歴史改変能力者は世界の裏を日本に生やしたい   作:無異常世界

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第七話

広瀬健一が退院し、年が変わってしばらくした日曜の朝、文子が瀬尾家へ来るより先に、戸が叩かれた。

 

澄江は結びかけていた髪から手を離した。和枝は作業台へ広げた布を押さえたまま、返事をする。

 

戸口に立っていたのは、通りの向こうで乾物を売っている女だった。後ろには、澄江より少し年下の男の子が隠れるように立っている。

 

「朝から悪いね。昨日からこの子が頭が痛いって言うんだよ」

 

女の視線は、話している和枝ではなく澄江の手へ向いていた。

 

「熱は」

 

「少しある。田代先生のところへ行くほどか、澄江ちゃんに見てもらえたらと思って」

 

和枝は男の子の顔を見た。立ってはいられる。受け答えもできそうだった。だが、頭痛が軽いかどうかは見ただけでは分からない。

 

「先に田代先生のところへ行ってください」

 

「ほんの少し触るだけでいいんだよ」

 

澄江は、膝の上に置いた自分の手を見た。

 

広瀬健一が助かった後、こういう頼みは増えていた。腹が痛い。咳が続く。膝が曲がらない。医者へ行く前に、まず澄江へ触ってもらいたいという者もいた。

 

自分が何かを感じれば、田代のところへ行く気になる。何も感じなければ、安心できる。

 

けれど、澄江が何も感じなかったことは、何も悪くない証拠にはならない。田代が何度説明しても、頼みに来る者は、自分の家だけは別だと思いたがった。

 

「今日は出かけるんです」

 

澄江が言うと、女は目を瞬いた。

 

「すぐ済むよ」

 

「今日はしません」

 

男の子が母親の着物を掴んだ。澄江は、その子へ悪いことをしているような気がした。

 

それでも手を出さなかった。

 

「頭が痛いなら、先生に診てもらってください。私が分からなくても、行かなくていいことにはならないから」

 

和枝が横から言葉を足した。

 

「田代先生のところへ連れていってください。私からも話しておきます」

 

女はまだ何か言いたそうだったが、男の子の額へ手を当て、ようやく頷いた。

 

二人が帰った直後、今度は遠慮のない足音が近づいてきた。

 

「澄江、まだ支度してないの?」

 

文子は戸を開けるなり言った。片手には包みを提げ、もう片方には細い棒を持っている。

 

「何、それ」

 

「猫を呼ぶ棒」

 

「猫は棒で来ないよ」

 

「紐をつけるの。叔母さんが端切れをくれたから」

 

文子は得意そうに棒を振り、戸口の外へ視線を向けた。

 

「今の人、また手の話?」

 

「うん」

 

「行かなくていいの」

 

澄江は髪を結び直した。

 

「田代先生のところへ行くって」

 

「そうじゃなくて、澄江が」

 

「今日は文子と川へ行く」

 

文子は一度だけ黙った。それから、持ってきた包みを掲げた。

 

「じゃあ早くして。おにぎり、私が二つ食べるよ」

 

「半分ずつでしょう」

 

「遅れた方が一つ減るの」

 

「そんな決まり、聞いてない」

 

和枝は二人のやり取りを聞きながら、作業台の端へ小銭を置いた。

 

「帰りに糸を一巻買ってきて。白じゃなくて、今日は紺」

 

「休みなのにお使い?」

 

文子が不満を言う。

 

「私の休日じゃないからね」

 

和枝はそう答え、澄江へ向き直った。

 

「暗くなる前に帰る。川へ入らない。誰かに頼まれても、今日は終わり」

 

「まだ始めてもいないよ」

 

「だから一日終わり」

 

澄江は小銭を受け取り、文子と家を出た。

 

外へ出ると、文子はすぐに早足になった。澄江が追いつくまで待たず、道の角で一度だけ振り返る。

 

「猫、今日は絶対いると思う」

 

「前も言ってた」

 

「前は澄江が遅かったから」

 

「猫がいなくなったのは私のせいじゃない」

 

「半分はそう」

 

「半分もない」

 

二人は言い合いながら川の方へ歩いた。

 

途中で、学校の友達を二人見かけた。文子は大きく手を振った。澄江も振り返したが、立ち止まらなかった。相手の一人が腕へ包帯を巻いていても、何があったのか尋ねなかった。

 

聞けば、触ってみてと言われるかもしれない。

 

そう考えた自分に気づいたが、今日はそれでよかった。

 

川辺には、前に見た白い猫はいなかった。

 

文子は端切れを棒へ結び、草の間を何度も揺らした。出てきたのは猫ではなく、大きな虫だった。文子が声を上げて棒を放り、澄江は笑った。

 

「笑わないでよ」

 

「猫を呼ぶ棒でしょう」

 

「猫が来る前に虫が来ただけ」

 

「じゃあ、虫を呼ぶ棒だ」

 

文子は澄江へ草を投げた。澄江も投げ返した。

 

しばらくして二人は堤の斜面へ座り、包みを開いた。おにぎりは三つだった。文子は自分が二つ取ると言ったが、結局、大きい一つを半分に割った。

 

川を渡る風はまだ冷たかった。文子は食べながら、学校で先生に叱られたこと、隣の席の子が字を間違えたこと、家で飼っている鶏が卵を産まなかったことを順番に話した。

 

澄江は聞きながら、今日は朝から誰にも触れていないことを思い出した。

 

思い出すまで、忘れていた。

 

「何」

 

文子が聞いた。

 

「何でもない」

 

「またそれ」

 

「今日は、本当に何でもない」

 

文子は澄江の顔を見たが、それ以上は追及しなかった。

 

食べ終えると、二人は川沿いを歩いた。古い瓶の欠片を拾い、丸く削れたものだけを残した。水へ投げる石を選び、どちらが遠くまで跳ねるか競った。澄江の石は一度しか跳ねず、文子の石は二度跳ねた。

 

「私の勝ち」

 

「石がよかっただけ」

 

「選んだのも私」

 

帰り道で、文子が急に言った。

 

「澄江は、大きくなったら何になるの」

 

「急に何」

 

「先生が作文に書けって言ったでしょう」

 

澄江はまだ題だけ書いて、続きを空けていた。

 

「文子は」

 

「私はまだ決めてない。だから澄江に聞いてるの」

 

「自分が決まってないのに?」

 

「人のを聞いてから考える」

 

澄江は少し考えた。

 

以前なら、何も決めていないと答えて終わっていた。

 

今も、決まってはいない。

 

けれど、田代の診察票に並ぶ言葉を読むたび、自分の言葉が少なすぎると思うようになっていた。熱い。硬い。冷たい。広がる。そこまでは分かっても、その後に何をすればよいのかは、田代や別の医者が決める。

 

「身体のことを、もっと知りたい」

 

「先生になるの?」

 

「分からない。先生になるには、いっぱい勉強しないといけないでしょう」

 

「澄江、勉強はできるじゃない」

 

「文子よりは」

 

「今のは余計」

 

文子が肩をぶつけようとして、途中で止まった。

 

澄江はそれに気づいた。

 

「袖ならいいよ」

 

「今日は手のこと、考えない日でしょう」

 

「ぶつかるのは手じゃない」

 

「屁理屈」

 

文子は澄江の袖へ自分の袖を軽く当てた。

 

二人で笑った。

 

帰りに紺の糸を買った。和枝へ渡す小銭を間違えないよう、文子が横で何度も数え直した。店を出たところで、白い猫が道の向こうを横切った。

 

文子は追いかけようとしたが、猫は塀の隙間へ消えた。

 

「今日は遅れてないのに」

 

「だから、猫は待ってくれないって言ったでしょう」

 

文子は不満そうに塀を見た。それでも二人は追わず、家へ向かった。

 

その日、澄江の手は誰の身体の中にも入らなかった。

 

それでも一日は、何もなかった日にはならなかった。

 

          ***

 

翌年の春、澄江は学校の裏で、一年下の女の子がしゃがみ込んでいるのを見つけた。

 

昼休みはもう終わりかけていた。ほかの子どもたちは教室へ戻り、女の子だけが左腕を抱えている。

 

「どうしたの」

 

「転んだだけ」

 

「どこから」

 

女の子は校舎の裏に積まれた木箱を見た。上へ登って叱られるのが嫌で、誰にも言っていないらしい。

 

袖をめくると、肘の下が少し腫れていた。指は動く。血も出ていない。

 

「先生に言った方がいいよ」

 

「平気」

 

女の子は立とうとしたが、腕を動かした途端に顔を歪めた。

 

澄江はその顔を見た。

 

頼まれたわけではない。

 

家へ来た者もいない。和枝も田代もいない。

 

自分が触れれば何か分かるかもしれないと思ったのは、澄江だった。

 

「一回だけ、手首に触っていい?」

 

女の子は警戒した。

 

「何するの」

 

「痛いところが、見た目より中にあるかもしれない。分かっても病気の名前は言えない。先生のところへ行くか決めるだけ」

 

言いながら、田代の言葉に似ていると思った。

 

女の子はしばらく迷い、右手で左の袖を押さえたまま頷いた。

 

澄江は右手の指を、女の子の左手首へ置いた。

 

最初に入ってきたのは、肘の下の熱だった。転んだ場所に丸く集まっている。その奥へ、細く硬い違和感が伸びていた。皮膚の近くではない。腕の芯に沿い、動かすたびに周りの熱が揺れる。

 

澄江は一度で手を離した。

 

「先生に言おう」

 

「折れてるの?」

 

「分からない。でも、ただぶつけただけとは違う感じがする」

 

「怒られる」

 

「黙って帰って、もっと痛くなった方が怒られるよ」

 

女の子は泣きそうな顔をした。

 

澄江は腕ではなく、持っていた教科書を受け取った。

 

「一緒に行く」

 

学校の先生は、木箱へ登った話を聞いて先に叱りかけた。だが、女の子が腕を動かせないのを見ると、すぐに話を切り上げた。

 

板を添え、布で固定し、家へ知らせる者を走らせる。澄江は、自分が感じた場所と形だけを伝えた。

 

「肘の下。中に細く硬い感じがあって、動くと周りの熱も動きます」

 

先生は意味が分からない顔をしたが、澄江が田代の診療所へ出入りしていることは知っていた。

 

「瀬尾、お前も来なさい」

 

「はい」

 

診療所で、田代は女の子の腕を診た。痛む場所を確かめ、指先の色と感覚を見て、固定をやり直した。

 

「町の外で骨を見てもらえ。ひびか、折れている可能性がある」

 

母親が青い顔で礼を言った。

 

澄江は診察室の端に立っていた。

 

田代は母親たちを送り出してから、澄江へ向いた。

 

「誰に頼まれた」

 

「誰にも」

 

「なぜ触った」

 

「腕を動かせなかったから。見た目より中が変だったら、先生に言った方がいいと思った」

 

「何回」

 

「一回」

 

「もう一度確かめたいか」

 

澄江は首を振った。

 

「先生が送るって決めたから、もういい」

 

田代は頷き、机の紙へ短く書いた。

 

「今日はほかに使うな」

 

「頭は重くないよ」

 

「重くなってから休むな」

 

澄江は口を尖らせたが、反論しなかった。

 

戸を出ると、文子が診療所の前で待っていた。授業が終わっても戻らない澄江を、先生に言われて迎えに来たらしい。

 

「また遅い」

 

「今日は猫じゃないでしょう」

 

「分かってる。あの子、大丈夫なの」

 

「骨が変かもしれないって。ちゃんと見てもらう」

 

二人は並んで歩き始めた。

 

文子は少ししてから聞いた。

 

「今日は、自分から触ったの?」

 

「うん」

 

「嫌じゃなかった?」

 

澄江は自分の右手を開いた。

 

女の子の腕にあった熱は、もうほとんど残っていない。

 

「怖くはなかった」

 

「好きになったの」

 

澄江はすぐには答えなかった。

 

能力があるせいで、触りたくない日がある。知らない大人に家まで来られる。何も分からなかった時にも、期待を外したような顔をされる。

 

それが好きだとは思わない。

 

けれど今日、自分が見つけた違和感を、自分で使うと決めた。女の子は一人で痛みを隠したまま帰らずに済んだ。

 

「全部は好きじゃない」

 

澄江は言った。

 

「でも、今日みたいなのは、あってよかったと思う」

 

文子は少し考えた後、澄江の鞄を指した。

 

「じゃあ今日は、もう終わり?」

 

「終わり。田代先生にも言われた」

 

「なら、帰ったら作文の続き書きなよ」

 

「文子もでしょう」

 

「私は澄江のを聞いてから考えるって決めてる」

 

「それ、自分で考えてないよ」

 

「少しは考える」

 

道の角で、文子が澄江の袖を引いた。

 

今度は途中で止めなかった。

 

澄江も振りほどかなかった。

 

帰ったら、身体のことをもっと知りたいと作文へ書くつもりだった。

 

看護婦になるのか、医者の手伝いをするのか、まだ分からない。勉強を続けられるかも、家の事情がどうなるかも分からない。

 

それでも、誰かに頼まれたからではなく、自分で知りたいと思った。

 

手を使わない一日も、自分から一度だけ使った日も、どちらかだけを選ぶ必要はなかった。

 

澄江は文子と並び、家までの道を歩いた。

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