歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい 作:無異常世界
田代修平が瀬尾和枝の話を最後まで聞けたのは、朝の患者がひととおり途切れてからだった。
それまでは、腹を下した工員に水分を取らせ、転んで額を切った子どもの傷を洗い、咳の続く老人の胸へ聴診器を当てていた。待合の長椅子には、まだ二人残っている。
和枝と澄江は、診察室の隅で待っていた。
澄江は両手を膝の下へ挟み、誰とも目を合わせようとしない。熱があるようには見えなかった。顔色も悪くない。ただ、和枝が肩へ触れようとした時だけ、わずかに身体を固くした。
「昨日から、人に触ると中の変なところが分かると言うんです」
和枝が声を落として言った。
「中というのは」
「熱いとか、硬いとか、冷たいとか。どこにあるかは分かる。でも、何なのかは分からないそうです」
「見えるのか」
田代が澄江へ聞くと、澄江は首を振った。
「見えません」
「声が聞こえる」
「聞こえません」
「触らなくても分かる」
「分かりません」
「自分の身体でも分かるか」
「分からないです」
田代は椅子へ座り直した。
子どもの訴えが曖昧なのは珍しくない。痛い、気持ち悪い、変だ。それだけでは何も決まらない。大人が言葉を足して、最初からあった訴えのようにしてしまうこともある。
だが、澄江は分からないところを分からないまま答えていた。
「先に、お前の具合を診る」
「私の?」
「人の中が分かるようになったことより、お前が昨日から誰にも触れなくなったことの方が先だ」
田代は和枝へ顔を向けた。
「昨夜、熱は」
「ありません」
「吐いたか」
「いいえ」
「眠れた」
「何度か起きました。文子に触った時の感じが残ると言って」
「文子というのは同級生か」
「はい」
田代は澄江の前へ丸椅子を寄せた。
「今から目と耳と手足を診る。触る前に言う。嫌なら止めろと言え」
澄江は和枝を見た。和枝がうなずいても、すぐには手を出さなかった。
「先生に触ったら、先生の中も分かるかもしれない」
「分かったら後で聞く。今はお前を診る」
田代はまず体温を測り、脈を取り、瞳孔を見た。舌を出させ、喉を確かめる。指を握らせ、両腕を前へ出させ、目を閉じたまま鼻先へ指を運ばせた。
「頭は痛くないか」
「痛くないです」
「目がちらつく」
「しません」
「手が勝手に動く」
「動きません」
「人に触れた後だけ、変な感じが残る」
「はい」
「どのくらい」
「昨日は、家へ帰っても残ってました」
「今は」
澄江は少し考えた。
「もう、ないです」
明らかな発熱も、意識の乱れも、手足の異常もなかった。だから病気ではない、とは言えない。少なくとも、今すぐ澄江を寝かせておかなければならない所見は見当たらない。
田代は診察票へ時刻と体温を書いた。
「昨日、何人に触った」
「文子に二回。廊下でぶつかった子に一回」
「その三回とも分かったのか」
「鉛筆を拾った時とか、紙を渡した時は何も分かりませんでした」
「触れば必ずではない」
「たぶん」
「分かったものは」
澄江は、文子の手にあった硬い点と、下級生の腕にあった丸い熱、文子の胸にあった冷たい場所を話した。木の屑と痣は、後から目で確かめた。胸の冷たい場所が何だったのかは分からない。
田代はその順番を崩さずに書いた。
触れた。
先に感じた。
後から見えた。
見ても分からなかった。
「先生」
待合から声がした。
「今行く」
田代は返事をし、鉛筆を置いた。
「二人とも、まだ帰るな。次を診たら続ける」
「試すんですか」
和枝が聞いた。
「試すなら、患者ではやらん。まず、分かっていることで比べる」
田代は診察室を出かけ、振り返った。
「それと、澄江が嫌だと言ったら今日は終わりだ」
澄江は初めて、田代の顔をまっすぐ見た。
***
次の患者を帰した頃には、午前の光が診察室の奥まで差し込んでいた。
田代は流しで手を洗い、白衣の袖を肘まで上げた。
「最初に言っておく。これで何か分かっても、病名が分かったことにはならん」
「病名なんて言ってません」
澄江が少しむっとして答えた。
「そうだ。だから、そのまま言え。熱い、硬い、冷たい、何もない。分からなければ分からない。それ以外を足すな」
田代は机の上へ紙を二枚並べた。一枚は診察票の裏、もう一枚は古い処方箋の余りだった。
「和枝さん、昨日、手を傷めたか」
「針を刺したくらいなら」
「どこだ」
和枝が右手の中指を見せようとしたので、田代は止めた。
「澄江には見せるな」
「見なくても、いつも針を持ってるのは知ってます」
澄江が言う。
「それでいい。知っていることを知っていると書ける」
田代は和枝の両手へ布をかけ、手首から先だけを隠した。完全な目隠しでもなければ、手品でもない。澄江が何を見たか、何を知っていたかを後で混ぜないためだった。
「どちらかへ一度だけ触れろ。嫌ならやらなくていい」
澄江は布の下の手を見た。
「一回だけ?」
「一回で疲れたら終わる」
澄江は和枝の左手首へ指を当てた。
しばらく何も言わなかった。
「どうだ」
「何もない」
田代は紙へ書いた。
次に右手首へ触れる。澄江の眉が寄った。
「指の先の方に、細く熱いところがあります」
「一本か」
「たぶん。真ん中の指」
和枝が布を外した。中指の先には、昨夜の針穴が赤く残っていた。
田代はそこを見て、軽く押した。
「化膿はしていない。痛むか」
「押せば少し」
「澄江、針を刺したところを昨日見たか」
「見てません。でも叔母さんが縫い物してたのは見ました」
田代は、当たり、とも、本物だ、とも言わなかった。
知っていた可能性あり。
位置一致。
視認前。
そう書いただけだった。
「次は俺だ」
田代が言うと、澄江は手を引っ込めた。
「先生は、どこが変か知ってるんですか」
「知っているところも、知らないところもある」
「知らないところがあったら」
「診る。それでも分からなければ、分からないままにする」
田代は椅子を回し、澄江へ背を向けた。朝、薬箱を運んだ時に診察台の角へぶつけた右の脛が、まだ鈍く痛んでいる。ズボンを下ろさなければ見えない位置だった。
「手なら触れられるか」
澄江はうなずいた。
右手を出す。
澄江の指が手首へ触れた。数秒して、首を振る。
「何もないです」
左手も同じだった。
「腕では分からんか」
「触ったところから近い方が分かりやすいです」
「昨日は文子の胸まで分かったと言ったな」
「文子が強く掴んだから。たくさん入ってきました」
田代はその言い方も書き留めた。
次に、ズボンの裾を上げず、澄江へ右の足首を差し出した。
「ここへ触れろ」
澄江は足首へ手を置いた。すぐに離さず、目を閉じた。
「前の方。上に少し行ったところが、重くて熱いです」
「形は」
「広くない。丸くもない。押しつぶしたみたい」
田代は裾を上げた。脛には、まだ色の薄い赤みが出ていた。和枝が覗き込み、田代を見た。
「いつぶつけたんです」
「今朝だ」
「澄江は知りません」
「知るはずがない」
田代は自分で触れ、痛む範囲を確かめた。澄江が示した位置と大きくは違わなかった。
位置一致。
視認困難。
本人の疼痛あり。
田代はそう書いた。
澄江は紙を覗き込もうとしたが、田代は手で隠した。
「まだ見るな。俺の字を読んでから答えを変えられると困る」
「変えません」
「変えるつもりがなくても変わる」
澄江は不満そうだったが、椅子へ座り直した。
「もう一つだけだ」
田代は左の足首を出した。こちらには、自覚する痛みも傷もない。
澄江が触れる。
今度は長かった。
「何もないなら、それでいい」
「待って」
澄江の指先に力が入った。
「胸の、左の方に冷たい細いところがあります」
田代は動かなかった。
「足から胸か」
「うん。遠いけど、ある」
「息を吸うと動く」
「少し縮む」
昨日、文子に触れた時とよく似た言い方だった。
田代は聴診器を取り、自分で確かめられる範囲を順に聞いた。
脈に乱れはない。胸痛も息苦しさもない。深く息を吸っても、咳は出ない。
「先生、悪いの」
澄江が小さな声で聞いた。
「今の診察では、悪いところは見つからん」
「でも、あった」
「お前にはそう感じた。俺の診察では、今のところ対応するものがない。両方書く」
「私が嘘をついたとは書かないの」
「嘘だと決める材料がない。病気だと決める材料もない」
澄江の肩から、わずかに力が抜けた。
「どっちが本当なんです」
「どちらかを今すぐ嘘にする必要はない」
田代は胸の診察をもう一度行った。結果は変わらなかった。
紙へ書く。
接触時訴えあり。
通常診察上、対応所見なし。
昨日の感覚残留と類似。
「外れたってこと?」
澄江が聞いた。
「今のところは、そう扱う」
澄江の顔が曇った。
「じゃあ、さっきのも偶然かもしれない」
「そうかもしれん」
田代は即答した。
和枝が口を挟みかけたが、田代は続けた。
「偶然ではないかもしれん。俺が見つけられないだけかもしれん。昨日の感じが残って、似た場所へ重なったのかもしれん。触れ方で変わるのかもしれん。今あるのは、それだけだ」
「分からないの」
「分からん」
澄江は目を伏せた。昨夜から何度も自分で言った言葉を、大人がためらわずに使ったことが意外らしかった。
田代は紙を裏返した。
「だから、ここで終わりにする。顔色が落ちた」
「まだできます」
「できるかどうかと、続けていいかは別だ」
澄江が反論する前に、田代は和枝へ言った。
「水を飲ませろ。今日は学校を休ませてもいい」
「遅れて行くと言ってあります」
「本人が行きたいなら、昼からでいい。触る遊びはするな。誰かを診てみろと言われても断れ」
「先生が試したのに?」
澄江が言う。
「俺はお前を診るために、回数を決めて、知っていることだけで比べた。それでも一つ外れた。次からは、やる理由を先に決める」
田代はコップへ水を注ぎ、机へ置いた。手渡さなかった。
澄江は両手でコップを持った。昨日の夜と同じように、そこには自分と水の温度しかなかった。
***
昼を過ぎても、田代は朝の二枚を捨てなかった。
患者の診察を続けながら、空いた時間に書き直した。
瀬尾澄江。十歳。
発熱なし。意識清明。目、耳、手足の動きに明らかな異常なし。
接触時、他者の身体内の異常を位置、温度、硬さ等として訴える。
針創部位一致。
右脛打撲部位一致。
左胸部の訴えは、通常診察上対応所見なし。
連続時に感覚残留と疲労の可能性。
そこまで一つの欄へ書いて、田代は鉛筆を止めた。
このままでは、澄江が感じたことと、自分が診察して確かめたことが同じ重さで並ぶ。逆に、診断欄だけへ書けば、対応する病名がないものは最初から無かったことになる。
田代は定規を取り出し、診察票の余白へ縦線を引いた。
左へ、通常診察・診断。
右へ、接触時所見。
右の見出しを書いたところで、少し考える。
能力。
奇跡。
異常感覚。
どれも、今の段階では書きすぎだった。
田代は「接触時所見」とだけ記した。
その下へ、確認できたこと、確認できなかったこと、本人が事前に知っていた可能性を分けて書く。最後に、本人が拒否した場合は中止、と付け加えた。
診察室の戸が開いた。
和枝が一人で戻ってきた。澄江は学校へ行ったらしい。
「様子は」
「水を飲んで、少し休んだら行くと言いました。文子と約束してたから」
「人には触るなと言ったか」
「言いました。本人も今日は嫌だと」
和枝は机の紙へ目を落とした。
「先生、あれは何なんです」
「まだ分からん」
「昨日の三つと、今日の二つが当たっても?」
「今日、一つ外れた」
「先生が見つけられなかっただけかもしれないんでしょう」
「その可能性もある。だから、外れを消すな」
和枝は納得しきれない顔をした。
「本当に、こんなことがあるんですか」
「あるかないかを、今日の朝だけで決める気はない」
「じゃあ、どうするんです」
田代は二つに分けた欄を指で叩いた。
「測る」
「何を」
「触る前に何を知っていたか。どこへ触れたか。何を感じたか。後で何が確かめられたか。何回で疲れるか。外れた時に何が残っていたか」
「それで分かるんですか」
「分からん」
田代は紙を診察票へ挟んだ。
「分からん。だから測るんだ」
和枝はしばらく黙っていた。
「澄江を、みんなに触らせる気はありません」
「俺もない。患者を増やすための道具にもせん」
「でも、誰かが悪い時には」
「その時は、澄江がやると言うか、診察に必要か、先に決める。触ってから理由を作るな」
和枝は返事をしなかった。
助けられるかもしれない時に、本当に断れるか。田代にも分からなかった。自分でさえ、朝の一致を見た時、次の患者へ触れさせれば何が分かるかと一瞬考えた。
だから、その考えも書いておく必要があった。
田代は診察票の下へ一行加えた。
使用の必要と本人の意思を、接触前に確認すること。
「次はいつ来ればいいです」
「明後日。何も起きなければ、それも記録する。頭痛、熱、眠れない、触っていないのに感じる、どれかが出たら先に来い」
「学校は」
「普通に行かせろ。普通に行けるなら」
和枝は診察代を置き、戸口で振り返った。
「先生は、澄江の話を信じたんですか」
田代は二つに分けた欄を見た。
「信じるかどうかで診察はせん」
和枝が帰った後、田代は次の患者の診察票を取り出した。
新しく引いた線は、まだ一枚にしかない。
右側の欄には、病名も、説明もなかった。
ただ、これまで診察室になかったものを、無かったことにせず残す場所だけができていた。