歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい 作:無異常世界
年が明けてから、和枝の内職は少し増えた。
増えたと言っても、暮らしが楽になったわけではない。朝は食料品店の帳場へ出て、帰れば預かった布を広げる。解いた縫い目を整え、足りない布は目立たない場所から取る。澄江が眠った後まで針を動かして、ようやく翌日の飯代へ届く。
それでも、去年までとは違うことが一つあった。
自分の店を持つための金を、少しずつ別にしていた。
大きな店ではない。表に布を二、三反置き、仕立て直しと繕い物を受けられるだけでいい。食料品店の帳場を辞めるには足りない。家賃の当てもない。それでも、紙に書いた数字が前の月より減っていなければ、和枝は針を持つ手を少しだけ軽くできた。
「叔母さん、糸なくなるよ」
向かいで宿題をしていた澄江が言った。
和枝は糸巻きを見た。白糸が芯の近くまで減っている。
「明日買う。忘れてたら言って」
「今言った」
「明日も言いな」
澄江は呆れた顔をして鉛筆へ戻った。
あの診察から何か月か経っていた。
澄江の感覚は消えなかった。人へ触れれば、皮膚の下の熱や腫れ、息の詰まり、身体のどこかにある妙な重さを感じることがある。ただし、何でも分かるわけではない。同じ相手でも分からない日があり、感じた場所に田代が異常を見つけられないこともあった。
触れた後に頭が重くなる日もある。
だから田代は、澄江が診療所へ来るたびに同じことを聞いた。
今日は眠れたか。
朝は食べたか。
誰かへ触れたか。
触れたくなかったか。
病名を当てた数より、そちらの記録の方が多いくらいだった。
戸を叩く音がした。
和枝が返事をすると、近所の宮下春が顔を出した。いつもなら遠慮なく上がる女が、今日は土間へ片足を置いたまま立っている。
「和枝ちゃん、今いいかい」
「どうしたの」
「うちの人が、朝から腹が痛いって」
和枝は針を布へ刺して止めた。
「田代先生には」
「行けって言ってるんだけど、寝てれば治るって聞かなくて。昨日の夜かららしいんだよ」
「じゃあ、なおさら先生のところへ連れていきな」
春は頷かなかった。
視線が和枝を越え、机の前の澄江へ動いた。
それで用件が分かった。
「澄江ちゃん、身体の悪いところが分かるんだって?」
部屋の空気が変わった。
澄江の鉛筆が止まった。
和枝はすぐに答えなかった。どこから聞いたのかを先に考えた。田代は話さない。文子も、澄江から詳しくは聞いていないはずだった。
春は和枝の顔を見て、慌てて手を振った。
「いや、変なことを言いふらすつもりじゃないよ。田代先生のところで、あの子が触った後に診る場所を変えたって、待合で見た人がいてさ」
見た事実へ、理由が後から足されていた。
隠し通せると思っていたわけではない。診療所へ出入りし、田代が新しい紙を使い、和枝が周囲を気にしていれば、誰かは気づく。
それでも、こんなふうに家へ来るとは思っていなかった。
「見れば分かるわけじゃないよ」
「少しでいいんだ。どこが悪いか分かれば、あの人も医者へ行く気になるかもしれない」
「分からなかったら?」
「その時は、その時で」
春はそう言ったが、顔には期待が残っていた。
和枝は澄江を見た。
澄江は何も言わない。机の下へ両手を隠している。
断るべきだと思った。
田代にも言われている。触る前に決める。必要と本人の意思を先に確認する。頼まれたから、その場の空気で手を出させてはいけない。
それでも、春の夫が本当に悪いなら。
澄江が一度触れることで、医者へ連れていけるなら。
助かるかもしれない人を前にして、何もしないのが正しいのか。
その考えが浮かんだ時、和枝は腹が立った。春にではない。澄江の力を怖がりながら、役に立つ時だけ使ってほしいと思った自分にだった。
「澄江」
呼ぶと、澄江が顔を上げた。
「宮下さんのところへ行って、少し見る?」
春が息をつめた。
和枝は続けた。
「嫌なら行かなくていい」
澄江は春ではなく、和枝を見ていた。
「行ったら、触るの?」
「触らないと分からないんでしょう」
「うん」
「一度だけ。分からなかったら、それで終わり。分かっても、先生に診てもらう」
澄江はしばらく考えた。
「叔母さんも来る?」
「行く」
「田代先生のところに連れていく?」
春が先に答えた。
「連れていくよ。澄江ちゃんが何も分からなくても、ちゃんと行かせる」
澄江は両手を膝へ戻した。
「じゃあ、行く」
宮下の家では、春の夫が布団の上で丸くなっていた。
顔には汗が浮かんでいたが、和枝が声をかけると、病人扱いするなと不機嫌に返した。澄江が来た理由を聞くと、さらに顔をしかめた。
「子どもに何が分かる」
「分からないかもしれないよ」
和枝が言った。
「分からなくても、田代先生のところへ行く。春さんとそう決めた」
男は返事をしなかった。
澄江は布団の脇へ座った。すぐには手を出さない。
「どこが痛いの」
「腹だ」
「どっち」
「真ん中だ。朝より右が痛い気もする」
澄江は和枝を見た。
和枝は頷かなかった。やれとも、やめろとも言わなかった。
決めるのは澄江だった。
「腕、触っていい?」
男は妙な顔をした。
「腹じゃないのか」
「腕からでも分かる時がある」
「好きにしろ」
澄江の指が男の手首へ触れた。
すぐに何かを言うことはなかった。
目を閉じるでも、祈るでもない。ただ触れたまま、眉間へ小さく皺を寄せる。男が身じろぎすると、澄江は手を離した。
「右の下の方」
春が身を乗り出した。
「悪いの?」
「分からない。熱いのと、固いのが重なってる。昨日、先生のところで触った人とは違う」
「何の病気だ」
男が聞く。
澄江は首を振った。
「病気の名前は分からない」
「じゃあ役に立たんじゃないか」
春が男の肩を叩いた。
「だから先生に行くんだよ」
男はまだ渋ったが、澄江が言った場所と、自分が痛みを感じ始めた場所が近いことは気になったらしい。着替える間、文句を言い続けながらも立ち上がった。
和枝たちは診療所まで付き添った。
田代は澄江の言葉だけで決めなかった。
腹を押し、痛みの場所を確かめ、熱を測り、昨夜からの食事と便を聞いた。澄江には、触れた場所と感じたことだけを別に話させた。
「右の下。熱い。固い。広がってはいない」
「痛みの強さは分かるか」
「分からない」
「前と同じ感じか」
「違う」
田代は診察票の右欄へ書き、左欄には別の言葉を書いた。
それから宮下へ言った。
「ここでは様子を見ない。すぐに大きいところへ行け」
男の顔から不機嫌さが消えた。
春が礼を言おうとすると、田代は先に止めた。
「澄江が病名を決めたわけじゃない。遅らせなかったことに意味がある」
帰り道、澄江は何度も手を振った。
「残ってる?」
和枝が聞いた。
「少し。気持ち悪くはない」
「頭は」
「平気」
「今日はもう触らない?」
澄江は考えた。
「今日は、もういい」
和枝は頷いた。
それが人を助けた日の言葉でも、立派に聞こえる必要はなかった。
* * *
二日後、宮下の春が礼に来た。
処置が早かったから大事には至らなかった、と田代から聞かされたらしい。春は卵を二つ持ってきた。和枝は受け取らなかった。
「澄江に仕事をさせたわけじゃないよ」
「でも、助かったんだ」
「田代先生が診たからだ」
「澄江ちゃんが行けって背中を押したようなもんだろ」
春は引かなかった。
結局、卵は澄江への礼ではなく、普段から世話になっている分だと言い張って置いていった。
話は、それで終わらなかった。
次の日には、別の家から老人の膝を見てほしいと言われた。さらにその翌日には、子どもの咳が長いから一度触ってくれないかと頼まれた。
和枝は断った。
田代へ連れていくよう言った。
それでも、玄関先で頼まれるたび、断った後まで胸へ残った。
本当に困っているのかもしれない。
一度だけなら。
澄江が嫌でなければ。
同じ考えが何度も浮かぶ。
だから、澄江が学校から帰った時、和枝は頼み事が来ていたことを隠さなかった。
「今朝、山岸さんが来た。お祖母さんの膝を見てほしいって」
澄江は鞄を置いた。
「行くの?」
「お前が決める」
「叔母さんは、行ってほしい?」
真っすぐ聞かれ、和枝は答えに詰まった。
守りたい。
使わせたくない。
助けられるなら助けてほしい。
断って恨まれたくない。
近所に変な噂を広げたくない。
どれも本当だった。
「少しは、行ってほしいと思ってる」
澄江は黙った。
「でも、それでお前に行けとは言えない」
「この前は言った」
和枝には返す言葉がなかった。
あの時も、嫌なら断っていいと言った。
だが、春が見ている前で頼んだ。病人がいると聞かせた後で決めさせた。断っていいと言葉へ足しても、断りにくい形を先に作っていた。
「そうだね」
和枝は認めた。
「この前は、断りにくい頼み方をした」
「行ってよかったよ」
「よかったことと、頼み方がよかったかは別だよ」
澄江は自分の手を見た。
「今日は嫌」
声は小さかった。
和枝の胸に、一瞬だけ残念さが生まれた。
山岸の老人が困っているかもしれない。澄江なら何か分かるかもしれない。その可能性を手放すのが惜しかった。
その残念さを、澄江へ見せてはいけないと思った。
しかし、隠して笑えば、澄江はもっと気づく。
和枝は息を吐いた。
「分かった。今日は行かない」
「怒らない?」
「少し困ってる。怒ってはいない」
「同じじゃないの」
「違うよ。困るのは私の方。決めるのはお前」
澄江はしばらく和枝を見ていた。
「明日はいいかもしれない」
「明日のことは明日決める」
「朝に?」
「頼まれてからじゃなく、朝に聞く」
澄江は少し考えてから頷いた。
和枝は帳面を持ってきて、澄江の前へ置いた。
店の金の計算と、家の決め事が同じ頁へ並んでいる。
使う前に本人へ聞く。
嫌と言った日は頼まない。
分からなくても医者へ行く。
一度触れた後は、続けるかもう一度聞く。
礼の品を勝手に決めない。
「何か足す?」
澄江は一行ずつ読んだ。
「文子には触ってもいい?」
「それは文子と澄江で決めな」
「先生の時は?」
「診る前に聞く」
「叔母さんは?」
和枝は一瞬迷った。
「私でも、嫌なら嫌でいい」
澄江は鉛筆を取り、最後へ書き足した。
今日は嫌と言ったら、今日は終わり。
子どもの字は少し傾いていた。
和枝はその下へ線を引かなかった。
決まりを立派なものに見せたくなかった。守るために必要だから書いただけだ。
翌朝、和枝は店へ出る前に、借りられそうな一間を見に行った。
通りから少し入った場所で、表は狭いが、奥に作業台を置ける。壁は直す必要があり、戸も歪んでいる。家賃を聞くと、帳面の数字ではまだ足りなかった。
それでも、何もない夢ではなくなった。
帰る途中、和枝は布屋へ寄り、白糸を二巻買った。一巻だけのつもりだったが、店を始めるなら要ると考え直した。
家へ戻ると、澄江が学校へ行く支度をしていた。
「今日はどう」
和枝が聞いた。
澄江は自分の両手を見た。
「今日は平気」
「誰かに頼まれたら?」
「その時に決める」
「嫌なら?」
「今日は嫌って言う」
それだけ答え、澄江は鞄を持った。
特別な宣言をした顔ではなかった。
学校へ行くか、文子と何を話すか、帰ってから何をするか。その中に、触るか触らないかも一つ増えただけだった。
和枝は二巻の白糸を棚へ置いた。
澄江の力が消えなくても、暮らしまで全部それに変える必要はない。
店の金を貯める。
学校へ行かせる。
医者へ連れていく。
頼まれた時は、先に本人へ聞く。
世界で最初かもしれない力を、家の中ではそれくらいの決まりで扱う。
それで十分だと、和枝は思った。