冷戦世界は燃えているか?
首相公邸で眠る日本国首相
ワンコールで分下分下は枕元に手を伸ばした。
スリーコール目がなり終わる前に受話器を取る。
「……はい、なにか?」
『総理』
耳に届いた声だけで、眠気が消える。
内閣官房長官の緊張感のある声だった。
午前二時四十七分。冗談や挨拶を挟む時刻ではない。それでも分下は、相手が最初に何を言うかを待った。
『緊急事態です。至急、官邸へお越しください』
「何が起きた」
一秒ほどの沈黙があった。身を起こして枕元の老眼鏡を探す時間があった。
官房長官は言葉を選んでいるのではない。
報告する本人にも、何が起きたのか分かっていない沈黙だった。
『東京湾に、島が出現しました』
「島ですか? となると火山活動ですか? 東京湾で?」
『違います。なんと説明いたしましょうか……少なくとも、現時点ではそのいずれとも確認されていません』
「大きさは」
『精査中です。ただし、大型です。現在、東京湾上空に浮遊しています』
ベッドから下ろそうとした足が止まる。
聞き間違いだと思った。
「もう一度言え」
『島が、海面上に浮いています』
分下は何も言わなかった。返答してはいけない気がした。
『海上ではありません。島が海面に接触していないとの報告です』
「映像は」
『複数の監視設備で確認しています。海上保安庁、航空自衛隊、在日米軍からも照会が来ています。誤認ではありません』
分下は受話器を肩に挟み、寝台を出ると隣で妻が目を開けた。
「何かあったの?」
「今から官邸へ行く」
それだけを告げて寝室を出ながら、電話へ問い返した。
「被害はありますか?」
『現時点で直接的な被害は確認されていません。ただ、出現に伴って東京湾内の潮位が一時的に変動しました。船舶数隻が緊急停止しています。航空管制は周辺空域への進入を制限しました』
「自衛隊は」
『航空自衛隊が警戒飛行中です。海上自衛隊にも出動準備を指示しています』
「そうか。ないとは思うが、攻撃はするな」
『承知しています』
「絶対に撃つな。正体が分からないものに、こちらから手を出すな」
『はい』
玄関を出ると、夜気が頬に刺さった。
夏の終わりとは思えないほど冷たく感じられたのは、気温のせいではない。
地下通路は使わなかった。ここが危険でないなら、移動プロせるが多い。
出迎えの官邸職員が駆け寄ってくる。となりの議員会館には、煌々とあかりがついている。すでにつめているものがいるようだ。
官邸職員に混じって、秘書官がいることに気がついた。
「それですか? 映像を見せてください」
秘書官が持っているダブレットを差し出させる。官邸へ徒歩一分。その間に見れるだけの映像を見る。
粗い暗視映像だった。
黒い海と遠くに連なる東京湾岸の灯火。
その中央に、巨大な影が浮かんでいる。
最初、分下は低い雲だと思った。
だが動きのない輪郭が、はっきりとある。
底部から海面まで、明らかな空間があった。
下方には岩盤らしきものが垂れ下がり、上部には樹木のような影が密集している。建造物らしい直線も見えた。
雲ではない。
航空機であるはずもない。
本当に、島だった。
「いつ現れたのですか?」
「午前二時三十一分ごろです。湾岸の監視カメラが異常を検知しました。それ以前の映像には存在していません」
「接近する過程は?」
「確認されていません。突然、出現しました」
「レーダーとかありますよね? それにも?」
「出現直後から捕捉しています。しかし、それ以前の航跡はありません」
分下は歩きながら映像から目を離せなかった。
夜の東京湾に、見知らぬ島が浮いている。
その事実だけで、いままで築き上げられてきた国防上の前提が、音もなく崩れていた。
「大きさの推定は」
「全長は十数キロ以上。ただし、映像とレーダーで輪郭が一致しません。観測値が安定していないとのことです」
「人は確認されましたか?」
「不明です。灯火らしき反応はあります」
「外国に反応はありますか?」
「在日米軍が最高度の警戒態勢へ移行。米太平洋軍からも問い合わせが来ています。
「説明ですか……」
そのとき秘書官に無線があったようだ。イヤホンを抑えて聴いている。
官邸内からの連絡である。もう玄関だが、一報は早い方がいい。
「総理、ただいま連絡が、島からと思われる通信が確認されました」
「内容は」
「現在、解析中です。短波と長波の複数帯域を使用し、同一内容を反復している可能性があります」
「日本語ですか?」
「不明です。音声ではなく、変調信号を含んでいるとの報告です。暗号ではないか、という推測も出ています。海保、通信総合研究所、防衛庁、米軍がそれぞれ傍受しています」
「呼びかけなのですね」
「その可能性が高いと」
「返答は」
「まだ行っていません」
「勝手に応答させないでください。ですが、聴取は続けて。周波数を潰さず。記録を全部残してください」
「はい」
乱雑ではない通信が発せられたからには、島は無人ではない。
それどころか、こちらへ向けて何かを伝えようとしている。
分下は額を押さえた。
国籍不明どころの話ではない。
所属も、文明も、そもそも人間なのかさえ分からない相手が、首都の目の前に出現している。
「外務省に専門家を集めさせろ。言語学者、暗号、通信工学、文化人類学……使えそうな者は全員だ」
「すでに招集を開始しています」
「宮内庁にも連絡しておけ」
「宮内庁へ、ですか」
「後で必要になってからでは遅い。何者であれ、正式な交渉を求めてくる可能性がある」
自分で口にしてから、分下は現実感のなさに吐き気を覚えた。
正式な交渉。
東京湾に浮かぶ島との外交など、誰ができるのだろう。
地下の危機管理センターにつくと官僚が何人か集まって、電話を片手にして忙しそうにしていた。
分下首相がきたとわかると、黙礼だけして電話は止めない。
誰もが寝間着から無理に着替えたような格好で、顔に眠気ではない青白さを浮かべている。
「総理!」
防衛庁長官が駆け寄ってきた。
「状況は」
「航空自衛隊の戦闘機が周辺空域を警戒中です。島に攻撃の兆候はありません。ただし、内部に複数の熱源と電波反応を確認しています」
「通信の解析は」
「継続中です。規則性はありますが、既知の符号体系とは一致しません」
分下は歩きながら指示を飛ばした。
「米側との連絡線を常時開いてください。ソ連、華央国、韓国にも外務省から状況を説明を。こちらも正体不明であることを明言します。日本が隠していると思わせないでくださいね」
「承知しました」
「報道はどうなってますか」
「湾岸部から目撃情報が出始めています。数十分以内に隠しきれなくなります」
「隠さず、ですが未確認情報を流さないように。官房長官に発表準備をおねがいします」
館内の空気が変わった。
複数の職員が一斉に受話器を取り、壁面の表示が切り替わる。
警報音が鳴った。
「何だ!」
「島から飛行物体が離陸!」
分下は背筋に流れる冷や汗を感じた。
「攻撃ですか」
「不明! 一機です!」
「映像を出せ!」
大型画面へ、東京湾上空の映像が映し出される。
島の一角から、小さな光点が上昇していた。
滑走路を走ってはいない。
地上から垂直に浮き上がり、空中で停止する。
次の瞬間、機首らしき部分を西へ向けた。
「垂直離陸……?」
誰かが呟いた。
光点が加速する。
あまりにも滑らかな加速だった。
「進路、西!」
「空自機、接触を試みます!」
「撃つな!」
分下は叫んだ。
「警告だけだ! 絶対に発砲するな!」
「F-15二機が追尾に入ります!」
遅延はあるが防衛省から送られてくるレーダー画面に、三つの輝点が表示される。
先行する一機。
後方から接近する二機。
距離が縮まる。
近づいたと思えたのは、一瞬だけだった。
次の更新で、先行する光点が大きく前へ跳んだ。
「速度上昇!」
「いくつだ」
誰かが叫んだ。
「計測中です!」
「F-15、追いつけません!」
「対象、さらに加速!」
戦闘機を置き去りにして、飛行物体は西へ飛んでいく。
東京上空を避け、房総半島から南西方向へ抜ける航路だった。
「予測進路は」
答える者の声が震えた。
「ひ、東シナ海方面。現在の進路を維持した場合、華央国大陸へ向かいます」
「目標と思われる都市は」
「おまちください。どこだ……そうか。首相、上海方面です」
分下は唾を飲んだが、嚥下する前に叫んだ。
「華央国へ緊急通報! こちらが発進させたものではないと伝えなさい!」
「すでに外務省が接触しています!」
「米軍、米軍にもだ! ソ連にも情報を回しなさい! すぐ、航跡を全部送るんです!」
室内が怒号に包まれる。
壁面の世界地図には、正体不明の飛行物体が刻一刻と華央国沿岸へ近づいていく様子が表示されていた。
分下は受話器をつかんだ。
「華央国側とつながらないのですか!」
「回線が混乱しています!」
「大使館は!」
「連絡中です!」
「領空侵犯になる!」
「対象、東シナ海へ進入!」
誰もが動いている。
誰もが叫んでいる。
だが、誰一人として事態を制御できていない。
日本の首都圏に突然現れた島から、未知の飛行物体が発進し、日本の防空識別圏を抜け、隣国へ向かっている。
それを止めることも、呼び戻すことも、目的を説明することもできない。
分下の頭に、最悪の連鎖が浮かんだ。
もしかしら華央国軍による迎撃。
そうなると島側の報復。
きっと在日米軍の介入。
そしてソ連軍の警戒態勢。
誤認から報復、そして核攻撃。
そのとき、一本の電話を受けた外務省の職員が、ゆっくりと振り返った。
彼の顔から、完全に血の気が失せていた。
「総理……華央国側から、緊急連絡です」
職員は受話器を握ったまま、唇を震わせた。
「未確認飛行物体に対し、ミサイル攻撃を実施したとのことです」
危機管理センターから、音が消えた。いや音として聞こえなかった。
実際には警報も、電話も、人の声も続いていた。
だが分下の耳には、何も届かなかった。
隣国が、島から飛び立った何かを撃った。
相手が何者かも分からないまま、どのような兵器を持っているのかも、何を目的に飛んでいたのかも、なにもわからない。
日本の領域に出現した島から発進したそんな飛行物体を、華央国が攻撃した。
島の者たちがそれを日本の攻撃だと判断したら。
華央国への攻撃だと判断し、アメリカが動けば、ソ連が動く。
一発の誤射でさえ世界を焼き尽くしかねない1947年のトルーマン=ドクトリンから
分下は机に手をついた。
膝から力が抜けそうになった。
「終わった……」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
「日本が……世界滅亡のきっかけに……」
誰も否定しなかった。
否定できる材料など、どこにもなかった。
「冷戦が終わった」
分下は、世界地図を見つめた。
極東に並ぶ光点が、すべて核兵器の照準に見えた。
「ソ連とアメリカが、世界を朝までに焼き尽くす……」
──だが、世界は燃えなかった。
いや、燃えた、か?