歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい 作:無異常世界
人が駆け込んできたのは、店の男が朝の荷札を掛け終える前だった。
「上に入った奴が戻ってない」
店の男の手が止まった。
「どこから」
「古い道の方」
「沢は見たのか」
「俺は見てない。そいつが先に入った」
「何時だ」
男が答える。
店の男は板の裏へ手を伸ばした。
余り谷の奥へ入る前に、外から沢筋を見る。
数や位置が合わなければ戻る。
数日前に増えた紙だった。
「これ、知ってたか」
「俺は」
「戻ってない奴が」
男は黙った。
知らなかったらしい。
店の男が舌打ちした。
「寺崎呼べ」
「もう呼びに行ってる」
「じゃあ縄。長いの」
店の奥へ入る。
その時、拓真は店先で普通の箱を下ろしていた。
昨日、疑うなと言われた箱だった。
今日は中身を知っている。
金具と油紙。
普通だった。
店の男が戻ってくる。
太い縄を一束。
細い縄を二束。
木槌。
鉈。
「相良」
「はい」
「持てるか」
「持ちます」
拓真は太い縄を肩へ掛けた。
「何があったんですか」
「戻ってない」
「余り谷?」
「まだ分からん」
それだけ言って、店の男は外へ出た。
分からないうちは、余り谷にしない。
拓真も後を追った。
* * *
寺崎綾子は途中で合流した。
鞄を持っている。
いつもの手帳もある。
「誰ですか」
戻っていない男の名前を聞く。
「何しに」
「上の斜面に置いた道具を取りに」
「一人で?」
「途中までは別の奴と一緒だった。そいつは下へ回った」
「最後に見た場所は」
「古い道の分かれ」
寺崎は歩きながら書く。
閉めた方がいいと言っていた男も来た。
「だから止めろって言っただろ」
誰に言っているのか分からない。
材木を扱う男が振り返る。
「今それ言って戻ってくるのか」
「戻ってからも言う」
「じゃあ今は探せ」
「探すに決まってるだろ」
二人とも歩くのを止めなかった。
谷の外側が見える場所へ着く。
まず、誰も入らなかった。
寺崎が周囲を見る。
「昨日と同じ所から見ます」
年長の男が先に立った。
沢筋を指で追う。
一つ。
次。
さらに奥。
途中で、指が止まった。
「多い」
材木を扱う男が目を細めた。
「どれが」
「昨日、ここにはなかった」
「本当に?」
「地図」
寺崎が鞄から折った紙を出した。
数日前に書き直した地図だった。
地図には、普通の沢筋がある。
現実にも同じ沢筋がある。
その間に、もう一本あった。
木の間へ落ち込む斜面。
下には細い水の光。
向こうにも斜面がある。
紙の上には入る場所がない。
拓真は見た。
何度見ても慣れなかった。
山の外から見れば、その距離が入る余地はない。
けれど、目の前にはある。
「入ったのは、こっちか」
店の男が聞く。
戻ってきた男は首を振った。
「古い道はもっと右だ」
「じゃあ関係ないかもしれない」
寺崎が言う。
閉めたい男がすぐ返した。
「こんなの出てて関係ないわけあるか」
「分かりません」
「今それ言うか」
「今だから言います」
寺崎は地図を畳んだ。
「戻ってない人が余り谷に入ったとは、まだ分かってません」
「じゃあ何する」
年長の男が答えた。
「道から追う」
古い道の入口へ回る。
そこにも紙はなかった。
店の板は、店にしかない。
誰が入ったかも書かれていない。
地面には靴跡が残っていた。
新しい。
ただ、それだけで本人のものとは決められない。
「声出すぞ」
店の男が言った。
名前を呼ぶ。
返事はない。
少し上へ進む。
また呼ぶ。
風の音。
葉が擦れる音。
もう一度。
今度は、遠くから何か返った。
全員が止まった。
「今の」
「人だ」
「どっち」
誰もすぐには答えられなかった。
普通なら、声の方へ行けばいい。
余り谷が出ている日は、それをそのまま信じたくなかった。
年長の男が言った。
「縁から見る」
「遠回りだぞ」
材木を扱う男が言う。
「近道して二人になるよりいい」
誰も反対しなかった。
* * *
縄が役に立ったのは、しばらく後だった。
余分な谷の縁を、外から追った。
何度か名前を呼ぶ。
返事が近くなる。
けれど、地図の上ではとっくに山の外へ出ているはずだった。
寺崎は途中から、地図へ線を足すのをやめた。
代わりに、曲がった回数と、目立つ木と、大きな岩だけを書いた。
「地図、やめたんですか」
拓真が聞く。
「やめてません」
「でも線」
「今、きれいに引く方が危ないので」
寺崎は前を見たまま答えた。
「戻るために必要なものだけ書きます」
やがて、斜面の下から声がした。
「ここだ!」
今度ははっきり聞こえた。
材木を扱う男が縁へ寄ろうとする。
「近づくな」
年長の男が肩を掴んだ。
腹ばいになって下を見る。
木の間に、人がいた。
座っている。
片足を伸ばしていた。
「動けるか!」
「歩ける! たぶん!」
返事がある。
「上がれるか!」
「無理だ! 滑る!」
大声を出せる。
意識もある。
少なくとも、今すぐ動かさなければ死ぬようには見えない。
それが分かっただけで、空気が少し変わった。
店の男が縄を下ろそうとする。
年長の男が止めた。
「先に結ぶ場所」
「分かってる」
「昨日みたいに急ぐな」
「昨日は俺じゃない」
「誰でもいい」
近くの太い木を二本見る。
根元を確かめる。
腐っていないか。
揺れないか。
縄を回す。
一人が下へ行くことになった。
閉めたい男だった。
材木を扱う男が意外そうに見る。
「お前行くのか」
「止めろって言う奴が、入った奴を放っとくと思うか」
「思ってない」
「なら黙って押さえろ」
腰へ縄を取る。
別の縄を下へ送る。
店の男が言った。
「無理なら戻れよ」
「お前に言われたくない」
「言う」
男は斜面を下り始めた。
拓真は上で縄を持った。
自分の手の中には、ただの麻縄がある。
世界の根っこを変える能力ではない。
荷を軽くする布でもない。
短い距離を飛ばす強者の力でもない。
濡れたら重くなるし、擦れれば傷む。
結び方を間違えれば外れる。
だから、何人かで持つ。
木へ回す。
声を掛ける。
それで今は十分だった。
下へ行った男が、負傷した男のところへ着いた。
「足、見せろ」
「医者じゃないだろ」
「折れてるかどうかくらいは見る」
「それが医者みたいだって言ってるんだよ」
まだ口は回る。
上から少し笑いが起きた。
寺崎だけは笑わず、手帳へ何かを書いている。
「立てるか」
下から声。
「支えあれば」
「じゃあ無理に担がない」
その時、材木を扱う男が言った。
「店の布、持ってくればよかったな」
店の男がすぐ振り返った。
「何に使う」
「担ぐの軽くなるなら」
「物でしか試してない」
「人も軽くなるかもしれん」
「かもしれんで怪我人包むな」
閉めたい男が下から怒鳴った。
「山の途中で試す話すんな!」
「聞いただけだよ!」
「店で聞け!」
寺崎が顔を上げた。
「それ、布の紙に書く話です」
材木を扱う男が黙る。
拓真は笑いそうになった。
こんな時でも、分けるらしい。
いや。
こんな時だから、分けるのだ。
怪我人を助ける。
余り谷から戻す。
布が人にも効くか試す。
全部、別のことだった。
一緒に起きたからといって、一つの答えにはならない。
下では、負傷した男の腰へ縄が回された。
自分で立つ。
片足を庇う。
閉めたい男が肩を貸す。
上から少しずつ引く。
一度止める。
「大丈夫か!」
「待て!」
止める。
足場を直す。
また上げる。
時間はかかった。
けれど、最後には二人とも縁へ上がった。
負傷した男が土の上へ寝転ぶ。
空を見る。
「死ぬかと思った」
閉めたい男が隣で息を吐いた。
「なら次から入るな」
「仕事がある」
「今それ言うか」
「今だから言う」
さっき寺崎が言ったのと同じ言葉だった。
寺崎が少しだけ笑った。
* * *
怪我は、山の上では決めなかった。
歩ける。
出血はひどくない。
意識もはっきりしている。
そこまで確認して、下へ戻した。
その先は診てもらう。
余り谷の原因が分からないことと、足を診る場所が分からないことは別だった。
店へ戻る頃には昼を過ぎていた。
閉めたい男は、戻るなり板を指した。
「足りない」
店の男が言う。
「何が」
「この紙」
余り谷の奥へ入る前に、外から沢筋を見る。
数や位置が合わなければ戻る。
「見なかった奴が入った」
「だから、見ろって書いてある」
「店を通らなかったら読まない」
店の男が黙る。
寺崎も紙を見る。
「入口全部に貼る?」
材木を扱う男が言った。
「剥がれる」
「誰かが剥がす」
「濡れる」
「字が読めない奴もいる」
「じゃあ何もできんだろ」
閉めたい男が苛立つ。
年長の男が、店の板へ指を置いた。
「山へ上がる奴を、ここで一回見る」
「全員ここ通るのか」
「通らん奴もいる」
「駄目じゃないか」
「だから、通らん所はそこの家か、仕事の頭が見る」
「誰が頭だ」
「仕事ごとに違う」
また、一つにまとまらない。
閉めたい男が額を押さえた。
「面倒くせえな」
店の男が言う。
「山全部止めるよりはな」
「俺は止めたい」
「知ってる」
「今日みたいなのがまた出たらどうする」
「今日みたいに、まず入ってる奴がいないか見る」
「いなかったら」
「入らない」
「消えたら」
「その時また決める」
「それでいいのか」
誰もすぐには答えなかった。
よくはない。
全部分かっているわけでもない。
二度と事故が起きない保証もない。
けれど、今日戻ってきた人間がいる。
何が足りなかったかも一つ分かった。
寺崎が紙を裏返した。
「少なくとも、入る前に沢を見るだけじゃ足りません」
鉛筆を取る。
「誰が上にいるか、戻ってるかも見る」
「名前書くのか」
「仕事の人が分かればいいんじゃないですか」
「資料館には?」
「毎日の名前まで持って帰りません」
「じゃあ何残す」
「こういう事故があって、入っている人の確認を増やしたこと」
店の男が頷く。
「俺は店の板に今日の分だけ書く」
材木を扱う男が言う。
「俺の所は俺が見る」
閉めたい男が聞いた。
「山の持ち主は」
「持ち主は土地のこと決める」
「入っていいかもだろ」
「仕事で貸してる所もある」
また揉め始める。
拓真は少し離れたところで、水を飲んでいた。
さっきまで人を引き上げていた手が痛い。
口を挟もうと思えば、何かは言えた。
記録を増やした方がいい。
入口を絞った方がいい。
連絡先を決めた方がいい。
どれも間違いではない。
けれど、どこまでやるかは、山を使う人間の生活と一緒に決めなければならない。
拓真が知っているのは、こんな異常が存在できるようになった理由の一部だけだ。
今日、どの家が上へ仕事に行くかは知らない。
誰が遠回りを嫌がるかも知らない。
どの道を止めれば誰の収入が減るかも知らない。
根っこを知っていても、今日の答えにはならなかった。
「相良さん」
寺崎が呼んだ。
「はい」
「縄、片付けるの手伝ってください」
「はい」
それで十分だった。
* * *
夕方、材木を扱う男が灰色の布を借りに来た。
閉めたい男がまだ店にいた。
「今日の今日で、それ借りるのか」
「今日の今日だから仕事止めろって?」
「山で使うんだろ」
「下の坂だ」
「本当に?」
「上には行かん」
店の男が二人の間へ紙を置いた。
継ぎあり。
片寄せるな。
さらに帳面を開く。
「今日、誰が持つ」
材木を扱う男が答える。
「途中で渡すか」
「たぶん渡さない」
「たぶんは書かん」
「渡すなら言う」
「誰に」
「そいつに」
「何を」
男が嫌そうな顔をする。
「継ぎがある。片寄せるな」
「口でも」
「言うよ」
店の男はそこで布を渡した。
閉めたい男が聞く。
「山であれだけやって、こっちはそれだけか」
「何が」
「もっと止めるとか」
「布で誰か谷に落ちたのか」
「そういう話じゃない」
「じゃあ混ぜるな」
閉めたい男は不満そうだった。
寺崎が横で手帳を閉じる。
「山は山です」
「昨日も聞いた」
「今日も同じなので」
材木を扱う男が布を肩へ掛けた。
「じゃあ山の紙は増やして、布の紙はこのまま?」
店の男が言う。
「今日、布は何も増えてない」
「人に使わなかった」
「使ってないことまで危ない所に書くのか」
寺崎が言った。
「試してない、なら書いてもいいかもしれません」
店の男が紙を見る。
少し考える。
その下に、小さく足した。
人に使用確認なし。
材木を扱う男が読む。
「使えない、じゃないんだな」
「知らんからな」
拓真は、その一行を見た。
山で怪我人が出た。
余り谷から人を戻した。
その結果、灰色の布について分かったことは一つもなかった。
だから、分からないまま残した。
それでよかった。
* * *
翌朝、拓真は荷物をまとめた。
余り谷へ来てから増えたものは多くない。
寺崎にもらった地図の写し。
自分の手帳。
服についた土。
縄を持ったせいで手のひらにできた薄い擦れ。
持って帰れないものの方が多かった。
店の板。
余り谷の道。
灰色の布。
寺崎の手帳。
店の帳面。
狩野の人脈。
昨日助かった男の仕事。
閉めたい男の不満。
どれも、拓真の荷物ではない。
店へ行くと、もう開いていた。
店の男が板へ何か書いている。
「帰るのか」
「はい」
「今日じゃなくてもいいだろ」
「そう言われると迷います」
「じゃあ帰れ」
「どっちですか」
「荷が増える前に帰れ」
拓真は笑った。
寺崎も来ていた。
昨日の紙の写しを持っている。
「資料館に戻るんですか」
「一回は」
「山は」
「私がいない日もありますよ」
「ですよね」
「何ですか、その顔」
「いや」
「また嬉しそう」
拓真は否定しなかった。
寺崎がいなくても、山へ入る人はいる。
店の男がいなくても、別の仕事場では別の人が確認する。
狩野がいなくても、物は誰かの手へ回るかもしれない。
誰か一人が全部見ていない。
それでも昨日は人を探せた。
布は別の帳面で貸された。
怪我は別の場所で診てもらうことになった。
全部を一つへ集めなかったから、何もできなかったわけではない。
むしろ、必要なところだけ繋がった。
「相良さん」
寺崎が言う。
「はい」
「今度来た時、余り谷がなくなってても怒らないでくださいね」
「怒りませんよ」
「残念がるでしょう」
「それは、まあ」
「ほら」
「でも、なくなったならなくなったで、本当にそうか確かめます」
店の男が横から言った。
「面倒くせえな」
寺崎が頷く。
「そういう人です」
拓真は少しだけ考えた。
「なくなったら、紙はどうするんですか」
寺崎は手元の写しを見る。
「残します」
「何で」
「昨日、人が落ちて、戻ってきたので」
答えは簡単だった。
怪異が消えても、昨日が消えるわけではない。
「また来ます」
拓真が言う。
店の男は手を上げた。
寺崎は「今度は普通の用事で来てください」と言った。
「普通の用事って何ですか」
「自分で考えてください」
拓真は笑って、店を出た。
坂を下る。
途中で一度だけ振り返った。
店の屋根が見える。
その向こうに山がある。
余分な谷は、ここからでは見えなかった。
見えなくても、昨日はあった。
拓真は前を向いた。
* * *
昼前。
店の男は、板の前で若い男を止めた。
「上へ行くのか」
「行く」
「どこ」
男が答える。
「戻るのは」
「夕方」
「沢見ろよ」
「聞いた」
「見ろ」
「分かったって」
「帰ったら声かけろ」
若い男は面倒そうに頷いた。
店の板には、昨日までなかった欄が増えていた。
誰が上へ行ったか。
戻ったか。
正式な名前はない。
決まった書式でもない。
鉛筆で線を引いただけだった。
若い男が出ていく。
入れ替わりに、材木を扱う男が灰色の布を持って戻ってきた。
「返す」
「どうだった」
「使えた」
「紙は」
「ある」
「途中で渡した?」
「渡してない」
「人に使った?」
男が顔をしかめた。
「使うかよ」
「ならいい」
店の男は布を開く。
継ぎを見る。
新しい破れがないかを見る。
帳面へ一行書く。
返却。
異常なし。
その横へ、山の板が掛かっている。
山の紙には、昨日の事故から増えたことが書いてある。
布の紙には、布について分かっていることだけが書いてある。
同じ店にある。
同じ日に使われる。
けれど、一枚にはならなかった。
店の男は灰色の布を棚の下へ戻した。
外では、さっきの若い男が山の方へ歩いている。
店の男は板を見た。
名前がある。
まだ、戻った印はない。
それを確かめてから、次の荷札を取った。
相良拓真はいなかった。
寺崎綾子も、朝のうちに店を離れていた。
狩野真一も、その場にはいなかった。
それでも店は開いていた。
山へ行く人間がいて、戻るのを待つ人間がいた。
変な物を借りる人間がいて、返したかを書く人間がいた。
昨日の事故は終わった。
余り谷が何なのかは、分からないままだった。
灰色の布がなぜ軽くするのかも、分からないままだった。
二つが同じ理由で存在するのかどうかさえ、誰も知らない。
知らないまま、山の紙と布の紙は別々に増えていく。
店の男は次の荷札へ、行き先を書いた。
今日の仕事を止める理由は、今のところなかった。
ここまででちゃんと面白いですか?
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面白い寄りの面白い
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面白い寄りの面白くない
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どちらでもない
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面白くない寄りの面白い
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面白くない寄りの面白くない