歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい   作:無異常世界

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第四話

 田代修平が瀬尾和枝の話を最後まで聞けたのは、朝の患者がひととおり途切れてからだった。

 

 それまでは、腹を下した工員に水分を取らせ、転んで額を切った子どもの傷を洗い、咳の続く老人の胸へ聴診器を当てていた。待合の長椅子には、まだ二人残っている。

 

 和枝と澄江は、診察室の隅で待っていた。

 

 澄江は両手を膝の下へ挟み、誰とも目を合わせようとしない。熱があるようには見えなかった。顔色も悪くない。ただ、和枝が肩へ触れようとした時だけ、わずかに身体を固くした。

 

「昨日から、人に触ると中の変なところが分かると言うんです」

 

 和枝が声を落として言った。

 

「中というのは」

 

「熱いとか、硬いとか、冷たいとか。どこにあるかは分かる。でも、何なのかは分からないそうです」

 

「見えるのか」

 

 田代が澄江へ聞くと、澄江は首を振った。

 

「見えません」

 

「声が聞こえる」

 

「聞こえません」

 

「触らなくても分かる」

 

「分かりません」

 

「自分の身体でも分かるか」

 

「分からないです」

 

 田代は椅子へ座り直した。

 

 子どもの訴えが曖昧なのは珍しくない。痛い、気持ち悪い、変だ。それだけでは何も決まらない。大人が言葉を足して、最初からあった訴えのようにしてしまうこともある。

 

 だが、澄江は分からないところを分からないまま答えていた。

 

「先に、お前の具合を診る」

 

「私の?」

 

「人の中が分かるようになったことより、お前が昨日から誰にも触れなくなったことの方が先だ」

 

 田代は和枝へ顔を向けた。

 

「昨夜、熱は」

 

「ありません」

 

「吐いたか」

 

「いいえ」

 

「眠れた」

 

「何度か起きました。文子に触った時の感じが残ると言って」

 

「文子というのは同級生か」

 

「はい」

 

 田代は澄江の前へ丸椅子を寄せた。

 

「今から目と耳と手足を診る。触る前に言う。嫌なら止めろと言え」

 

 澄江は和枝を見た。和枝がうなずいても、すぐには手を出さなかった。

 

「先生に触ったら、先生の中も分かるかもしれない」

 

「分かったら後で聞く。今はお前を診る」

 

 田代はまず体温を測り、脈を取り、瞳孔を見た。舌を出させ、喉を確かめる。指を握らせ、両腕を前へ出させ、目を閉じたまま鼻先へ指を運ばせた。

 

「頭は痛くないか」

 

「痛くないです」

 

「目がちらつく」

 

「しません」

 

「手が勝手に動く」

 

「動きません」

 

「人に触れた後だけ、変な感じが残る」

 

「はい」

 

「どのくらい」

 

「昨日は、家へ帰っても残ってました」

 

「今は」

 

 澄江は少し考えた。

 

「もう、ないです」

 

 明らかな発熱も、意識の乱れも、手足の異常もなかった。だから病気ではない、とは言えない。少なくとも、今すぐ澄江を寝かせておかなければならない所見は見当たらない。

 

 田代は診察票へ時刻と体温を書いた。

 

「昨日、何人に触った」

 

「文子に二回。廊下でぶつかった子に一回」

 

「その三回とも分かったのか」

 

「鉛筆を拾った時とか、紙を渡した時は何も分かりませんでした」

 

「触れば必ずではない」

 

「たぶん」

 

「分かったものは」

 

 澄江は、文子の手にあった硬い点と、下級生の腕にあった丸い熱、文子の胸にあった冷たい場所を話した。木の屑と痣は、後から目で確かめた。胸の冷たい場所が何だったのかは分からない。

 

 田代はその順番を崩さずに書いた。

 

 触れた。

 

 先に感じた。

 

 後から見えた。

 

 見ても分からなかった。

 

「先生」

 

 待合から声がした。

 

「今行く」

 

 田代は返事をし、鉛筆を置いた。

 

「二人とも、まだ帰るな。次を診たら続ける」

 

「試すんですか」

 

 和枝が聞いた。

 

「試すなら、患者ではやらん。まず、分かっていることで比べる」

 

 田代は診察室を出かけ、振り返った。

 

「それと、澄江が嫌だと言ったら今日は終わりだ」

 

 澄江は初めて、田代の顔をまっすぐ見た。

 

     ***

 

 次の患者を帰した頃には、午前の光が診察室の奥まで差し込んでいた。

 

 田代は流しで手を洗い、白衣の袖を肘まで上げた。

 

「最初に言っておく。これで何か分かっても、病名が分かったことにはならん」

 

「病名なんて言ってません」

 

 澄江が少しむっとして答えた。

 

「そうだ。だから、そのまま言え。熱い、硬い、冷たい、何もない。分からなければ分からない。それ以外を足すな」

 

 田代は机の上へ紙を二枚並べた。一枚は診察票の裏、もう一枚は古い処方箋の余りだった。

 

「和枝さん、昨日、手を傷めたか」

 

「針を刺したくらいなら」

 

「どこだ」

 

 和枝が右手の中指を見せようとしたので、田代は止めた。

 

「澄江には見せるな」

 

「見なくても、いつも針を持ってるのは知ってます」

 

 澄江が言う。

 

「それでいい。知っていることを知っていると書ける」

 

 田代は和枝の両手へ布をかけ、手首から先だけを隠した。完全な目隠しでもなければ、手品でもない。澄江が何を見たか、何を知っていたかを後で混ぜないためだった。

 

「どちらかへ一度だけ触れろ。嫌ならやらなくていい」

 

 澄江は布の下の手を見た。

 

「一回だけ?」

 

「一回で疲れたら終わる」

 

 澄江は和枝の左手首へ指を当てた。

 

 しばらく何も言わなかった。

 

「どうだ」

 

「何もない」

 

 田代は紙へ書いた。

 

 次に右手首へ触れる。澄江の眉が寄った。

 

「指の先の方に、細く熱いところがあります」

 

「一本か」

 

「たぶん。真ん中の指」

 

 和枝が布を外した。中指の先には、昨夜の針穴が赤く残っていた。

 

 田代はそこを見て、軽く押した。

 

「化膿はしていない。痛むか」

 

「押せば少し」

 

「澄江、針を刺したところを昨日見たか」

 

「見てません。でも叔母さんが縫い物してたのは見ました」

 

 田代は、当たり、とも、本物だ、とも言わなかった。

 

 知っていた可能性あり。

 

 位置一致。

 

 視認前。

 

 そう書いただけだった。

 

「次は俺だ」

 

 田代が言うと、澄江は手を引っ込めた。

 

「先生は、どこが変か知ってるんですか」

 

「知っているところも、知らないところもある」

 

「知らないところがあったら」

 

「診る。それでも分からなければ、分からないままにする」

 

 田代は椅子を回し、澄江へ背を向けた。朝、薬箱を運んだ時に診察台の角へぶつけた右の脛が、まだ鈍く痛んでいる。ズボンを下ろさなければ見えない位置だった。

 

「手なら触れられるか」

 

 澄江はうなずいた。

 

 右手を出す。

 

 澄江の指が手首へ触れた。数秒して、首を振る。

 

「何もないです」

 

 左手も同じだった。

 

「腕では分からんか」

 

「触ったところから近い方が分かりやすいです」

 

「昨日は文子の胸まで分かったと言ったな」

 

「文子が強く掴んだから。たくさん入ってきました」

 

 田代はその言い方も書き留めた。

 

 次に、ズボンの裾を上げず、澄江へ右の足首を差し出した。

 

「ここへ触れろ」

 

 澄江は足首へ手を置いた。すぐに離さず、目を閉じた。

 

「前の方。上に少し行ったところが、重くて熱いです」

 

「形は」

 

「広くない。丸くもない。押しつぶしたみたい」

 

 田代は裾を上げた。脛には、まだ色の薄い赤みが出ていた。和枝が覗き込み、田代を見た。

 

「いつぶつけたんです」

 

「今朝だ」

 

「澄江は知りません」

 

「知るはずがない」

 

 田代は自分で触れ、痛む範囲を確かめた。澄江が示した位置と大きくは違わなかった。

 

 位置一致。

 

 視認困難。

 

 本人の疼痛あり。

 

 田代はそう書いた。

 

 澄江は紙を覗き込もうとしたが、田代は手で隠した。

 

「まだ見るな。俺の字を読んでから答えを変えられると困る」

 

「変えません」

 

「変えるつもりがなくても変わる」

 

 澄江は不満そうだったが、椅子へ座り直した。

 

「もう一つだけだ」

 

 田代は左の足首を出した。こちらには、自覚する痛みも傷もない。

 

 澄江が触れる。

 

 今度は長かった。

 

「何もないなら、それでいい」

 

「待って」

 

 澄江の指先に力が入った。

 

「胸の、左の方に冷たい細いところがあります」

 

 田代は動かなかった。

 

「足から胸か」

 

「うん。遠いけど、ある」

 

「息を吸うと動く」

 

「少し縮む」

 

 昨日、文子に触れた時とよく似た言い方だった。

 

 田代は聴診器を取り、自分で確かめられる範囲を順に聞いた。

 

 脈に乱れはない。胸痛も息苦しさもない。深く息を吸っても、咳は出ない。

 

「先生、悪いの」

 

 澄江が小さな声で聞いた。

 

「今の診察では、悪いところは見つからん」

 

「でも、あった」

 

「お前にはそう感じた。俺の診察では、今のところ対応するものがない。両方書く」

 

「私が嘘をついたとは書かないの」

 

「嘘だと決める材料がない。病気だと決める材料もない」

 

 澄江の肩から、わずかに力が抜けた。

 

「どっちが本当なんです」

 

「どちらかを今すぐ嘘にする必要はない」

 

 田代は胸の診察をもう一度行った。結果は変わらなかった。

 

 紙へ書く。

 

 接触時訴えあり。

 

 通常診察上、対応所見なし。

 

 昨日の感覚残留と類似。

 

「外れたってこと?」

 

 澄江が聞いた。

 

「今のところは、そう扱う」

 

 澄江の顔が曇った。

 

「じゃあ、さっきのも偶然かもしれない」

 

「そうかもしれん」

 

 田代は即答した。

 

 和枝が口を挟みかけたが、田代は続けた。

 

「偶然ではないかもしれん。俺が見つけられないだけかもしれん。昨日の感じが残って、似た場所へ重なったのかもしれん。触れ方で変わるのかもしれん。今あるのは、それだけだ」

 

「分からないの」

 

「分からん」

 

 澄江は目を伏せた。昨夜から何度も自分で言った言葉を、大人がためらわずに使ったことが意外らしかった。

 

 田代は紙を裏返した。

 

「だから、ここで終わりにする。顔色が落ちた」

 

「まだできます」

 

「できるかどうかと、続けていいかは別だ」

 

 澄江が反論する前に、田代は和枝へ言った。

 

「水を飲ませろ。今日は学校を休ませてもいい」

 

「遅れて行くと言ってあります」

 

「本人が行きたいなら、昼からでいい。触る遊びはするな。誰かを診てみろと言われても断れ」

 

「先生が試したのに?」

 

 澄江が言う。

 

「俺はお前を診るために、回数を決めて、知っていることだけで比べた。それでも一つ外れた。次からは、やる理由を先に決める」

 

 田代はコップへ水を注ぎ、机へ置いた。手渡さなかった。

 

 澄江は両手でコップを持った。昨日の夜と同じように、そこには自分と水の温度しかなかった。

 

     ***

 

 昼を過ぎても、田代は朝の二枚を捨てなかった。

 

 患者の診察を続けながら、空いた時間に書き直した。

 

 瀬尾澄江。十歳。

 

 発熱なし。意識清明。目、耳、手足の動きに明らかな異常なし。

 

 接触時、他者の身体内の異常を位置、温度、硬さ等として訴える。

 

 針創部位一致。

 

 右脛打撲部位一致。

 

 左胸部の訴えは、通常診察上対応所見なし。

 

 連続時に感覚残留と疲労の可能性。

 

 そこまで一つの欄へ書いて、田代は鉛筆を止めた。

 

 このままでは、澄江が感じたことと、自分が診察して確かめたことが同じ重さで並ぶ。逆に、診断欄だけへ書けば、対応する病名がないものは最初から無かったことになる。

 

 田代は定規を取り出し、診察票の余白へ縦線を引いた。

 

 左へ、通常診察・診断。

 

 右へ、接触時所見。

 

 右の見出しを書いたところで、少し考える。

 

 能力。

 

 奇跡。

 

 異常感覚。

 

 どれも、今の段階では書きすぎだった。

 

 田代は「接触時所見」とだけ記した。

 

 その下へ、確認できたこと、確認できなかったこと、本人が事前に知っていた可能性を分けて書く。最後に、本人が拒否した場合は中止、と付け加えた。

 

 診察室の戸が開いた。

 

 和枝が一人で戻ってきた。澄江は学校へ行ったらしい。

 

「様子は」

 

「水を飲んで、少し休んだら行くと言いました。文子と約束してたから」

 

「人には触るなと言ったか」

 

「言いました。本人も今日は嫌だと」

 

 和枝は机の紙へ目を落とした。

 

「先生、あれは何なんです」

 

「まだ分からん」

 

「昨日の三つと、今日の二つが当たっても?」

 

「今日、一つ外れた」

 

「先生が見つけられなかっただけかもしれないんでしょう」

 

「その可能性もある。だから、外れを消すな」

 

 和枝は納得しきれない顔をした。

 

「本当に、こんなことがあるんですか」

 

「あるかないかを、今日の朝だけで決める気はない」

 

「じゃあ、どうするんです」

 

 田代は二つに分けた欄を指で叩いた。

 

「測る」

 

「何を」

 

「触る前に何を知っていたか。どこへ触れたか。何を感じたか。後で何が確かめられたか。何回で疲れるか。外れた時に何が残っていたか」

 

「それで分かるんですか」

 

「分からん」

 

 田代は紙を診察票へ挟んだ。

 

「分からん。だから測るんだ」

 

 和枝はしばらく黙っていた。

 

「澄江を、みんなに触らせる気はありません」

 

「俺もない。患者を増やすための道具にもせん」

 

「でも、誰かが悪い時には」

 

「その時は、澄江がやると言うか、診察に必要か、先に決める。触ってから理由を作るな」

 

 和枝は返事をしなかった。

 

 助けられるかもしれない時に、本当に断れるか。田代にも分からなかった。自分でさえ、朝の一致を見た時、次の患者へ触れさせれば何が分かるかと一瞬考えた。

 

 だから、その考えも書いておく必要があった。

 

 田代は診察票の下へ一行加えた。

 

 使用の必要と本人の意思を、接触前に確認すること。

 

「次はいつ来ればいいです」

 

「明後日。何も起きなければ、それも記録する。頭痛、熱、眠れない、触っていないのに感じる、どれかが出たら先に来い」

 

「学校は」

 

「普通に行かせろ。普通に行けるなら」

 

 和枝は診察代を置き、戸口で振り返った。

 

「先生は、澄江の話を信じたんですか」

 

 田代は二つに分けた欄を見た。

 

「信じるかどうかで診察はせん」

 

 和枝が帰った後、田代は次の患者の診察票を取り出した。

 

 新しく引いた線は、まだ一枚にしかない。

 

 右側の欄には、病名も、説明もなかった。

 

 ただ、これまで診察室になかったものを、無かったことにせず残す場所だけができていた。

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