ進ませなかった。

 

* * *

 

建物を出てから、現場担当の男が自動販売機の横で缶を開けた。

 

「昔の人なら、今の続けたかな」

 

女は紙を見たまま答えた。

 

「分かりません」

 

「予想くらい」

 

「しません」

 

「徹底してるな」

 

「事故のあとに『たぶん昔もそうしてた』って書く方が嫌なので」

 

男は缶を一口飲んだ。

 

「でも、今日のあれだけなら、普通の見間違いかもしれない」

 

「はい」

 

「異常じゃないかもしれない」

 

「はい」

 

「じゃあ意味あった?」

 

女はやっと紙から顔を上げた。

 

「ありました」

 

「どこが」

 

「異常かどうか分からない時でも、止められた」

 

男が少し考えた。

 

「それ、技って言うほどのもんか?」

 

「今は言わなくていいです」

 

「名前も?」

 

「要りません」

 

「つまらんな」

 

「名前つけたいんですか」

 

「ちょっとだけ」

 

女は笑った。

 

「ちゃんと使えるようになってからにしてください」

 

* * *

 

試験は、その一回で終わらなかった。

 

条件を変えた。

 

見る人を変える。

記録を取る人を変える。

同じ経路でも、入る順番を変える。

 

古い紙に残っていた配置を、そのまま真似る回も作った。

 

うまくいくことがあった。

うまくいかないこともあった。

 

その差は、古い手順の正解を教えてはくれなかった。

 

一度、昔の配置に近い形で無事に戻れた時、立ち会っていた者が言った。

 

「これじゃないの?」

 

女は首を振った。

 

「一回です」

 

「でも戻れた」

 

「今までの新しいやり方でも戻れてます」

 

「じゃあ、どっちが本物?」

 

その言い方に、女は少しだけ手を止めた。

 

机の上には、古い束と新しい束が並んでいる。

 

どちらも、この世界で本当に使われた紙だった。

 

古い方が偽物なわけではない。

 

今の方が、本物ではないわけでもない。

 

「本物かどうかじゃなくて」

 

女は言った。

 

「昔の手順かどうかを、今の私たちは確認できないんです」

 

「じゃあ諦める?」

 

「復元は」

 

「使う方は?」

 

女は新しい紙を引き寄せた。

 

「続けます」

 

* * *

 

新しいやり方は、少しずつ形を変えた。

 

一人の記憶を正解にしない。

 

入口側と中側で、別に記録する。

 

位置の確認が食い違った時は、どちらかを正しいと決めて前へ進まない。

 

一つ前に確認できた状態まで戻す。

 

戻れたあとで、何が違ったかを比べる。

 

それでも分からなければ、分からないまま残す。

 

そこまでは、紙に書けた。

 

ただ、紙だけでは足りなかった。

 

「声が変わったら止めて」

 

現場担当の男が言う。

 

「声?」

 

「返事の内容じゃなくて、返し方。いつもより遅いとか」

 

「記録できます?」

 

「秒数で?」

 

「それは無理に決めない」

 

「じゃあどうする」

 

「気づいた人が申告。別の人も同じなら備考。単独なら単独で残す」

 

「曖昧だな」

 

「人が見るんだから、全部数字にはできません」

 

別の人が言った。

 

「でも、それだと経験者が強すぎない?」

 

男が返す。

 

「だから紙があるんだろ」

 

「紙だけじゃ足りないって今言ったじゃん」

 

「両方いるってこと」

 

女は、そのやり取りも書いた。

 

古い手順を探していた時にはなかった会話だった。

 

昔の正解を当てるためではない。

 

今ここにいる人間が、どうすれば次の人へ渡せるかを決める会話だった。

 

* * *

 

ある日の試験で、初めて深さを一段だけ増やした。

 

入口側は動かない。

途中の確認も残す。

奥へ行く者だけが先へ進む。

 

無線の声が遠くなる。

 

「現在位置」

 

「確認」

 

「外側記録」

 

「一致」

 

一つ進む。

 

「現在位置」

 

返事が来ない。

 

女は顔を上げた。

 

もう一度呼ぶ。

 

「現在位置」

 

数秒遅れて、声が返った。

 

「……今、戻ったつもりなんだけど」

 

現場担当の男が無線へ手を伸ばした。

 

「見えてるもの」

 

「さっきの壁。たぶん」

 

「たぶんは禁止」

 

「じゃあ分からない」

 

「了解。そのまま」

 

女は紙を見る。

 

最後に全員が一致していた地点。

 

そこから先は、一つしか進めていない。

 

以前なら、奥の人間本人の感覚だけで戻ろうとするしかなかった。

 

今は違う。

 

外側には外側の記録がある。

途中には途中の確認がある。

奥側の記憶と一致しなくても、誰か一人の話へ全部を寄せる必要がない。

 

「入口、変更なし?」

 

「なし」

 

「途中」

 

「変更なし」

 

「奥側、今いる位置で、前に見えていたものを一つずつ」

 

返事が来る。

 

壁。

継ぎ目。

低い段差。

 

途中側が言った。

 

「段差、それなら一つ前です」

 

「見えてる?」

 

「見えない。こっちの記録と一致するだけ」

 

女はそこで止めた。

 

「その判断だけで動かさない」

 

「じゃあ?」

 

「奥側、振り向かず、さっき来た方向へ戻る動作もしない。今の向きのまま、確認できる範囲だけ左」

 

「左」

 

「何がある」

 

「壁」

 

「右」

 

「柱」

 

途中側が息を吸った。

 

「柱の位置、こっちと合う」

 

女は二つの紙を見比べた。

 

「もう一項目」

 

確認する。

 

一致した。

 

それでも、すぐに帰らせなかった。

 

別の記録とも照合する。

 

一致。

 

「戻る」

 

今度は、奥側一人の記憶ではなく、外から保持している複数の確認を使って、一つ前の状態だけを目標にした。

 

無線越しの靴音。

 

途中側が言った。

 

「見えた」

 

「誰が?」

 

「本人」

 

「奥側」

 

「見えた。人いる」

 

「そこで止まって」

 

二つの位置から、互いを確認する。

 

そこから先は、急がなかった。

 

一つ戻る。

確認する。

 

もう一つ戻る。

確認する。

 

入口へ出た時、誰も声を上げなかった。

 

奥へ入っていた者が、最初に床へ座った。

 

「戻れた」

 

「体調」

 

「平気。ちょっと気持ち悪い」

 

「休憩」

 

「はい」

 

現場担当の男が、女の紙を覗き込んだ。

 

「今の、昔の手順じゃないよな」

 

女は頷いた。

 

「違います」

 

「でも、古い紙がなかったら思いつかなかった」

 

「たぶん」

 

「そこは、たぶんでいいのか」

 

「因果の話なので」

 

男が笑った。

 

「便利だな」

 

女も少し笑った。

 

ただ、記録には笑ったことを書かなかった。

 

代わりに、成功ともしなかった。

 

限定範囲で退出確認。

再現性未確認。

継続試験要。

 

そこまでを書いた。

 

* * *

 

帰る前。

 

古い束と新しい束を、別々の封筒へ入れた。

 

古い方には、これまでと同じ表示が付く。

 

旧帰路手順資料。

完全復元不可。

現場使用保留。

 

新しい方には、まだ正式な名前がない。

 

女は表紙の欄で鉛筆を止めた。

 

現場担当の男が横から見る。

 

「何て書く」

 

「仮運用手順」

 

「それだけ?」

 

「それだけ」

 

「古いやつから作ったって書かないの」

 

「来歴欄に書きます」

 

「名前には入れない?」

 

「入れません」

 

「何で」

 

女は古い封筒を持ち上げた。

 

「これを復活させたみたいになるから」

 

「違う?」

 

「違うものを作ったんでしょう」

 

男は新しい束を見る。

 

新しい紙。

新しい失敗。

新しい中止理由。

新しい確認方法。

 

古い人間が知らなかった道具もある。

古い人間が残した考え方らしいものも混じっている。

 

どこまでが昔で、どこからが今か。

きれいな線は引けない。

 

それでも、同じものだと呼ばないことはできた。

 

「じゃあ、昔のやつは戻らないままか」

 

男が言った。

 

「はい」

 

「もったいないな」

 

「そうですね」

 

女は否定しなかった。

 

古いものが失われることを、進歩だとは思わない。

 

残せたなら、その方がよかったものもある。

 

知っている人がもう少しいたら。

記録がもう少し残っていたら。

違う結果だったかもしれない。

 

けれど、残っていない部分を作ってまで、昔へ戻る必要もない。

 

「次の当直に渡せます?」

 

男が聞いた。

 

女は新しい束をめくった。

 

条件。

中止。

記録の分離。

確認の食い違い。

一つ前へ戻す時の順序。

未確認事項。

 

今日の担当者がいなくても、読める形にはなっている。

 

全部ではない。

 

まだ経験が要る。

現場ごとの差もある。

 

それでも、最初の古い紙よりは、次の人間へ渡せる。

 

「渡せます」

 

「俺がいなくても?」

 

「いない前提で書いてます」

 

「寂しいな」

 

「引き継ぎってそういうものでしょ」

 

男は笑って、先に部屋を出た。

 

女は最後に、二つの封筒を棚へ置いた。

 

片方は、戻らなかった過去だった。

 

もう片方は、その過去を材料にしながら、過去とは違う方向へ伸び始めた現在だった。

 

誰が最初にこの帰路の考え方を作ったのか。

誰が何を失敗して、どの部分が残ったのか。

 

分からないことは多い。

 

それでも、次の現場で使うものはでき始めていた。

 

昔の正解を取り戻したからではない。

 

取り戻せないまま、残った人間が別の答えを作ったからだった。

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