歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい 作:無異常世界
広瀬健一が退院し、年が変わってしばらくした日曜の朝、文子が瀬尾家へ来るより先に、戸が叩かれた。
澄江は結びかけていた髪から手を離した。和枝は作業台へ広げた布を押さえたまま、返事をする。
戸口に立っていたのは、通りの向こうで乾物を売っている女だった。後ろには、澄江より少し年下の男の子が隠れるように立っている。
「朝から悪いね。昨日からこの子が頭が痛いって言うんだよ」
女の視線は、話している和枝ではなく澄江の手へ向いていた。
「熱は」
「少しある。田代先生のところへ行くほどか、澄江ちゃんに見てもらえたらと思って」
和枝は男の子の顔を見た。立ってはいられる。受け答えもできそうだった。だが、頭痛が軽いかどうかは見ただけでは分からない。
「先に田代先生のところへ行ってください」
「ほんの少し触るだけでいいんだよ」
澄江は、膝の上に置いた自分の手を見た。
広瀬健一が助かった後、こういう頼みは増えていた。腹が痛い。咳が続く。膝が曲がらない。医者へ行く前に、まず澄江へ触ってもらいたいという者もいた。
自分が何かを感じれば、田代のところへ行く気になる。何も感じなければ、安心できる。
けれど、澄江が何も感じなかったことは、何も悪くない証拠にはならない。田代が何度説明しても、頼みに来る者は、自分の家だけは別だと思いたがった。
「今日は出かけるんです」
澄江が言うと、女は目を瞬いた。
「すぐ済むよ」
「今日はしません」
男の子が母親の着物を掴んだ。澄江は、その子へ悪いことをしているような気がした。
それでも手を出さなかった。
「頭が痛いなら、先生に診てもらってください。私が分からなくても、行かなくていいことにはならないから」
和枝が横から言葉を足した。
「田代先生のところへ連れていってください。私からも話しておきます」
女はまだ何か言いたそうだったが、男の子の額へ手を当て、ようやく頷いた。
二人が帰った直後、今度は遠慮のない足音が近づいてきた。
「澄江、まだ支度してないの?」
文子は戸を開けるなり言った。片手には包みを提げ、もう片方には細い棒を持っている。
「何、それ」
「猫を呼ぶ棒」
「猫は棒で来ないよ」
「紐をつけるの。叔母さんが端切れをくれたから」
文子は得意そうに棒を振り、戸口の外へ視線を向けた。
「今の人、また手の話?」
「うん」
「行かなくていいの」
澄江は髪を結び直した。
「田代先生のところへ行くって」
「そうじゃなくて、澄江が」
「今日は文子と川へ行く」
文子は一度だけ黙った。それから、持ってきた包みを掲げた。
「じゃあ早くして。おにぎり、私が二つ食べるよ」
「半分ずつでしょう」
「遅れた方が一つ減るの」
「そんな決まり、聞いてない」
和枝は二人のやり取りを聞きながら、作業台の端へ小銭を置いた。
「帰りに糸を一巻買ってきて。白じゃなくて、今日は紺」
「休みなのにお使い?」
文子が不満を言う。
「私の休日じゃないからね」
和枝はそう答え、澄江へ向き直った。
「暗くなる前に帰る。川へ入らない。誰かに頼まれても、今日は終わり」
「まだ始めてもいないよ」
「だから一日終わり」
澄江は小銭を受け取り、文子と家を出た。
外へ出ると、文子はすぐに早足になった。澄江が追いつくまで待たず、道の角で一度だけ振り返る。
「猫、今日は絶対いると思う」
「前も言ってた」
「前は澄江が遅かったから」
「猫がいなくなったのは私のせいじゃない」
「半分はそう」
「半分もない」
二人は言い合いながら川の方へ歩いた。
途中で、学校の友達を二人見かけた。文子は大きく手を振った。澄江も振り返したが、立ち止まらなかった。相手の一人が腕へ包帯を巻いていても、何があったのか尋ねなかった。
聞けば、触ってみてと言われるかもしれない。
そう考えた自分に気づいたが、今日はそれでよかった。
川辺には、前に見た白い猫はいなかった。
文子は端切れを棒へ結び、草の間を何度も揺らした。出てきたのは猫ではなく、大きな虫だった。文子が声を上げて棒を放り、澄江は笑った。
「笑わないでよ」
「猫を呼ぶ棒でしょう」
「猫が来る前に虫が来ただけ」
「じゃあ、虫を呼ぶ棒だ」
文子は澄江へ草を投げた。澄江も投げ返した。
しばらくして二人は堤の斜面へ座り、包みを開いた。おにぎりは三つだった。文子は自分が二つ取ると言ったが、結局、大きい一つを半分に割った。
川を渡る風はまだ冷たかった。文子は食べながら、学校で先生に叱られたこと、隣の席の子が字を間違えたこと、家で飼っている鶏が卵を産まなかったことを順番に話した。
澄江は聞きながら、今日は朝から誰にも触れていないことを思い出した。
思い出すまで、忘れていた。
「何」
文子が聞いた。
「何でもない」
「またそれ」
「今日は、本当に何でもない」
文子は澄江の顔を見たが、それ以上は追及しなかった。
食べ終えると、二人は川沿いを歩いた。古い瓶の欠片を拾い、丸く削れたものだけを残した。水へ投げる石を選び、どちらが遠くまで跳ねるか競った。澄江の石は一度しか跳ねず、文子の石は二度跳ねた。
「私の勝ち」
「石がよかっただけ」
「選んだのも私」
帰り道で、文子が急に言った。
「澄江は、大きくなったら何になるの」
「急に何」
「先生が作文に書けって言ったでしょう」
澄江はまだ題だけ書いて、続きを空けていた。
「文子は」
「私はまだ決めてない。だから澄江に聞いてるの」
「自分が決まってないのに?」
「人のを聞いてから考える」
澄江は少し考えた。
以前なら、何も決めていないと答えて終わっていた。
今も、決まってはいない。
けれど、田代の診察票に並ぶ言葉を読むたび、自分の言葉が少なすぎると思うようになっていた。熱い。硬い。冷たい。広がる。そこまでは分かっても、その後に何をすればよいのかは、田代や別の医者が決める。
「身体のことを、もっと知りたい」
「先生になるの?」
「分からない。先生になるには、いっぱい勉強しないといけないでしょう」
「澄江、勉強はできるじゃない」
「文子よりは」
「今のは余計」
文子が肩をぶつけようとして、途中で止まった。
澄江はそれに気づいた。
「袖ならいいよ」
「今日は手のこと、考えない日でしょう」
「ぶつかるのは手じゃない」
「屁理屈」
文子は澄江の袖へ自分の袖を軽く当てた。
二人で笑った。
帰りに紺の糸を買った。和枝へ渡す小銭を間違えないよう、文子が横で何度も数え直した。店を出たところで、白い猫が道の向こうを横切った。
文子は追いかけようとしたが、猫は塀の隙間へ消えた。
「今日は遅れてないのに」
「だから、猫は待ってくれないって言ったでしょう」
文子は不満そうに塀を見た。それでも二人は追わず、家へ向かった。
その日、澄江の手は誰の身体の中にも入らなかった。
それでも一日は、何もなかった日にはならなかった。
***
翌年の春、澄江は学校の裏で、一年下の女の子がしゃがみ込んでいるのを見つけた。
昼休みはもう終わりかけていた。ほかの子どもたちは教室へ戻り、女の子だけが左腕を抱えている。
「どうしたの」
「転んだだけ」
「どこから」
女の子は校舎の裏に積まれた木箱を見た。上へ登って叱られるのが嫌で、誰にも言っていないらしい。
袖をめくると、肘の下が少し腫れていた。指は動く。血も出ていない。
「先生に言った方がいいよ」
「平気」
女の子は立とうとしたが、腕を動かした途端に顔を歪めた。
澄江はその顔を見た。
頼まれたわけではない。
家へ来た者もいない。和枝も田代もいない。
自分が触れれば何か分かるかもしれないと思ったのは、澄江だった。
「一回だけ、手首に触っていい?」
女の子は警戒した。
「何するの」
「痛いところが、見た目より中にあるかもしれない。分かっても病気の名前は言えない。先生のところへ行くか決めるだけ」
言いながら、田代の言葉に似ていると思った。
女の子はしばらく迷い、右手で左の袖を押さえたまま頷いた。
澄江は右手の指を、女の子の左手首へ置いた。
最初に入ってきたのは、肘の下の熱だった。転んだ場所に丸く集まっている。その奥へ、細く硬い違和感が伸びていた。皮膚の近くではない。腕の芯に沿い、動かすたびに周りの熱が揺れる。
澄江は一度で手を離した。
「先生に言おう」
「折れてるの?」
「分からない。でも、ただぶつけただけとは違う感じがする」
「怒られる」
「黙って帰って、もっと痛くなった方が怒られるよ」
女の子は泣きそうな顔をした。
澄江は腕ではなく、持っていた教科書を受け取った。
「一緒に行く」
学校の先生は、木箱へ登った話を聞いて先に叱りかけた。だが、女の子が腕を動かせないのを見ると、すぐに話を切り上げた。
板を添え、布で固定し、家へ知らせる者を走らせる。澄江は、自分が感じた場所と形だけを伝えた。
「肘の下。中に細く硬い感じがあって、動くと周りの熱も動きます」
先生は意味が分からない顔をしたが、澄江が田代の診療所へ出入りしていることは知っていた。
「瀬尾、お前も来なさい」
「はい」
診療所で、田代は女の子の腕を診た。痛む場所を確かめ、指先の色と感覚を見て、固定をやり直した。
「町の外で骨を見てもらえ。ひびか、折れている可能性がある」
母親が青い顔で礼を言った。
澄江は診察室の端に立っていた。
田代は母親たちを送り出してから、澄江へ向いた。
「誰に頼まれた」
「誰にも」
「なぜ触った」
「腕を動かせなかったから。見た目より中が変だったら、先生に言った方がいいと思った」
「何回」
「一回」
「もう一度確かめたいか」
澄江は首を振った。
「先生が送るって決めたから、もういい」
田代は頷き、机の紙へ短く書いた。
「今日はほかに使うな」
「頭は重くないよ」
「重くなってから休むな」
澄江は口を尖らせたが、反論しなかった。
戸を出ると、文子が診療所の前で待っていた。授業が終わっても戻らない澄江を、先生に言われて迎えに来たらしい。
「また遅い」
「今日は猫じゃないでしょう」
「分かってる。あの子、大丈夫なの」
「骨が変かもしれないって。ちゃんと見てもらう」
二人は並んで歩き始めた。
文子は少ししてから聞いた。
「今日は、自分から触ったの?」
「うん」
「嫌じゃなかった?」
澄江は自分の右手を開いた。
女の子の腕にあった熱は、もうほとんど残っていない。
「怖くはなかった」
「好きになったの」
澄江はすぐには答えなかった。
能力があるせいで、触りたくない日がある。知らない大人に家まで来られる。何も分からなかった時にも、期待を外したような顔をされる。
それが好きだとは思わない。
けれど今日、自分が見つけた違和感を、自分で使うと決めた。女の子は一人で痛みを隠したまま帰らずに済んだ。
「全部は好きじゃない」
澄江は言った。
「でも、今日みたいなのは、あってよかったと思う」
文子は少し考えた後、澄江の鞄を指した。
「じゃあ今日は、もう終わり?」
「終わり。田代先生にも言われた」
「なら、帰ったら作文の続き書きなよ」
「文子もでしょう」
「私は澄江のを聞いてから考えるって決めてる」
「それ、自分で考えてないよ」
「少しは考える」
道の角で、文子が澄江の袖を引いた。
今度は途中で止めなかった。
澄江も振りほどかなかった。
帰ったら、身体のことをもっと知りたいと作文へ書くつもりだった。
看護婦になるのか、医者の手伝いをするのか、まだ分からない。勉強を続けられるかも、家の事情がどうなるかも分からない。
それでも、誰かに頼まれたからではなく、自分で知りたいと思った。
手を使わない一日も、自分から一度だけ使った日も、どちらかだけを選ぶ必要はなかった。
澄江は文子と並び、家までの道を歩いた。