歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい   作:無異常世界

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第五話

年が明けてから、和枝の内職は少し増えた。

 

増えたと言っても、暮らしが楽になったわけではない。朝は食料品店の帳場へ出て、帰れば預かった布を広げる。解いた縫い目を整え、足りない布は目立たない場所から取る。澄江が眠った後まで針を動かして、ようやく翌日の飯代へ届く。

 

それでも、去年までとは違うことが一つあった。

 

自分の店を持つための金を、少しずつ別にしていた。

 

大きな店ではない。表に布を二、三反置き、仕立て直しと繕い物を受けられるだけでいい。食料品店の帳場を辞めるには足りない。家賃の当てもない。それでも、紙に書いた数字が前の月より減っていなければ、和枝は針を持つ手を少しだけ軽くできた。

 

「叔母さん、糸なくなるよ」

 

向かいで宿題をしていた澄江が言った。

 

和枝は糸巻きを見た。白糸が芯の近くまで減っている。

 

「明日買う。忘れてたら言って」

 

「今言った」

 

「明日も言いな」

 

澄江は呆れた顔をして鉛筆へ戻った。

 

あの診察から何か月か経っていた。

 

澄江の感覚は消えなかった。人へ触れれば、皮膚の下の熱や腫れ、息の詰まり、身体のどこかにある妙な重さを感じることがある。ただし、何でも分かるわけではない。同じ相手でも分からない日があり、感じた場所に田代が異常を見つけられないこともあった。

 

触れた後に頭が重くなる日もある。

 

だから田代は、澄江が診療所へ来るたびに同じことを聞いた。

 

今日は眠れたか。

朝は食べたか。

誰かへ触れたか。

触れたくなかったか。

 

病名を当てた数より、そちらの記録の方が多いくらいだった。

 

戸を叩く音がした。

 

和枝が返事をすると、近所の宮下春が顔を出した。いつもなら遠慮なく上がる女が、今日は土間へ片足を置いたまま立っている。

 

「和枝ちゃん、今いいかい」

 

「どうしたの」

 

「うちの人が、朝から腹が痛いって」

 

和枝は針を布へ刺して止めた。

 

「田代先生には」

 

「行けって言ってるんだけど、寝てれば治るって聞かなくて。昨日の夜かららしいんだよ」

 

「じゃあ、なおさら先生のところへ連れていきな」

 

春は頷かなかった。

 

視線が和枝を越え、机の前の澄江へ動いた。

 

それで用件が分かった。

 

「澄江ちゃん、身体の悪いところが分かるんだって?」

 

部屋の空気が変わった。

 

澄江の鉛筆が止まった。

 

和枝はすぐに答えなかった。どこから聞いたのかを先に考えた。田代は話さない。文子も、澄江から詳しくは聞いていないはずだった。

 

春は和枝の顔を見て、慌てて手を振った。

 

「いや、変なことを言いふらすつもりじゃないよ。田代先生のところで、あの子が触った後に診る場所を変えたって、待合で見た人がいてさ」

 

見た事実へ、理由が後から足されていた。

 

隠し通せると思っていたわけではない。診療所へ出入りし、田代が新しい紙を使い、和枝が周囲を気にしていれば、誰かは気づく。

 

それでも、こんなふうに家へ来るとは思っていなかった。

 

「見れば分かるわけじゃないよ」

 

「少しでいいんだ。どこが悪いか分かれば、あの人も医者へ行く気になるかもしれない」

 

「分からなかったら?」

 

「その時は、その時で」

 

春はそう言ったが、顔には期待が残っていた。

 

和枝は澄江を見た。

 

澄江は何も言わない。机の下へ両手を隠している。

 

断るべきだと思った。

 

田代にも言われている。触る前に決める。必要と本人の意思を先に確認する。頼まれたから、その場の空気で手を出させてはいけない。

 

それでも、春の夫が本当に悪いなら。

 

澄江が一度触れることで、医者へ連れていけるなら。

 

助かるかもしれない人を前にして、何もしないのが正しいのか。

 

その考えが浮かんだ時、和枝は腹が立った。春にではない。澄江の力を怖がりながら、役に立つ時だけ使ってほしいと思った自分にだった。

 

「澄江」

 

呼ぶと、澄江が顔を上げた。

 

「宮下さんのところへ行って、少し見る?」

 

春が息をつめた。

 

和枝は続けた。

 

「嫌なら行かなくていい」

 

澄江は春ではなく、和枝を見ていた。

 

「行ったら、触るの?」

 

「触らないと分からないんでしょう」

 

「うん」

 

「一度だけ。分からなかったら、それで終わり。分かっても、先生に診てもらう」

 

澄江はしばらく考えた。

 

「叔母さんも来る?」

 

「行く」

 

「田代先生のところに連れていく?」

 

春が先に答えた。

 

「連れていくよ。澄江ちゃんが何も分からなくても、ちゃんと行かせる」

 

澄江は両手を膝へ戻した。

 

「じゃあ、行く」

 

宮下の家では、春の夫が布団の上で丸くなっていた。

 

顔には汗が浮かんでいたが、和枝が声をかけると、病人扱いするなと不機嫌に返した。澄江が来た理由を聞くと、さらに顔をしかめた。

 

「子どもに何が分かる」

 

「分からないかもしれないよ」

 

和枝が言った。

 

「分からなくても、田代先生のところへ行く。春さんとそう決めた」

 

男は返事をしなかった。

 

澄江は布団の脇へ座った。すぐには手を出さない。

 

「どこが痛いの」

 

「腹だ」

 

「どっち」

 

「真ん中だ。朝より右が痛い気もする」

 

澄江は和枝を見た。

 

和枝は頷かなかった。やれとも、やめろとも言わなかった。

 

決めるのは澄江だった。

 

「腕、触っていい?」

 

男は妙な顔をした。

 

「腹じゃないのか」

 

「腕からでも分かる時がある」

 

「好きにしろ」

 

澄江の指が男の手首へ触れた。

 

すぐに何かを言うことはなかった。

 

目を閉じるでも、祈るでもない。ただ触れたまま、眉間へ小さく皺を寄せる。男が身じろぎすると、澄江は手を離した。

 

「右の下の方」

 

春が身を乗り出した。

 

「悪いの?」

 

「分からない。熱いのと、固いのが重なってる。昨日、先生のところで触った人とは違う」

 

「何の病気だ」

 

男が聞く。

 

澄江は首を振った。

 

「病気の名前は分からない」

 

「じゃあ役に立たんじゃないか」

 

春が男の肩を叩いた。

 

「だから先生に行くんだよ」

 

男はまだ渋ったが、澄江が言った場所と、自分が痛みを感じ始めた場所が近いことは気になったらしい。着替える間、文句を言い続けながらも立ち上がった。

 

和枝たちは診療所まで付き添った。

 

田代は澄江の言葉だけで決めなかった。

 

腹を押し、痛みの場所を確かめ、熱を測り、昨夜からの食事と便を聞いた。澄江には、触れた場所と感じたことだけを別に話させた。

 

「右の下。熱い。固い。広がってはいない」

 

「痛みの強さは分かるか」

 

「分からない」

 

「前と同じ感じか」

 

「違う」

 

田代は診察票の右欄へ書き、左欄には別の言葉を書いた。

 

それから宮下へ言った。

 

「ここでは様子を見ない。すぐに大きいところへ行け」

 

男の顔から不機嫌さが消えた。

 

春が礼を言おうとすると、田代は先に止めた。

 

「澄江が病名を決めたわけじゃない。遅らせなかったことに意味がある」

 

帰り道、澄江は何度も手を振った。

 

「残ってる?」

 

和枝が聞いた。

 

「少し。気持ち悪くはない」

 

「頭は」

 

「平気」

 

「今日はもう触らない?」

 

澄江は考えた。

 

「今日は、もういい」

 

和枝は頷いた。

 

それが人を助けた日の言葉でも、立派に聞こえる必要はなかった。

 

* * *

 

二日後、宮下の春が礼に来た。

 

処置が早かったから大事には至らなかった、と田代から聞かされたらしい。春は卵を二つ持ってきた。和枝は受け取らなかった。

 

「澄江に仕事をさせたわけじゃないよ」

 

「でも、助かったんだ」

 

「田代先生が診たからだ」

 

「澄江ちゃんが行けって背中を押したようなもんだろ」

 

春は引かなかった。

 

結局、卵は澄江への礼ではなく、普段から世話になっている分だと言い張って置いていった。

 

話は、それで終わらなかった。

 

次の日には、別の家から老人の膝を見てほしいと言われた。さらにその翌日には、子どもの咳が長いから一度触ってくれないかと頼まれた。

 

和枝は断った。

 

田代へ連れていくよう言った。

 

それでも、玄関先で頼まれるたび、断った後まで胸へ残った。

 

本当に困っているのかもしれない。

一度だけなら。

澄江が嫌でなければ。

 

同じ考えが何度も浮かぶ。

 

だから、澄江が学校から帰った時、和枝は頼み事が来ていたことを隠さなかった。

 

「今朝、山岸さんが来た。お祖母さんの膝を見てほしいって」

 

澄江は鞄を置いた。

 

「行くの?」

 

「お前が決める」

 

「叔母さんは、行ってほしい?」

 

真っすぐ聞かれ、和枝は答えに詰まった。

 

守りたい。

使わせたくない。

助けられるなら助けてほしい。

断って恨まれたくない。

近所に変な噂を広げたくない。

 

どれも本当だった。

 

「少しは、行ってほしいと思ってる」

 

澄江は黙った。

 

「でも、それでお前に行けとは言えない」

 

「この前は言った」

 

和枝には返す言葉がなかった。

 

あの時も、嫌なら断っていいと言った。

 

だが、春が見ている前で頼んだ。病人がいると聞かせた後で決めさせた。断っていいと言葉へ足しても、断りにくい形を先に作っていた。

 

「そうだね」

 

和枝は認めた。

 

「この前は、断りにくい頼み方をした」

 

「行ってよかったよ」

 

「よかったことと、頼み方がよかったかは別だよ」

 

澄江は自分の手を見た。

 

「今日は嫌」

 

声は小さかった。

 

和枝の胸に、一瞬だけ残念さが生まれた。

 

山岸の老人が困っているかもしれない。澄江なら何か分かるかもしれない。その可能性を手放すのが惜しかった。

 

その残念さを、澄江へ見せてはいけないと思った。

 

しかし、隠して笑えば、澄江はもっと気づく。

 

和枝は息を吐いた。

 

「分かった。今日は行かない」

 

「怒らない?」

 

「少し困ってる。怒ってはいない」

 

「同じじゃないの」

 

「違うよ。困るのは私の方。決めるのはお前」

 

澄江はしばらく和枝を見ていた。

 

「明日はいいかもしれない」

 

「明日のことは明日決める」

 

「朝に?」

 

「頼まれてからじゃなく、朝に聞く」

 

澄江は少し考えてから頷いた。

 

和枝は帳面を持ってきて、澄江の前へ置いた。

 

店の金の計算と、家の決め事が同じ頁へ並んでいる。

 

使う前に本人へ聞く。

嫌と言った日は頼まない。

分からなくても医者へ行く。

一度触れた後は、続けるかもう一度聞く。

礼の品を勝手に決めない。

 

「何か足す?」

 

澄江は一行ずつ読んだ。

 

「文子には触ってもいい?」

 

「それは文子と澄江で決めな」

 

「先生の時は?」

 

「診る前に聞く」

 

「叔母さんは?」

 

和枝は一瞬迷った。

 

「私でも、嫌なら嫌でいい」

 

澄江は鉛筆を取り、最後へ書き足した。

 

今日は嫌と言ったら、今日は終わり。

 

子どもの字は少し傾いていた。

 

和枝はその下へ線を引かなかった。

 

決まりを立派なものに見せたくなかった。守るために必要だから書いただけだ。

 

翌朝、和枝は店へ出る前に、借りられそうな一間を見に行った。

 

通りから少し入った場所で、表は狭いが、奥に作業台を置ける。壁は直す必要があり、戸も歪んでいる。家賃を聞くと、帳面の数字ではまだ足りなかった。

 

それでも、何もない夢ではなくなった。

 

帰る途中、和枝は布屋へ寄り、白糸を二巻買った。一巻だけのつもりだったが、店を始めるなら要ると考え直した。

 

家へ戻ると、澄江が学校へ行く支度をしていた。

 

「今日はどう」

 

和枝が聞いた。

 

澄江は自分の両手を見た。

 

「今日は平気」

 

「誰かに頼まれたら?」

 

「その時に決める」

 

「嫌なら?」

 

「今日は嫌って言う」

 

それだけ答え、澄江は鞄を持った。

 

特別な宣言をした顔ではなかった。

 

学校へ行くか、文子と何を話すか、帰ってから何をするか。その中に、触るか触らないかも一つ増えただけだった。

 

和枝は二巻の白糸を棚へ置いた。

 

澄江の力が消えなくても、暮らしまで全部それに変える必要はない。

 

店の金を貯める。

学校へ行かせる。

医者へ連れていく。

頼まれた時は、先に本人へ聞く。

 

世界で最初かもしれない力を、家の中ではそれくらいの決まりで扱う。

 

それで十分だと、和枝は思った。

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