歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい 作:無異常世界
広瀬健一が診療所へ運び込まれた時、澄江は田代の机の前で両手を見せていた。
指先に痺れはないか。
昨日の夜は眠れたか。
朝から誰かへ触れたか。
田代は前と同じことを聞き、澄江の返事を診察票の右側へ書いていた。今日は誰にも触れていない。頭も重くない。学校へ行く前に寄っただけで、終われば文子と一緒に遅れて教室へ入ることになっていた。
戸の外で、誰かが田代を呼んだ。
「先生、ちょっと来てくれ!」
田代は鉛筆を置いた。
待合へ出ると、二人の男が戸板を抱えていた。その上に、若い男が横たわっている。上着は土で汚れ、額に汗が浮いていた。
「広瀬のところの健一です。朝は歩いてたんですが、急に立てなくなって」
付き添ってきた男が息を切らしながら言った。
田代は戸板を診察台の横へ下ろさせた。
「いつからだ」
健一は目を開けた。答えようとして、浅く息を吸う。
「昨日……荷車から落ちました」
「どこを打った」
「左の脇腹。大したことないと思って」
「吐いたか」
「一度」
「飯は」
「朝は食べてません」
田代は上着を開かせ、胸と腹を確かめた。左の脇腹に擦り傷と薄い青みがある。骨が明らかに折れている形ではない。健一は打った場所より、腹の真ん中が重いと言った。
脈を取る。
速い。
熱は高くない。腹を押すと、健一は場所によって顔をしかめたが、痛みは一つの場所へはっきり集まらなかった。
「昨日、落ちた後に気を失ったか」
「少し座ってました。気は失ってないです」
「本当に見ていた者は」
付き添いの一人が首を振った。
「倉の裏でした。落ちた音で行った時には、もう立ってました」
田代は健一の瞼を持ち上げた。顔色は悪い。だが、昨日の打撲で食べていないなら、それだけでも説明はつく。
診療所でできることは限られていた。
打った場所を冷やして寝かせるか。
町の外の病院へすぐ送るか。
道は平らではない。動かすこと自体が負担になる。大きな病院へ送れば、着いただけで治るわけでもない。それでも腹の中で何か起きているなら、ここで待つ方が危ない。
田代はもう一度、脈を数えた。
さっきより弱く感じた。
「先生」
診察室の隅から、澄江が呼んだ。
田代は振り返った。
澄江は和枝の隣に立っていた。戸板が入ってきた時から、黙って見ていた。
「学校へ行け」
田代が言うと、澄江は動かなかった。
「私が触ったら、何か分かるかもしれない」
和枝が澄江を見た。止めるとも、やらせるとも言わない顔だった。
田代は健一へ向き直った。
「この子は、人へ触れた時に、身体の中の変な場所を感じることがある。病名は分からん。外れることもある」
健一は澄江を見た。苦しさのせいか、驚く余裕はなさそうだった。
「触らせていいか」
「それで分かるなら」
「分かるとは言ってない」
田代は言い直させるように待った。
健一は唇を湿らせた。
「それでも、お願いします」
田代は澄江へ言った。
「一度だけだ。手首からでいい。分からなければ、それで終わり」
澄江は診察台へ近づいた。
健一の右手首へ指を置く。
触れた瞬間、何かを見つけた顔はしなかった。数秒たち、澄江の眉が少しずつ寄る。
「どこだ」
「待って」
健一の呼吸が浅く動くたび、澄江の指もわずかに揺れた。
「左の上の方。肋骨の下」
「打ったところか」
「近いけど、そこだけじゃない」
澄江は目を閉じなかった。健一の顔と、自分の指先を交互に見ていた。
「冷たいのがある。固いんじゃない。広がってる」
「どちらへ」
「下と、真ん中の方。薄いけど、さっきより動いてる」
田代はすぐに答えなかった。
澄江の言葉だけなら、冷たいも、広がるも、病名にはならない。
だが、左の脇腹を強く打った。
痛みの場所が定まらない。
顔色が悪く、脈が速い。
時間がたってから立てなくなった。
田代は健一の左肩へ触れた。
「ここは痛むか」
健一が顔をしかめた。
「少し。落ちた時に打ったんだと思ってました」
「腹より先に言え」
「腹の方が苦しくて」
田代は腹をもう一度、場所を変えて確かめた。健一は左上より、下の方を押した時に強く身を固くした。
澄江の言った場所と、本人が一番痛がる場所は違う。
違うからこそ、捨てられなかった。
「離せ」
田代が言うと、澄江はすぐに手を放した。
「もう一回、触った方がいい?」
「いらん」
「でも、広がってるか」
「今は、広がっているか確かめるためにここへ置いておく段階じゃない」
田代は付き添いの男へ向いた。
「駅前の運送屋へ行け。車を一台頼め。町の病院じゃなく、外科のあるところへ送る」
男が戸口へ走る。
もう一人には、健一の家へ知らせに行かせた。
田代は健一を横向きにせず、できるだけ動かさないよう指示した。食べ物も水も与えない。腹へ強く触れる者がいれば止める。
「先生、何なんです」
健一が聞いた。
「腹の中で血が出ているかもしれん」
待合が静かになった。
「かもしれない、ですか」
「ここでは確かめきれん。だから確かめられるところへ送る」
田代は健一の脈を取り直した。
「何もなければ、送った俺が文句を聞く。今はそれでいい」
澄江は自分の右手を握った。
触れた時の冷たさが、まだ掌の奥に残っている。文子の胸で感じた細い冷たさとも、宮下の腹で感じた熱と硬さとも違った。
何なのかは分からない。
ただ、健一の中で、そこにあってはいけないものが動いている。
車が来るまでの時間が、ひどく長く感じられた。
健一の母親が駆け込んできた。息子の名を呼び、診察台へ寄ろうとしたところを、田代が止める。
「今は揺らすな。病院へ行く支度をしろ」
「何があったんです」
「腹の中の怪我を疑ってる」
母親の顔が青くなった。
「昨日は歩いて帰ってきたんです。飯も少しは」
「歩けたことと、今大丈夫なことは別だ」
田代は短く答え、病院へ渡す紙を書いた。
昨日の転落。
左側腹部打撲。
嘔吐一回。
顔面蒼白、頻脈、腹部圧痛。
その下へ線を引き、別の欄へ澄江の言葉を書いた。
左肋骨下から腹部中央へ、冷感様の広がる接触時所見。
病名にはしなかった。
見つけた場所だけを、見つけたまま残した。
車が着くと、田代は戸板ごと健一を運ばせた。母親が荷台へ乗り、付き添いの男が横で身体を支える。
土煙の中へ車が遠ざかる。
見えなくなっても、澄江は道の先を見ていた。
「助かりますか」
田代は答えなかった。
「先生」
「分からん」
いつもの言葉だった。
けれど、今日はその後へ何も続かなかった。
分からないから測ることはできる。
分からないから送ることもできる。
送った先で助けられるかどうかは、ここにいる者には決められなかった。
「学校へ行け」
田代が言った。
澄江は自分の手を見た。
「今、行っても何も考えられない」
「考えても健一の腹は治らん」
「分かってる」
「なら、いつものことをしろ。結果が来るまで、ここで待ち続ける必要はない」
和枝が澄江の鞄を持った。
「文子が待ってるよ」
澄江はすぐには頷かなかった。
それでも、診療所に残ってもできることがないのは分かっていた。
戸口で振り返る。
田代はもう次の患者を呼んでいた。
健一を送ったからといって、咳をする老人も、指を切った女もいなくならない。
澄江は和枝と診療所を出た。
学校へ向かう道で、掌に残っていた冷たさは少しずつ薄れた。
消えていくことが、今日は怖かった。
***
その日の夕方、田代は健一の診察票を机の上へ出したままにしていた。
患者が途切れるたびに脈の数字を見直し、澄江の言葉を読み返す。
冷たい。
広がっている。
動いている。
医学の言葉ではない。
だから捨ててよい言葉でもなかった。
澄江がいなければ、田代はどうしたか。
顔色と脈を見れば、結局は送ったかもしれない。
昨日の打撲を軽く見た本人へ、今日は寝て様子を見ろと言ったかもしれない。
どちらだったかは、もう確かめられない。
逆に、澄江だけならどうしたか。
冷たいものが広がると感じても、それが血なのか、腫れなのか、何でもない感覚の残りなのかは分からない。どこへ運び、何を禁じ、誰へ渡すかも決められない。
田代は診察票の余白へ一行書いた。
接触時所見は、通常診察へ確認すべき場所と急ぐ理由を追加する。
書いてから、理由、を消した。
急ぐかどうかまで、澄江の感覚へ預けてはいけない。
確認すべき場所と、見落としてはならない可能性を追加する。
書き直したところで、戸が開いた。
朝、健一へ付き添った男が立っていた。土で汚れたままの上着を着ている。
「先生」
田代は立ち上がった。
男は息を整えてから言った。
「手術になりました。腹の中で血が出てたそうです」
「どこだ」
「左の、肋骨の下にあるものが裂けてたって。名前は聞いたんですが、覚えきれなくて」
「健一は」
「今は生きてます。先生がすぐ送ったから間に合ったって」
田代は机へ手をついた。
力が抜けたことを、男に悟られたくなかった。
「今は、だ。安心するのは向こうの医者がいいと言ってからにしろ」
「はい」
男は何度も頭を下げて帰った。
田代はしばらく立ったまま、診察票を見下ろした。
左肋骨下。
澄江が最初に言った場所だった。
当たった。
そう書くのは簡単だった。
だが、健一を助けたのは、その一語ではない。
戸板で運んだ男がいた。
昨日の怪我を聞き出した。
脈を取り、腹を診た。
車を走らせた。
向こうの医者が腹を開き、出血を止めた。
澄江の感覚は、その途中へ一つ、今までなかった観測点を置いた。
一つでも欠けていれば、同じ結果になったとは言えない。
田代は新しい紙を取り出した。
通常診察。
接触時所見。
経過と結果。
三つに分けて、健一の一日を書き直した。
***
翌朝、澄江は学校へ行く前に診療所へ寄った。
和枝は店へ出る支度があり、一緒ではなかった。澄江は戸口から中を覗き、田代が患者を診ていないのを確かめてから入った。
「健一さんは」
挨拶より先に聞いた。
田代は机の上の紙を伏せなかった。
「手術は終わった。今は生きてる」
澄江は息を吸った。
昨日から胸の中へ置かれていた重さが、少しだけ下へ落ちた。
「助かったの」
「まだ治ったとは言わん。だが、昨日のままここへ寝かせていたよりは、ずっといい」
澄江は椅子へ座った。
笑いたいのに、顔がうまく動かなかった。
「私が触ったから?」
田代はすぐに否定しなかった。
「お前が、俺の見ていなかった場所を知らせた」
「じゃあ、私が助けたの」
「一人で助けたと思うな」
田代は健一の記録を指で押さえた。
「お前が知らせた。俺が送ると決めた。車を出した者が運んだ。向こうの医者が手術した。どれか一つだけを健一の命にするな」
澄江は記録の三つの欄を見た。
自分の言葉は真ん中にあった。
一番上でも、一番下でもない。
「でも、私がいなかったら」
「困ったかもしれん」
田代は言った。
「俺だけでは遅れたかもしれん。お前だけでも、何をすればいいか分からなかった」
澄江は少し考えた。
「先生は、私が必要なんですか」
「必要な時がある」
「いつも?」
「いつもなら、俺は医者をやめた方がいい」
澄江は初めて笑った。
田代も口元だけを少し緩めた。
「お前にも、俺が必要な時がある」
「病名は分からないから」
「それだけじゃない。使っていい時と、使わん方がいい時を、一人で全部決めるな」
澄江は自分の手を膝へ置いた。
「昨日、もう一回触りたかった」
「知ってる」
「広がってたら、もっと急げたかもしれない」
「もう送ると決めていた。二度目は健一を助けるためじゃなく、お前が安心するためになっていた」
澄江は黙った。
言われてみれば、そうだった。
自分の手で変化を確かめている間にも、車を呼ぶ方が早い。何度触っても、出血を止められるわけではない。
「触らない方が助けになる時もあるの」
「ある」
田代は新しい紙を澄江の前へ置いた。
接触前に、何を判断するために使うか決める。
判断が済んだ後は、安心のためだけに繰り返さない。
能力所見だけで病名を決めない。
通常診察だけで、対応しない所見を消さない。
「読むか」
澄江は一行ずつ読んだ。
「難しい」
「なら、分かる言葉で言え」
澄江は考え、紙の下へ鉛筆で書いた。
触れば何かできる時だけ、触る。
書いてから、少し違うと思った。
何かできるかどうかは、触る前には分からないこともある。
澄江は「何か」を消し、書き直した。
何を知りたいか決めてから、触る。
田代はその字を見て、紙を取り上げなかった。
「それでいい」
外で、子どもが澄江を呼んだ。
文子だった。
「遅れるって言ったのに、先に行かないでよ!」
澄江は立ち上がった。
戸口まで行ってから、田代を振り返る。
「今日は、もう触らなくていい?」
「健一のためにはな」
「ほかの人が来たら?」
「その時に、何を知る必要があるか先に考える。お前が嫌なら、そこで終わりだ」
澄江は頷き、外へ出た。
文子が道の端で待っている。
「何してたの」
「先生と話してた」
「また手の話?」
「少し」
文子はそれ以上聞かなかった。
「日曜、川の方へ行く約束、忘れてないよね」
「忘れてない」
「今度は猫がいなくなる前に来てよ」
「猫が待ってくれるとは限らないよ」
二人は学校へ向かって歩き出した。
文子は澄江の手を取らなかった。澄江も、今はそれを寂しいとは思わなかった。
昨日、自分の手は一人の身体の中にあった異常を知らせた。
今日は、何も感じないまま鞄を持っている。
どちらも、自分の一日だった。
書かせてる内にあれ?澄江のパート長くね?と思い始めた。