歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい   作:無異常世界

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第六話

広瀬健一が診療所へ運び込まれた時、澄江は田代の机の前で両手を見せていた。

 

指先に痺れはないか。

 

昨日の夜は眠れたか。

 

朝から誰かへ触れたか。

 

田代は前と同じことを聞き、澄江の返事を診察票の右側へ書いていた。今日は誰にも触れていない。頭も重くない。学校へ行く前に寄っただけで、終われば文子と一緒に遅れて教室へ入ることになっていた。

 

戸の外で、誰かが田代を呼んだ。

 

「先生、ちょっと来てくれ!」

 

田代は鉛筆を置いた。

 

待合へ出ると、二人の男が戸板を抱えていた。その上に、若い男が横たわっている。上着は土で汚れ、額に汗が浮いていた。

 

「広瀬のところの健一です。朝は歩いてたんですが、急に立てなくなって」

 

付き添ってきた男が息を切らしながら言った。

 

田代は戸板を診察台の横へ下ろさせた。

 

「いつからだ」

 

健一は目を開けた。答えようとして、浅く息を吸う。

 

「昨日……荷車から落ちました」

 

「どこを打った」

 

「左の脇腹。大したことないと思って」

 

「吐いたか」

 

「一度」

 

「飯は」

 

「朝は食べてません」

 

田代は上着を開かせ、胸と腹を確かめた。左の脇腹に擦り傷と薄い青みがある。骨が明らかに折れている形ではない。健一は打った場所より、腹の真ん中が重いと言った。

 

脈を取る。

 

速い。

 

熱は高くない。腹を押すと、健一は場所によって顔をしかめたが、痛みは一つの場所へはっきり集まらなかった。

 

「昨日、落ちた後に気を失ったか」

 

「少し座ってました。気は失ってないです」

 

「本当に見ていた者は」

 

付き添いの一人が首を振った。

 

「倉の裏でした。落ちた音で行った時には、もう立ってました」

 

田代は健一の瞼を持ち上げた。顔色は悪い。だが、昨日の打撲で食べていないなら、それだけでも説明はつく。

 

診療所でできることは限られていた。

 

打った場所を冷やして寝かせるか。

 

町の外の病院へすぐ送るか。

 

道は平らではない。動かすこと自体が負担になる。大きな病院へ送れば、着いただけで治るわけでもない。それでも腹の中で何か起きているなら、ここで待つ方が危ない。

 

田代はもう一度、脈を数えた。

 

さっきより弱く感じた。

 

「先生」

 

診察室の隅から、澄江が呼んだ。

 

田代は振り返った。

 

澄江は和枝の隣に立っていた。戸板が入ってきた時から、黙って見ていた。

 

「学校へ行け」

 

田代が言うと、澄江は動かなかった。

 

「私が触ったら、何か分かるかもしれない」

 

和枝が澄江を見た。止めるとも、やらせるとも言わない顔だった。

 

田代は健一へ向き直った。

 

「この子は、人へ触れた時に、身体の中の変な場所を感じることがある。病名は分からん。外れることもある」

 

健一は澄江を見た。苦しさのせいか、驚く余裕はなさそうだった。

 

「触らせていいか」

 

「それで分かるなら」

 

「分かるとは言ってない」

 

田代は言い直させるように待った。

 

健一は唇を湿らせた。

 

「それでも、お願いします」

 

田代は澄江へ言った。

 

「一度だけだ。手首からでいい。分からなければ、それで終わり」

 

澄江は診察台へ近づいた。

 

健一の右手首へ指を置く。

 

触れた瞬間、何かを見つけた顔はしなかった。数秒たち、澄江の眉が少しずつ寄る。

 

「どこだ」

 

「待って」

 

健一の呼吸が浅く動くたび、澄江の指もわずかに揺れた。

 

「左の上の方。肋骨の下」

 

「打ったところか」

 

「近いけど、そこだけじゃない」

 

澄江は目を閉じなかった。健一の顔と、自分の指先を交互に見ていた。

 

「冷たいのがある。固いんじゃない。広がってる」

 

「どちらへ」

 

「下と、真ん中の方。薄いけど、さっきより動いてる」

 

田代はすぐに答えなかった。

 

澄江の言葉だけなら、冷たいも、広がるも、病名にはならない。

 

だが、左の脇腹を強く打った。

 

痛みの場所が定まらない。

 

顔色が悪く、脈が速い。

 

時間がたってから立てなくなった。

 

田代は健一の左肩へ触れた。

 

「ここは痛むか」

 

健一が顔をしかめた。

 

「少し。落ちた時に打ったんだと思ってました」

 

「腹より先に言え」

 

「腹の方が苦しくて」

 

田代は腹をもう一度、場所を変えて確かめた。健一は左上より、下の方を押した時に強く身を固くした。

 

澄江の言った場所と、本人が一番痛がる場所は違う。

 

違うからこそ、捨てられなかった。

 

「離せ」

 

田代が言うと、澄江はすぐに手を放した。

 

「もう一回、触った方がいい?」

 

「いらん」

 

「でも、広がってるか」

 

「今は、広がっているか確かめるためにここへ置いておく段階じゃない」

 

田代は付き添いの男へ向いた。

 

「駅前の運送屋へ行け。車を一台頼め。町の病院じゃなく、外科のあるところへ送る」

 

男が戸口へ走る。

 

もう一人には、健一の家へ知らせに行かせた。

 

田代は健一を横向きにせず、できるだけ動かさないよう指示した。食べ物も水も与えない。腹へ強く触れる者がいれば止める。

 

「先生、何なんです」

 

健一が聞いた。

 

「腹の中で血が出ているかもしれん」

 

待合が静かになった。

 

「かもしれない、ですか」

 

「ここでは確かめきれん。だから確かめられるところへ送る」

 

田代は健一の脈を取り直した。

 

「何もなければ、送った俺が文句を聞く。今はそれでいい」

 

澄江は自分の右手を握った。

 

触れた時の冷たさが、まだ掌の奥に残っている。文子の胸で感じた細い冷たさとも、宮下の腹で感じた熱と硬さとも違った。

 

何なのかは分からない。

 

ただ、健一の中で、そこにあってはいけないものが動いている。

 

車が来るまでの時間が、ひどく長く感じられた。

 

健一の母親が駆け込んできた。息子の名を呼び、診察台へ寄ろうとしたところを、田代が止める。

 

「今は揺らすな。病院へ行く支度をしろ」

 

「何があったんです」

 

「腹の中の怪我を疑ってる」

 

母親の顔が青くなった。

 

「昨日は歩いて帰ってきたんです。飯も少しは」

 

「歩けたことと、今大丈夫なことは別だ」

 

田代は短く答え、病院へ渡す紙を書いた。

 

昨日の転落。

 

左側腹部打撲。

 

嘔吐一回。

 

顔面蒼白、頻脈、腹部圧痛。

 

その下へ線を引き、別の欄へ澄江の言葉を書いた。

 

左肋骨下から腹部中央へ、冷感様の広がる接触時所見。

 

病名にはしなかった。

 

見つけた場所だけを、見つけたまま残した。

 

車が着くと、田代は戸板ごと健一を運ばせた。母親が荷台へ乗り、付き添いの男が横で身体を支える。

 

土煙の中へ車が遠ざかる。

 

見えなくなっても、澄江は道の先を見ていた。

 

「助かりますか」

 

田代は答えなかった。

 

「先生」

 

「分からん」

 

いつもの言葉だった。

 

けれど、今日はその後へ何も続かなかった。

 

分からないから測ることはできる。

 

分からないから送ることもできる。

 

送った先で助けられるかどうかは、ここにいる者には決められなかった。

 

「学校へ行け」

 

田代が言った。

 

澄江は自分の手を見た。

 

「今、行っても何も考えられない」

 

「考えても健一の腹は治らん」

 

「分かってる」

 

「なら、いつものことをしろ。結果が来るまで、ここで待ち続ける必要はない」

 

和枝が澄江の鞄を持った。

 

「文子が待ってるよ」

 

澄江はすぐには頷かなかった。

 

それでも、診療所に残ってもできることがないのは分かっていた。

 

戸口で振り返る。

 

田代はもう次の患者を呼んでいた。

 

健一を送ったからといって、咳をする老人も、指を切った女もいなくならない。

 

澄江は和枝と診療所を出た。

 

学校へ向かう道で、掌に残っていた冷たさは少しずつ薄れた。

 

消えていくことが、今日は怖かった。

 

***

 

その日の夕方、田代は健一の診察票を机の上へ出したままにしていた。

 

患者が途切れるたびに脈の数字を見直し、澄江の言葉を読み返す。

 

冷たい。

 

広がっている。

 

動いている。

 

医学の言葉ではない。

 

だから捨ててよい言葉でもなかった。

 

澄江がいなければ、田代はどうしたか。

 

顔色と脈を見れば、結局は送ったかもしれない。

 

昨日の打撲を軽く見た本人へ、今日は寝て様子を見ろと言ったかもしれない。

 

どちらだったかは、もう確かめられない。

 

逆に、澄江だけならどうしたか。

 

冷たいものが広がると感じても、それが血なのか、腫れなのか、何でもない感覚の残りなのかは分からない。どこへ運び、何を禁じ、誰へ渡すかも決められない。

 

田代は診察票の余白へ一行書いた。

 

接触時所見は、通常診察へ確認すべき場所と急ぐ理由を追加する。

 

書いてから、理由、を消した。

 

急ぐかどうかまで、澄江の感覚へ預けてはいけない。

 

確認すべき場所と、見落としてはならない可能性を追加する。

 

書き直したところで、戸が開いた。

 

朝、健一へ付き添った男が立っていた。土で汚れたままの上着を着ている。

 

「先生」

 

田代は立ち上がった。

 

男は息を整えてから言った。

 

「手術になりました。腹の中で血が出てたそうです」

 

「どこだ」

 

「左の、肋骨の下にあるものが裂けてたって。名前は聞いたんですが、覚えきれなくて」

 

「健一は」

 

「今は生きてます。先生がすぐ送ったから間に合ったって」

 

田代は机へ手をついた。

 

力が抜けたことを、男に悟られたくなかった。

 

「今は、だ。安心するのは向こうの医者がいいと言ってからにしろ」

 

「はい」

 

男は何度も頭を下げて帰った。

 

田代はしばらく立ったまま、診察票を見下ろした。

 

左肋骨下。

 

澄江が最初に言った場所だった。

 

当たった。

 

そう書くのは簡単だった。

 

だが、健一を助けたのは、その一語ではない。

 

戸板で運んだ男がいた。

 

昨日の怪我を聞き出した。

 

脈を取り、腹を診た。

 

車を走らせた。

 

向こうの医者が腹を開き、出血を止めた。

 

澄江の感覚は、その途中へ一つ、今までなかった観測点を置いた。

 

一つでも欠けていれば、同じ結果になったとは言えない。

 

田代は新しい紙を取り出した。

 

通常診察。

 

接触時所見。

 

経過と結果。

 

三つに分けて、健一の一日を書き直した。

 

***

 

翌朝、澄江は学校へ行く前に診療所へ寄った。

 

和枝は店へ出る支度があり、一緒ではなかった。澄江は戸口から中を覗き、田代が患者を診ていないのを確かめてから入った。

 

「健一さんは」

 

挨拶より先に聞いた。

 

田代は机の上の紙を伏せなかった。

 

「手術は終わった。今は生きてる」

 

澄江は息を吸った。

 

昨日から胸の中へ置かれていた重さが、少しだけ下へ落ちた。

 

「助かったの」

 

「まだ治ったとは言わん。だが、昨日のままここへ寝かせていたよりは、ずっといい」

 

澄江は椅子へ座った。

 

笑いたいのに、顔がうまく動かなかった。

 

「私が触ったから?」

 

田代はすぐに否定しなかった。

 

「お前が、俺の見ていなかった場所を知らせた」

 

「じゃあ、私が助けたの」

 

「一人で助けたと思うな」

 

田代は健一の記録を指で押さえた。

 

「お前が知らせた。俺が送ると決めた。車を出した者が運んだ。向こうの医者が手術した。どれか一つだけを健一の命にするな」

 

澄江は記録の三つの欄を見た。

 

自分の言葉は真ん中にあった。

 

一番上でも、一番下でもない。

 

「でも、私がいなかったら」

 

「困ったかもしれん」

 

田代は言った。

 

「俺だけでは遅れたかもしれん。お前だけでも、何をすればいいか分からなかった」

 

澄江は少し考えた。

 

「先生は、私が必要なんですか」

 

「必要な時がある」

 

「いつも?」

 

「いつもなら、俺は医者をやめた方がいい」

 

澄江は初めて笑った。

 

田代も口元だけを少し緩めた。

 

「お前にも、俺が必要な時がある」

 

「病名は分からないから」

 

「それだけじゃない。使っていい時と、使わん方がいい時を、一人で全部決めるな」

 

澄江は自分の手を膝へ置いた。

 

「昨日、もう一回触りたかった」

 

「知ってる」

 

「広がってたら、もっと急げたかもしれない」

 

「もう送ると決めていた。二度目は健一を助けるためじゃなく、お前が安心するためになっていた」

 

澄江は黙った。

 

言われてみれば、そうだった。

 

自分の手で変化を確かめている間にも、車を呼ぶ方が早い。何度触っても、出血を止められるわけではない。

 

「触らない方が助けになる時もあるの」

 

「ある」

 

田代は新しい紙を澄江の前へ置いた。

 

接触前に、何を判断するために使うか決める。

 

判断が済んだ後は、安心のためだけに繰り返さない。

 

能力所見だけで病名を決めない。

 

通常診察だけで、対応しない所見を消さない。

 

「読むか」

 

澄江は一行ずつ読んだ。

 

「難しい」

 

「なら、分かる言葉で言え」

 

澄江は考え、紙の下へ鉛筆で書いた。

 

触れば何かできる時だけ、触る。

 

書いてから、少し違うと思った。

 

何かできるかどうかは、触る前には分からないこともある。

 

澄江は「何か」を消し、書き直した。

 

何を知りたいか決めてから、触る。

 

田代はその字を見て、紙を取り上げなかった。

 

「それでいい」

 

外で、子どもが澄江を呼んだ。

 

文子だった。

 

「遅れるって言ったのに、先に行かないでよ!」

 

澄江は立ち上がった。

 

戸口まで行ってから、田代を振り返る。

 

「今日は、もう触らなくていい?」

 

「健一のためにはな」

 

「ほかの人が来たら?」

 

「その時に、何を知る必要があるか先に考える。お前が嫌なら、そこで終わりだ」

 

澄江は頷き、外へ出た。

 

文子が道の端で待っている。

 

「何してたの」

 

「先生と話してた」

 

「また手の話?」

 

「少し」

 

文子はそれ以上聞かなかった。

 

「日曜、川の方へ行く約束、忘れてないよね」

 

「忘れてない」

 

「今度は猫がいなくなる前に来てよ」

 

「猫が待ってくれるとは限らないよ」

 

二人は学校へ向かって歩き出した。

 

文子は澄江の手を取らなかった。澄江も、今はそれを寂しいとは思わなかった。

 

昨日、自分の手は一人の身体の中にあった異常を知らせた。

 

今日は、何も感じないまま鞄を持っている。

 

どちらも、自分の一日だった。




書かせてる内にあれ?澄江のパート長くね?と思い始めた。
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